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5.

その日、何事もなかったかのように茂雄と朔子は二人で夕食を食べた。

 朔子は「美味しい美味しい」と喜んで食べてくれた。実際、鶏と根菜をしょうゆとだし汁で炊いただけの煮物は茂雄の数少ない得意料理のひとつだった。母が教えてくれたのだ。

「汲さんを思い出すわね……」

 朔子は珍しく茂雄の母の名前を口にした。茂雄は箸を置くと、顔を上げて朔子を見た。特段変わった様子には見えない。

「茂雄ちゃんの味、かなり汲さんの味に近付いてる」

 しんみりとした空気になることを避けるように、朔子はわざと明るく笑って見せた。

「それは……よかったです」

 考えながら口に運んでいた茂雄の返答はどこか上の空になり、朔子はちらちらと茂雄の様子を観察していた。


 翌日茂雄はお客様の内見に同行した。一人暮らしを希望する穏やかな青年だった。

──こんな穏やかそうな人が次に朔子さんの家に住んでくれたらいいかもしれない。

 茂雄は、我知らず朔子とその家のことばかり考えてしまう。何を見ても思考がそこに結びつく。

──いやいや、まだ都さんもいつ越すのか決まっていないんだから。

 先走りが過ぎる自分を戒めるように茂雄は薄く笑う。

 青年はこの春大学を卒業して、新社会人になるのだと言った。

「今日はまだこのエリア自体下見なんですけど……」

 申し訳なさそうにしている青年に、茂雄は好感を持った。その後、青年の希望でワンルームマンションを二件見て回った。

「古民家とか興味ありませんか」という言葉が今にも口から飛び出してきそうなのを押さえていた。

 青年と別れると、「ミノワ不動産」の車にもたれるように立っている男がいた。

 遠くからでもはっきりと容姿の良さがわかる。すらりとした長身に常人離れした小さな顔。長い手足を持てあますようにだらりと立っているが、皮肉にも輝きは薄れない。

「広夢くん……」

 茂雄が言い淀んだのには理由があった。

「やあ」

 いつも能天気すぎるほど明るい雰囲気を身にまとっている広夢が、今日は珍しく沈んだ顔をしているのだった。

「……どうかしましたか?」

 茂雄はつとめて何気ない風を装い、広夢に声をかけた。

──嫌な予感がする。

 ちらりと掠めた思考の断片を、茂雄は忘れようとした。

「乗せてくれる?」

 そう言って助手席を指差した広夢の表情は、いくらか和らいでいた。茂雄は仔細を聞かずに頷くと、車のロックを解除した。


「実は、昨日貞さんにあったんだ」

 助手席に乗り込んだ広夢は、唐突に話し出した。キーを差し込み、エンジンをかける瞬間、茂雄はわずかに動揺した。

「貞さん……うちの家霊の方ですよね」

 腹に力を込めたせいで、どうにか語尾は揺れなかったと思う。茂雄は平静を装っていた。

 うん、と広夢は頷く。

「わざわざ待っていたみたいに、俺の近くにいたんだ。それで、話しかけてきた」

広夢の声には少し焦りがあった。

──ますます嫌な予感がする。

そう思ったけれど、茂雄はハンドルを握る手と運転の動作一つ一つに集中し、不安を分散させようとする。

「で、何て?」

「近々大きな台風が来るらしい」

「えっ……?」

意表を突かれて、茂雄は間抜けな声を漏らした。たいふう、と小さく繰り返して茂雄は頭の中に刻み付ける。

「信じられないかもしれないけどよく聞いて欲しいんだ」

広夢はほんの一瞬だったが、ひどく沈鬱な顔をした。

「その台風がこの地方に直撃して、朔子さんの家が被害を受ける恐れがある。あの、育ち過ぎたオリーブの木が危ないと貞さんが言うんだ」

先に話を聞き、何度も自分の中で噛み砕いてきたらしき広夢は悲痛な顔をしながらも淀みなく話した。

「オリーブの木……」

茂雄は呟いた。確かについ先日、ずいぶん伸びてきたと朔子と話したばかりだった。

「確かについ二日ほど前に見たら、かなり枝が伸びていました」

広夢は頷く。

「俺もここに来る途中に寄って見てきた。朔子ちゃんはいなかったんだけど……」

 広夢の言葉は上滑りして消えていく。茂雄は考えるそばから頭の中が散らかっていくようだった。

──それで、どうしたらいいんだ。

いくつかの情報の断片が茂雄の脳裏をよぎる。

──落ち着け。

「台風が来る前に、オリーブの木を切ってしまえばいいんですね?」

鈍る頭をどうにか回転させて、茂雄は訊ねた。

「その通り……あの木にはいろいろな思い出があるんだけどね」

貞さんがそんな予言を教えてくれるのはよっぽどのことなんだろう。茂雄は焦りを感じていた。

「茂雄ちゃん、信じてくれるんだね。貞さんの言うこと……本当になるかわからないのに」

 助手席で広夢が自分の手を開いたり、閉じたりしている。広夢も動揺を隠そうと自分なりに工夫をしているようだった。

「それは……」

──朔子さんとあの家を倒壊から救いたいからだ。

 茂雄はそう考えて、ぞっとした。あの家が壊れる──そんな可能性を今まで露ほども考えたことがなかった。

「ねえ、茂雄ちゃん……家が壊れたら、朔子ちゃんはどうなるんだろう」

 茂雄の心中を察したように、広夢が訊ねる。

「……わかりません」

 再び平静を装ったつもりだったが、茂雄の顔色は間違いなく青ざめていただろう。

──あの家を失う。

 考えを言語化するだけで、茂雄の目の前は暗くなった。

「こんなこと考えたくもないけど……家と一緒に……」

 茂雄は寸でのところで叫び出しそうになる自分を抑えた。

「ごめん」

 顔色が明らかに変わったのだろう。広夢が茂雄に詫びた。茂雄は車を停車させ、少しでも落ち着こうと息を吸い込む。

「とにかく、もし台風が来なくても被害が出なくても、不安の芽を摘み取っておくまでです……」

 茂雄は精一杯自分を奮い立たせて言った。それでも声は弱々しかった。

 広夢も力強く頷いた。

「俺もそう思う。何でも手伝うよ」

 朔子ちゃんを守りたいから。

 広夢は確かにそう言っただろうか? 思わず茂雄は広夢を振り返るが、広夢は整った横顔を崩さず、まっすぐに前を向いていた。

──オリーブの木、ずいぶん伸びましたね。

 そう言った時、朔子はわずかに顔色を曇らせていたことを唐突に茂雄は思い出した。

──ひょっとして、朔子にも何か予感めいたものがあったのだろうか?

 茂雄は朔子の顔を思い浮かべ、再びエンジンをかける。ハンドルを握る手は、びっしょりと濡れていた。

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