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4.

「またマンションに住もうかと思うんです」

言いにくそうに都が切り出したとき、茂雄はまたしても考え事をしていた。

「えっ?……ああ、ごめんなさい」

茂雄は散漫な態度を詫びて、きちんと都の話を聞く態勢を取る。

──いけない。このところ、昔のことばかり思い出してしまう……。

「こちらで働かせていただくようになって多少の経済的なゆとりもできましたし……」

都は神妙な顔で話し始め、そこで一呼吸を入れる。

「あの家には必要としている方が他にもいると思うんです」

強い眼差しで都は茂雄を見た。

──わかるような気がする。

茂雄は心の中で呟いた。

「もちろん破格のお家賃もありますが、それより何より……朔子さんを必要としている人がいると思います」

私も朔子さんに助けてもらった一人ですから。

都はそう言って控えめに微笑んだ。

「それに」

都はそこまで言うと、急に言い淀む。

「たくさんの人が住んだほうが朔子さんのためになるんでしょう?」

鋭い目で覗き込まれて、今度は茂雄のほうがひるんだ。都の真っすぐな目は、茂雄の心の奥底を見据えているようだった。

「いえ……」

──それについては私もよくわからないんです。

茂雄は口の中で呟くように言う。我ながら歯切れが悪いと思った。

 以前朔子は、大勢の人を住まわせると「徳を積んだ」ことになり、家霊としてのグレードが上がるのだと言っていた。「グレードが上がると人間になれるのかもしれない」とはにかんだ顔で朔子は言ったが──。

「実のところは当の私にもよくわからないの。だって、貞さんはあんなにおばあさんになっても人間になれていないわけだし……」

 朔子は言いながら、考え込むような目つきをした。家霊という存在は謎に満ちている。朔子自身にもわからないというのだから、それ以上追及のしようがない。

 もっとも、何らかの事実を隠しているとなれば話は別だが──。

「貞さんに聞いてみるわけにはいかないんですか?」

 茂雄は朔子に訊ねる。茂雄は一度も「貞さん」という家霊に会ったことがない。茂雄が住む家の家霊だと言うのにもどかしい。広夢には見えると言う。貞さんに会ったら、茂雄には訊きたいことがたくさんあった。

 朔子は茂雄の言葉を聞くと、静かに首を横に振った。

「貞さんみたいな大先輩においそれと聞けないわ、そんなこと」

 再びひっそりと笑う朔子を見て、茂雄は複雑な気持ちになった。

──朔子さんは、人間になりたいですか?

 茂雄は心の中に浮かんだ言葉を、口にすることができなかった。朔子の答えを聞くのがどこか怖かったのだ。

 朔子が人間になれば、やがては死んでしまう。また茂雄は身近な人間を失ってしまうことになる。そんな潜在的な可能性を恐れているのかもしれない。

「私が助けてもらったお礼に、私も朔子さんの力になりたいんです」

 ふと回想の中に入り込んでいた茂雄を、都が現実に引き戻す。

都の口調には強い意志が滲んでいた。

「そうですね……」

茂雄は微笑んだ。弱々しい笑みだっただろうと自分で想像した。

「でもその気持ちを知ったら朔子さんは喜ぶでしょう」

その場しのぎの返答をしてしまった。

都は納得のいかない表情を一瞬浮かべたが、すぐに気を取り直したように、明るい顔つきになった。

「まずは今度、朔子さんに引っ越すことを伝えてみます」

そう言うと、都は自分のデスクに戻っていった。時計を確かめると間もなく昼休憩も終わる時間だ。

きちんと休憩時間に雑談をしにくる真面目な都に、茂雄は感心した。

都は仕事も丁寧で、お客からの評判もすこぶる良い。

救済措置のような形で都を雇い入れた茂雄だったが、現在都はミノワ不動産にとってなくてはならない存在だった。

──絶対にこのお店にとって必要な子だと思うの。

まっすぐな目で朔子に告げられ、すぐに茂雄も決心がついたが、まったく慧眼としか言いようがない。朔子には全てのことが見えるのだろうか。

 これから茂雄の身に起こる様々な出来事。厄災。


茂雄は仕事に戻った都の横顔をちらりと見て、自分も続きの仕事に取りかかった。

──朔子さんに何て言おう。

茂雄はキーボードに指を乗せたまま、しばし逡巡する。朔子の前では、茂雄はまだ母を失くして間もない頃の、年若い自分に戻ってしまう。おろおろと泣き崩れてばかりいた自分。

「大丈夫よ。これ以上、あなたを苦しめるようなことはない」

 朔子は、か細い手で茂雄の頭を自分の胸に引き寄せ、抱き締めてくれた。

「私が、そんな目に遭わせないから」

 震えていた声が、次第に迫力を増す。その声音はどこか母親の汲に似ていた。

「だから顔を上げなさい」

 強い語調に弾かれたように茂雄が顔を上げると、朔子は微笑んでいた。涙だらけになっていた茂雄の顔を撫で、髪をくしゃくしゃと撫でた。

 茂雄はそこまで思い出して、赤面しそうになる。今は鉄仮面のようだと(自覚もある)言われている自分が、過去に一番取り乱している場面を見られているのだ。

 そういう意味でも、茂雄は朔子を母のように捉えている部分があった。幻のようにかき消えた母の後に、その隙間を埋めるように茂雄に寄り添ってくれた朔子。


──きっと朔子さんは寂しがるな。でも、最終的には都さんのためを思って快諾してくれる。

「都ちゃんの次にどんな人が来てくれるか、楽しみね」

 わざとそんなふうにはしゃぐかもしれない。

 目に見えるようだった。我が強いようでいて、朔子はいつでも大抵のことを受け入れる。彼女が幼い見た目に似ず、長い年月を過ごしていることと関係しているのだろう。

「恩返し……か」

 都が口にした言葉を茂雄も重複する。朔子に誰よりも恩返しをしなければならないのは茂雄だった。

 何も言わないまま亡くなってしまった母。そしてその後実の母のようにそばにいて崩壊してしまいそうな自分を支えてくれた朔子。

「何かをしなければならないのは、私のほうだ」

 茂雄は独りごちると、自席から立ち上がった。その背中は、決意を現すようにすんなりと伸びていた。


 和食が並ぶ夕餉の席。どれも手がかかったものではないが、茂雄が仕事から帰って拵えた。朔子を呼びに行くと、庭の手入れをしていた彼女は目を輝かせる。

「あの……夕食を作ったので、よかったらご一緒しませんか?」

 何度となく一緒に囲んできた食卓。それなのに改めて誘うとなると何だか気恥ずかしく、茂雄は必要以上に赤面してしまった。表情が変わっていることを悟られないように、時々顔の角度を変える茂雄の行動は、かえって不自然だ。

「えっ、茂雄ちゃんが作ってくれたの!? めずらし、……じゃなくて嬉しい!」

 朔子は素直に喜んだ後、じっと茂雄の目を見つめた。珍しい行為だけに裏があるのではと疑っているのだろう。

「……何も企んでいませんよ」

 茂雄は苦笑する。しかし朔子は目を逸らさずに、

「でも、何か私に話があるんでしょう?」と切り込んできた。図星を突かれて茂雄は言い淀む。やはり、朔子には何もかも見透かされている。

「ええ。朔子さんには敵いませんね」

 茂雄はあっさりと降参した。

「このまま茂雄ちゃんの家に向かうから道々で聞かせて。気になったままにしておくのは嫌なの」

「わかりました」

 朔子は刈り取った雑草を束ねて、一つの所にまとめると区切りがついたというように茂雄の元に小走りに駆け寄る。茂雄は家全体を眺め、ふとあることに気付いた。

「オリーブの樹の枝、ずいぶん伸びましたね。近いうちに植木屋さんを呼びましょう」

 茂雄がオリーブの樹を指さすと、朔子はほんの一瞬だけ表情を曇らせた。

「ええ……そうしてもらえる?」

 朔子はすぐに明るい顔に戻ったが、茂雄は朔子の変化を見逃さなかった。小さな異変が、ずっと引っかかったまま残る。

「それで、話って何?」

 茂雄の不安を払拭するように、朔子が茂雄のシャツの袖を引く。ずいぶん年季の入った家霊のはずだが、仕草は可愛らしい少女のままだ。

──出会った時は兄妹みたいだったのに、じきに親子に見られるようになってしまうかもしれない……。

 わずかな間感傷に浸り、茂雄は話を切り出そうと息を吸い込む。

「……ああ、あの、実は……都さんが近々引っ越しされるそうです」

 茂雄としては朔子の反応が不安だった。恐る恐る朔子の顔色を伺うと、意外にも安堵したような表情を浮かべている。

「本当に!?いつ?」

──いつ、と訊ねるなんて意外だ。

 少々意表を突かれた茂雄は、咄嗟に言葉に詰まってしまった。朔子の表情はずいぶん明るい。

「ええと……まだそこまでは聞いていないのですが、恐らく来月いっぱいあたりじゃないかと」

「そう。寂しくなるわね」

 言葉ではそう言ったものの、朔子はさっぱりとした顔をしていた。茂雄の心配は杞憂に終わったわけだが。

「せっかく都ちゃんと仲良くなれたけど、若い人はもっと近代的なお家に住むほうが似合っているのかもしれないし……」

 ますます持って意外だった。普段から「若者こそ古民家に住むべき」などと豪語してはばからない朔子さんが──。

 茂雄はちらちらと朔子の横顔を伺った。さっぱりとした表情ではあったが、どこか諦念の色が浮かんでいるようにも感じられる。

──考え過ぎかな。

 茂雄は胸の内でつぶやき、それ以上は考えることをやめた。

「ねえ、夕ご飯はどんなメニュー?」

 無邪気な顔で覗き込む朔子を見ると、茂雄の中のわだかまりは自然とほどけていった。

「鶏と根菜の煮物と、水菜と胡桃のサラダ、絹さやの味噌汁と玄米ごはんです」

 呪文でも唱えるように、茂雄はメニューをあげつらう。

「美味しそう!好きな物ばっかり」

 朔子は本当に嬉しそうに笑った。

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