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3.

母親の汲が亡くなったのは突然だった。車に跳ねられたことが死因だが、事故とも自殺とも判断がつかなかった。

目撃者の話では、「何かに弾かれたように突然飛び出した」という人もあれば、車がスピードを出して突っ込んできたために避けきれなかったのだという人もあった。

 自殺だとするならば当日も、歯痒いことに茂雄は何の兆候を見出すことも出来なかった。むしろ、「ここ最近母親は元気になった」とすら楽観視していたのだ。

 母親の死を知った瞬間に、茂雄の感情はすっぽりと抜け落ちてしまった。

 最初に襲ってきたのは強烈な自責の念。そしてその苦しい波が去った後は虚無感に苛まれた。

 食事をしても味がわからず、食べ物から次第に興味を失ってしまった。あのまま感情をどこかに落としたまま生きていられたのだろうかと茂雄は考える。

「茂雄さん、この書類なんですけど」

 気が付くと至近距離で都が茂雄に話しかけていた。

「あ、はい。すみません。何でしょう?」

「……珍しいですね。考え事ですか?」

 返答した茂雄に、都は興味津々と言った様子で笑った。

 茂雄は困惑したが、顔に出るほどではなかった。

「この書類、チェックお願いします」

「わかりました」

 茂雄は書類を受け取って、目を通そうとした。そのとき、勢いよく店のドアが開く。

「しげっちー!」

 振り返らなくてもわかる。能天気そうな調子。妙に通る声音。

「……何でしょう。聞こえますよ。そう大声を出さずとも」

「つれないなあ。茂雄ちゃん」

 遠慮のない動作で茂雄の肩を抱き、ぽんぽんと頭を叩いてくる。

──やっぱり。

 予想通り、そこには広夢がいた。

 一緒に街を歩けば誰もが振り返るような美男でありながら、つい最近まで鬱々としていた青年。

 今は進路も決まり、どこか突き抜けたように明るくなった。苦しみ抜き、考え尽くした上でこの明るい人格を押し出してきているのだろうと茂雄は踏む。

「あれ? 茂雄ちゃん、何だか顔色が悪いね」

 広夢の整った顔が曇る。

 そう、この子は能天気なだけのように見えるが、妙に勘がいいのだ。

 無表情と人を寄せ付けないような行動で隠していても、茂雄からは不穏な空気が立ち上っているに違いなかった。

「ああ、いや……今日は母の命日なんです」

 茂雄が言葉に詰まりながら言うと、

「あ、ごめん……そっか」

広夢のせいなどではないのだが、悲しそうな顔をして謝る。茂雄は広夢を悲しませることは本意ではなかった。

「大丈夫ですよ。もうかなり前の話ですから」

茂雄は弾んだ声を出したかったのだが、長年培った無表情と棒読みはなかなか治らない。

広夢は控えめに微笑むと、

「後でよかったら俺も一緒にお墓参りに行かせてもらえないかな……もちろんよければ、の話だけど」

 おずおずと提案してくる。茂雄は広夢の心遣いが素直に嬉しかった。毎年一人か、朔子の付き添いのもとで母の命日を過ごしていたが、今年は何故か一人で過ごすことを辛く感じていた。

「ありがとうございます。ぜひ」

 茂雄が頭を下げると、広夢は嬉しそうに笑った。ぱっとその場が明るくなるような笑顔だった。広夢の笑顔を見ると、時々茂雄は父親を思い出した。


 父親の悟は、もちろん広夢のような美男ではなかったが天真爛漫に笑う人だった。父を思い出すとき、笑顔が浮かんでくることに茂雄は救われる。

父はごく平均的で真面目なサラリーマンだったが、芸術家肌だったように思う。趣味で骨董品を集め、バイオリンを弾くことを好んだ。

どちらも悲しいぐらいに素人だった。

人の良い父は骨董を知らない茂雄の目にも明らかな偽物を摑まされることも一度や二度ではなかった。

バイオリンの腕がこれまた呆れるほど上達しない。普通、ある程度の年月を費やせば自分のセンスを疑い始めるのではないかと思うが、父はニコニコしながら通い続けた。

妙に根気があり、我慢強い性格だった。

茂雄も母親も、明らかに不向きな父親の趣味を横目で見ながらも、決して非難したり止めさせたりすることはなかった。

茂雄は父の下手くそなバイオリンを聴くのが好きだった。どこがいいのか理解に苦しむ皿を無骨な手で撫でながらニコニコしている父を見るのが好きだった。

しかし父はある夜、いつものように穏やかに就寝したまま、二度と目覚めることはなかった。茂雄が大学卒業を間近に控えた時期だった。

最期に見た父の顔、それはやはり幸いなことに笑顔だった。


茂雄も母も目に見えて気落ちしたが、数年は気丈にやり過ごした。悲しいことにやらなければならない事務処理や法的な手続きに追われた。

父の死後から二年。茂雄も社会人になり、仕事にも慣れてきた頃、ふいに母の異変は訪れた。

何の前触れもなく、母は壊れてしまった。夕食の支度をすると言って台所に入っていったきり、三時間経っても出てこない。不安になった茂雄が様子を見に行ってみると、母は包丁を手にしたまま、何の作業もせずにぼんやりと立っていた。

「母さん……?」

茂雄が恐る恐る声をかけると、母はゆっくりと振り向いた。

茂雄は息を飲んだ。

母の顔は笑う形を形作っていたが、その笑顔は空っぽだった。

顔に巨大な穴を開けているような母を見て、茂雄は呆然とした。

──母さんを一人にしておくのは危険かもしれない。

思い切って茂雄は勤めていた会社をしばらく休職することにした。それまで茂雄は割合名の通った食品メーカーで営業職をしていた。仕事は好きだったし、元来几帳面な性格だったこともあって成績はよかった。母の看病のことを打ち明けると、上司も同僚も快く休職を受け入れてくれた。

「そんな大変な状況なら仕方ないよ。俺らが何とかするから」

「これまで箕輪は頑張ってくれてたしな」

 暖かく受け入れてもらえたことに茂雄は安堵しながらも、不思議と一抹の寂しさを覚えた。

──何故、こんなに周囲に理解され、親切にしてもらっているのに寂しさなんて感じるのだろう?

 茂雄は自分でも不可解なその気持ちを無理に振り払った。そして今やるべきことに改めて目を向けた。

──そうだ、今は母さんを支えるんだ。

茂雄がそばにいる日々が続くと、母は少しずつ回復していった。ぽつぽつと会話は増えて行ったし、意味の分からない言動も減ってきた。不眠や食欲減退などの症状もないようだったが、自己流のケアが不安だった茂雄は母を心療内科にも連れて行った。

 汲は抵抗もせずについてきた。全面的に茂雄を信頼してくれ、困らせるような行動はしなかった。心療内科では特に重症の診断は出されず、ごく軽い安定剤が処方された。

 茂雄は心から安堵した。

──自分はやるべきことをきちんとやっている。そして、母の体調は少しずつ快方に向かっている。

 茂雄はそう自分に言い聞かせていた。目に見えた達成感を自分で拵えなければ自分もそのまま崩れ落ちてしまいそうだった。

 茂雄も母親も、危ういバランスの上で日々をどうにか渡っていた。

そんなある日、散歩から帰ってきた母は、珍しく頬を紅潮させていた。しばらく一人歩きは危険だと判断してぴったり寄り添っていたが、このところはお互いに少し自由な時間が必要だと感じるようになっていた。

 そこで、近所ぐらいならと短い散歩を一人でさせることにした。その程度には回復してきていた。

「どうかした?何だか嬉しそうだけど」

母は紅潮した頬のままで、少女のように素直に頷いた。

「お友達ができちゃった」

そう言って嬉しそうにうふふと笑う。母のこんな笑顔を見るのは久しぶりだった。

「ねえ、茂雄。お母さん、人形教室に通ってもいいかしら?」

「人形?」

茂雄は唐突な会話の流れに驚いたが、母の目の奥が切実に光っているのを見て取った。

「いいんじゃない。母さん器用だし」

普段は自分の希望などあまり口にしない母が言い出すのは珍しい。趣味を持つのはいいことだし、きっと新しい友達に誘われたのだろうと茂雄は考えた。

「ありがとう、茂雄」

 飛びつかんばかりに喜んでいる母を見ると、茂雄にも自然に笑みが浮かんできた。

 悪くはない感じだった。以前の平穏な日々が戻ってきてくれたかのような。


 人形教室に付き添わなくてもいいか、との茂雄の提案を退け母は一人で教室に出かけて行った。そして無事に講習を終えて帰ってきた。少し異常とも言える熱気を身にまとっていた。

──よっぽど楽しかったんだな。熱でも出さなきゃいいけど。

 茂雄の質問を上の空で交わした母は、食事を少量口にすると自室に引き上げてしまった。

人形作りの技術を習得すると、母は猛烈な勢いで人形を作った。

人形、と言っても西洋人形ではなく日本人形で、いわゆる市松人形と呼ばれる形のものだった。

父の死後に比べれば見違えるように生き生きしていたが、命を削るような勢いで人形を作る母を見ていると茂雄は次第に不安になってきた。

「そんなに急いで作らなくても、ゆっくりやれば」

 声をかけようとしたが、茂雄は母親の背中を目にして思わず言葉を飲み込む。

 母の背中は、あまりにも切実だったからだ。

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