7.
強烈な頭痛とともに広夢が目覚めたのは、どうやら翌日の正午だった。
──ヤバい。今日は何曜日だっけ?
朦朧とした頭で何とか記憶を辿り、バイトの出勤日ではなかったことを思い出すと、安堵の余り身体中の力が抜けた。
広夢が寝ていたのは茂雄の家の客間のようだった。
──あの二人が介抱してくれたんだな。
失敗した、と思ったがそれほど恥ずかしくはなかった。布団の中から腕を伸ばすと、畳に触れる。さらさらとした感触が心地いい。
「よく眠れた?大丈夫?」
広夢が畳を撫でていると、襖が開いて朔子がひょっこりと顔を覗かせた。
「あ、すみません。大丈夫です……」
「二日酔いひどいんじゃない?」
朔子はおかしそうに笑った。冷えた水を塗りの盆に乗せて広夢の枕元に置く。
「話が途中だったのに、朔子さんがたくさん飲ませるからですよ」
開いたままの襖からするりと音もなく茂雄も入ってきて、「体調はいかがですか?」と広夢を流し目で見た。
「すみません、ご馳走になった上、泊めてもらっちゃって……」
茂雄の姿を見ると、さすがに広夢はばつが悪かった。朔子も茂雄もあれだけ飲んでまったく乱れたところがないことに驚く。
「いえ、構わないですよ。久しぶりにお客様が来てくださって私も嬉しいです」
恐縮している広夢に、茂雄は目を細めた。
広夢は目の前の、何を考えているかわからない男を眺める。改めてまったく感情が読み取れない、と思う。
「昨日……一緒に手を組むとか、そういう話になりませんでしたか?」
茂雄が口元をわずかに歪めたように見えた。笑ったのか、と広夢は目を疑う。
「なりました。私がお願いしました。広夢さんの能力は素晴らしいですから」
広夢が何か言いかける前に、茂雄は続けた。
「私は、家霊の憑いた物件を多く扱う不動産屋です。けれども、広夢さんのように多くの家霊を目にすることはできません。私の勘ですが……あなたはきっと、ほぼ全ての家霊を見ることができるのではないかと思います」
広夢は聞きながら、頭の中で茂雄の話を整理する。
「家霊が憑いた物件と憑いていない物件があるというわけですね。でも、家霊つきの物件にこだわって商売する理由があるんですか? 何かメリットでも……?」
広夢の質問に、茂雄は頷いた。
「メリットというほどではないのですが……」
「茂雄ちゃんは、不幸な人を増やしたくないのよね。本当は優しい子なのよ、この子は」
朔子が話に割って入る。広夢は布団の上に正座をした。茂雄は朔子が話を止めると、委縮した様子で一度口をつぐんだ。そしてゆっくりと話し始めた。
「……私は大学生の頃に父を亡くし、その二年後に母を亡くしました」
広夢の予想を上回る強烈な出だしだったが、茂雄は通常と変わらず冷静に見えた。
「母は父の死後、ノイローゼのようになって大量の人形を日々作りました。詳しい心中も語らないまま、事故が自殺かわからないような形で突然この世を去りました。母が亡くなった直後、私は正常な判断もできず取り乱してしまいました。見る間に家は荒廃して、気が付いたら廃人寸前の有様でした」
茂雄は淡々と話を続ける。時折右手で眼鏡のフレームを直す以外は、動きらしい動きもなかった。広夢は語られる内容と茂雄の態度の落差に、何度も混乱したが、冗談や嘘を言っているようには見えない。
「結果から言いますと、私が立ち直れたのは朔子さんのおかげです」
広夢は反射的に朔子を見る。話が急に結論に達した。詳しい経緯に興味があったが、茂雄はそれ以上詳細には語らなかった。
──話したくないんだろうな。
広夢の知らない朔子と茂雄の物語があったのだ。無理に詮索するのはやめよう、と広夢は考えた。
「偶然よ。私はずっと変わらず、あの家に居ただけ。あの家の手入れをしていて、偶然見える人がいたら接触するだけ」
話し出した朔子が、いっぺんにいくつも年を重ねたように老けて見えた。外見は少女のままだったが、広夢には老成した雰囲気をまとっているように見えた。
「家が死ぬと人も死ぬ。私はその話をしただけよ」
茂雄は頷きながら、記憶を辿るような目をする。
「家に帰って愕然としました。自分で思っていた以上に、家は荒れていたんです。荒んでいたことすら気付かなかった、目に入らなかったんです。我に帰って夢中で掃除をしました。母の遺品を整理して、家に風を入れて、そして少しずつ日常を取り戻していきました」
広夢は、目を伏せて茂雄の当時の心境に寄り添おうとした。いかなる時も冷静に見えるこの男は一人で苦しみ抜いて、この世の底から物事を見るような日々を送った中で、少しずつ浮上してきたのだ。
「私は朔子さんに出会ったのをきっかけに、家に興味を持つようになって不動産屋を始めました。でも、広夢さんのように私には貞さんが見えない」
望んでいながら家霊が見えない茂雄と、特に望んでいなくても見えてしまう広夢。
──俺は別に望んで見えているわけじゃない。代わってやりたいくらいなのに……。
皮肉なものだ、と考えて広夢は小さく息を吐く。
「……で、俺は家霊のいる家を探してくればいいんですか?」
広夢は尋ねた。素っ気ない言い方になったことを口にした途端に気に病む。
しかし茂雄は気を悪くする素振りは見せず、「そういうことになります」と平板な声で答えた。
「家霊のいる家は、古く由緒ある家が多いです。もちろんそういった物件のみにするのは不可能ですが、私はできるだけ多く家霊のいる家を物件として揃えたいと思っています」
「家霊がいる家では、不幸になる人が減ると箕輪さんは考えているんですね」
広夢は言った。朔子の視線を感じたが、あえて広夢はそちらを見なかった。
「私個人は、そのような考えです」
茂雄は心なしか、少し寂しげに見えた。気のせいだろうか、と広夢は茂雄を観察するがもう一度見直した時にはもう、表情を変えないいつもの茂雄に戻っていた。
わかりました、と広夢は短く答えた。
──だけど俺はまず、卓也の家を救わなければならない。
広夢は決意を新たにした。
「俺がお役にたてるのかはわかりませんが、お手伝いできることはします。でもその前に、一つだけ片付けたいことがあるんです」
広夢は立ち上がって、昨日と今日の礼を述べると帰り支度を始めた。唐突な行動だと思ったが、少しでも早く卓也の家に向かいたかった。
「死んだ家を蘇らせることができるか、と広夢くんは私に聞いたわよね」
着古したパーカーを羽織り、出された水を飲み干した広夢に朔子が声をかけた。
朔子には広夢の行動すべてがお見通しのようだ。
思い出したように朔子が広夢を一瞥して言う。
「初めて会った時のあなたは、そんなに明るい髪色じゃなかったわね。もっと黒くて、鬱陶しいほど長かった」
弾かれたように広夢は振り返って朔子を見た。
──そうだ。俺は卓也になりたかったんだ。
黒くて重たかった髪を明るく染め、卓也の服装を真似た。そして、性格も卓也のように明るく人当たりのよい人間に変わりたかった。これは一朝一夕にはできなかったが。
──俺なんかが生き残るより、卓也に生きていて欲しかった。それが正しいことだと思い込もうとしていた。
「早く行ったほうがいいわ」
朔子が強い目で広夢を見つめた。その眼光に後押しされるように、広夢は玄関を出た。一度引き戸を開けて外へと歩きかけたが、思い直して家の中へ戻り、朔子に声をかける。
「大丈夫ですか? って声をかけてくれたのは朔子さんだよね」
広夢はそれだけ言うと、再び背を向けて今度こそ茂雄の家を出た。遠目だったが、朔子がふわりと目をほころばせたのがわかった。
卓也の家でのことを思い出すだけで恐ろしかった。
それでも広夢は、亡き卓也の思い出までも崩壊してしまいそうなあの家と、残された家族を救いたかった。
──できるかわからないけど。
広夢は自宅に戻ると出しっぱなしになっていたベースをケースにしまい、背中に背負った。
電車に飛び乗り、もちろん事前の連絡などはせずに一方的に卓也の家を目指した。啓と優馬にも連絡はしなかった。
──と言うか、卓也みたいな髪型にしてから二人に連絡とってないんだよな……。
先程朔子に指摘されて、広夢は自分の行動が急に愚かなものに思え、その場にいられないほど恥ずかしくなった。
卓也になれるわけなどない。広夢にもそれはよく理解できているのだ。
──俺はずっと現実から逃げていたんだ。卓也の死や自分の未来から。
広夢は初めて、曇りのない目で自分を客観視する。弱く、逃げてばかりの自分。
しかし、広夢は少し楽になっていた。ただ目を背けたいだけだった過去の自分を、愚かでありながら初めて受け入れられたような気がした。
小さく息を整えると、卓也の家が見えてきた。もう逃げられないと思ったが、目の前にすると不思議と肝が据わった。広夢はさらに一歩、家に向けて前進した。
辿り着いた卓也の家の、玄関先の枯れた花々は片付けられていた。玄関の泥汚れも落とされていた。
広夢は拍子抜けして、そのまま玄関に立ってしばらく家を見つめていたが、迷うことなく呼び鈴を押す。
するとすぐに返答があり、卓也の母親が現れた。
「あら、あなたは卓也のお友達の……」
母親の口調はしっかりしており、顔には化粧が施されている。広夢はほっとした。
「滝内広夢と言います。突然すみません」
広夢が頭を下げると、「よろしければもう一度お線香を上げていってくださいませんか」と卓也の母親は言う。前回は見られなかった、やんわりとした笑顔までが浮かんでいる。
──優しそうなお母さんだ。こんな人だったんだな。
「いつかも来てくださったでしょう? あのときはごめんなさいね」
いえ、と応じて広夢は卓也の家に改めて上がらせてもらった。広夢は卓也の遺影に手を合わせ、今度はゆっくりと線香を上げた。ぱたぱたと台所を使う音がして、母親がお茶を運んできてくれる。
家の中の様子を伺うと、以前とは打って変わってきれいに片づけられていた。広夢は安堵する。
──すっかり家が生き返っている。
「よかった」と広夢は心の中で呟いた。
広夢のような他人が急いで乗り込まなくても、卓也の母親は自分の力で卓也の死を乗り越え、きちんと日常に復帰している。広夢は自分が奢っていたようで恥ずかしくなったが、後悔はしていなかった。
「あの」
広夢は背負っていたベースをケースから取り出した。
「これ、卓也君から譲ってもらったものなんですが、お母さんに持っていてもらったほうがいいのかなと思ってお返しに来ました」
卓也の母親は広夢の手元のベースをしばらく見つめていた。広夢が予想していたような大きな反応はなく、懐かしそうに見つめた後、淡々と答えた。
「ええ、覚えてます。あの子がアルバイトでお金を貯めて自分で買った物なんですよ」
ベースを見つめる目が一瞬虚ろになり、広夢はひやりとしたが、すぐに顔を上げ母親は控えめに微笑んだ。
「わざわざ持ってきてくださってありがとう。でも、よかったらあなたが持っていてくださった方が、あの子も喜ぶと思います」
あ、お茶を冷めないうちにどうぞ。
卓也の母親は、手つかずのままだったお茶を広夢に進めてくれる余裕まであった。
「ありがとうございます、いただきます」
恐縮してお茶をすする広夢を見て、うふふとおかしそうに笑う。
「玄関であなたを見た時、あの子が帰って来たのかと思いました。そんなわけないのにね」
卓也の母親は笑い止んで、両手で湯呑みを包み込む。その目に狂気は宿っていなかった。
「来てくれてありがとう」
静かに頭を下げた母親の、真意は汲み取れなかった。広夢のような友人の一人が、安易に推測できるわけがない。
──引き上げ時だ、と広夢は悟った。
お礼を言って結局広夢は卓也のベースを持ち帰った。玄関を出てしばらく歩き出すまで、卓也の母親は広夢を見送ってくれた。
──結局俺は何もできなかった。
家は恐らく生前の卓也の家に近い状態まで元に戻っているように思われた。手入れが行き届き、愛着を持って住まれている家の気配が満ちていた。
広夢が何か行動を起こす前に、手を差し伸べる前に、母親は自ら立ち直ったのだ。広夢の厚意は単なるお節介で、行動は徒労に終わった。
──それでも、来てよかった。
自己満足以外の何物でもないが、広夢は納得していた。背中のベースを何度か撫で、広夢はもう一度家を振り返った。
「お前みたいにはどうしてもなれないけど、俺は俺なりに頑張るよ」
広夢が呟くと、卓也の笑い声が聞こえたような気がした。懐かしむように広夢は、空を見上げた。




