6.
「これ、取り敢えずお勧めのCDね」
卓也からベースを譲り受けて以来、大学で顔を合わせるたびに、大きなリュックから数枚のCDを取り出して広夢に渡してくれた。それらを広夢は家に帰って夢中に聴いた。卓也と感想を語り合いたくて、繰り返し聴いた。
広夢が好意的な感想を述べると、卓也はとても嬉しそうだった。ベースの練習も独学ながら続けていた。なかなか腕は上達しなかったけれど、練習に飽きることはなかった。
優馬と啓の演奏レベルについていける腕前ではなかったが、スタジオ練習にも広夢は極力参加していた。下手くそながら二人に追いつこうと必死だった。
卓也もたびたびスタジオに現れた。最初に広夢が連れて行かれたときのように手ぶらで、手持無沙汰な様子でふらりと現われ、実に楽しそうに練習を見ているのだ。
「ちょっとずつだけど、確実に上達してるな」
卓也はスタジオの床に座り込んで、穏やかな笑みを浮かべていた。
「卓也、せっかくだからベース弾いてくれよ」
広夢が何度そう言ってベースを渡そうとしても、卓也は首を横に振って受け取らないのだ。
「どうして? あんなに上手いのに……俺の下手なベースを聞いてて弾きたくならないのか?」
広夢が食い下がっても、卓也は笑って取り合わない。
「弾きたくなるから、弾かない」
答えた卓也の顔に少し陰りが見えたので、広夢は何も言えなくなってしまった。
──事情でベースを止めた、って言ってたけど、家族の猛反対にでも遭っているのだろうか……?
「人の心配より自分の腕前を気にしろよ」
卓也が屈託のない笑顔で言うので、いつもの卓也の明るく人のいい雰囲気に呑まれてそれ以上深く追求することはできなくなった。
──今思えば事情って、病気のことだったんだな。
広夢は気付くことが出来なかった自分が歯痒かった。
卓也の態度や、表情から少しでも汲み取れることはなかったのか?と考えるが、卓也の様子はいつも変わりがなかった。やつれたような様子もなかった。苦痛に耐えていたのかと想像すると、後悔の念に押し潰されそうになる。
「卓也」
広夢は呟くと、自分の声に驚いて目を覚ました。この頃になってようやく慣れてきた天井がそこにはあった。
「どうして俺は、気付けなかったんだ」
再び声に出して、広夢は呟いた。
「誰しも過去を振り返る時、現在の自分が万能のように思えるものです」
──って、ええっ!?
広夢は自分以外の声がふいに耳に飛び込んできて、慌てて布団から上半身を起こした。
「失礼しました。鍵が開いていたもので……」
寝起きのぼんやりとした頭で広夢はどうにか状況を把握する。布団の傍らに、眼鏡をかけた無表情の男が広夢を見下ろすように立っているのだ。
「お忘れですか? 不動産屋の箕輪茂雄です」
茂雄はいたって真面目な顔をし、丁寧で美しいお辞儀をした。広夢は勝手に人の家に侵入し、おまけに寝室の布団の横に立っているなどという奇行をしながら平然としている茂雄が理解できなかった。
「いや……それはもちろんわかります」
広夢は自分の額に手を当てる。頭痛がしそうだった。
「そうではなくて、何故箕輪さんはここにいるんですか?」
「鍵が開いていたもので……勝手に失礼いたしました」
まるで顔色を変えない茂雄に、広夢は新鮮な驚きさえ感じる。
「何か御用ですか?」
会話が進みそうにないので、質問を変えてみた。茂雄は「ああそうでした」とやっと目的を思い出したらしく、表情を動かした。広夢もほっとする。
「今夜、私の家で夕食でもいかがですか? 朔子さんが手料理をご馳走したいと張り切っているんです」
「はあ……」
広夢は生返事をする。人間以外の存在が料理などできるのだろうかと考えるが、そう言えば庭仕事は毎日している。
「彼女はなかなかの料理上手ですよ。最初はちょっと気味が悪いかもしれませんが」
茂雄は大真面目に言う。「気味が悪い」とは、朔子が聞いたら激怒することだろう。そう考えると広夢は少し笑ってしまった。朔子と茂雄のどこかちぐはぐなやり取りを想像すると、気持ちが和んだ。
「……面白そうだから行きます」
広夢が答えると、茂雄は「そうですか」と頷いた。無愛想な様子は変わらなかったが、声はどことなく弾んでいるように思えた。
「では、心よりお待ちしております」
茂雄の家までは歩いて五分とかからない。
迷った末に駅前まで出てワインを手土産に買った広夢は、招待された時間ぴったりに呼び鈴を押した。今度はおばあさんは現れなかった。
──大ベテランの家霊か。確かにこの家は格が違うって感じだ。
広夢は茂雄が玄関に出てくる間、取りとめのないことを考える。
やや間があって、エプロン姿の朔子が現れた。
「いらっしゃい広夢くん」
真っ白なエプロンの裾をつまんでお辞儀をしてみせる。紋切り型なイメージの新妻みたいだ、と広夢は思う。
「ベタだって思ったでしょう?」
朔子に睨まれ、広夢はたじろいだ。この家霊にはほとんど心を読まれてしまう。
「広夢さん、よくいらっしゃいました。どうぞこちらへ」
茂雄が朔子に続いて現れ、居間へと案内する。どっしりとした一枚板を使ったテーブルに、乗り切れないほどの料理が並んでいた。
煮物などの和食、鮮魚のカルパッチョに数種類のパスタ、中華料理らしき炒め物と何でもありだ。
「ずいぶんなご馳走ですね」
広夢は圧倒されながら、茂雄に手土産のワインを渡した。
「さあ、早速いただきましょう。広夢くんのワインもいただいちゃいましょ」
朔子ははしゃいでいた。茂雄は相変わらずの無表情のまま、奥へ引っ込むとワイングラスを三つと、コルクを抜いた広夢のワインを持って現れた。
朔子と茂雄に勧められるまま、広夢はずいぶんとたくさんの料理を食べた。持参したワインはすぐに空になり、後から新しい酒が供された。
──そんなに酒は強い方じゃないんだけど。
次第に酩酊しながらも広夢は次々と杯を重ねた。茂雄も朔子も同じペースで酒を飲んでいるのに顔色一つ変えない。
「広夢さん」
気が付くと、茂雄が広夢に顔が触れるほど近付いていた。
「あまりお顔色がすぐれないようです。大丈夫ですか?」
「酔ったんじゃないのお? 広夢くん」
朔子が日本酒を入れた切子を片手に、ケラケラと笑っている。
「あなた、貞さんに会われたというのは本当ですか?」
茂雄が尋ねる。至近距離は変わらず、広夢は酒が回っていたせいもあり、ひどく混乱した。しかし、心地のよい混乱だった。
「貞さん……? ああ、あのおばあさんのことですか?」
呂律の怪しくなった口調で広夢が答えると、茂雄は眉間に皺を寄せる。茂雄が顔色を変えるのは珍しい。広夢はまだ冷静に判断できる部分が残っていると自分を客観視する。
「大したものだ」
「でしょう?」
朔子は腕を組み、自分のことのように得意げだった。
「広夢さん、私たちと一緒に組みませんか?」
茂雄が静かな口調で言い、途端に広夢は覚醒した。
「どういうことですか?」
広夢が態勢を立て直すと、朔子が切子のグラスを傾けながら話し始めた。
「私や貞さんのような家霊は、多くの人を住まわせて住人を幸福にし、家を育てるほどに徳を積む。まあ言わばレベルアップしていくの。私はまだまだ小娘レベルってこと。築年数の割にはね」
朔子は言いながら、チーズの欠片を口に放り込んだ。そう言えば、人間と同じように飲食もするようだ。
広夢は黙って朔子の話を聞いていた。
「人数だけではなくて、いかに住人に貢献できるかということも重要なの。だからワケあり物件にしてまで、多くの人を囲い込みたかった」
それまで無言だった茂雄を見ると、広夢の視線に気付いて曖昧に頷いた。
「レベルアップするとどうなるんですか?」
広夢は尋ねた。
「……人間になれる」
朔子は穴の開くほど広夢の目を見つめる。広夢は息を呑んだ。
「なあんてね」
広夢は何かを言いかけたが、急激な目眩を覚えて倒れこんだ。
──ダメだ、酔いが回って。と言うか本当にただの酒なのか?
再び意識が混濁し、広夢の視界は暗転した。




