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3.

ベースを始めたきっかけは、同級生の卓也に誘われたからだった。広夢にも最初は深い思惑などはなかった。

 大学に入ったばかりの広夢は校舎内の地図も頭には入っておらず、どの授業を受講するか、教員免許の取得はどうするか、そんな些細とも重大とも取れる日常に慣れることで手一杯の日々を過ごしていた。

 社交的な学生は、さっさとサークルを決めて順調に友達を作っていた。友達どころか彼女まで早速見つけてしまう強者もいた。

 広夢は、同時に複数のことができない性質だった。大学の仕組みを学ぶのに精一杯で、日々一つのことを消化しながら過ごしていた。

 やっぱり学食は種類が豊富だとか、生協で本が一割引きで買えることが嬉しいとか、そんな小さないちいちに、感心する毎日だった。

「なー、キミ。……タキウチくん?」

 食堂で一人、うどんを啜っていた広夢に、誰かが突然声をかけてきた。目を惹く容姿をしていることから、見も知らない女子に声をかけられることはこれまでもままあった。

 吸い込んでいる途中だったうどんを最後まで口の中に入れると、広夢は顔を上げた。

「啜るのうまいな」

 そう言って、歯を見せて笑ったのが、卓也だった。変なことを言う奴だ、と当然のことながら思った。けれどもそのとき、広夢はまだ卓也の存在を知らなかった。

「……どうして俺の名前?」

 広夢は、隣で席にも座らずにこにこと微笑んでいる男を訝しんでいた。

──知り合いだっけ? ひょっとして、昔、塾で一緒だったとか?

「教職の授業の第一回目で、自己紹介したじゃん」

 卓也は、またも屈託ない笑顔を見せる。

──自己紹介?ああ……そう言えば、全員立ち上がって、名前と学科を言ったような言わないような。

「じゃあ、同じ授業に出てる人?」

「そ」

 卓也は「ひでえな、俺も自己紹介したんですけど」と眉間に皺を寄せるが、口元は微笑んだままだ。

「君ってアーティストなんでしょ?タキウチくん」

 未だ名を名乗るでもなく、卓也は一方的にまくしたてる。

 アーティスト? 初対面で何を言ってるんだ、こいつは。広夢は馬鹿にされているのだ、と判断した。

「な、何だよ……つーか、誰だよ?」

 にっ、と卓也は鮮やかに笑った。

「いーねえ。タキウチくん、物怖じしなくて。気に入ったよ」

 卓也は、ふいに食堂のテーブルに乗ると、ちょこんと正座をして広夢に握手を求めてきた。

──おまえ、乗るか?ふつう、テーブルに。

 思わずツッコミを入れようとしたが何故か口に出せず、広夢は目の前に出された卓也の手を握った。

「はは、ありがと」

 卓也は握った手をぶんぶんと上下させ、テーブルに正座したまま、「おーい」と声を張り上げた。

「見つけたぞー。新しいベーシスト」

──は? ベーシスト?

 呆然と握手を続ける広夢の元に、どやどやと同学年の男子生徒が走り込んできた。

「何やってんだよ、卓也」

「テーブルだぞ、下りろ!」

 呆れた声を出しているが、皆笑顔だった。

──卓也っていうのか。こいつは。

視線を卓也に戻すと、本当に嬉しそうにまだ広夢の手を取ってぶんぶん振っている。

──妙なやつだ。

でも広夢は嬉しかった。ささいなきっかけから広夢の名前を知って、覚えていてくれた。それはとても特別なことだった。自分が価値のある人間のように思えた。

卓也の茶色がかった柔らかそうな髪は、きれいに切り揃えられていて、女子みたいな整った顔をしている。

──もてそうなやつだな。

広夢は卓也を密かに観察しながら、屈託のないその雰囲気に早くも心を掴まれていた。

それが、現在でも親交のあるの木本優馬や、大須賀啓、そして岸辺卓也との出会いだった。


「ごめんね、滝内くん。こいつ、授業で滝内くんを見てから、気になっちゃって仕方ないみたいでさ、ずーっと滝内くん滝内くんて、うるせえの」

あ、俺、大須賀。オオスガ、ケイ。

啓はがっしりした体つきの、兄貴っぽい雰囲気の男だった。人懐こそうな目は、初対面である気がしない。

「そうそう。俺らまで滝内くんのこと覚えちゃってさ」

俺は木本優馬、よろしく。と口を挟んだ男が名前を告げた。目のきらきらした、利発そうな整った顔をしている。全体的に締まったスタイルをしていて、こちらも女子に人気がありそうだ。

「そんな……何で俺なんか」

 事態がうまく飲み込めずに、広夢は呟いた。

「そりゃあ、その長すぎる前髪とか、クールな雰囲気とか。かっこいいよね、タキウチくんは」

嬉しそうに卓也は答える。

「でもいちばんかっこいいのは」

卓也は広夢の目をまっすぐに見た。純度の高い眼差しに、広夢は少なからずうろたえた。

「いつも一人なのに、何だか楽しそうでしょ、きみは」

広夢は顔が紅潮していくのを感じた。褒められているのか、馬鹿にされているのか。

「いいなあ、こういうやつと友達になりたいなあと思ってさ」

「お前、思ったこと素直に言い過ぎて、逆に胡散臭いぞ?」

満面の笑みで続ける卓也を、常識人らしい優馬が諌める。しかし、優馬もまた笑顔である。

「俺らと一緒にバンドやろうよ。タキウチくん」

 前髪が伸びすぎているのは、切りに行くのが面倒だったからだ。

──いつも一人でいるのは、友達がいないから。

 それでも俺は楽しそうに見えたのか?

 そんな俺を見ていたやつが他にいたというのか。

「広夢でいいよ」

 広夢はわざと素っ気ない口調で言った。まんまるな目で卓也が広夢を見返す。優馬と啓も押し黙って成り行きを見つめている。

「でも俺、楽器なんて触ったこともないけど?」

 広夢の答えに、三人はにんまりと笑った。広夢の腕前など最初から期待していないというように。


 広夢は卓也たちに連れられて、初めてスタジオに行った。カラオケボックスで適当にやるのかと思っていた広夢は、ちゃんとした音楽スタジオで、一時間ごとにレンタルしている防音の部屋に案内されて驚いた。部屋にはドラムセットもあり、優馬がギターを、卓也がベースを持参して現れた。

 広夢はもちろん、自分の楽器など持っていないので手ぶらだった。

 楽器を背負っているだけで、学食でふざけているいつもの卓也たちとは別人に見えるほどかっこよく思える。我ながら単純だ、と広夢は苦笑した。

「ようこそ広夢。俺らのバンドへ」

 スタジオに入ると、ベースを肩から下げた卓也が恭しく一礼した。優馬もニヤニヤしながら頭を下げる。照れ笑いかもしれない。

 大きなベースが、卓也の華奢な体を半分ほども覆い隠す。

「じゃあまず、一曲」

 歪むような低音がして、広夢は足元を掬われたような衝撃を覚える。卓也のベースソロから曲は始まった。

 幼げな印象だった卓也の顔が一変し、口元に不敵な笑みを浮かべた艶のある表情に変わる。リズムに合わせて頭を振る。柔らかな茶色の髪が振り乱れる。

 何だこれ。何だ……?

 広夢は今までに感じたことのない高揚感を覚えた。全身の毛が逆立ち、皮膚には鳥肌が立った。

「凄い」と心の中で、その言葉ばかりを繰り返していた。

 一曲が終わって慄然とする広夢に、卓也はいつもの屈託のない笑顔に戻って言った。

「やってみたくなった?」

 広夢は無言で卓也の顔を見つめた。圧倒される余り、思いがうまく言葉にならないのだった。

「どう広夢、俺に魅了された?」

 卓也はいたずらっぽく笑い、広夢は紅潮した顔で何度も力強く頷いた。

「すげえよ。皆……」

 ありがとう、と優馬が笑い、啓がドラムスティックを握ったまま頭を掻く。

「よかった、これで安心して託せるよ」

 卓也は言いながらベースを肩から下ろし、歩み寄ると事情の呑み込めていない広夢にベースを握らせた。

「……え?」

「はい、よろしく」と茶化すように笑って、卓也は広夢の肩からベースを下げた。ずしん、と初めて感じる楽器の重みを広夢は味わう。

「このベース、広夢にあげるよ」

「は?……何で」

 卓也の顔から一瞬笑顔が消え、ひどく老成した表情に変わった。しかしその表情も見る間に消え、見慣れた人懐こい笑顔に戻る。

──何だか嫌な予感がする。

 広夢はそう思ったが、すぐにその予感を打ち消した。気のせいに違いない。

「俺、近々事情があって、バンドを抜けるんだ。広夢が俺らのバンドの音を気に入ってくれて嬉しいよ」

 卓也は広夢の手をしっかりと握った。どきりとするほど冷たい手だった。

「よろしくな」

 真剣な卓也の目を、広夢も逸らさずにしっかり見つめた。

「わかった」

 ベースどころか、楽器なんてリコーダー以外に触ったこともない広夢が、初めて音楽を奏でてみたいと思った。卓也たちの演奏には、広夢を動かすほどの力を持っていた。

──ベースを弾けるようになるなんて思えないけれど、俺も卓也たちみたいに音を奏でてみたい。

卓也から譲り受けたベースを手にした日から、広夢は独学で練習を続けた。

「広夢がそれなりの腕になったら、セッションしような」

卓也の笑顔は、いつも一瞬で周りを明るくするような力を持っていた。広夢は卓也の存在そのものがまぶしかった。

目立つ容姿を重たく長い黒髪で覆い隠すようにして、広夢は周囲にも心を閉ざしてきた。卓也はそんな広夢の存在を見つけて救い出してくれた。

──俺も、卓也のようになれたらいいな。

 たびたび広夢はそう思った。しかし、広夢と卓也が共に音楽を奏でる日は訪れなかった。

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