2.
「結構金がかかるんだな……」
ま、それも当然だけど。そう独り言を呟いて広夢は雑踏の中、行き交う人をぼんやりと眺めていた。
広夢は家を探していた。大学を卒業し、実家を出て一人暮らしをする運びとなったのだ。
と言っても実際は、生活の目処が立たないまま両親とも喧嘩して家を飛び出すような形になってしまった。
大学では就職活動も真面目に行わず、どうにか留年だけはせずに卒業した。だが、卒業できたというそれだけだった。今後就職からいつまでも逃げているわけにはいかない──広夢自身もそれは理解しているつもりなのだが、なかなか行動には結び付けられなかった。
資金は限りなく乏しく、ワンルームのアパートにでも住んでできるだけ節約しなければならない現状だったが、広夢は実家を出てとにかく一人になりたかった。具体的なプランもないまま、思いだけが切実だった。何故急に一人になりたいのか、広夢自身にも今一つ疑問だった。それでも、
「これで本当に……一人、なんだよな」
往来で広夢はぽつんと呟いてみる。まだ現実感はあまり伴わない。
これまではずっと視界の中に家族がいるのが当然だった。自分で好んで家族から離れたというのに、広夢は雑踏の中で早くも孤独を感じていた。
家を飛び出してから数日間は漫画喫茶に寝泊まりをしたが、そろそろ限界だった。バイトは継続しているものの、住むところを決めなければならない。どんな小さな部屋でもいい、落ち着いて眠れる場所が欲しかった。
どこにいても、何をしていても、常に漠然とした不安が広夢を包んでいた。
かつて広夢には唯一の親友と呼べる男がいた。その男──卓也がこの世からいなくなってしまってから、広夢の中で何かが壊れた。広夢は誰に対しても淡白な気持ちしか抱けなくなり、無感動な人間になってしまった。
広夢は卓也の死後、ゆったりとした眠い泥の中に佇むようにして日々をやり過ごしていた。そして時折思い出すことがあった。
あの夜、卓也が亡くなった日に見上げた家のことだった。
──うん、どう考えてもやっぱり怪しいよな。
広夢は先程から何度となく店の前を往復していた。
「3LDK 一軒家 駅から徒歩八分 家賃二万円」
部屋を探しに訪れた広夢は、不動産屋のガラス壁に貼られた物件表に目を奪われていた。
内部の様子がぎりぎり伺える程度にびっしりと貼られた様々な部屋の情報を、上から下
へ斜めに読んでいて、明らかに引っかかりを感じて広夢は二度見していた。いや、三度か四度は見直したかもしれない。
「家賃二万!? て……」
上手い話を通り越して怪しすぎる。確かに私鉄各駅停車の鄙びた駅ではあるけれど、周囲の物件との相場がまったく異なる。
──これ、予算が折り合わなくて不動産屋が最後の最後に出してくるファイルに入ってる
やつじゃないのか?
「つまり、理由あり物件……だよな。わかりやすすぎるけど」
──だけど何でこう、堂々と貼ってあるんだろう。
広夢の中で好奇心がむくむくと頭をもたげた。駅から徒歩八分は好条件にも程がある。
おまけに冗談としか思えない家賃。
──殺人事件でもあったか? あるいは自殺か、一家心中……?
二万円の前にはどんな悪条件だって浮かんでくる。
「どうせ部屋を探さなきゃならないんだ。話を聞いてみるだけ……」
広夢は自分に言い聞かせて、勢いに任せて不動産屋の扉を開けた。あの物件についてはさらっと質問だけして、あとは当初の目的のワンルーム探しだ。
「ああ、表の一軒家の物件ですね」
不動産屋のカウンターで事もなげな調子でそう言ったのは、恐ろしく無愛想な眼鏡の男だった。よく言えばクール、なのだろうが無表情すぎる。
「お客さま、失礼ですがモデルさんかタレント業の方ですか?」
男がいたって真剣な顔で尋ねる。
「いえ……ただのフリーターです」
広夢は淡々と答えた。自惚れのようだがこの手の質問には慣れていた。両親は生粋の日本人にも関わらず、何故か広夢はハーフのような整った顔立ちに長身で、街を歩くと少なからず声をかけられるのだ。
しかし広夢は自身の容姿には無頓着だったし、芸能界にもまるで興味がなかった。
「そうですか。それは失礼いたしました」
不動産屋はやはり微塵も動揺を見せず、平板な声で詫びると「先程の物件ですが」と話を戻した。
「どういった事故物件なんですか?」
広夢はひるまずに尋ねた。我ながら不躾な質問だと思ったが、先に知っておきたかったのだ。他にお客もいなかったので構わないだろうと思った。
不動産屋はファイルをめくろうとしていた手を止め、まじまじと広夢の顔を見た。
「あの物件は事故物件ではございません。あと数年で取り壊されることが決まっている家で、だいぶ老朽化もしているので大家さんが格安の家賃を提示してくれています」
不動産屋の表情に変化はないが、嘘をついているようには見えなかった。
──取り壊し、ねえ。
「しかもさっき貼り紙をしたばかりです。これもご縁かもしれないですね」
ポーカーフェイスでごまかされそうだったが、そんな人懐こいことまで言う。案外親切な男なのか。
「はあ……」
広夢は生返事をした。数年で取り壊し──そうすると、途中からは他に引っ越さなければならないわけだが……。
頭の中で不動産屋の話を再生し、いやいやそれでも理由としては十分怪しくないか?と広夢は我に帰った。
「これからご覧になられますか?合鍵はすぐに貸してもらえますんで大家さんに連絡して……」
ぼんやりしているうちに、勝手に事態が進んでいる気がして広夢は慌てて不動産屋を遮った。
「ちょ、ちょ、待ってください。他にも部屋の情報を見せてもらえませんか? いくらなんでも一人で一軒家って広すぎますし」
「しかしこの辺りだとワンルームでも最低六万円はします。それが二万円、というのは破格だと思いませんか?」
不動産屋の勧め方が急に熱心になる。やはり厄介な物件を押し付けようとする魂胆か?広夢はもはやわけがわからなくなってくる。
「破格すぎて逆に心配ですよ……」
広夢が答えると、不動産屋は思案顔をする。
「そうですよね。ちょっと怪しまれるほど破格にしすぎましたね」
──自分が価格を設定したような口ぶりだな。
そう思いながらも、広夢は目の前の無愛想な男が不思議と嫌いではなかった。愛想がいいだけで本心とは伴わない行動をする人間よりは余程信頼がおける。
「でもせっかく来てくださったのだから、見にいくだけでも見に行きませんか?」
広夢は不動産屋の圧力に押されて、思わず頷いてしまったのだ。
「見に行くだけ」今度はそんなふうに自分に言い聞かせながら。
渡された名刺には「箕輪茂雄」と書かれていた。広夢は名刺を受け取ることなど初めてで、どう扱ってよいものかわからず神妙な顔つきで眺めてからポケットにしまった。
「ここからそう遠くないんですが、どうぞ乗ってください」
ありがとうございます、と言って広夢は助手席に乗り込む。不動産屋は沈着冷静な態度の割には思い切りのいい運転をする。もちろんきちんとルールは順守しているが、判断の的確さなどに広夢は好感を抱いた。
「着きましたよ」
不動産屋の声に顔を上げると、目の前に古びた一軒家があった。赤い屋根にくすんだ緑色の壁。いつの時代のセンスなのかはわからない。広くはないが庭もついていて、窓のそばには大きな木も植えられている。
広夢は家の外観を眺めていてふと異変に気付いた。
玄関先に、十四、五歳ほどの少女がうずくまっているのが見えたのだ。
──何だ? あの子は……。
一見して、少女の様子は尋常ではなかった。肩までで切り揃えられた黒髪。細い手足を丸めるようにして座っていた少女は、自分を見つめている広夢の視線に気付いたのか顔を上げ、真っすぐな目で見つめ返す。少女全体から凛とした雰囲気が漂っていた。
だが、普通の人間ではなさそうだ。そう広夢は判断した。
「あの女の子は誰ですか? この家の地縛霊か何かですか?」
広夢は努めて平静を装い、運転席の不動産屋に尋ねた。さすがに鉄仮面のような不動産屋の顔色がわずかに陰った。
「……女の子が見えますか。そうですか」
突然眼鏡を外してハンカチで拭き出す。しかし動揺しているようには見えなかった。次の行動が読めない男だ。
「あれが破格の家賃の理由ですか?」
そのつもりはなかったが、広夢の口からは尖った声が出てしまった。
「その通りよ」
高く澄んだ声が広夢の耳に届く。玄関前の敷石に座っていた少女が立ち上がり、堂々とした態度で広夢の前に進みでてきた。
「私が見えるみたいだから言うけど、私はこの家の家霊です」
少女はよく通る声で言い、揺るぎない視線を広夢に向ける。広夢は少女の眼差しがまぶしく思えた。
──この子の目は、ちょっと卓也に似てるな。
卓也もまっすぐな、濁りのない眼差しをしていた。それはそれとして、今、何と言ったのだろうか……。
「カレイ……」
広夢はあわあわとした声で少女の言葉を繰り返す。馴染みのない言葉だった。人間ではないと思いながら、少女には不思議と恐ろしさを感じなかった。
「そういうジャンルがあるんですね」
そのために、思わず広夢は少女に話しかけていた。
「ジャンルというか何というか」
少女は眉間にしわを寄せ、腕組みをした。控えめに言ってもそう簡単には見つからないような美少女だ。
「私は幽霊ではなくて……そう、精霊に近いかしら」
「この家の守り神みたいなものですか?」
「うーん、まあそうねえ」
普通に会話を続けてしまう広夢だった。
少女の周囲の空気は歪み、直視していると目眩のようなものを感じたが、話していくうちに少しずつ見方にも慣れてきた。もう何年も浮き立った気持ちになどなったことのなかった広夢が、珍しく高揚感を思い出していた。
何かに興味を持ったり、惹きつけられることもずいぶん久しぶりだ。
「あのー……」
おずおずと不動産屋が広夢と少女の会話に割って入る。広夢はすっかりこの男の存在を忘れていた。
「茂雄ちゃん。この人、なかなかのものね。私のことが見えるばかりか、人間じゃないとすぐにわかったみたい……とても勘のいい人」
少女は広夢の存在を楽しんでいるようだった。
「おまけに全然物怖じしないし、すっごい美男だし」
茂雄、と呼ばれた不動産屋は納得した表情で頷く。
「僕以外で朔子さんの姿が見えた人は初めてですね。そして、美男であることは認めます」
美男、美男と人間と人間以外に褒められる広夢だったが、それについては何も心を動かさない。
広夢は黙ったまま二人のやり取りを聞いていたが、ふいにあるイメージが次々に浮かんできて混乱した。
コルクタイルの貼られた床、今時珍しい石ころみたいなタイルの風呂場、組み木のフローリングの洋室……。
フラッシュバックのように広夢の脳裏に部屋の内部が蘇る。
──この家にかつて来たことがあったのだろうか?
しばらくぼんやりと立ちすくんでいた広夢に、茂雄が「とにかく家の中をご覧になりますか?」と声をかけ、そのまま家の内部に足を踏み入れた。
「どうですか?確かに古い作りですけど、ずっと借り手の方々が丁寧に住まわれてたから案外綺麗でしょう?」
茂雄に付き従って部屋の中を見ながら、実際に広夢が思い浮かべた通りの部屋を驚くこともなく眺め、もう広夢の気持ちは決まっていた。細部を確認するまでもない。
そうか、と広夢は思い当たった。
──この家は、あの夜に俺が眺めていた家じゃないか?
閃くように可能性を思いついてからは、その思いつきはだんだんと確信に変わってきていた。
家霊の朔子は二人とは付かず離れずの距離に立ち、ひっそりと広夢の言動を伺っていた。
「……この家を、借りたいです」
広夢は迷わずに茂雄に告げた。朔子は少し離れた場所から広夢の目を見つめ、ゆるく笑みを作った。不敵にも取れる笑顔だった。
──この家に住むってことは、あの子がついて来るってことなのかな。
ぼんやりと広夢はそんなことを考えた。
「ああ、あの……それから大家さんにお願いがあるんですが、箕輪さんにお願いすればいいのかな……」
広夢は話を切り出し、伺うように茂雄の顔を見たが、「私が大家です」と横から入ってきた朔子にきっぱり言い切られた。
「私が大家、というかこの家のヌシだから。で、お願いって何?」
明らかに年下、どころか子供にしか見えない朔子は、広夢とも茂雄とも対等な口を利く。対等を通り越して上から物を言う。
「……家霊が大家業を行なえるんですか?」
広夢は生意気な朔子の態度に少々むっとして、皮肉を言った。
「もちろんできるわ。そこにいる茂雄ちゃんなんかより、余程しっかり務められるわよ」
広夢は呆れた。これほどはっきり言いたいことを主張されると、逆に感心してしまう。
茂雄が「まあまあ」と二人を取り成した。クールな印象の茂雄も朔子には頭が上がらないようだ。これから何でもこの小娘に話を通さなければならないのかと、広夢は少々うんざりしたが、不思議とどこか朔子の存在を楽しんでいる節もあった。
「何でしょうか? お願いしたいこととは」
「時々楽器を弾きたいんです。構わないでしょうか?」
広夢は気を取り直して、朔子と茂雄の両方に尋ねた。朔子はきょとんとした顔で広夢を見つめる。
「何だそんなこと。昼間なら構わないでしょう。夜に弾きたくなったら、茂雄ちゃんの家でやらせてもらったらいいわ。あそこなら周囲の家とは離れているし」
物馴れた調子で話す朔子は、時折確かに年上の女性のように見えた。艶のある黒髪を揺らしながら、朔子は茂雄を見上げた。茂雄も頷く。
「ええ。ここから近いところに僕の家がありますので、在宅しているときはいつでもどうぞ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします……」
頭を下げながら広夢は、事の成り行きの奇妙さに一人で薄笑いを浮かべていた。
あの家。家霊。無愛想な不動産屋。家賃二万円。
──ワケがありすぎるほどある。でも面白いことに巻き込まれたもんだ。
口の端をわずかに持ち上げながら、広夢は思う。
笑うのも、ずいぶん久しぶりだった。




