滅びのバベル Ⅴ
「どれだけ高く登ったところで、結局死ぬのは地面の上さ。その日が来るまで毎日毎日、とんだ積み木遊びだ。なあ、俺たち、墓でも作ってるのかねえ」
カガリの長い髪が風に揺れる。建設途中のバベルの頂上、僕らがいた。
「今日は何人、戻ってった?」
カガリは明日の天気でも尋ねるように、ぼんやりと景色を眺めながら聞いてきた。
「僕が知ってるだけで、三人は落ちた」
一人は足を滑らせて。一人は風にあおられて。もう一人は、鳥に餌をやると言って朝食のパンを空に撒きに行ったきり、そのまま二度と帰ってこなかった。
「そうか」
とだけ言って、カガリは少し真剣そうに目を細めた。彼はバベルから落ちることを、よく戻ると表現した。それは、きっともう昔いたはずの場所には、帰ることはできないと感じていたからだろう。風が北の方角へと吹き抜けた。
僕は何気なく、バベルにやってきたばかりの僕のことを考えてみた。その頃の僕は、まだ何か希望を持っていたのかもしれない。僕は僕以外の何か特別なものになれる予感を感じていたし、そのための道は無数にあると信じていた。逃げるようにしてここに辿り着いた僕だったが、未来と言える時間がその頃は確かにあった。その時間が今だとすると、僕にはもう当たり前にあったはずのこれからすら、想像できないところにまで来たということなのだろう。渇ききったレンガの中で過ごす毎日。今の僕にとって人生と呼べるものは、たったそれだけしかない。そして、それが何より、たまらないんだ。
「誰かがこんなことを言っていたのを思い出したよ。バベルで生きるなら、うつむいてはいけない。空を見上げてはいけない。外を眺めてはいけない。今ここにいることに、疑問を持ってはいけない。」
それを聞いて、カガリは脇腹を急に突かれたときのように吹き出した。
「はっはー。何だ、随分としおらしいじゃないか? そういう時は、あんたの持ってるタバコが出番を待ってる証拠だ。それは金のように扱う代物じゃあない。知っているか?タバコは吸わないと、タバコにはならないんだよ」
彼は僕の方に近づいて来ると、おもむろに僕の腰にあるポケットからタバコの箱を取り出した。おどけて見せたカガリだったが、取り返すために体力を使うのも惜しいと思い、僕はそのまま眺めることにした。すると、サーカスのピエロが不意に我に返ったかのように、カガリはピタッと動きを止め、箱からタバコを取り出し火をつけた。軽く曲げた人差し指と、ピンと伸ばした中指の間にタバコを挟み吸う姿は、彼によく似合っていた。煙がふわりと風に舞い、彼の輪郭が一瞬ボヤけた。
「何もこいつが必要ってわけじゃないんだ。ただ、あるだけで救われた気持ちになれるものだってあるってことが言いたい。ここじゃあ経験なんてゴミみたいなもんで、将来なんてくずおれたボロ小屋より頼りないが、だからこそ、こういうものにすがる勇気も、必要なんじゃないか?俺の家は、ボロ小屋だったよ。ずっと、そこで暮らすつもりだった。残念なことに、そんなボロ小屋ですら、ここにはもう見当たらない」
本当に残念そうに、彼はタバコの煙を空に吐き捨てた。細く口を尖らせて吐いた煙は空中に白い線を描き、ほどなくして消えていった。何処にも繋がることのない線だ。
「妹さんからの手紙は、まだ届かないのかい?」
僕は聞いてみた。聞かなければならないような、そんな気がした。
「いや、まだだな。まだだ」
彼は待っていた。おそらくは届かないだろう妹からの手紙を待っていた。それだけが、彼の希望だろうと僕は思った。僕にはもうない、明日への希望だ。
カガリが来て三ヶ月が過ぎようとしていた。その間にカガリは、二回の終わりの口実を経験した。一度目は僕が案内役となったが、僕と言えば、配給を貰えること以外でその日には興味がなく、いつも早々と部屋に戻って寝てしまうので役不足感が否めない。そのため、僕はキョーコのところへ行くことにした。彼女の方が、僕よりはこの日に詳しいはずだ。キョーコは食堂で働いており、そこでは様々な情報を耳にできるらしい。しかし、その日は都合が悪かったようだ。終わりの口実の間は食堂が夜通し解放され、いつもはメニューに並ぶことのない品が所狭しとテーブルを埋めつくす。案の定、僕らが向かった頃にはすでに人だかりができ、キョーコは厨房と客席の間を馬車馬のように駆けずり回っていた。
「あら、いらっしゃい。何?案内ですって⁉︎そうね、ほんの3時間ほど待っててくれればできないこともないわ」
そう言って、駆け足で厨房に消えていく彼女に僕は手を振った。カガリは人だかりを眺め、空いた席に乱暴に座った。
「忙しないのは嫌いだね。この日を待ちわびる奴らがどれだけいようと、それだけ損をする奴もいるってことだ。それに気づかないようになっちまえば、もう救えないね」
「殊勝な心意気じゃないか。君の手元にビールジョッキとフライドチキンがなければ、ちょっとは説得力もあったんだけど」
彼は思いきりよくビールをあおり、ジョッキを机に叩きつけた。
「人の性とは恐ろしい。動物に生まれたことを呪いたいね。食うか食わないか、二つに一つなら、俺は食うことを選んじまう。選択の悩みなんてのは、自分に聞いたら答えはいつも一つだ」
「意味がよくわからないな。悩みの種類にもよると思うけど」
「そんな品のよろしい悩みを俺は知らないな」
「いや、品の話はしてなかったはずだよ」
「俺はすぐに酔う」
「それは品がよろしくないね」
「品なんて腹の足しにもなんねえよ」
「フライドチキンをナイフとフォークで食べてみれば?」
「バァカ、そんな奴いねえよ」
はっは、といつものように笑う彼の視線がある一点で止まった。少し目を見開いたあと、胡散臭そうに目を細めて、しばたいた。
「……ごめん、いたわ」
僕らの席から正面2席左手にその人は座っていた。わざわざ紙が巻かれているフライドチキンを皿に乗せ、ナプキンを膝にかけている。
「あれが品ってもんかよ、ムッシュ?」
「品も場所を選ぶみたいだね、スィニョーレ」
「うーん、デリシャス」と彼は満足げにフォークを口に運ぶ。