滅びのバベル Ⅳ
彼女の視線には迷いがなかった。それが僕を、不安にさせていたんだけれど……。
黄金色に澄んだ瞳。細くしなやかなまつ毛は悩ましげなのに、その柳眉には正しさが凛と潜んでいた。髪は東の国のそれで赤黒く、肩の上で綺麗に揃えられていた。女性の髪は、どんな環境でも清潔さを忘れないことに意味があるのだろう。彼女の髪は蛍光灯の光を浴びると、天使のように輪っかを作った。バベルに住むものは等しく汚さを好み、その下卑た感性を誇っている。彼女はそれを心底嫌っているようだった。
「汚さは罪よ。それは全てのものに言える。それが美徳だなんて思ってる連中は、たかが知れる程度の奴らよ。人格も、その人生も。クリーンな身体にクリーンな魂。これ、わかる?」
「クリーンな格好でも、ダーティプレイを愛するやからはいると思うけど」
「例えば?」
「KKK」
「彼らにとっては、掃除なのかもしれないわ」
「マニフェスト・ディスティニーだね」
「どういう意味?」
「結果論が日和ってる、だったかな」
「それは、確かに汚いわね」
東の出身者は、バベルに数える程しかいない。なぜなら、東の国は資源が豊かで誰も生活に困らないためだ。このバベルに来る連中は二種類に分けられる。金のためと、その他。その他、には一様に連れ添った理由がある。その一つが、このバベルが実は流刑地の一つとなっている、といえばわかるだろうか。僕はキョーコがなぜここにやって来たのか、知ろうとは思わない。それは彼女を知る上では関係のないところのものだからだ。彼女の過去が、今の彼女を汚すことなんてありはしない。僕の知っている彼女といえば、バベルの食堂で働く姿、タバコを吸う横顔、そしてときどき祈るように胸のペンダントを握ることぐらいだ。でも、それだけで十分ではないだろうか?少なくとも彼女は、くすねた食べ物を僕によく分けてくれた。「食べ物は食べるためにあるの。つまり、誰が食べても同じってわけよね」と、いたずらっぽく彼女は笑う。それだけで、もう十分だった。
時計は11時手前を指していた。長い針が、短い針を追い越そうとしている。そこにはある種の緊張感があり、眺めると少し心が焦る。終わりを感じた時点でもう終わってると知ったのは、いつだったろうか。片手に持ったグラスには、溶けた氷が気まずそうに浮いていた。キョーコがちらりと時計を見やる。
「この時間を前にすると、なんだか少し黙っちゃうわね」
と言って、グラスのふちを指でなぞった。彼女の持ってきたパンとチーズはもうない。運命に従順な時計は、急かされるように時を刻み続けている。
僕はとりあえず聞いてみた。
「銃は持ってない?」
「聞くわ。何をする気?」
「とりあえず、時計をぶち抜こうかと」
「マスタ、牛乳を一杯いだだけるかしら」
「カルシウムの問題じゃないんだけどな」
「じゃあマスタ、銃を一丁いだだける?」
「一丁お待ち」
バーテンダが重い口を開いたかと思うと、乳白色に光る楕円を皿に盛って出してくれた。久しぶりに聞いた彼の声は艶かしく、ユニセックスな響きは不自然なく彼自身に馴染んでいた。努力はその方向に関係なく、いつだって賞賛されるべきだと僕は思う。
「これは……牡蠣だね?忘れていたよ、僕らは海の横にいたんだ」
「海のミルクに火器ってわけね。腑に落ちたわ」
と、キョーコが食べる。
「まさに、腑に落ちたってわけかい?」
そういって、僕も一つ食べた。
その頃カガリはというと、夢の住人とご対面しているのだろう静かに寝息を立てていた。
時計を見やる。目の前に明日が来る憂鬱がくすぶる。僕はカガリを支えながら、キョーコと別れた。
帰って、寝た。