滅びのバベル Ⅲ
バベルの朝は早い。
朝の6時には自分の持ち場に着いておかなくてはならない。それまでに装備を整え、最上階へ続く中央階段を重い足取りで登る。そのため、5時になると鐘が鳴る。安っぽいフライパンの底のような音が階層中で泣き叫び、耳元でがなる。今度の配給日には耳栓を申請するつもりだ。
時計を見やると夜の9時だった。まだ、朝を考えるには早い時間帯。僕とカガリはバーにいた。
僕はいつものようにカウンターに座った。薄暗い部屋の中には、僕ら以外誰もいないようだ。
先ほどの白髪の老人は表のカフェに戻ったらしい。バーテンダーのつもりか、僕らの座るカウンターの奥には、性別がハイブリッドな自称純潔のダンディがいる。彼は寡黙で、見た目以外に害はない。
「どうも、ご無沙汰。 今日はこいつの入室祝いなんだ。ハウスホールドを二つ。ロックでいいか?」
カガリに聞くと、目を丸くしてバーテンを見ながら、首を素早く縦に振った。どうやら、まだ驚きが引っ込まないらしい。
かしこまりました、と言って、彼は僕らに琥珀色の液体をグラスに注ぐ。
「まあ、どうあれ、だ。ここが僕らの隠れ家。慣れれば、親しみ深いところになる」
そう言って僕は、彼にハウスホールドの入ったグラスを手渡した。
「いやあ、なるほど。なるほどなあ」
と、彼はしきりに目をしばたいた。
「では、カンパイ」
カンパイ、と言って、二人のグラスがお辞儀をする。
グイと一口飲み入れると、ふっと喉が熱くなるのを感じた。
「しかし、こんなところを知ってるなんて、あなた何者ですか?」
と、カガリは急にかしこまって僕に尋ねた。
僕は、「君の同室の相手。西からきた、君と同じ出稼ぎ労働者。ここを知っているのは、まあ、人付き合いが苦手な証拠」
とだけ、返事をした。
「君って誰?名前で呼んでくれよ。俺に返せるものは、今はそれぐらいしかないからさ」
そう彼は言って、手を差し出す。
握手を交わし、二人でグラスを煽った。
僕とカガリはしばらく適当な話題で時間をやり過ごした。まだ出会って間もない僕らは、お互い踏み込んでいい場所を探り合っていたらしかった。
「昨日まではどこで寝泊りをしていたんだ?」
と、僕は聞いてみた。
「1層の荷下ろし場。あんたも何度か行ったことはあるだろ?あの北の森から出入りがある、裏手の扉から入ってすぐのところさ。俺らは荷物かっての。地面が堅くて冷たいんだよなあ。最初は寝るのに努力したよ」
頭を掻きながら、彼は情けなさそうに笑った。
「あそこか。なら、仕事場までも第1層から?」
「ああ、もちろんさ。正直、参ったね。1層からてっぺんまで、朝から登らされる。上に到着した頃には、もう足が笑って笑えない」
彼は席を立ち、足が震える真似をした。
第4層からでも頂上までの距離は長い。普通に登っても、だいたい15分はかかる。第1層からだと、おそらくは25から30分はかかるだろう。構造上、下の階層ほど天上が高いため、そのぶん階段も長い。
「ここに来てすぐのことだったよ。足の悪いやつが一人いてさ。そいつが登り下りが嫌だってんで、仕事が終わっても頂上に隠れてやり過ごそうとしたんだ。そいつ、俺のとなりで寝てたやつでさ。割と気の合うやつだったんだけど。その次の日、そいつ上で死んでたよ。寒さとか、そこらへんで、だと思う。その時思ったんだ、俺は来るところを間違えたってね」
そう言うと、彼は一気にグラスをしゃくりあげ、飲み干すとグラスを乱暴にカウンターに置いた。
「ああ、こんなはずじゃあ、なかったんだよなあ」
と言いながら、何やらブツブツと独り言を言っている。どうやら、アルコールにはあまり慣れていないらしい。
部屋に掛かっている時計を見ると、夜の10時だった。少し早いが、そろそろ帰ろうかと思ったとき、ドアがゆっくり開くのが見えた。
「酔っ払いが二人、そのうち見ない顔が一人。あなたと会うのは三日ぶりね。」
彼女はタバコをふうっと吐いて部屋を見回した後、僕の隣に座った。
「何飲んでるの、今日は?」
「ハウスホールド」
「無理しちゃって」
「そういうのは苦手だ」
「私はいつもの。あと灰皿も、マスタ」
そう言うと、彼女のグラスにグレンフィディックの15年が注がれる。
「君はいつもそれだ。どうして?」
「このラベルのトナカイが好きなのよ。なんだか自由から見放されちゃったみたいで、かわいそう。それだけ」
「それ、エゾシカだよ?」
「あらそうなの?でも、これはトナカイよ。私がトナカイと思えば、それはトナカイなの」
「分からないでは、ないんだけどな」
「カンパイ」
そうして、僕と彼女はグラスを鳴らす。
彼女は灰皿にタバコを押し付け、そして新しいタバコを咥え、火をつけた。灰色のため息が室内に広がる。
「東の、か?」
目が遠くを泳いでいるカガリが、ゆっくりと呟いた。
「そうよ。私は東から来た。名前はキョーコよ、よろしく」
「東の妄信。カガリだ、よろしく」
そう言ってカガリとキョーコはグラスを合わした。
バベルを囲む四つの国には、それぞれどこか呪われている。「北の逡巡」、「東の妄信」、「南の楽観」、そして、「西の病」だ。
それぞれが背負ったものにこれまでは気づかないことがほとんどだった。それは、その国では当たり前のことであるからだ。しかし、バベルでは違う。様々な人が、様々な理由を持って集まってくる。その中で違いをはっきりと自覚したとき、人は初めて個人として生きられるようになる。つまり、孤独になるということ。孤独とは何だろうか?それは、自分とは誰かを知るための、迷いのようなものだろう。なぜ迷うのか?自分のつまらなさを肯定しきれないからだ。だから結局、人は帰っていく。孤独に生きることを諦めて、同調できる違いのない場所に戻っていく。安心と安定とカスみたいな幸福のために。人は変わらないし、変われない。変わると言うのは、勘違いの一言で収まる程度の乱数の一点でしかないのだから。それを平均化したところの場所に、その人の本当があるのだろう。 しかし、孤独に生き続けられるとしたら、それはどれだけ幸せなことなのだろうか、と僕は思う。この世はあまりにしがらみに満ちているのだけれど。
「ねえ、カガリ君。あなたはバベルに何を求めて来たの?」
キョーコが少し目を赤らめながら尋ねた。
「金だよ、金。誰でも受け入れてくれる働き口が、ここしかなかった。俺には知恵も力も何もない。誰かに選ばれる資格がないんだ。」
と、カガリは吐き捨てるように言った。
キョーコはタバコを深く吸って、肺の中で味わうように一旦息を止めてから煙を吐き出した。
「人はなんのために仕事をすると思う?」
「そりゃ、金のためさ。それがなきゃ、生活できない。大切なものを守れない。だから、俺は……これで生きているって言えんのかねえ」
そう言ってカガリは自嘲気味に笑った。
「人が仕事をするのは、何もお金のためだけじゃないわ。それが、自分を自分とするための証明になるからよ。例えば、仕事をしていなければ、あなたは何? バベルで働いているからどんな人に対しても、自分はバベルに所属し、建設に携わっている人間だ、と言うことができる。今やバベルを知らない人はいない。つまり、あなたを知らない人もいない」
「それはつまり、バベルがあることが、俺がいることの保証になるってことか?それじゃまるで、俺がバベルに飲み込まれちまってる。肩書きがなけりゃ、自分を語れない人間にはなりたかないね。俺は、俺さ。俺以外の何者でもないし、他の誰にもなれやしない」
北の出身者と東の出身者の相性は悪い。それは、「北の逡巡」と「東の妄信」が決定的に相反する人性だからだ。
「まあ、理屈はわからないでもないけどさあ」
と、カガリはまたブツブツと独り言を言い始めた。
「気難しいのね、彼」
と、キョーコが僕に言う。
「まあ、今日のところは勘弁してあげてよ。まだ慣れてないんだ、人にもバベルにも」
「私たちは、何からも逃げられないのよ?」
「知ってる。だから、君も僕も、ここにいる」
「バーの中に?」
「バベルの中に」
「お腹すいてない?これ、持って来たの」
そう言うと、彼女はパンとチーズを紙袋から取り出した。
「悪いね、感謝」
「一人で食べると、心を貧しくしちゃうからね」
「貧しさは懐だけにしたいところだ」
「全くよ」
そうして、僕らの夜は更けていった。
僕はいつも思う。なぜこのときが止まって欲しいと願うことが、許されないのだろうか、と。
思い出だけが今の僕を生かしているような気がする。
でも、何もかもが、今は遠い。
そして、後悔はもう届かない。