滅びのバベル Ⅱ
彼の名は「カガリ」と言うらしかった。
背は僕の頭一つ分ほど高く、体は僕の16分の3ほど細かった。それはかじり尽くされたリンゴの芯のような侘しい印象を見た人に残す。肌は潔癖に近い白で、細い体と相まって、なるほど、名前に違わず消え入りそうだと思った。波打つ長い髪は後ろで結われ、色は北の出身らしく金色だった。眉は細長く、目の端でくの字に折れていた。まっすぐに伸びた鼻梁は少し高すぎたが、それはこけた頬と窪んだ目に精悍さを与えていた。見た目はひどく貧相だったが、ここではそれが目立つようなことはない。とにかく、彼は口が減らない男だったということは、しっかりと覚えている。
カガリがやってきたのは、僕の同僚が落ちてから数日のことだった。そいつは、僕と同室だったやつで、名前は覚えていない。興味がなければ、覚える必要もないのが道理だ。そして落ちたやつの代わりに、登ってきたカガリがここに回された、というわけだ。労働者に溢れた今のバベルでは、部屋は枯渇問題になっている。部屋が空くまでは、どこか別の場所で寝泊りをすることになっているらしかった。空きが出るその意味を、そこのやつらは分かっているのだろうか。数日間一人となった静謐な僕の部屋は、彼の登場を快くは思わなかった。しかし、まあ、彼がその日にたまたま隣で仕事をしていた青年だったことは、少し助けられる偶然だったのかもしれない。始めからどんなやつか分かっていれば、そういう心算でいられるからだ。人付き合いとはそういうものだ。お互いが示した人物像に、足並みを揃えていくこと。それがスムーズにいけば、突っ張った関係を維持するよりも、むしろ健康的でいられる。
「ああ、昼間のあんたじゃないか!これは何とも奇遇ですなあ。あんたが同室の相手なら、頼もしいや。いろいろ教えてもらいたいこともあるんだ。勘弁してほしいよなあ、ほんとに。ここが楽園に続く道になるなんて到底思えないよ。どうも匂うんだよなあ、いや、この部屋は確かに臭うんだけれどもね。まあ、よろしくお願いするよ。」
彼はドアを開けるとそう言った。
「そうか」
とだけ、僕は答えた。
僕らが暮らすのは、バベル第4層内部にある労働者街だ。そう、バベルはすでに一つの世界であり、新たな国となっている。各層にはそれぞれ役割を担う「街」が形成された。中心には大きな石柱が通っており、そこから各層に移動できることになっているが、僕らには特に意味のない情報だ。そもそも、僕らは他の階層へのアクセスを禁止されている。行けるとすればここ第4層と、仕事場である頂上、後は月数回の荷運びのために第1層へ駆り出されるぐらいだ。僕らにとって生きるとは、レンガを積むこと。そのために食べ、そのために寝る。監督官の連中の中には、この第4層を「死層」と呼ぶ奴もいるらしい。ひねりはないが、的を得ている。生きることに疑問を覚えることは、ここでは致命傷になる。誰もが知っているこの了解ごとは、生きることそれ自体を殺す。そんな僕たちが帰る場所、だから、死層。そんな皮肉を僕たちは笑った。みんな理解しているからだ。張り合いがない。明日を望む、生きる希望がないからだ。
労働者には、服や靴・作業道具やそれらを装備するためのベルト、命を預けるにはつたなすぎるロープ、その他嗜好品なども供給されている。アルコール類はいつからか禁止されたものの(依存者が後を絶えなかったらしい)、タバコなどは申請すれば月に一度の配給日にもらうことができた。僕らはその日のことを「終わりの口実」と呼んだ。なぜだかは知らない。僕が来たときには、すでにそう呼ばれていた。終わりの口実は華やぐ。その日だけはアルコールも許可され、飲み、遊び、音楽は途切れない。ある場所では楽器が弾けるものが集まり、「第九」を弾く。その前ではどんなゴロツキたちも歌い、踊った。食堂も解放され、誰もが満足げに腹を撫でる。心地良いカオスは充満し、至る所で歓声や笑いがおこり、階層を埋め尽くした。その騒ぎが朝まで続き、体力の限界がきて倒れるまで、眠るものはいない。誰もが、その一日にいじらしく縋り、しがみ付き、過ぎゆく時間を忘れようと必死なのだ。起きて仕事が始まれば、それは仕方のないことだと思いたい。そうしなければ、心が保たない。また始まる労働に、終わりの口実を僕らは待ちわびる。
そこまでを彼に伝えると、彼は腕を組みながら、うんうんと首を何度も縦に振って、それからため息を吐いた。
「なるほどなあ、こいつのアウトラインは大体わかったよ」と彼は言って、壁のレンガをコンコンッと後ろ手に叩いた。
「頑張る意味すら、虚しさに溺れてる」
そう言うと、彼はゆっくりうな垂れた。
彼は少なくとも何かの希望を持ってバベルにきたはずだ。妹の話もある。すべからく、ここでの生活の中で、その子への思いがよぎることもあるだろう。しかし、ここはそれすらも許してくれないかもしれない。過去や思い出に、現実を変える力はもうないのだから。
部屋を唯一照らす裸電球の弱々しい光が、僕らに影を落としていた。
「ところで、この石牢の中に本が読める場所はある?」と、彼は聞いてきた。
「本か?図書館ならこの第4層にあるらしいけど、僕は行ったことがない。場所は…そうだな、また誰かに聞いておくよ」
「いや、あると聞けただけで十分さ。あとは自分で探してみるよ。ありがたい話だなあ、こんなところで図書館に行けるなんてさ。俺、実は図書館初めてでさ。憧れてたんだよね」
「本が好きなのか?」
「いや、これから」
「これから?」
「好きになる」
「心意気は買うよ」
「確信してるからね」
「何を?」
「本が俺にくれるものを」
この口数の減らないやつが、余計な論理を振り回すようになるかもしれないと思うと寒気がした。
「腹が減ったな。とりあえず、飯にするか?」
そう言って、僕は彼を食事に誘った。ご飯を食べているときぐらいは、こいつも静かになるだろう。
僕らは宿舎を出て、東側にある街を目指した。そこにはレストランなどの飲食店が並び、僕ら労働者は配給時に配られる専用のチケットを使うことで、ここでの飲み食いが許されていた。普段は夜の決まった時間に食堂が空くので、労働者たちは滅多に使うことはない。しかし、奥まったところにある一件のカフェだけは別だ。昼間は閑散としたここも、夜には違った一面を見せる。僕らは中へ入ると、カウンターにいる白髪頭のお爺さんに声をかけた。
「どうもご無沙汰です。今日は空いてますか?」
「大丈夫、さあ、こちらへどうぞ」
そういうと、お爺さんは奥へと通してくれた。
薄暗いその部屋にはソファとローテーブルが4つあり、カウンターの後ろにある棚には、ウイスキーが並んでいた。夜にはバーとなるこのカフェの存在は、数万人いる労働者の間でもほとんど知られていない。
「こりゃあ良いや」と、カガリは呟く。
「入居祝い。同室になったのも何かの縁だ。よろしく頼む」
そう言って、僕はカガリにウイスキーを渡し、一気に喉奥へ流し込んだ。
カガリとの出会いが僕にとって何であったかは、正直わからない。けれど、彼は思い出させてくれた。それは僕らがいたはずの世界。空の下に広がる、果てしない海と大地。