表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

真犯人

 ――本当にこんな方法が巧くいくんだろうか・・?

 ラディオルは大きな不安を感じながら、電話ボックスのなかにいるリーシャに視線を向けていた。リーシャはハンカチを持った手を口に当てるようにして、受話器に向かって何やら話している。喋っている言葉は外にいるラディオルには全く聞こえてこないが、何を話すかは事前に教えられていたから聞こえていなくても内容は概ね分かっていた。しかし分かっているからこそ湧き上がってくる不安というものもある。果たしてこんな方法で巧くいくものだろうか。

 それでも彼女の会話を妨げようという気にはなれず、黙って静かにリーシャのことを見守っていると、しばらくして彼女は受話器を電話機に戻した。ラディオルの主観ではかなりの長電話だった通話はようやく終わったらしい。扉を開けて外に出てきたリーシャは硬い表情をしていたが、ラディオルに対しては、たぶんうまくいったと思う、と答えてきた。

「声の調子からするとね。確信はないけど、かなり動揺しているみたいだったから」

「電話だけでそれほどに追い詰められたのなら、見事としか言えないけどね」

 ラディオルは苦笑した。リーシャと並んで歩きながら、言葉をかける。二人がいるのは王都でも指折りの高級百貨店の店内だった。リーシャが使っていた電話ボックスはこの百貨店のエントランスホールにある。電話が使えるところは限られているとはいえ、なにもこれほど人目につきやすい場所で通話する必要はないのではないかとラディオルは思ったのだが、リーシャはあえてこの場所を選んだようだった。相手は自分の声など熟知しているのだから、電話だけで声の正体が露見してしまう危険をできるだけ小さくしたいのだという。百貨店のエントランスなら日常的に大勢の人々が行き交っているから、それらの雑踏の気配が程よい雑音となって自分の声を装飾してくれるのではないかと考えたらしい。どうせ買い物もしないといけないのだからここからかけたほうが都合がいいとも言っていた。それが最良の判断だったのかどうかは、ラディオルには分からない。そもそもこの方法自体がうまくいくかどうかと心配しているのに、判断の是非までは分からなかった。それでもラディオルは、リーシャの計画に協力することにした。協力を頼まれたのは昨日のことだったが、彼に否を唱えるべき理由はなかったからだ。マアラをなんとしてでも無事に見つけたいと願う気持ちを、彼は最初から偽ってなどいない。リーシャがそのために有効な方法を見つけたというのなら、それを助けるために動くことは彼にとって願ってもないことだった。

「――そういえば、リーシャさんが王立学院を卒業するのは、いつ頃のことになるのかな?」

 すでに買い物のほうは先に済ませている。それでラディオルがエントランスの回転扉を通りながらリーシャに話しかけると、リーシャは短く答えてきた。来年です。

「王立学院は四年制ですから。私は留年したこともないですし、準医になるつもりもありませんので」

 王立学院の学生は皆、入学してから四年後に卒業試験を迎える。留年することも休学することもなく、きちんと毎日欠かさず通学して、履修した科目全てに修了の証を貰い卒業試験に合格すれば、四年で卒業してそれぞれの道に進むことになっていた。医者を目指して実践医術を履修している学生の場合は、四年後に準医という、いわば医者見習いとして一年間、王都の医院で修業しなければならない期間があるために五年制となっているのだが、リーシャは実践医術は履修していない。基礎医術は必修の科目だから履修しているが、膨大な量の症例と治療法を学ばねばならない実践医術の履修は任意になっているのだ。実践医術は学生の負担が大きいため最初から医者を志して入学した学生以外に履修する者などいない。もちろんリーシャは医者を志してなどいなかった。

 リーシャがそういうと、ラディオルはなぜか感慨深そうな表情を浮かべてきた。来年か、と小さく呟いてくる。

「来年になればもう卒業なんだね。じゃあもう、リーシャさんは卒業したらどうするとか、そういうのは決めてるのかな?卒業したらどうしたいと考えてるの?」

 さあ。突然に訊ねられてリーシャは思わず苦笑してしまった。まだ決めてないですね、と正直に答える。

「何も決めてません。元々、私は高い志を掲げて王立学院を受験したわけではなかったですから。実践学校での成績が良かったから、なんとなく先生に勧められるままに入学試験を受けてしまいましたけど、特に、将来に目標や夢はないんです」

 本当のことだった。リーシャに将来の夢なんかない。そんなことは考えたことすらなかった。もちろんリーシャとて、大人になれば働かなければならないことぐらいは当然、認識しているが、そのためにしなければならない仕事というものを、自分の夢と置き換えて考えることはうまくできなかった。リーシャにとって、仕事というものは単に生きるために必要な金銭を稼ぐ手段だ。それ以上のものではなく、だからそこに夢や目標を見出そうとする行為の意味もよく分からない。将来の夢。夢とはいったいなんなのだろう。リーシャの両親も祖父母も、働くことに夢を抱いているふうには見えなかったのに。

「じゃあ、リーシャさんは、王立学院では具体的に何を学んでいたんだ?あそこは確か、必修以外の科目は学生が任意で履修する科目を選べるんだよね?目標がないんじゃ、科目なんて選びようがないんじゃないか?」

 よく知ってるな。リーシャは苦笑しながら、怪訝そうな表情を向けてくるラディオルを見やった。いちおう専門は法学、と答える。それ以外にはっきりと自ら学んだ、と断言できるものはなかった。

「最も集中的に学んでいたものが何かと問われたら、法学と答えますね。べつに法学に興味があったわけではないですけど、法学を学んだほうが、卒業後の進路の選択肢は多いですから」

 法学を学んだ学生のほとんどは、卒業すると官僚となって国に仕える道を選ぶ。そうでなければ裁判所に入って判事となるか、街で弁護士として開業するか、あるいは国政選挙に立候補して政治家になるための準備を始めるものだった。いずれも国を支えるべき職業であることから、王立学院の法学の授業は、医者を育てることになる実践医術の授業と並んで評価が厳しいといわれている。勉学自体も難しくて、修了するのは至難の業といわれていた。法学の授業では概ね、自国及び他国の法律の条文の解釈と運用の仕方を、過去の裁判の歴史で出た判例を通して学んでいくのだが、その分量が尋常のものではないからだ。覚えるべきこと、理解しておくべきことがあまりにも多くて、学生の負担が大きい。法律の授業は実践学校にもあるが、単にこの国の政治と経済の仕組みを学ぶにすぎない実践学校の授業など、王立学院の授業に比べれば遊びに等しかった。しかし苦労した分、将来の進路選択の幅が広がるのがこの科目の最大の利点でもある。少なくともリーシャはそう思ってこの科目を受講していた。王立学院で法学を修了したという実績があれば、まず職探しには困らない。実践医術を履修したら医者以外にはなれないが、法学を修了すればどの道にも進むことができる。それだけでリーシャは自分が学ぶ科目を決めたのだ。

「なのに、自分がどの道に進んだらいいか、まだ決心がつかなくて。それでいちおう、今のところは官僚を目指すことにしているんです。それが学生の常道ですから。けど正直にいえば、まだ迷ってますね。本当にそんな理由で官僚を目指してもいいのか、後悔はないのかと、どうしても思ってしまいますし」

 なんとも情けない有様だった。卒業を翌年に控えた今になっても進路に迷っている学生などリーシャくらいのものだろう。だがそれが紛れもないリーシャの本心なのだ。法学を学んだのだから官僚になれる。ならば外交官になりたい。なぜなら自分は異国語が得意だから。リーシャのなかにはそんな安易な考えしかなかった。だからこそ迷いがあるのだ。そんな安易な心構えしか持ち得ない者が、果たして国事を動かすような職に就いてもいいものだろうか。

「まだ迷いがあるなら、卒業までに他の道を模索してみてもいいんじゃないかな」

 ふいにラディオルの声が聞こえてきた。

「迷うことはいいことだと思うよ。それだけリーシャさんが、官僚という仕事を真剣に考えている証だから。たくさん悩んで、迷って、色々な道を模索してみるのが最良なことだと思う。卒業した後の進路なんだから、卒業の日までに決めればいいんじゃないかな?なら、まだ焦ることはないんじゃないかと思うよ。――そうだ。よかったらリーシャさんも国営放送局を受験してみないか?リーシャさんには、意外にジャーナリストとしての才能があるかもしれない」

「国営放送局?ラジオ局ですか?」

 思いもかけなかった提案をされて、リーシャは思わず訊き返してしまった。国営放送局の受験だなんて、ラディオルは自分にラジオのキャスターにでもなれというのだろうか。そう訊ねたが、するとラディオルは首を振ってきた。

「違うよ。ラジオじゃない。テレビのほうだ」

 知っているかな。もうすぐ開局するんだけど。

 付け足されてきた言葉にリーシャは頷いた。知らないわけではない。言われればすぐに思い当たるものがある。リーシャも噂にぐらいは聞いていた。近々、放送の主流であるラジオに並行するようにして、新たにテレビという新しい機械を使った放送が始まるらしいのだ。レイムなど、すでにそのテレビなる新しい機械を購入するつもりでいるらしい。リーシャには未だにそのテレビというものがどういうものなのかもよく分からないのだが、以前、レイムに詳しく教えられたことはあった。なんでも、ラジオでは出演者の声しか放送されなかったが、テレビでは出演者がそのまま目の前にいるような感じで放送されるようになるらしい。画期的なものらしいが、正直リーシャにはよく理解できなかった。画期的すぎて、巧く想像ができない。

「・・いちおう、噂ぐらいは、聞いてます」

 ラディオルは苦笑を浮かべた。

「噂だけか。そうだろうね。私もそんなに大したことは知らないから。たしか二年後だったと思うけど、それくらいから新しい放送が始まるんだよ。その放送を担うための国営放送局が、もうすぐ開局するんだ。テレビ放送を専門的に行うんだから、国営テレビ局と呼ぶべきなのかな?そこが今、来たるべきテレビの放送開始に向けてキャスターを募っていてね。それでリーシャさんがまだ卒業後の進路に迷っているのなら、試しに志願してみてはどうかと思ったんだよ。入局のためには試験があるんだけど、聞いた話じゃそんなに難しそうな感じはしなかったからね。志願してみて、やっぱりやりたくないと思ったらその時は辞退すればいいんだから」

 そんなに軽い気持ちで志願なんかしてもいいのか。リーシャはふと疑問に思ったが何も言うことはしなかった。ラディオルは善意から助言してくれただけだろうし、リーシャとて興味がないわけではなかったからだ。確かにリーシャとて、テレビに興味がないわけではない。画期的すぎて、未だ巧く理解も想像もできなくても、それは関心がないということとは一致しなかった。志願できるなら志願してみようかとも思うが、しかし躊躇がある。王立学院で法学を学んだ自分には、国を支える官僚にも、判事にも政治家にもなれる基盤があるのだ。実際リーシャはこれまでずっとそれを目指してきて、そのために勉学に励んできた。その基盤を全て捨てるほどの価値が、テレビのキャスターにはあるだろうかと思ってしまうのだ。試験を受けた後で、どうしても嫌になれば辞退できるとはいっても、それを考えているのなら最初から受験するべきではないだろう。

「あまり興味はなかったかな?」

 リーシャが何も言わずにいると、ラディオルはちょっと申し訳なさそうな表情をみせてきた。どうやら彼は、リーシャが興味のないことを話しかけられたせいで返答に困っていると解釈したらしい。

「だとしたらごめんね。つまんないことを長々と話してしまって。私の身近でも冷笑してる人間のほうが多いんだから、気にしなくていいよ。興味がないのが普通だから。ラジオだって高価で所有している人が少ないのに、それよりさらに高価なテレビが普及するなんて信じられないのが当たり前だからね。紙に印刷する新聞ならともかく、テレビは受像機がないと情報を受け取れないんだから、機械を持っていなければ放送が始まっても視聴できない。ならば普及なんかしないだろう。そして普及しなければ、国営放送局だっていずれは経営が破綻することが予測できる。ならばわざわざ高い受像機を買ったり、志願して国営放送局に入ったりするべきではない、そんなことをするのは愚か者のすることだ。少なくとも私の同輩は皆そう考えている。けどね」

 ラディオルはふいに真顔になった。極めて真剣な感じでリーシャを見つめてくる。

「私はそうは思わない。私はあの媒体は必ず大きく成長すると確信している。ラジオだって、放送が開始された頃に比べればその普及率には想像を超えるものがあるんだ。ラジオでそうなら、出演者の顔が見えるようになるテレビが普及しないはずがない。今はまだ放送開始前だし、受像機も高すぎて気軽に手に入れられる代物ではないから、誰もが普及なんかしないだろうと考えているけど、すぐにそんな考えこそが信じられないものになるはずだ。出演者の顔が見えるようになるということは、誰でも自宅にいながらにして、受像機の電源を入れるだけで舞台で歌う歌手や踊り子や、美しい女優たちの劇を楽しむことができるようになるんだからね。政治家が演説すれば、それを目の前で見ることもできるようになるかもしれない。自宅の居間が劇場にも議会の傍聴席にもなる機械に、富裕層が関心を持たないはずがないよ。放送が始まれば、間違いなく普及していくだろう。それこそ、ラジオなんか凌ぐ勢いでね」

 ラディオルはそれからも、テレビの将来について熱く語ってくれた。確かに、ラジオの普及には著しいものがある。国営放送局のキャスターともなれば、もはや簡単に就ける仕事でもなかった。今では国営放送局のキャスターは王立学院の出身者ばかりで占められていると聞いたことがあるし、リーシャの周囲にもあえて官僚にはならずラジオ局への就職を目指している者もいる。もしもラディオルの言うとおりにテレビが普及すれば、それに比例して社会における影響力だって高くなっていくだろう。そしてそうなってしまえば国営放送局のキャスターなんて簡単にはなれなくなるに違いない。国営放送局のキャスターを目指すなら、今がいちばん大きな好機なのだということはリーシャにも理解できた。今はまだ、テレビの放送も始まっておらず、認知度も低くて、いつまで続くものかと冷笑されている。それならば、キャスターの志願者も決して多くはないだろう。比較的楽に入局できるかもしれないだけでなく、いま入局すれば、開局から放送を担っていけるようになるのだ。志願するなら来年、卒業試験の年に志願したほうがいい。しかし――。

 リーシャの心からはなおも躊躇が消えなかった。テレビという先行きの不確かなものに自分の将来を委ねてしまうことには、どうしても抵抗がある。王立学院の卒業者という経歴があれば、たとえテレビがうまく普及しなかったとしてもその後の職探しには困らないし、外交官への道に進む機会は来年しかないわけではない。だがそんな挫折の末に外交官を志すつもりなら、最初から外交官を目指すべきではないのか。世間の噂や目先の興味だけで容易く自分の行くべき道を変えるのは、教養ある人間のするべきことではないはずだ。


 結局、リーシャはラディオルの助言に対しては、考えてみます以外のことを言えなかった。だからといって彼が特に気分を害したようには見えず、ラディオルはリーシャの大切な将来なんだからゆっくりと考えなさいと言ってくれる。それでリーシャはその言葉の通り、国営放送局のことはいったん忘れることにした。進路のことは、何もかも終わってからゆっくりと考えればいい。ラディオルはテレビの将来というものに大きな期待を抱いているらしく、それに賭けるつもりでもうすぐ試験を受けて、合格したら転職するつもりでいるそうだが、リーシャにはまだとても先のことまで考える余裕はなかった。授業だって、本当は充分に集中できる状況にない。リーシャの心は今やマアラのことだけで占められていた。マアラがどこに行ってしまったのか、本当に院長がマアラの作品を盗み、彼女を攫ったのか、それが明らかにならないうちは、他のことにまで考えが回りそうにない。

 リーシャは溜息をついた。前方に視線を向けてみる。まだ、呼び出した人物は姿を現さない。室内に漂っているのは静寂と暗闇だけだった。

 この部屋に来てから、もうけっこうな時間が経っている。時間が経てば経つほど、不安は強くなってきた。果たしてこんな方法で巧くいくのだろうかという思いも強くなってくる。ここに来た当初は漲っていた自信も、次第に萎えていくのが分かった。しかしリーシャに思いつく方法がこれしかないのも事実だった。院長がマアラの作品を盗んだことを証明することができない以上、リーシャが真相を知ろうと思えばどうにかして院長自身に語ってもらうしかない。

 リーシャがいるのは、かつて自分がマアラと一緒に暮らしていた孤児院の居室だった。リラナの計らいによって当時のままが保たれた部屋には、まだ至るところにマアラの私物が残されている。もはや見ているだけでも辛くなるこの部屋に、リーシャはリラナに頼んで今夜だけ密かに戻ることができたのだ。リーシャはこの部屋に院長を呼び出しているから、今夜はずっと、この部屋に留まり続けなければならない。

 ――来てくれるわよね?普通に考えれば、ありえない電話をかけたんだから。

 時間が経つほどに増してくる不安を鎮めるために、リーシャは心のなかで院長に向かって呼びかけた。リーシャはあの日、百貨店のエントランスからこの孤児院の院長室に電話をかけたのだ。番号は分からなかったがボックスの棚に備えられた電話帳を調べることで、難なく院長との通話は可能になった。それでリーシャはハンカチを使って自分の声色をごまかしながらマアラを装って電話したのだ。いかにもマアラが自分の作品を無断で盗用されて激怒しているというさまを演じ、そのことで話し合おうといって院長をこの部屋に呼び出した。そうすれば、院長は必ず部屋に来るだろうとリーシャは考えたのだ。もしも院長が盗作にもマアラの失踪にも真実、何の関係もないのならば、突然のマアラからの電話に驚愕することだろう。しかし何を言われているのか分からず、言葉の意味を問い質すためにここに来るはずだ。ディルム・エルファスの書物に院長の名前は記載されていないのだから、普通なら院長に盗作のことを抗議する電話をかけるはずがない。だが、もしも院長が本当に盗作にもマアラの失踪にも深く関与しているのならば、マアラからの突然の電話を院長は必ず不審に思うはずだ。ひょっとしたら、通話中からマアラの電話を誰か他人によるなりすまし電話と見抜いているかもしれない。院長がマアラを攫ったのが事実なら、マアラが今も行方不明であることからして現在、マアラが電話を使える状態にないことは容易に想像できるからだ。それなら、この世で最もそのことをよく知っているのは他ならぬ院長のはずだろう。マアラを攫った人間がいちばん、現在のマアラのことをよく知っているはずなのだから。

 それでリーシャは緊張しながら院長が部屋に入ってくるのを静かに待ち構えていた。院長は電話で要求したとおり、この部屋に来るだろうか。本当に院長がマアラの作品を盗んだのだろうか。そうだとしたら、院長はなにもかもリーシャに話してくれるだろうか。話してほしいとリーシャは思っていたが、一方でそんなことは起こり得ないでほしいとも思っていた。全ては自分の思い込みであってほしいと。なにもかもがラディオルの虚言であるならどれほどにいいだろうか。院長はリラナほど積極的に子供に関わってくれる人ではなかったが、自分やマアラにとって育ての親であることには変わりがないのだ。親が子を裏切っていただなんて考えたくもない。認めたくなかった。自分の推測が全て間違いであるなら、これほど喜ばしいことはない。だが実際のところ、リーシャは院長は関与しているはずだと思っている。たぶん、間違いないだろう。真実何も知らない人間が、電話で突然もたらされた理不尽な糾弾に、あれほどに動揺するとは思えなかった。

 自分の気持ちを持て余し、リーシャはひたすらに居室の扉を見つめ続ける。院長はなかなか来てくれず、ようやく扉のノブが動くのが見えた時には、かなり夜も更けた時刻になっていた。リーシャは息を呑んで徐々に開かれていく扉を見つめた。扉に掛け金などはかけていない。この部屋に入ろうと思えば、誰でも扉を開けることができる。

「いま部屋にいるのは誰かな?」

 扉が完全に開ききると、昔と少しも変わらない優しげな声が聞こえてきた。光がリーシャの視界を薙ぐ。灯りのない居室の暗さに慣れていると、ランプの灯りでもずいぶんと眩しく感じられた。しかしそれでもそのランプを提げて、部屋に入ってきたのが誰であるかはすぐに分かった。

「お久しぶりですね、院長先生。三年ぶりになるでしょうか。リーシャです」

 話しかけると、部屋の空気が微妙に変わった。緊張感が安堵を孕んだような、さらに警戒感を増したような、リーシャにはなんとも形容できない気配に変わり出す。

「・・リーシャ?リーシャがいるのか?いったいどうしたんだ?君がなぜここにいる?君はもう、ここは退所しているだろう?」

「勿論ですよ。今晩だけ、特別に副院長先生に頼んで入れてもらったんです。どうしても院長先生にお伺いしたいことがあったものですから」

 リーシャは冷静に応じた。マアラが院長にどんな目に遭わされたか知れないと思うと、向かい合って話すのにはかなりの勇気がいったが、必死で自分を奮い立たせた。恐怖はできる限り抑制しなければならない。怯んだ素振りなど見せれば、相手を優位に立たせてしまうだけだ。

「私に訊きたいこと?いったいなんだね?そういえば私の部屋に妙な電話がかかってきたんだが、あれはひょっとして君の仕業か?マアラは物語を書いていたがそれが盗まれた。それをしたのは私ではないかというものだったが」

「違うのですか?」

 リーシャは院長を見つめ返した。

「記者のラディオルさんは、作品は確かに院長先生から受け取ったと仰っていましたけれど。かつて盗まれた亡き母親の遺品が戻ってきたから返すと言われたって。その作品なんですよ、マアラの書いていた物語は。私はずっとマアラと同じ部屋で暮らしていましたから分かります。あの時は本当に驚きました。まさかマアラの作品が、ディルム・エルファスとかいう全然知らない他人の名前で出版されてるなんて、思いもよりませんでしたからね。最初はその人物が盗んだのだと考えていましたけれど、ラディオルさんの話を聞いて彼が悪いわけではないのではないかと思うようになりました。そもそも他人の作品であることを知らなかったのであれば、彼の行いは犯罪であるとまでは言えないからです。道義的には決して好ましいことではないでしょうが、作品が本当に遺品であるならば彼は所有権を有していますからね。自らが所有している作品を自らの手で発表することは不当なことではありません。この場合、非があるのは明らかにマアラの作品を盗み出して遺品と偽り、ラディオルさんに渡した人物です。つまり先生です。どうして先生はそんなことをしたんですか?なんのためにそんなことをしないといけなかったんです?」

「言っていることが、よく分からないな」

 院長は苦笑を浮かべていた。

「リーシャはいったい何を言いたいのかな?確かに私はラディオルに物語作品を渡しはしたが、それが何か問題のあることなのかね?問題はないはずだよ。間違いなく遺品だったのだからね。なぜその作品がマアラの作品だったことになるのかな?リーシャは何か思い違いをしているのではないかね」

「思い違いなんかしていません。あの作品は確かにマアラが書いていたものです。私が証人です。マアラが書いた物語の所有権は、当然のことながらマアラ自身にあります。ラディオルさんはマアラの親族であるそうですが、彼が作品を受け取った時点でマアラが生きていた以上、彼にマアラの意思なく作品を受け取ることはできません。にもかかわらず彼はマアラの作品を受け取っていた。ならば誰かがマアラからマアラの作品を盗んで、事実を偽って彼に渡していたんです。それができたのは先生しかいません。先生が盗んでいたんですよね?私はマアラ本人から、あの作品はまだ誰にも見せたことがないと聞いていますから。誰にも見せたことがない作品を他人に譲渡していたはずはないですし、先生がマアラの作品を持っていたというのなら、先生がマアラの作品を盗んでいたことになります。それ以外には考えられません。マアラはあの作品を読んだ自分以外の人間は、私だけだと認識していたのに、先生はその前にマアラの意思を無視して彼女の作品を盗んでいた。どうして先生は、そんなことをしたんですか?どうして盗んだ作品を、ラディオルさんに渡したんですか?」

 リーシャが言葉を切ると、室内には沈黙が漂った。院長は当惑したような表情をリーシャに向けてくる。

「ずいぶん人聞きの悪いことを言うようになったものだね。リーシャはさっきから私がマアラの作品を盗んだと繰り返しているが、いったいなにを証拠にそんなことをいうのかな?私は確かにラディオルに遺品を渡しはした。それは否定しないよ。事実だからね。しかし私はマアラの作品には全く触れていない。私は彼女が物語を書いていたことすら、今日まで知らなかったんだ、彼女の作品なんか盗みようがない。なのにどうしてリーシャは私が盗人のように考えるのだね?ラディオルの言葉のほうを私よりも信じているからか?彼の言葉はそれほどに信用できるものかね?たしかに彼はなかなかの好青年だが、人は口先だけでは容易く嘘が言えるものだよ。そう言った彼こそが、マアラの作品を盗んだ人物でないと、なぜ言えるのだ?」。

「そんなことは不可能です。私はラディオルさんがこの施設に戻ってきた日のことを今でもはっきりと覚えています。その日は私、ずっとこの部屋にいました。だから分かりますけど、彼はその日、そんな不審な行動はしていないんです。勿論、私だって一日中ずっとこの部屋に籠もっていたわけではないですけど、それでも彼が訪問していた時刻には私はずっとこの部屋にいたんですから確かです。王立学院の受験が迫っていましたからね、それで勉強に忙しくしていたんですよ。その日に限らず、あの頃はずっとそんな生活をしていましたから、長く勉強机の前から離れるようなことがあれば記憶に残っているはずです。私が部屋にいたのなら、たとえマアラがいなかったとしても彼にこの部屋に侵入して、何かを盗み出せるような隙はありません。実際、彼は私を撮るために部屋には来てくれても、すぐに帰っていきましたから。それ以降は一度も来ていません。おかげで当時の彼の様子の細かいところについては、今ではすっかり記憶も曖昧になってしまいましたけど、だからこそ自信をもって明言することができます。彼はマアラの作品を盗んでなんかいません。少しでも違和感のある行動を彼が見せていたら、私は絶対に見過ごしませんでした」

 断言すると、ふっ、と軽く笑うような気配が漂ってきた。

「饒舌になったものだね。君が小さい頃には、まさか大きくなってそれほどに口が回るようになるとは思ってもみなかったよ。君はここに来た頃、先生たちが心配になるぐらい無口でおとなしかったからね。立派に成長したものだが、推理力のほうは少々見当外れな伸び方をしたかな。君の推理は推理ではないよ。半分以上は想像だ。ラディオルに作品を盗む機会がなかったからといって即座に彼の言い分が全面的に正しくて、私が盗んだというのは推理としては飛躍しすぎではないかね?それは推理ではなくて空想だよ。空想を語るのなら紙の上で行いなさい。それだけすらすらと空想が語れるのなら、君はきっと素晴らしい物語を紡げるようになるだろう。翻訳家などやめて、君のほうこそ物語作家になってみてはどうかな?」

 リーシャは首を振った。

「私は空想なんか語っていません。事実をありのままに申し上げているだけです。マアラはかつてこの部屋で物語を書いていました。それが彼女のほとんど唯一の趣味であり特技であり、数少ない娯楽だったからです。しかもそれだけではありません。先生に作品を盗まれることさえなければ、作り上げた物語はそのまま退所してからの彼女の財産にもなったはずです。これからだってマアラはきっと、素晴らしい物語を紡いでいくことができました。なのにそれだけの才能を、先生は不当に奪ったんです」

 リーシャは足を踏み出し、院長に詰め寄った。

「先生がこの部屋で、マアラの作品を盗んだんでしょう?そしてそれを母親の遺品だとして、ラディオルさんに渡したんですよね?どうして先生はそんなことをしたんですか?しかも、マアラはその後でこの部屋から姿を消しています。それはどうしてですか?先生はマアラをいったいどうしたんですか?」

 院長の視線のいろが変化した。彼はリーシャに険のある視線を向けてくる。

「リーシャは、マアラが消えたのは私のせいだと言いたいのか?私が彼女を、どこかに攫ったのだと?」

 問いかけられたが、リーシャはあえて返答を返さなかった。無言のまま、見返すことで院長に自らの意思を伝える。すると院長は溜息をついてきた。

「なら、君はマアラはどこに行ったと考えているのかな?私があの子を攫ったとしたら、彼女はどこに行ったのだと?」

「それをお訊ねしたいから私は先生をわざわざこの部屋までお呼びしたんです。マアラを名乗って盗作のことを抗議すれば、きっと先生は来てくれると思いました。電話なら、身元を誤魔化すのは簡単ですし」

「呼び出せば私が何もかも話してくれると思ったのだな。面白いね、リーシャは。いや、心の優しい子に育ったねというべきなのかな。訊ねられて訊き返すというのも失礼かもしれないが、リーシャは私がそんなことを訊ねられて素直に話すと思ったのかね?落胆させるようなことをいうようで申し訳ないが、私でなくても誰でも、そんなことを訊かれて正直に話しはしないと思うよ。公になっていない犯罪を告白するなど愚かの極みだ。黙っていれば誰に責められることもないというのに、わざわざ話してもいいことはなにもないからね」

 院長は微笑んできた。気味の悪い笑みだった。口調は優しげなものだったが、それだけにいっそう表情との落差が大きい。リーシャは幽霊など信じていなかったが、こうして見ていると院長こそがまさに幽霊に見えた。彼の提げるランプの灯りに下から照らされた顔は、直視できないほどに気味が悪い。

 だがその気味の悪い笑顔から発された言葉は、ひとつの推測のリーシャに与えた。今の言葉でリーシャにはマアラがどこにいるのか、分かった気がする。こればかりは推測ではなく、ほとんど想像に近いが、たぶん間違いないだろう。リラナの考えていた通りだったのだ。

「先生の自宅ですか?」

 リーシャは思いついたばかりその推測を口にした。

「先生は自分の自宅にマアラを隠したんですか?黙っていれば誰に責められることもない、それはつまり、自分が黙っていればまず誰も気づかないところにマアラを隠したということですよね?そんなことがいちばん簡単に可能になる場所っていったら自宅じゃないんですか?自宅なら、住人の許可がない限り誰も無断で入ってくることはできませんからね。災害でも起きて自宅の建物自体が全壊するか、先生が犯罪でも犯して警察の家宅捜索でも受けない限りは安全です。ならば先生がマアラを隠したとすれば、先生の自宅が最も怪しい、ということになります」

 ほう。溜息の音が聞こえた。院長が目を見開いたのが見える。彼は感心したような表情をしていた。

「――驚いたな。やっぱりリーシャは賢いね。もうそんなことまで推理しているのか。素晴らしい洞察力だよ。さすが、僅か十二で王立学院に入学できただけのことはある。感心だ。けれどその頭の良さは、もう少し別の方向で発揮するべきだったのではないかな。そうすれば君はきっと、この国が誇る逸材として華々しく活躍できただろうに」

 リーシャは息を呑んだ。院長の言葉に何かを感じたのではない。言葉などではなく、もっと具体的な形で、リーシャは自分の身に迫った危機を感じ取った。服の上に、何か硬い感触を感じる。迂闊だったと思った。自分の推測と、院長との会話に注意を向けるあまり、院長の手の動きにまで、自分の意識は向いていなかった。

「おや、気づいてしまったかな?――ごめんね、脅かすような真似をして。けど知ってはいけないことを知ったリーシャも悪いんだよ。悪い子にはお仕置きしないとね」

 リーシャは咄嗟に言葉が出てこなかった。身体も動かない。いや、動かせても動かすべきではないかもしれない。いま身動きなどしたら、目の前の院長は、躊躇いなく引き金を引くだろう。

 院長は身体を硬直させたリーシャを見て余裕を感じたようだった。にこやかな微笑みを浮かべてくる。皮肉にも、かつて自分が見てきた院長のどの表情よりも、優しげに見えた。

「怖い?そうだろうね。――大丈夫だよ。可愛い教え子の、ちょっとした悪さだ。そんなに痛い思いはさせないから・・」

「先生。リーシャさんがいったい、どんな悪さをしたんですかね?」

 院長の言葉がふいに遮られた。別人の声が割って入り、院長の気が別の方向へ逸れたのを感じる。その隙にリーシャは院長の構えた銃口から離れるべく、素早く後退した。そして右足を振り上げて銃身を蹴り上げる。拳銃は、呆気なく院長の手を離れ、床にぶつかって鈍い音を立てた。

「・・リーシャさん、ずいぶん勇ましいね」

「王立学院は必修科目に体育がありますから。授業では女の子も武芸の基礎くらいは習いますし、これぐらいは普通です」

 リーシャは唖然とした様子のラディオルにそう応じてみせた。事実だった。王立学院の必修科目には体育がある。そこでは女性も武術を習うし、男性もダンスを習う。それは普通のことだった。

 ラディオルは居室に作りつけられた衣装棚のなかに隠れていた。長身の彼がこの部屋で密かに身を隠そうと思ったら衣装棚しかない。リーシャが居室で灯りをつけなかったのも、ラディオルの存在を考えてのことだった。室内が暗いほうが衣装棚の扉が僅かに開いているのが目立たなくてすむ。彼がそっと扉を開けて院長の声に耳をそばだてていても、気づかれにくいからだ。リーシャとしては正直、彼にそんなところに隠れてもらわねばならない必要などはなかったのだが、彼が自ら主張してそうなったのだ。メディレンでの短慮を謝罪し、今夜のことで協力を頼むためにリーシャがラディオルを訪ねた時、彼は自分の考えを聞くとそういってきた。あえて彼の意思を止める理由も必要もなかったから、リーシャは彼が日没とともに衣装棚に隠れるのを黙って見ていたのだが、内心ではなにもそこまでせずとも普通に自分の隣にいればいいのにと呆れていた。ラディオルによると、室内にいるのはリーシャ一人と思わせたほうが都合が良いらしい。自分と対峙しているのは見るからに小柄で非力そうな、自分もよく知っている女の子だと思えば、どんな人間も絶対に油断するからと。そんなものなのだろうか。リーシャはラディオルに院長との会話の内容を証明する立会人になってほしかったのに、姿を隠されては立ち会いにならないのではないかと思ったが、肝心の会話が引き出せなければ意味はないのだと思い直した。それさえできるのであれば、ラディオルのいる場所などどこでもいい。実際、リーシャが一人でいると思わせることで院長が先ほどのような脅迫めいた行動に出たのだとしたら、ラディオルの判断のほうが正しかったことになる。あの行為でリーシャの推測は裏付けられたからだ。マアラの失踪のことを追及されて脅すという行為に及んだということは、失踪に関与していることを暗に証明しているだろう。そうでないのならリーシャの言葉に対して名誉を毀損されたと怒りこそすれ、脅すようなことはしないはずだ。

「院長先生、先ほど先生がリーシャさんに仰ってたことなんですけどね、できればもうちょっと詳しいことを話してもらえませんか?それもここじゃなくて警察でお願いしたいんですけどね」

 ラディオルは院長の首筋に銃口を突きつけながら穏やかな口調で話していた。銃といっても、ラディオルが持っている拳銃は百貨店の玩具売り場で買ってきた子供用の玩具にすぎないのだが、暗闇が功を奏したのかそれとも感触だけでは分かりにくいのか、院長は銃口が本物でないことに気づいていないようだ。蒼白な顔で口を動かしている。

「・・ぐ、軍人でも警官でもない者が、拳銃など所持していいのか?」

「いい場合もありますよ。狩猟に用いるのでしたらね。警察の許可は必要になりますが」

 ラディオルは平然とした口調で嘯いた。さすがは記者。文字を操る職業の者は言葉を操ることにも長けているらしい。口八丁の出鱈目がすらすらと出てきている。リーシャは感心した。実際は猟師であっても軍人や警官でなければ銃の所持は認められていない。狩りへ携行していい道具は今でも弓矢に限られているのだ。

「――話していただけますよね?まあ、あまり気は進まないでしょうし、その気持ちも分からなくはないですが。警察で話すとなると、先生にとっては自然に自白という形になるんでしょうからね」

 ラディオルは少し首を傾げて淡々と訊ねていた。

「しかしそうしてくださるのでしたら、私としては非常に有り難いです。先生のことを知ろうと思えば、誰が何を調べるより、先生自身に語っていただくのがいちばん早いですから。すでに先生とリーシャさんとの、先ほどまでの会話は全て録音してありますし、録音テープがあれば、先生も今さら何も言わなかったことにはできないでしょう?」

 なに。院長が目を見開いた。咄嗟に身動いだように見えたが、首にラディオルが弾の出ない玩具の銃口をねじこんで脅すと、すぐに硬直したように動きを止めた。

「――ああ、動かないでください。大怪我しますよ」

 ラディオルの不穏な笑声が暗闇に響いた。それに怯えたのか院長が身動ぎをやめて身を硬くする。ラディオルはそれを確認するとリーシャに視線を送ってきた。リーシャは頷いて自分の上着の懐に手を入れる。なかから小型の機械を摑み出して、院長に見せるように軽く翳した。

「先生、これが録音機です。先生の声はこの機械で全て録音してあります」

 リーシャは小型の機械を翳しながら、にこやかに微笑んでみせた。

「今は便利ですよね。会話をそのまま会話として記録しておくことができるんですから。昔はそんなことをしようと思ったら、第三者が会話を聞きながら書き写していくしかなかったのに。おかげで私もとても助かりました。先生がさっき私を脅したことを、しっかりと記録に残しておくことができたんですから。これで先生がマアラの失踪に関与しているという有力な証拠を得ることができましたよ。そうですよね?先生が真実、マアラを攫ったりなどしていないというのであれば、私に対して怒ることはあっても脅すことはしないと思いますから」

 きちんと記録ができているという自信はなかったが、リーシャはあえてそう言っておいた。実際のところ、リーシャが会話の録音に成功している可能性は低い。リーシャが録音機に触れるのは今日が初めてだからだ。レイムに機械を貸してもらう時にいちおう使い方の練習はしたから間違った操作はしていないはずだが、音声が確実に収録されているという確信はなかった。ひょっとしたら、わざわざ百貨店まで買いに行ったテープは今も新品のままかもしれない。だからリーシャは院長には自分から警察に行ってマアラのことを話してほしかった。それならば、リーシャが録音テープ片手に告発するようなことをしなくてもよくなるからだ。

「――そうだな。確かに、そのとおりだろう」

 院長は力のない笑みをリーシャに向けてきた。

「そんなものまで用意していたとはね。録音機はそんなに安いものじゃないのに、意外だったよ。正直、リーシャがここまでするとは思っていなかった。マアラも君も、おとなしくて物静かということに関しては、象徴みたいな存在だったからね。油断していたよ」

 けどリーシャは油断したりはしていなかったんだな。付け足されてきた言葉は呟くようだった。

「リーシャはそんなことはなかったんだろう?私に対して、甘いことは考えていなかった。他人の公にはなっていない犯罪を追及するのなら、最悪、口封じのために殺されるかもしれないということまで想定していた。だから彼が銃まで用意してここにいるんだろう?」

 院長は一瞬だけ、ラディオルのほうに視線を向けたが、すぐに再びリーシャを見つめてきた。

「リーシャが彼を自分に協力させて、ここまでさせるほどに説得したのなら、もうこれ以上、私がここでマアラのことを否定しても、意味はないだろうね。・・分かった、話してあげるよ、マアラがどこへ行ってしまったのかをね。それもここじゃなくて、きちんと警察へ行ってから」

 だからそこまで案内してくれるかな?院長はそういって微笑んできた。先ほどまでのような、何もかも諦めたような力のない笑みでも、己の優位を確信した者だけが浮かべられる優しげな笑みでもない。心からの誠意のこもった微笑みのように見えた。リーシャには懐かしい笑みだった。小さい頃からずっと見てきた、優しい院長先生の笑顔だ、そう思った。あの頃の先生は、まだ完全にいなくなってしまったわけではなかったのだろうか。

 リーシャは頷いた。なぜだかそう思うと、言葉では言い表せないほどの安心感に包まれることができた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ