思わぬ味方
翌日、深夜になってからリーシャは孤児院を訪れていた。
完全に息が上がっていた。孤児院はレイムの邸からだと歩いて行くのは時間的にも体力的にも厳しいところに建っている。それでリーシャはアリシェイルに乞うて、彼女が所有している自転車を借りてここまでやってきたのだ。自転車を適当な名目をつけて借りることは何でもなかったが、決して近いとは言い難い距離を自転車で駆けるのは正直、しんどかった。思えばこの道は自動車でしか行き来したことがない。今日ほどあの自動車という機械の偉大さを思い知った日はなかったが、まさか今日もアリシェイルに送迎を頼むわけにはいかなかった。今日ここに来ることを、リーシャは誰にも言っていない。言えないのだ。来たことを知られるわけにはいかない。あくまでも秘密裏に来て、秘密のうちに帰らねばならなかった。そうでなければ最悪、レイムに叱られるだけでは済まないことになる。
――まさか、旦那様がラディオルさんの言葉を信じるなんて思わなかったわ。
リーシャはサドルに跨ったままハンドルを抱え込むようにして喘いでいた。夕方に交わしたレイムとの会話が、まだ耳に残っている。
リーシャは昨日、あれからすぐ駅に戻って、今朝早くに夜行列車で最寄り駅に帰り着いていた。ラディオルとは駅で別れ、邸に戻るとすぐにレイムに翻訳のことで相談があるから夕方に時間を空けてほしいと頼んだのだ。そして学院に向かい、どうにか間に合った通常どおりの授業を全て受講し終えてから、夕方になって約束どおり時間を空けて早めに帰宅してくれたレイムにこれまでの全てを報告した。するとその際にレイムが言ってきたのだ。その記者の言ったことはその場しのぎの嘘ではないかもしれないと。
「その院長がエリシアのディルム・エルファスと繋がっているとしたら、その話が真実ということもありえるのではないかな。自分の名前で出せば、万一盗作であることが明るみに出てしまった場合に全てが自分の罪になってしまう。しかし他人の名前で出していれば、そんなことにはならない。全てをその人物の責任にしてしまえるからね。例えばもしも、本物のディルム・エルファスがすでに失踪しているとかいう状況にあるのなら、本人の知らないところで院長が自分の知り合いを彼に成り代わらせて、ディルム・エルファスのふりをさせ、名前だけ騙ることもできたかもしれない。発覚しても、本物のディルム・エルファスがすでに失踪していて、彼の名前で勝手に他人の作品を出版していたのが別人なら、簡単に雲隠れしてしまえるからね。後に残るのは盗作の疑惑のある作家が一人、行方不明になっているという事実だけだ」
その記者からもっと詳しい話を聞いたほうがいいとレイムは言った。そして早急に弟に連絡をとるよう、その記者に要請するべきだと。盗作のことを訴えるかどうかを検討するのはその後でいい、先に本物のディルム・エルファスの所在を確認して、マアラを保護しなければならないとのことだった。レイムによると、もしも院長が本当にラディオルの言うとおり盗作に関与しているのなら、マアラの失踪にも関与している可能性が高く、そうであれば彼女がどこでどうしているか分からない状態で徒に院長を糾弾すれば彼女がどうなるか分からず迂闊に手が出せないらしい。マアラを確実に守ろうとするならば、法廷に問題の解決を委ねるよりも彼女を見つけて保護するのが先だということだった。そうすればマアラの安全も守れる上、決定的な証拠も握れるはずだから裁判には簡単に勝てると。
それでリーシャはわざわざこんな深夜に自転車をこいでまでここに来たのだ。マアラを攫ったのが院長かもしれないのならば、院長の身辺を探ればマアラに通じる手がかりが手に入るということでもある。そして院長の身辺を探ろうと思えば、孤児院に行くのがいちばんいい。無論、リーシャがこんなことしなくても、レイムが警察にマアラの捜索を急ぐよう要請をするだろうが、リーシャとしてはとても警察の捜査を悠長に待てる気分ではなかった。そもそも警察への捜索依頼はリラナが三年も前に行っている。その間ずっとマアラが見つからなかったことを思えばとても警察に期待はできなかった。マアラを見つけたいのなら、自分で探すべきだ。そのほうがきっと、早く見つけられるだろう。
リーシャは自転車を降りると、道端の草むらの目立たない辺りに自転車を運んで、鎖でしっかりと街路樹の幹に固定した。鎖には小さな錠前がつけられている。自転車は高価なものだから、路上に停めるときはこうしてきちんと鍵をかけておかないと盗まれる恐れがあった。借り物なのだから絶対にそれだけはあってはならないと、リーシャは錠が確かにかかっていることを確認してから自転車の傍を離れる。
辺りは暗闇に包まれていた。賑やかな街なかからは少し離れたところに建つ孤児院の周囲に、瓦斯や電気による街灯は少ない。手提げランプがなければ歩くのにも覚束ないような暗さに周囲は包まれていた。しかしリーシャはその暗さを苦にしてはいなかった。これぐらい暗くなければ、自分の目的を支障なく達することはできない。
リーシャは孤児院に向けて歩を進めていった。孤児院は建物の周囲にぐるりと庭が広がり、その庭を塀に守られた構造になっている。唯一出入りできる正門にも門扉が付けられて外部からの侵入を防ぐ役目を担ってはいたが、塀そのものの高さはとても低かった。だから乗り越えようと思えば、よほど小さな子供でもない限り誰でも容易くできる。昔はこの塀の上にさらに有刺鉄線が取り付けられていたらしいが、火災の際に救助や避難を妨げかねないとして役所に禁止されてしまい、早々に撤去されたということだった。それでリーシャは難なく塀を飛び越えて孤児院の前庭に入ることができた。
地面に足が着くとリーシャはすぐに建物のほうを窺ったが、誰かが出てくる気配はなかった。窓越しにランプの灯りが見えることもない。さすがにもう起きている者もいないのだろう。それで思わず安堵して庭の奥のほうへと歩き出した。決して足音を立てぬよう気を配りながら、慎重に歩を進めていく。基礎学校と実践学校の校舎でもある棟に面している中庭と違って、正門のある前庭は狭い。足音を忍ばせながら歩くとすぐに施設の外壁まで辿り着くことができた。どうにか無事に、誰にも見つかることなく侵入を果たすことができた。外壁のモルタルに手が触れると、安堵でいくぶん気が緩むのを感じる。
リーシャがここまでしてでも赴こうとしているのは院長室だった。そもそも院長の身辺を探るといっても、リーシャは院長のことを何も知らない。どういう人物で、どこに住んでいるのか、身内には誰がいるのかといったことすらも分からなかった。かろうじて院長がオーレンという名であることだけはリーシャも知っていたが、それだけの情報しかないのではどうしようもない。ならばまず、リーシャとしては院長がどういう人物であるのかということから調べ始めないといけなかった。それを調べようと思ったら院長室に行くしかリーシャには手段がない。あそこは院長が毎日必ず出入りする部屋だ。少なくともリーシャが在所していた頃はそうだったから、今もその習慣が院長にあるのならば、院長室には何か、院長の私的な部分に触れるものが、さらに期待するならマアラの行方を探る手がかりまでもが、残されているかもしれない。
そうであってほしいと、半ば祈るような気持ちでリーシャは外壁伝いに院長室の窓に近づいていった。出窓のように外に向けて張り出した窓は、背の低いリーシャでも楽に手が届く位置にある。窓を開けることができれば容易に侵入は可能だったが、残念なことに窓はしっかりと施錠されていた。外からでも鍵がかかっていることが確認できる。ここから部屋に入ることは不可能だった。さすがに硝子を割れば、音ですぐに気づかれてしまうだろう。入りこむことができても、ろくに調べる暇もなく見つかってしまっては意味がない。
もっともリーシャとて院長室の窓から入り込むなどということは考えていなかった。なにもそんなところから入らなくても、もっと見つかりにくくて楽に入り込める場所は他にある。在所している子供たちが密かに施設を抜け出す時に、出入りに使っていた場所だ。一階に居室のある子供たちは自室の窓から出入りできても、施設は三階建てなのだから二階にも三階にも子供たちの居室はある。その子たちはそういうわけにもいかず、それで夜遊びで無断外出する時は概ねどの子も使っていた出入り口だった。居室によっては窓の外の庭木を伝って出入りする者もいたが、五年前に枝が折れて転落し、大怪我を負った子供が出てからは、リーシャの知る限りその方法で抜け出した者はいなかった。
それでリーシャは院長室の窓を離れると、その秘密の出入り口まで忍び足で進んでいった。外壁伝いに庭を奥のほうまで歩いていくと、やがて目立たない辺りにひっそりと設けられた石造りの小屋のようなものに辿り着く。扉のないその小屋のなかに入ると、埃と古びた木材と紙の臭いがした。
リーシャが施設への侵入に利用しようとしているのは、この小屋の壁にある廃棄戸と呼ばれる小さな扉だった。ここは施設ででたごみを集めるごみ置き場で、壊れて使えなくなった古道具などを一時的に保管するために使う場所だ。リーシャが在所していた頃は月に一度、街の古物商が来てそういった古道具類をまとめて引き取っていた。古物商は廃棄された古道具のなかから換金できそうな金属片などを選別すると、残りを焼却するのだが、廃棄戸は施設で出たそうした古道具をこの小屋に投棄するために設けられているのだ。あの扉の向こうは施設の物置に繋がっている。掃除用具などを保管している部屋だから、物置の外にごみ置き場を設けて扉から直接、廃品を投棄できるようにしておけば、掃除の時に後片付けが楽にできるということなのかもしれない。
廃棄戸は小さくて目立たないから、内部で暮らしている者でなければ、この扉が施設のなかに直結しているだなんてまず気づかないだろう。だからこそ施設で暮らしている子供たちはこの扉に大きく注目したのだ。廃棄戸は人の出入りを想定していないから鍵もついておらず、リーシャが在所していた頃はこの扉を通っての夜間無断外出など当たり前のように行われていた。もっとも小さな扉だから、せいぜい十歳ぐらいまでの小さな子か、さもなければよほど小柄な子でもないとこの扉を使って出入りすることはできない。リーシャはそのことを知っていたから、廃棄戸の扉を開ける前に持参した定規で幅と高さを測ってみた。かなりきついが、なんとか今でもぎりぎりで通れそうだということを確認すると、静かに扉を開け、暗い物置を覗き込む。人の気配がしないことを確かめると、扉を大きく開けて懸垂の要領で身体を引き上げた。上半身を扉のなかに突っ込むと、壁を足で蹴って身体を室内に押し込む。上半身が入ってしまえば、後は容易い。腕を伸ばして床を匍匐するようにして全身を物置に入れてしまうと、リーシャはようやく立ち上がることができた。念のために扉を閉ざしてから、かつて頻繁に足を踏み入れた物置を突っ切り、扉を小さく開けて恐る恐る廊下に視線を投げる。
廊下には誰もいなかった。リーシャはそれを確認すると安堵感とともに廊下に滑り出た。物置の扉を音を立てずに閉ざすと、庭にいた時以上に足音を立てないよう気を遣いながら歩を進めていく。物置のあるこの廊下沿いには、院長室や応接室の他、書類整理室といったあまり子供には縁のない部屋が並んでいるため、日が沈んでしまえば人気もなくなるものだった。教師たちが寝泊まりする宿直室もこの廊下沿いにはないから、割と簡単に院長室まで行くことができるだろう。とはいえ勿論、気を緩めるわけにはいかない。日が沈めば近寄る者のいない区画とはいえ、施設のなかである以上、誰が何の目的で訪れるか、リーシャには予測がつけられない。
するとそうして慎重に行動したのがよかったのか、リーシャはなんとか無事に院長室まで辿り着くことができた。目指す扉の前に着くと、なんとなく緊張して取っ手を握る。意外なことに苦もなく取っ手は動いた。扉が開くとリーシャは思わずびくついてしまったが、室内から誰何する声は聞こえない。それで恐る恐る扉を開け、なかに灯火が灯っておらず室内が夜の闇に沈んでいることを確認すると、安心して室内に滑り込んだ。扉を閉めると、とりあえず手近の書棚に足を向ける。窓から射し込む月の明かりだけを頼りに、まずは書棚に並んだ書物や書類綴じの題字を読んでいった。何から調べるべきか、何を調べたほうがいいのかなどは分からなかったが、とりあえず教師名簿と書かれた書類綴じを手にとった。教師名簿と題されているからには施設の教師たちの名前が記されているはずだと思ったからだ。院長も、実践学校では簿記を教える教師だったから、名前等がここに記載されているかもしれない。ひょっとしたら名前だけでなく経歴や家族関係なども記入されているかもしれず、そうであれば有り難いと半ば期待を込めて表紙を開いたのだが、暗すぎて文字がよく見えなかった。それでリーシャは少しでも光を得ようと名簿を持ったまま月明かりの射し込む窓辺に歩み寄った。ランプに火を入れるわけにはいかないが、月の光だけでも充分明かりとして役に立つだろうと、硝子越しに入ってくる僅かな光に文字を当て、中の記載を読み取ろうと目を凝らしてみる。
だがその瞬間、ふいに背後に異質な気配を感じてリーシャの注意は拡散してしまった。
咄嗟に背後を振り返る。しかし一瞬遅かったらしい。完全に振り返ってしまう前にリーシャは誰かに背後から羽交い締められた。思わぬ事態にリーシャは恐慌してしまったが、だからといって悲鳴など上げられるはずもなく、ひたすら一人で自我が壊れそうなほどの恐怖と戦い、正体の知れない誰かの拘束を解こうと足掻いていると、急にリーシャを羽交い締めた誰かが、耳もとで問い質してきた。かなり驚いているような声音だった。
「・・あなた、まさかリーシャなの?どうしてこんなところにいるの?」
聞き覚えのある声だった。リラナの声だ。リーシャは唖然としてしまった。なぜ、リラナがこんなところにいるのだ。彼女はこの孤児院の副院長であり教師だ。こんなところで、深夜にランプも灯さずに暗闇に潜んでいる理由が分からない。いったい何をしているのだ。
「リラナ、先生?・・どうして――?」
問い返そうとしたが、それ以上の言葉を発することはできなかった。リラナがふいに慌てたようにリーシャの口を手で塞いできたからだ。リーシャは突然のことに声を上げることもできないまま、リラナによって背後に引きずられていった。僅かの間そのまま引きずられて、すぐに室内よりもさらに暗い、ほとんど闇に包まれたどこかへと連れ込まれた。
リラナはその間も終始無言だった。極力音も立てないようにしているらしい。それで静寂のなか、リーシャの耳にもどこかで響いてきた物音ははっきりと聞こえてくることになった。誰かの足音だ。リーシャはすぐに音の正体を理解した。誰かが廊下を歩いている。この部屋に近づいてきている。
その音にリーシャが我知らず息を詰めていると、しばらくしてかちり、と音がして扉が開く音が聞こえてきた。音がするとすぐに、リーシャの目の前に異様に明るい光が差し込んでくる。思わず瞬いてしまったが、それでその光が電気の光で、院長室には電気がきていることが理解できた。今まで全く気づいていなかったが、院長室には電灯というものが設置されていたらしい。なんとなく理不尽に思った。そんな場合ではないと知っているが、自分が在所していた頃、子供たちは居室ではずっとランプを使っていたのだ。
室内を歩きまわっているのはどうやら一人のようだった。姿は見えないが、気配と物音でそのことは感じられる。誰がいるのか分からないことで、リーシャは生きた心地がしなかった。いま自分が室内のどこにいるのか分からないが、いま見つかったら全てが破滅しかねない。いや、すでに破滅しているのか。リーシャは思い直した。リラナが自分を捕らえているのに、このまま逃げられるなんてことはないだろう。リラナは穏やかな人柄の優しい教師だったが、こういった悪さに甘い人物ではなかったからだ。
リラナがリーシャを抱きかかえる腕に力を込めてきた。強い力に全身が緊張するのを感じる。しかしリラナはなかなかそれ以上動こうとはしてこなかった。なぜか、リラナもまたリーシャ同様に息を詰めているように感じられる。ふいにリーシャは訝しく思った。どうしてリラナは不法に侵入してきたかつての教え子を、光の下に引きずり出そうとしないのだろう。彼女なら、そうして当然のはずなのに。
疑問を弄んでいると、しばらくして眩しいほどに輝いていた電気の光がふいに消えた。視界は再び、というより前よりも暗くなったような気のする闇に包まれる。光の消失とほぼ同時に扉が開いて閉じる音も聞こえてきた。どうやら室内に入ってきた誰かは、リーシャとリラナの存在に気づかなかったらしい。廊下を歩き去っていく足音が響くと、溜息をつくような音がリーシャの背後で響いてきた。
「――行ったみたいね」
囁き声も聞こえてくる。背を押されるような感触もした。どうやらリラナはリーシャを連れて再び院長室に戻ろうとしているらしい。未だ背後から羽交い締められたままになっていたため、リーシャはなす術もなくリラナに押されるままに歩いたが、室内に戻るとようやくリーシャは身体の自由を取り戻すことができた。しかしリラナはなおも、視線だけはリーシャから離そうとせず、それでリーシャは、院長室の暗闇のなかでリラナと向き合うことになってしまった。
リラナは険しい目で、リーシャを見つめてきていた。鋭い眼光は、月の光だけが射し込む闇のなかで見ると、いっそうの迫力がある。
「リーシャ、いったいどうしてこんなところにいるの?」
「それ、私も訊いていいですか?先生。先生こそ、この部屋でいったい、何をなさっておられたんですか?」
リーシャもリラナを見つめ返した。どう考えても、リラナが当たり前な用事でこの部屋にいるとは思えなかった。そのことはリーシャにも推測ができる。リーシャは壁際に視線を向けた。そこにはレイムの邸にあるような電話機が据え置かれていた。暗くて見えづらいが、月明かりに僅かに浮かび上がる影で電話機だと分かる。自分がリラナに引きずり込まれた暗い場所は、あの電話機の裏側だろう。他に考えられる場所はなかった。電気を使わないと動かない機械というものは皆、コードという頑丈な紐のようなものを壁のコンセントに差し込まなければ使えないため、壁に密着させて設置することができない。ならば必然的に隙間が生まれるものであり、そこに隠れようと思えば可能なはずだった。特に電話機は大きいし、院長室の電話機はレイムの家同様に電話帳らしき本を収納した棚の上に置いてある。しかも電話機の隣には、レコードらしいものを収納した飾り棚と、同じくレイムが所有しているような豪華なステレオもあった。ステレオと電話機、それに飾り棚が並んでいれば、人間の二人くらい隠れるのは容易だったことだろう。リーシャが院長室に入った時に誰もいないように見えたのも、リラナがさっきと同じようにそれらの裏側に隠れていたからに違いない。だがなぜ、リラナにそんなふうに人目を気にしなければならない必要があるのだ。彼女はここの教師で、しかも副院長だ。施設の教師が、施設の院長の部屋を訪ねることを、それほどに憚らねばならない理由が分からない。
「――私は・・」
リーシャが詰問すると、リラナは急に口籠もってしまった。何かを言いかけたように見えても、すぐに口を閉ざしてしまう。まるでリーシャと話をすることを躊躇しているようにも見えた。
しかし彼女はすぐにその躊躇を振り払ったようだった。突然のようにリーシャの腕を摑むと、こっちに来て、と囁いてくる。表情には決意のようなものが満ちていた。何の迷いも感じている様子はなかった。
「そのこと、私の部屋で話したいわ。私にも、リーシャに訊きたいことがあるの。部屋に来てもらえる?今夜会えて本当に良かったわ」
親しげな口調だった。しかし響きには有無を言わせぬものがある。リーシャにとっては頼まれるというより命令されるに近い感じで、思わず怯んでしまった。かつて、ここで暮らしていた頃の記憶が甦ってくる。子供の頃、こんなふうに言われてリラナの部屋に行かされる理由は一つしかなかった。悪さをして叱られる時だけだ。リラナは他の教師たちとは違って、何があっても子供を体罰で懲らしめるようなことだけは決してしてこなかったが、それでも叱られると分かっていて部屋に行くのには恐怖しか感じない。ましてや今夜のリーシャの行為は、叱責では済まない種類のことだ。
それで咄嗟に腕を引かれる力に抵抗してしまった。リラナはリーシャの反射的な行動の意味が分からなかったのか、戸惑ったような表情を浮かべている。しかしそれは一瞬のことだった。すぐにリラナはリーシャの心情を察したらしく、まるで安心させるように微笑んでくる。そっと抱き寄せられて、宥めるように言葉をかけられた。
「――大丈夫よ。私はリーシャを、警察に突き出したりはしないから」
もっとも信用はしないかもしれないけどね。
付け足された言葉はまるで自嘲するようだった。リラナは苦笑した気配を漂わせながら、リーシャの髪を撫でている。
「それでもそれだけは約束してあげる。だから私の部屋に来てほしいの」
リーシャも、マアラの失踪には院長先生が関与していると考えているんでしょう?
断言だった。問いかけられるように訊ねられても、リーシャの耳にはそのようにしか聞こえなかった。リーシャは目を見開いた。ふいに自分の耳のなかに直接、自分の抱いた疑惑が落としこまれてきたように感じられる。リラナも、自分と同じことを考えているのだろうか。意外に思えた。前に会った時は、彼女はマアラの行方のことなど全く見当もついていないというふうに見えたのに。
「私が訊きたいのはそのことよ。リーシャの不利になるようなことだけは、絶対にしないから」
重ねて言われて、リーシャは頷いた。気づいた時には抵抗するのをやめ、リラナの動きに、自分の動きを合わせていた。
リーシャはリラナに導かれるままに院長室を出ると、そのまま彼女の私室に向かった。リラナはリーシャが入所した頃にはすでにこの施設に住み込んでいて、リーシャの知る限りずっと子供たちと居住を共にしていた。院長を含めた他の教師たちが宿直の時以外は自宅に帰るのとは対照的で、小さい頃はなんとも思っていなかったが、大きくなって社会のことが分かるようになると、そのことでリラナの子供たちに対する思い入れの深さが感じ取れるようになった。彼女がここに住み込んでいるのは、彼女なりの子供たちに対する愛情の表れなのだ。子供たちにいつ何が起きても迅速に対応できるように、きっと彼女はここを自らの住まいに定めたのだろう。
「時間も遅いから、充分なもてなしはしてあげられないけど、適当に座ってちょうだいね」
リラナの私室に入ると、彼女に促されてリーシャは室内に据え置かれた長椅子に腰を下ろした。そこしか座れそうな場所がなかったからだ。リラナはその間に火鉢の種火を掻き起こして鉄瓶で湯を沸かす準備をすると、自らは書き物机から椅子を引き出してきてそこに腰を下ろす。
「せめてお茶でも淹れてあげたいけど、お湯が沸くまでもう少し待ってちょうだい。――リーシャは院長先生のことをどんなふうに思ってる?」
リラナはまっすぐにリーシャに視線を向けてきた。どう答えようかとリーシャが考えを廻らせていると、リラナは溜息をついてくる。
「うまく言えない?――そうかもしれないわね。私もそうだから。私もどう考えていいか分からないもの。マアラがいなくなったのは、院長先生が攫ったかもしれないだなんてね」
「待ってください。先生はどうしてそう思われたんですか?」
リーシャは思わずリラナの言葉を遮ってしまった。リラナはどうしてそういう結論に達することができたのだろう。院長がマアラの作品を盗んだかもしれないという疑惑に、推測や想像だけで辿り着くことは不可能なはずだ。そんなことは予想もできないことだし、その疑惑を前提に据えなければ、院長がマアラを攫ったかもしれないという仮定に到達することもないように思える。リラナはどうやってその結論を導き出したのだ。
リーシャの心にはその疑問が激しく渦巻いていたが、リラナにとってはなんら不思議なことではなかったらしい。特に思い出すような素振りもみせずあっさりと、聞かされたのだと答えてきた。
「ラディオルにね。七日ぐらい前のことだったかしら。彼がここに来て話してくれたのよ。マアラの失踪には院長が関与しているんじゃないかってね。ラディオルのことは知っているでしょう?彼が施設にいたのはずいぶん昔のことだけど、ここに来た時にリーシャに聞いた話で何もかも悟ったと言っていたから。彼女のおかげで自分の行為がとんでもない過ちだったのだと理解することができたってね」
「ラディオルさんが――?」
リーシャは驚いた。七日ぐらい前ということは、ラディオルは自分にメディレン行きをもちかけてきた頃にここを訪ねていたことになる。彼はその時すでに、リラナに対して自分に話したのと同じ話をしていたのか。では、あの話は真実だったのだろうか。レイムの言ったとおり、彼が口にした言葉はその場しのぎの嘘ではなかったのか。だとしたら、自分はどう考えるべきなのだろう。ラディオルの言葉を、全面的に信じたほうがいいのだろうか。
「それで私はその日からそれとなく院長先生の近辺を調べてみることにしたわ。いくら彼の言葉でも、さすがにすぐには信じられなかったのよ。マアラが誘拐されていて、しかもその犯人が院長先生だというのはね。信じられないというより、考えたくもなかった。孤児院の院長が入所している子供を危険にさらすなんて、いちばんあってはならないことよ。けどそれが事実なら、そのことはなんとしてでも明らかにして、マアラを助けないといけないわ。もちろん、警察には連絡したけど、他人が調べてくれるのを待っているだけの暮らしっていうのは、もういい加減に嫌気がさしていたから、それで院長室にいたの。私には、院長室に保管されているはずの緊急連絡簿を見ないと院長先生がどこに住んでいるかも分からないから、警戒されないよう夜中のうちに密かに調べて、明るくなってから院長先生の自宅に行くつもりだった。そうすればすぐに、マアラは見つかると思ったのよ。一人の人間を、三年間も密かに隠しておける場所なんてそうそうあるものじゃないでしょう?だから緊急連絡簿を見れば、それで全てが解決すると思ったわ。まさかその前に、リーシャが来るなんて思ってもみなかったけど」
来たのがリーシャだと分かっていたら、窓の外で物音がしたからといって、急いで隠れる必要もなかったんだけどね。
リラナの口調は終始淡々としていた。彼女はただ事実だけを述べているようだったが、リーシャの頭は彼女ほどあっさりと物事を考えることができなかった。呆然としていた。まさかリラナが、自分と同じようなことを考えて、しかもそれを実行に移していたとは思わなかったのだ。
「――じゃあ、先生はラディオルさんのいうことは、全て真実だと考えているんですね?」
念のために確認してみると、リラナは怪訝そうにしてきた。
「勿論よ。リーシャは全てが彼の虚言だと思っているの?そんなことはないと思うわよ。彼がこのことで私に嘘がつけるところはないはずだから。私は彼の言ってきたことは全部、この目で見てきて知っているもの。昔、教師が子供たちの資産を横領していた事件のことも、彼がその際に奪われたと言われていたお母様の遺品を受け取るために施設に戻ってきたことがあったのも知っているわ。彼が受け取った遺品が何であったのかも知ってる。彼の言葉には、信じられないことはあっても納得できないことは何もなかったから」
信じられないことはあっても納得できないことはなかった。今度はリラナの言葉も、リーシャの胸の内に静かに滲み込んできた。ひょっとしたらリーシャは自分でも気づかぬ無意識のうちに、ラディオルの言葉は真実を表したものであると信じていたのかもしれない。たとえそれが自分の願望にすぎなかったとしても、そう信じたかったのだ。どれほど関わりが薄かったとしても、マアラの親族が、マアラの才能を奪うような真似をしたなどとは、思いたくなかった。
――ねえ、リーシャ、やっと新作が書き上がったのよ。読んでみる?
ふいにマアラの面影が、心の奥に甦ってきた。かつて同じ部屋に暮らし、ともに学んでいた頃の彼女の声が甦ってくる。人知れず消されてしまった声だ。誰にも知られることなく、気づかれることなく消されてしまった声。もしもリーシャがレイムから翻訳を任されることがなかったら、今も誰も気づいていなかったかもしれない。彼女の才能が、不当に奪われていたことにも。彼女の存在そのものが、人知れず失われていたことにも。
そんなこと、あっていいはずがなかった。一人の人間が、誰にも知られることなく存在そのものを消されるなど、許されていいことではない。
リーシャは静かに決意を込めた。
「先生。お願いしたいことがあります」