メディレンへ
「リーシャが私を訪ねてきてくれるなんて思わなかったわ。本当に久しぶりね。元気にしてた?」
そういって笑顔でリーシャに紅茶を給仕してくれた女性はアミィだった。アミィはリーシャの向かいにある長椅子に腰を下ろし、親しげな微笑みを向けてくる。
「リーシャが来てくれたのは本当に突然のことだったから、たいしたものは何も用意できないんだけど、良かったらこれも食べて。昨日、近所の店で買ったものの余りなんか出して悪いけど、ここのクッキー、すごく美味しいから」
「ありがとう。――ねえ、アミィ。アミィは私が退所した後もあの孤児院にいたでしょ?私が出た後、マアラはどんな様子にしていた?」
勧められて、リーシャは卓上の皿に手を伸ばしながら、アミィにそう話しかけた。皿の上には、確かに美味しそうな色合いに焼き上げられたクッキーが綺麗に盛りつけられている。
リーシャがいるのはアミィの自宅だった。彼女は今、王立学院からも程近いところにある医院で看護婦をしている。アミィも元々は女医を目指して王立学院への入学を志していたのだが、彼女はリーシャと違い、入学試験に合格できなかったために看護婦の職に就く道を選んだのだ。医者になるためには王立学院に入学して基礎医術と実践医術を履修しなければならない。故に王立学院に入学できなければその道は諦めざるをえないのだ。
アミィはリーシャの問いかけに首を傾げてみせた。
「マアラ?マアラならリーシャが出た後も元気にしてたけど・・。せっかくリーシャが自分から私のところに来てくれたっていうのに、何も彼女のことを最初に話題にしなくてもいいんじゃない?」
アミィは僅かに不満そうな表情をした。
「ごめんなさい。けど私、どうしてもマアラに会わないといけない事情ができちゃって。なのに孤児院に行ったらマアラは行方不明って言われたから。せめていなくなる前にマアラがどんな様子だったか知りたいの。それが分かれば、少しでも、マアラを捜す手がかりになるかもしれないから」
自分が去った後、マアラがどんな暮らしをしていたのかリーシャに知る手段はなかった。だからリーシャには誰がマアラの作品を盗んだのかなど推測すらできない。そのために必要な情報が絶対的に足りないのだ。ならばまず、リーシャとしてはマアラが失踪するまでどんな様子でいたのかから知る必要がある。特にマアラが失踪する直前の施設の状況が分かれば、それは重大な手がかりになった。しかしそうしたことを知ろうと思ったら、リーシャには自分が退所した後も孤児院にいて、今はすでにあの施設を出ている者に会いに行くことぐらいしかできないのだ。マアラを連れ去ったのが施設の誰かかもしれないとなると、迂闊に施設の者に訊ねに行くわけにもいかなくなる。けどすでに施設を出た人間で、自分の訪問にも普通に応対してくれる人間なら、マアラの失踪には関与していないのではと思えた。もしも関与していたらリーシャが訪ねてきてマアラの名前を出した時点で、多忙を理由に会うことを拒否してくるだろう。マアラのことで何か、後ろ暗いことがあれば、そのマアラのことを訊ねてきたリーシャに対して、平然としてはいられないはずだ。そのはずだと、そう信じたいだけかもしれないが。
それでリーシャは孤児院で暮らしていた頃の親友であるアミィと会うことにしたのだ。彼女はリーシャが退所した翌年に、十八の成人を迎えて施設を出た人間で、在所していた頃は自分やマアラとも親しくしていた。マアラが失踪した当時、施設にいて当時のことを知っている人間でもある。施設にいた頃に親しかった友人ならリーシャには他にも幾人かいるのだが、すでに退所している者はアミィも含めて三人しかいないのだ。しかもそのうちの二人はマアラが失踪する前に退所していて有益な話は聞けそうにない。それ以外の友人たちは皆、自分よりも年下でまだ施設に在所している。 しかしアミィは、リーシャの言葉に対して申し訳なさそうな顔をしてきた。
「うーん、マアラに特に変わった様子はなかったと思うんだけどなあ。別に誰かと揉めてたってこともなかったはずだし。塞いでたようにも見えなかったし。私じゃなくても誰に訊いても同じだと思うんだよね。だって、何か目立った異変があったなら絶対、リラナが放っておかなかったはずだもの」
アミィは昔を思い出すような遠い目をした。
「マアラはね、本当に突然、消えたのよ。前の晩の夕食の時には普通にしてたと思う。なのに翌日の朝食の時にはもういなかったの。時間になっても食堂に下りてこなくて、それでリラナが部屋を見に行ったら部屋にもいなかったんだと言われたわ。窓が開いてて服も靴もなかったから、最初は無断外出だろうって話になったけど、日が変わっても帰ってこなかったから先生たちが血相を変えてね。特にリラナがすごい心配してた。そういえば新聞の記事にもなったのよね、小さかったけど。ラジオでも流れたわ。聞いてない?」
リーシャは頷いた。するとアミィも頷いてくる。
「ラジオでもほんのちょっとしか流れなかったからね。聞き漏らしても無理はないか。私もリラナがラジオ局行ったって聞かなかったら、そんなに注意して聞かなかったし、絶対に聞き漏らしたと思うもの」
アミィは溜息をついた。
「悪いけど、マアラのことで私に分かることなんて本当にこれぐらいしかないわ。私より詳しく分かる人っていうと・・誰だろう?リラナかな。リラナはマアラのことで警察とか新聞社とか廻ってたから、マアラの捜索がどの程度まで進んだのかとか、そういったことも聞いてるかもしれない。けどリラナもきっと、私とそんなに差はないと思うんだよね。だってなにか大きな進展があったのなら、リラナはきっとすぐに私たちにも教えてくれてたと思うから。新聞にだって続報が載ったはずだし、けどそんなことは何もなかったもの。メディレンにだって、結局行ってなかったらしいし」
「メディレン?」
ふいに出てきた地名に、リーシャの注意は喚起された。
「メディレンって、あの街がどうしたの?マアラと何か、関係があるの?」
マアラはメディレンには行っていなかった。リーシャの意識にはアミィのその言葉が引っかかっていた。アミィの今の言葉はいったいどういう意味だろう。マアラはメディレンには行っていなかったという結論が出るためには、失踪したマアラがメディレンに行くかもしれないという仮定が必要なはずだ。ではなぜそんな仮定が出てきたのだろう。メディレンは王都の外れに位置する辺境の街だが、その街がいったいマアラとどんな関係にあるというのだ。
「何もないわよ。けど当時、ちょっと変な噂が流れてね。マアラはメディレンに行ったんじゃないかって噂だったんだけど、リラナが真に受けて、メディレンまで捜しに行ったの。結局見つからなかったみたいだから、やっぱりデマだったのね」
アミィは肩を竦めてみせた。なんでもないことのように彼女は言っていたが、リーシャにとっては捨て置けない言葉だった。そんな話は初めて聞いた。
「噂って、いったいどんな噂が流れてたの?」
「リーシャが気にするようなことじゃないよ。デマだもん。本当だったらとっくにマアラ、見つかってたはずだし」
「デマだったとしても気になるの。マアラの行き先を暗示するような噂なら、ぜんぶ知っておきたいわ」
「聞いたって意味ないと思うんだけどなあ。――マアラは駆け落ちしたんじゃないかって噂よ」
「か、駆け落ち?」
リーシャは思わず訊き返していた。思いもかけなかった言葉だった。咄嗟にどう考えていいのかすら分からない。
「駆け落ちって、マアラが?いったい誰と駆け落ちしたっていうの?マアラには身寄りなんていないはずでしょ?それでどうして駆け落ちなんかしなくちゃいけないの?」
「だから下らないデマだって。リーシャまで真に受けなくていいよ。どうせ全部作り話なんだから」
「なら、どうしてそんな作り話が流布していたの?なんでマアラはメディレンまで誰かと駆け落ちしたなんて話になったの?そんなふうに疑われるような相手が、マアラにはいたの?」
もしもいたのならそれは極めて重大な事実だとリーシャは思った。いなくなってすぐ駆け落ちを疑われるほど親しい誰かを、マアラが外部に持っていたのなら、その人物はマアラの失踪にも関与しているかもしれないからだ。
それでリーシャは期待を込めてアミィに話の続きをねだったのだが、対するアミィは呆れたような眼差しをこちらに向けてきた。
「――根拠のないデマをそんなに真剣に受け止めるなんて、なんかいつも論理的だったリーシャらしくない。・・まあ、いいか。リーシャは覚えてる?四年くらい前に孤児院を訪ねてきた、写真師のこと」
「写真師?勿論、覚えてるけど・・」
リーシャは予想もしえなかった人物のことを突然訊ねられて戸惑ってしまった。言われれば記憶を探るまでもなくすぐに思い当たる人物が出てくるものの、名前も分からず顔も、今となっては朧にしか思い出せない。しかし簡単に忘れられるような人物ではなかった。写真師なんて特殊な職業の人間が、それほど多くはないせいだけではない。今のところ、リーシャの写真を撮ってくれた唯一の人物だからだ。今でも、あの時の写真を眺めるたびに当時のことが思い出されてくる。
「その人がどうしたの?確か、院長先生の知人か何かだったと思うけど」
その人がマアラの相手。アミィは断言した。しかし全く信じていなさそうな口調だった。
「あの頃ね、その写真師の人とマアラが、ちょっと親しげに話してたのを見た子がいたのよ。私は見てないんだけど、その子がそれで色々と憶測したみたいでね。マアラが消えてすぐ、その子が実はマアラはあの写真師と親密な関係にあるんじゃないかって言い出したわけ。マアラはその人と一緒になるために施設を抜け出したんじゃないかって推論よ。そんなことないだろうって私は思ったけどね。マアラももう退所を間近に控えてたんだから、関係が事実だったとしてもそんな夜逃げみたいな真似をする必要なんてないわけだし。けど実際、親しく話していたのは事実だったみたい。なんでもあの写真師、メディレンの出身でマアラと同郷だったらしいんだよね。それでその誼で少し打ち解けてたんじゃないかってリラナが言ってた。だからリラナ、念のためってことで一度、わざわざメディレンまで捜しに行ったのよ。結局見つからなかったんだけど」
「――なるほど。それで君はうちに所属している写真師のことが知りたいんだね?」
「はい。特にメディレンに出自のある方がいらっしゃれば、是非とも教えていただきたいです。無理でしょうか?」
リーシャはアミィの自宅を辞去すると、そのまままっすぐに昨日も訪ねた新聞社を再び訪れていた。写真師がいるところといえば、街の写真スタジオか新聞社ぐらいしかない。よほどの富豪であれば個人でも写真機を持っていることは考えられるが、あのとき孤児院を訪ねてきた写真師がメディレンのような辺境の街の出身で、なおかつ院長の知人となると、その可能性は低いように思われた。ならば写真スタジオと新聞社の双方を調べれば、必ず、あの時の写真師がどこの誰だったか分かるはずだろう。そう信じたかった。万一にもあの写真師が写真師ではなく単に個人で写真機を所有しているだけの人物だった場合、リーシャではあの写真師が誰かなど調べられない。それではせっかくのマアラに繋がるかもしれない手がかりが消えてしまう。リーシャとしてはマアラを見つけるためにも、マアラが僅かでも親しくしていたという人物が院外にいるのならば、ぜひ訪ねておきたいのだ。
それでリーシャはもういちどラディオルに会ってみようと思った。写真スタジオのほうなら確かめることは容易い。また国立図書館にでも行って地図を閲覧すればいいのだから。写真スタジオの数は、王都といえどそれほど多くない。一軒ずつ訪ねていけば在籍している写真師が自分の記憶の中に存在している人物かどうかぐらい識別できるだろう。しかし新聞社のほうはそれほど容易くはいかないのだ。新聞社の写真師は、写真スタジオのように客を装って訪ねるというわけにもいかず、リーシャにはそもそも面会を求めるための口実がない。あの写真師の名前も分からないリーシャが、新聞社に所属している写真師のなかに自分の捜している人物がいるかどうかを知ろうと思ったら、どうしたって一度、会ってみなければならないわけだが、独力では難しいのは明らかだった。けどラディオルにこれまでのことを説明すれば、話も変わってくるかもしれない。彼とは知り合いといえるほどの関係になくても、彼がマアラの失踪を誘拐と考えているのであれば協力してくれるかもしれないからだ。なにしろその写真師が、マアラの失踪に関与している可能性だって、皆無とは言い切れないのだから。
リーシャは新聞社の、昨日も通された応接室で、ラディオルにこれまでのことを話した。アミィの家を辞去してから近くの百貨店にあった電話ボックスで新聞社に電話をかけてみると、幸運なことに彼は社内にいて、すぐに会うことができたのだ。ラディオルはリーシャの頼みに対して、無理ではないよ、と答えてきた。
「無理なんてことはない。リーシャさんが必要だと言うのならば、私が写真部の連中に取り次いであげるよ。けど、私にはちょっとリーシャさんの話は非現実的に思える。失礼だけど貴族のお嬢様ならいざ知らず、孤児院の女の子が駆け落ちするなんてのは・・」
ラディオルは引き攣ったような笑いを浮かべていた。リーシャも彼の言葉には同意を示した。
「私もそう思います。そんな噂は単なるデマで、言い出した子が勝手に作った話でしょう。マアラにそんなことをせねばならない必要があったとは思えませんから。けど、失踪する前にマアラが少しでも親しくしていた様子を目撃された人なら、それが誰であったとしても私は会っておきたいんです。ひょっとしたら失踪した後のマアラと、接触しているかもしれませんし」
「それは・・。そんなことはないんじゃないかな?だって、会っていたのが目撃されたのは、マアラさんが失踪する一年も前なんだよね?しかもその日だけ」
ラディオルは苦笑した。
「それでも、会ってみたいの?」
リーシャは頷いた。するとラディオルは何かを思いついたような顔で長椅子から立ち上がった。
「分かった。それなら写真部に所属してる連中の名簿を持ってきてあげるよ。写真部は決して人数の多い部署じゃないけど、そんなに少ないわけでもないから、直接会うより名簿に掲載された写真を見るほうが早く確認できると思う。少し待ってて」
そういって、ラディオルは驚くほど気軽に応接室を出ていった。リーシャはそのまましばらく一人で待たされたが、さほどに長い時を待たされることもなく、ほどなくしてラディオルは再び応接室に入ってくる。戻ってきた彼は片手に、出て行く時には持っていなかった書類綴じのようなものを携えていた。
「メディレン出身の写真師は、うちには三人いた」
彼は元通り長椅子に腰を下ろすと、書類綴じをリーシャに差し出しながらそう答えてきた。
「これがその三人だよ。このなかに、リーシャさんが四年前に会った人物はいるかい?」
言われてリーシャは書類綴じを開いた。そこに挟まれた書類に貼り付けられた、三人の男性の顔写真を眺める。しかし既視感は全く湧き上がってこなかった。リーシャはあの写真師の容貌を、もはや漠然としか思い出せないものの、それでも別人と分かる。どれほど写真を注視しても、見覚えがある、という感じが湧いてこないのだ。三人とも、全く知らない人間だった。
リーシャは首を振った。書類綴じをラディオルに返しながら、彼の協力に対する礼を述べる。
「ありがとうございました。こちらには私の捜している方はおられないようです。手間をかけさせてしまって申し訳ありません」
そんなの気にしなくていいよ。ラディオルは微笑んだ。彼は何やら安堵した様子で書類綴じを受け取っていた。
「たいしたことじゃないから。それよりその写真師がメディレンの出身だというのは確かなことなんだよね?」
「そうです。それは確かみたいです」
リーシャは頷いた。
「マアラが親しく話していたのも、同郷だったから、というのが大きな理由のようですし」
「なら、メディレンに行ってみようか?」
突然の提案にリーシャは瞬いた。
「メディレンに、ですか?」
「そうだよ。あの街はそんなに狭い街じゃない。山とか畑とかが多いから、田舎で人も少ないように思えるかもしれないけどね。メディレンは一つの街というより、幾つかの小さな街が集合している街だ。メディレンの出身と言っても、住んでいた地区が違えば、あまり同郷という感じはしないものなんだよ。なにせ、地区と地区の間はかなり空いているからね。マアラさんがその写真師と同郷を理由に打ち解けていたとしたら、同じ地区の出身じゃないかな。地区が分かれば、そんなに範囲も広くないから、特殊な仕事のことだし、すぐにその写真師が誰か特定できると思うんだよね。マアラさんが生まれたのがメディレンのどの辺りかは分かるんだろう?」
「それは、ええ、いちおう。けど、実際に行くとなると、メディレンはけっこう、遠いですよね」
リーシャは当惑した。メディレンは決して近いとは言い難い場所だ。行ったことはないものの、学業の合間を縫って気軽に行き来ができるようなところではなかったと記憶している。
「かなり遠いね。この辺からだと、始発の汽車で出たとしても、到着するのは夕方近くになるんじゃないかな。私なら日帰りしようなんて最初から考えないね」
「それなら私に行けるところではありませんよ」
到底無理だ。ラディオルは気軽に発てるのかもしれないが、リーシャには不可能に近い。まず資金がないのだ。リーシャは志生だから給金を受け取っていない。リーシャは暮らしに必要な金銭を全てレイムか、さもなければアリシェイルから受け取っているが、そのためには必ず何に用いる何のための金銭なのかを申し出なければならないのだ。学業とは直接の関係のない遠方への旅行など、まず二人は許可したりしないだろう。しかも仮に資金があったとしても、そこに赴いて誰かを捜せるだけの時間もない。王立学院の休学日は七日ごとに一日しかやってこないのだ。行きも帰りも夜行列車を利用したとしても、メディレンに滞在できる時間は一日もない。それでどうやって人捜しなどできるというのだ。リーシャは刑事でも探偵でもない。それだけの時間で特定の人物を探し出すなどできるはずがない。
しかしラディオルはそのことを告げたリーシャに対して、それならその一日でいい、と言ってきた。
「一日は時間が空くんだね?ならその日にメディレンに着くように出発しようか。旅費のことは心配しなくていいからね。言い出したのは私なんだから、夜行列車の切符ぐらい買ってあげる。それなら問題ないだろ?」
え。リーシャは瞬いた。あまりにも意外すぎる申し出だった。咄嗟に何と言うべきか迷う。なぜラディオルは、自らリーシャのぶんの旅費を負担してまで自分をメディレンに行かせようとするのだろうか。
「どうしてですか?どうしてそこまでしてくれるんです?メディレンに行ったからといって、すぐにマアラの消息が分かるわけでもないのに」
「たぶん、すぐに分かると思うよ」
ラディオルは意味深な微笑を浮かべた。
「勿論、すぐにマアラさんが見つかるとは私も思っていない。けど、リーシャさんにとってメディレン行きは決して無益なものにはならないから。それだけは保証する。だから是非、リーシャさんにはメディレンまで行ってほしいんだ」
「どうしてですか?」
リーシャは首を傾げた。
「メディレンに、何かあるんですか?ラディオルさんは、あの写真師のこと、何か知ってるんですか?」
もしも何か知っていることがあるのなら、今この場で教えてくれればいいではないか。リーシャはそう思い、ラディオルに詰め寄ったが、彼は首を振ってそれ以上のことを語ってはくれなかった。
「行けば、分かるから」
ラディオルは、それだけを繰り返してきた。
「行けば、リーシャさんにも、すぐに分かると思うよ。あの写真師とマアラさんがどういう関係にあるのかをね」
この人はいったい何を知っているの?
リーシャは汽車の座席に身体を預けながらその疑問を弄んでいた。硝子の嵌められた窓の向こうを深い闇が流れていく。どれほど目を凝らしてみても、闇のなかに人々の営みは見えなかった。硝子には外の景色よりも車内にいる自分の顔のほうがはっきりと映っている。しかしそれでもリーシャは窓の外を眺め続けていた。車内を振り返っても楽しいものは何もない。
――結局、メディレンまで行くことにしちゃったけど。
リーシャは窓辺から視線を外して隣の座席を見やった。ラディオルは今や完全に寝入っているらしい。汽車が動き出してしばらくの間は何やら本を読んでいたが、今ではすっかり目を閉じて規則正しい呼吸の音を響かせていた。いつもなら自分もそろそろ、寝ようかという時刻に達しているのだからそれも当然だが、リーシャは彼とは対照的に全く眠気など感じていなかった。何となくだが、会ってまだ間もない、見知らぬ人間ではないという程度の男と身体を寄せ合って寝るのは抵抗がある。
――けど自分は、そんな人の言葉を信用してしまったのよね。
思わず溜息が漏れた。勿論、リーシャは自分の判断を後悔などしていない。メディレンに行くことで、あの写真師の身元が分かり、それがマアラの行方を捜すことにも繋がるのなら、それは喜ばしいことだった。しかしそうなるという保証などどこにもない。それどころかもしも写真師がマアラのことなど何も知らなければ全てが徒労に終わってしまうのだ。実際のところ、そうなる可能性のほうが高いだろう。そんなことはリーシャも頭では分かっていた。それでもこうしてラディオルに同行する道を選んだのは、現状では他にできることが何もないからに他ならない。
――もしも、あの写真師の身元が分かったとして、それでもなお、マアラの行方が分からなかったとしたら、もう自分には旦那様に全てを告白するしかできることがないんだわ。
そうなったら本当にもう、リーシャにできることはそれしか残らない。レイムに全てを告白して、あの作品のこの国での出版を中止してもらうのだ。盗作の疑いが僅かでもあれば、レイムはもはやあの作品をこの国の販路に乗せようとはしないだろう。そうすれば、リーシャはせめても、マアラの才能がこれ以上不当に侵されることだけは防ぐことができる。
――運が良ければ、そうして自分が盗作と騒ぐことで、ディルム・エルファスって作家が、表に出てくるかもしれないものね。
そうなれば幸いだった。彼が表に出てくれば、法廷の場で直接、彼と争うことも可能になる。上手くすれば公の場で、全ての真相を引き出すこともできるかもしれない。希望的観測にすぎないが、本当はそれがいちばん、早くて確実な解決法なのだ。
「――相変わらず駅だけは人が多いな」
汽車を下りるとラディオルはホームを歩きながら呟くようにそう言った。リーシャは遅れまいと彼に合わせて足を速めながら、頷いてみせる。
「そうなの、ですか?確かに、大勢の人が歩いていますけれど」
リーシャは辺りを見回してみた。確かに、ホームはかなり混雑している。自分たちと同じようにたった今、汽車を降りたばかりの者たちや、これから汽車に乗るつもりでいるらしい者たちなど、旅装の人々で混みあっていた。ひょっとしたらさほどの人出ではないのかもしれない。自分が乗車した駅のホームに比べれば、同じ線路沿いの駅とは信じられないほどに狭いホームだからこそ、混雑しているように見えるだけなのかもしれなかった。しかし到着早々、これだけの人混みを見るとリーシャは否応なく不安になる。駅のホームですらこれほどに人のいる街で、名前も分からず顔も朧にしか思い出せない人物を、いったいどうやって探せばいいというのだろう。
思わず途方に暮れてしまった。気持ちが萎えると自然に足も重くなったように感じる。するとラディオルが苦笑しながらリーシャの手をとってきた。
「人が多いのはここだけだから、今からそんなに気落ちするべきではないよ。――早く改札を出てしまおうか」
ラディオルはリーシャの手を引くようにして改札を通った。ホームの出入り口には改札といわれる簡易的な門がある。門の横には駅員が控えていて、その駅員に切符を渡さなければホームから出られないのだ。リーシャはラディオルに切符を渡された時に教えてもらった汽車の乗り方を思い出しながら駅員に切符を渡し、改札を通ってホームを出た。
改札の外は小さな広間のようになっていた。小さな売店と小さな食堂、それに電話ボックスが一つだけある。駅舎からの出入り口は売店と食堂のあいだにあって、改札を通ればすぐに駅舎の外を通る道路が見えた。
「――先に朝食を摂ってから行こうか」
リーシャは真っ先にその広間を抜けて道路に出ようとしたのだが、ラディオルに引き留められて慌てて彼のほうを振り返った。ラディオルは食堂のほうを指さしている。そちらを窺うと、食堂からは人々の喧騒の他に、なにやら香ばしい匂いも漂ってきていた。驚いたことにもう商売を始めているらしい。今この瞬間も、自分と同じように汽車を降りたらしい人々が、朝食を求めてか食堂に足を向けていた。
それでリーシャもラディオルに手を引かれてその食堂に足を踏み入れた。簡単な朝食を済ませる間も、リーシャは時間を惜しんで周囲の客や給仕係に、マアラの写真を見せて彼女を見かけなかったかを問い質していった。それだけでなく勿論、この街で商売をしている写真スタジオや、メディレンに出自を持つ写真師についても、情報を集めてみる。
しかし良い答えは返ってはこなかった。ほとんどの者は分からない、知らない、あるいは見たことがない、と答えてくる。写真スタジオに関しても、そんな近代的な店はこの辺にはない、と言われた。
「人捜しなら警察に行ったほうがいいよ、お嬢ちゃん」
ある男性客にはそんな助言までされてしまい、リーシャは早くも落胆を感じながら食堂を出ることになった。駅舎を出ると乗り合い馬車に乗り込む。王立学院の近くでは割と頻繁に見かけるようになった自動車も、この辺りでは普及してはいないようだった。道路を行き交っているのは昔ながらの馬車ばかりで、馬のゆったりとした歩みにリーシャの焦りは助長されていく。やっとマアラの生まれ故郷である地区に到着した頃にはすでに昼近い時刻になっていた。今日の夕刻過ぎに出発する夜行列車に乗らなければならないことを思えば、ここに留まれる時間はほとんどない。 マアラの郷里は、周囲を畑と山に囲まれた、特にこれといって見るべきものもないありふれた田舎町だった。
家や店は役場や学校のある辺りに集中して建てられていて、その周囲に山林と農地が広がっている。そのため乗り合い馬車も当たり前のように役場の前で停まった。リーシャは馬車を降りると、とりあえず行き合ったこの近所の住人と思しき中年の婦人に写真スタジオとマアラの生家について訊いてみる。
婦人は親切な人物で、リーシャの問いにも丁寧に答えてくれた。彼女によると、写真師や写真スタジオなんて近代的な商人は、この街にはいないという。この地区だけでなく、メディレンならばどこに行ってもまだそんな近代的な商人はいないだろうということだった。そういった商人が商いを始めたら、田舎のことだからすぐに噂が広まっていくと。写真を撮りたいのなら、汽車で他所のもっと大きな街まで行ったほうがいいとまで教えてくれた。
「――けど、あの仕立屋のお嬢ちゃんの住んでた家なら、まだこの街に残ってるわよ。そこの酒屋の角を左に曲がったところだから、すぐに分かると思うわ」
もっとももう長いこと誰も住んでないけどね、と婦人は言葉を付け足してきた。それからリーシャのほうを怪訝そうに窺ってくる。
「それにしても、今頃になってあのお嬢ちゃんの家を訊いてくるなんて。あなたたちいったいあの家にどんな用があるの?」
訊ねられて、振り返って酒屋の場所を確認していたリーシャは婦人に訊き返した。
「今頃になって、って。そんなに長いあいだ、人の住んでいない家なんですか?」
意外に思った。無論、当たり前のことではある。マアラは自分が入所するよりも前から孤児院にいたのだから、身寄りのない彼女の生家が長いこと無人でも、不思議なことは何もない。しかしそれは同時にマアラの生家がずっと放置されているということを示している。なぜだろう。なぜそんなことになっているのだろうか。特にマアラが誰かの手によって失踪させられたとしたら、なおさらマアラの生家はすでに処分されてしまっていなければおかしい。なぜなら孤児院に在所している子供たちは、身寄りを持たないため亡き親の財産や、時には借金も、全てそのまま受け継いでいるからだ。孤児院を出た直後の子供たちがまずすることといえば、親の遺産の整理であるのが普通で、親の所有していた土地などを処分して今後の生活費に充てたり、親の遺した債務を整理したりする。リーシャには幸か不幸かそのどちらもなかったが、そうでなければリーシャも必ず行っていただろう。さもなければ孤児院の保護を失った後、確実に生活に支障が出てくるからだ。債務が残っている場合は特に急がなければ、退所して早々から覚えのない借金の返済要求に苦しめられることもある。したがって、マアラが受け継いだ遺産が手付かずのまま放置されていれば、遠からず誰かがマアラの失踪に疑惑の目を向け始めることは誰にでも予想できるはずだ。すると、マアラの失踪がマアラの意思によるものであろうがなかろうが、彼女の生家が今もそのままで残されているのは奇妙なことになる。特にマアラの失踪が他者の手によるものならばなおさら、彼女の失踪を彼女自らの意思によるものと偽装するために彼女に遺された遺産は残らず処分されているはずだろう。
「そうよ。もう十年以上も無人で――って、あなたたち、ひょっとしてあそこの家であったこと、知らないの?あんなに大騒ぎになったのに?」
婦人はリーシャの問いに、リーシャも驚くほどの大きな驚きを表してきた。
「え、ええ。私は、メディレンの人間ではないので」
リーシャは戸惑った。いったい何が大騒ぎになったのだろう。
「なにか、特殊なことでもあったのですか?」
訊ねると、婦人は大きく頷いてきた。
「あったわよ。あそこのご主人が奥さんを殺して自殺したの。そりゃあもう大騒ぎだったわよ」
こんなに小さな街だからねえ。婦人は溜息をついた。
「その人たちが、マアラのお父さんとお母さん、ですか?」
「そうよ。まだお嬢ちゃんも小さいのに、なんだってそんな早まったことをしたんだって、当時はよく噂になったわよ。仕立屋さんの家は、お姉さんも災難に遭われてたからね」
「お姉さん?」
「仕立屋さんのお姉さんよ。頭が良かったから基礎学校の教師をしていてね。二十年以上も前のことだけど、まだはっきりと覚えてるわ。私はお姉さんとは同い年で、仲が良かったの。だから今でも忘れられないわ。友人が自宅に押し入ってきた強盗に襲われて殺されるなんて、滅多にあることじゃないからね」
「強盗に・・」
初耳だった。リーシャは思わず目を見開いてしまった。リーシャは今までマアラの家族や親族のことなどほとんど聞いたことがない。自分も積極的に自分の家族の話などしなかったから、当たり前ではあるのだが。
「そうよ。物騒なことでしょう?こんな小さくて長閑な、平和だけが取り柄みたいな田舎なのにね。――そういえば確か、お姉さんにも小さい子供さんがいたんだったわ。とっても可愛くて利発な男の子でね。お姉さんが亡くなってからは会ってないんだけど、今頃どうしてるのかしら」
婦人はふいに思い出したような表情でそう言ってきた。とはいってもリーシャに何某かの返答を求めているような素振りはみせておらず、単に昔を懐かしんでいるような様子に見える。しかし会話はそれで途切れてしまい、リーシャは口を閉ざしてしまった婦人に話しかけにくくなった。婦人のほうもリーシャに話しかけてこなくなり、それでリーシャは婦人に礼を言って傍を離れることにした。とりあえず、婦人に教えられた通りに酒屋の角を曲がる。すると確かにすぐ近くに、それらしき廃屋の姿が見えてきた。
――ここが、マアラの生まれた家・・。
ある種の感慨をもってリーシャはその廃屋を見上げた。おそらくかつては相当に規模の大きな仕立屋だったのだろう。そのことは商いを終えた今でも容易に想像することができた。建物は外から見ただけでも傷みが激しかったが、それでもまだしっかりと形を止めている。高さと窓の作られた位置から推測すると三階建てで、外壁は白い石で造られていた。現在ではあちこちが薄汚れ罅割れ、何かの植物が這っていたが、ここに客が来ていた頃は壮麗そのものの外観を誇っていたことだろう。しかもどうやら、建物は目の前のこの一棟だけではないらしく、奥のほうにもまだ似たような建物が建っているのが見える。おそらく住居はあの奥のほうの建物で、あそこにマアラは、かつて家族と暮らしていたのかもしれない。
「かなり大きな店だったみたいだね。マアラさんはお嬢様だったのかな」
ラディオルの声が聞こえてきた。リーシャには何とも判断できないが、確かに建物の大きさだけを見れば、豪商といっても過言ではなかっただろうことは分かる。しかし見た目ほど裕福だったわけではないのではないだろうか。商人には見た目と実態が乖離している者が稀にいると聞いたことがあるし、真実マアラの両親が富裕であったのなら、聞いたような悲劇的な事件は起きなかったかもしれない。何を思ってマアラの父親が事件を起こしたのか分からないから、これは憶測でしかないのだが。
マアラの生家に、確かに長年にわたって誰も立ち入った形跡がないことを確認すると、リーシャは念のために婦人が教えてくれた仕立屋の姉の住まいも探してみた。こちらはマアラの生家ほどには容易くは見つからなかったが、何人めかに訊ねた老女が場所を教えてくれた。残念ながらもう建物は残っておらず、住居があったという場所は喫茶店になっていた。試しに店主に話を聞いてみたものの、まだ若い店主はこの土地に以前住んでいた一家のことなど何も知らなかった。仕立屋の姉には息子がいるということだったが、つまりはマアラの従兄弟にあたるその人物に接触することは、どうやら自分には無理だと悟るだけの結果に終わってしまった。
リーシャは喫茶店を出ると、次にどうしていいか分からず途方に暮れてしまった。とりあえず再びマアラの生家へと戻ったものの、廃屋を見上げる以外にできることもない。生家がこの有様で放置されている以上、彼女が自らこの地に戻ってきた可能性は極めて低いだろうが、それだけ分かってもどうしようもなかった。例の写真師がすでにこの地にはいないようだということだけは確認できたのだから、それだけを良しとしてもう汽車で帰ったほうがいいのかもしれない。写真師なら国立図書館で地図を閲覧し、王都の写真スタジオを一軒ずつ訪ねたほうが確実に見つけられるはずだ。いや、それよりも、レイムに全てを告白したほうが早いだろうか。リーシャはそもそも彼の志生なのだから、仕事で問題が見つかれば独力で解決を図ろうとするよりも、報告して指示を仰ぐことを、本来は優先しなければならないのだ。
ならば今後、自分はどうするべきだろう。リーシャは頭を素早く動かしてしばし熟考した。それでふと思いついてラディオルを振り返った。
「ラディオルさん、この街にも図書館ってあるでしょうか?」
訊ねると、ラディオルはリーシャを見下ろしてきた。
「あると思うよ。あれは公共施設だからね。こういう小さな街ならだいたい役場か基礎学校に併設されてる。蔵書の数は知れてると思うけどね」
「なら、ちょっと図書館に行ってもらえませんか?この家で昔起きたという事件のことが知りたいんです。大騒ぎになったというのが本当なら新聞に載ってたかもしれませんし」
「ああ、まあ、殺人事件なら新聞はだいたい扱うと思うけど。私が調べるのかい?君は?」
「私は、もうちょっとだけこの近所の人に話を聞いてみます」
リーシャは笑ってみせた。
「マアラの郷里の人なら、マアラのことについて、私の知らないことも知ってるかもしれませんし。ひょっとしたら、マアラが失踪した後に一度、郷里に帰ってきていたという可能性だってあるんですから。近所の人に話を聞けば、何か、新しい事実も分かるかもしれません」
ひどく緊張しながらリーシャは言葉を紡いだ。決して彼が不審を抱かないように言わなくてはならない。こうした演技は不得手だったが、ラディオルは幸いにもリーシャの言葉にほんの僅かも疑った様子を見せなかった。彼は軽い感じで了承の意を表すと、そのまま一人で役場のほうへ向けて歩いていく。リーシャは安堵の気持ちとともに彼を見送ると、彼の姿が見えなくなったところで再び廃屋に向き直った。周囲に視線を配り、誰の目もこちらに向いていないことを確認すると、素早く廃屋に駆け寄る。
元々が店であった建物だけに周囲が塀や門で守られているようなことはなかった。その代わりにかつては来客が馬車を寄せられるよう庭が広がっていたのだろう。道路と建物の間には丈の長い草が生い茂った、決して狭くはない空間があった。リーシャはその草むらに分け入っていく。たぶんこの草が、自分の姿を道路から隠してくれるはずだ。
もう十年以上が経ってる。今頃になってここまでしても、こんなところにマアラの現在に繋がる手がかりなどあるはずがない。自分の気休めにしかならないことなど充分に承知していた。それでもリーシャとしては、マアラを見つけるためにマアラのことは何でも知っておきたかったのだ。ラディオルにわざわざ図書館の新聞を調べてほしいと言ったのも、決して一人になりたいために作った口実ではない。リーシャは今まで、あまりにもマアラのことについて知らなさすぎた。マアラの出自がこの街にあることも、リーシャはアミィに訊いて初めて知ったのだ。親を喪った事情だって、あの名も知れぬ婦人に聞かされるまで全く分かっていなかった。本当にマアラの行方を捜そうと思うのなら、まずマアラ個人のことを知らねばならないだろう。マアラのことが何も分かっていないのに、マアラがどこに行くか、誰と接触していたかなど、分かるはずがない。ましてや、誰がマアラを連れ去ったのかなどは。せっかくここまで来たのだ。この地でなければ知り得ないことは、知ってから帰るべきだ。
仕立屋のほうには用はない。リーシャは草を掻き分けながら歩を進めて奥のほうの建物に向かった。建物の正面入口らしき大きな木の扉には鍵がかかっている。建物自体もかなり傷み、誰も住まなくなって久しいとはいえ扉も錠も、まだまだしっかりと役目を果たすつもりでいるらしかった。扉はびくともしない。しかも、最後にこの扉に鍵をかけた人物はよほど用心深かったようで、扉には鍵がかかっているだけでなくノブに、かなり錆びてはいたが頑丈そうな鎖が巻きつけられていた。鎖には錠前も付けられている。おそらく無法者が空き家に勝手に住み着くのを嫌ったのだろうが、これではリーシャにはとてもこの扉は開けられそうになかった。
しかし扉からでなくても室内に入る道はある。リーシャは急いで扉を離れると近くの窓辺に足を向けた。一階にある窓は、なんとかどれもリーシャの手の届く位置にある。全て鎧戸で閉ざされてはいたものの、何か所か外れかかっていて本来の用途を全うしていないものがあった。その窓の下に歩み寄り、手を伸ばして鎧戸を外から引き開けてみる。すると、ほとんど力も込めていないのに鎧戸は簡単に外れて地面に落ちた。長い年月を放置されてきて蝶番か何か、鎧戸を固定している金具が完全に腐食するなどして役目を果たせなくなっていたのかもしれない。
鎧戸がなくなると、まだ硝子の残った窓が現れた。手をかけてみたが、窓を閉ざしている鍵はまだその機能を失っていないらしく窓は動かなかった。一瞬、焦って硝子を割ろうかとも思ったが、そんなことをして音を偶然、近くを通りかかった誰かに聞かれると面倒なことになる。それで止むを得ず、その窓は諦めてリーシャは他の窓を試していった。鎧戸を見かけるたびに何とか硝子を割らずに開けられる窓がないかどうか探していくと、しばらくしてリーシャにも簡単に開けられた出入り口を見つけることができた。建物の裏手に位置していた、比較的粗末な木製の扉だった。住人が居住していた頃は裏口として使用人が使っていたのではないかと思われるような扉だ。この扉もかつては鍵がかかっていたようだが、満足に軒もないなかで長年風雨にさらされてきたせいか、ノブも蝶番もすっかり錆びついている。強く引くだけで扉自体が壊れて枠から外れてしまったのだ。
リーシャはその扉の壊れた戸口を通って建物の中に入った。足を踏み入れると途端に視界が薄闇に包まれる。埃か黴か、何のものともしれない臭いも鼻をついてきた。廃墟に特有の寂れた気配が、辺りには漂っている。
リーシャが足を踏み入れたところは廊下だった。床には絨毯が敷かれたままになっており、リーシャが歩を進めるたびに埃が舞い上がる。思わず咳き込んでしまい、リーシャは片手で口元を押さえながら、未だ華やかに整えられた内装の名残を止める廊下を歩いて適当な扉のノブを回した。屋内の扉には鍵はかかっていなかった。扉は嫌な軋みの音を辺りに響かせながらも、難なく開いた。
扉の向こうに広がっていたのは、かつて居間だったのではないかと思われる広い部屋だった。リーシャが外から窓を開けようと試行錯誤したせいで鎧戸の外された部屋は、硝子越しに明るい陽光が射し込んで廊下よりもずいぶんと明るい。だがその明るさが、かえってリーシャの目には陰気に感じられた。室内に当時の生活の痕跡が残っているだけに、いっそ薄気味の悪ささえ感じる。
部屋のなかには家具は勿論、かつてここで暮らしていた人々が日用の足しにしていたと思われる品々までもがほぼそのままに残されていた。初めてこの部屋に足を踏み入れたリーシャにも一見してこの部屋が居間だと分かったのはそのためで、ふいにリーシャの胸の内には罪悪感が芽生えてきた。他人の家に無断で侵入しているという意識も急速に強くなってくる。室内が、空き家にしてはあまりにも整いすぎているからかもしれない。長いこと無人だったとはいえ、今からでもきちんと掃除をし、傷んだ箇所の修繕をすれば、充分にこの家は人の居住に耐えられるはずだ。 しかし躊躇してばかりもいられない。リーシャは心のなかでマアラと、今は亡きマアラの両親に詫びると、居間に足を踏み入れた。居間の家具はそれほど多くない。低い卓を囲うように置かれた長椅子が中央に置かれている他には、飾り棚と幾つかの楽器が置かれているだけだ。隣の部屋とは続き間になっているらしく、壁に扉が一つ見える。透かし彫りに磨り硝子が入った扉だ。居間を検めるよりも先にあの扉の向こうがなにかを確認してみたほうがいいかもしれない。おそらく厨房か食堂だろうが、リーシャはそう思って居間を横切ろうとした。しかしその前に、飾り棚のなかのものに目が留まって思わず足を止めてしまった。
――あれ、この人・・。
目を凝らしてみた。飾り棚には室内を彩るための置物などが並んでいる。今やどれもかなりの埃を被っており、色合いなども判然としなくなっていたが、そのなかのひとつが写真立てであることだけは分かった。こちらもかなりの埃を被ってはいたが、写真の入った硝子の部分はそれほど埃で汚れていない。誰が映っているのかも、はっきりと分かる。
――この人、ラディオルさんに似てる・・。
写真はどこかの家族を写した記念写真のようだった。かなり古いもののように見える。映っていたのは三人で、全員が礼服を着て、正面を向いていた。ただし一人は赤ん坊を抱いた女性で、椅子に座っている。女性は自分とさほど年も変わらないように見えた。赤ん坊はまだ生まれたばかりのように見える。その赤ん坊と女性に寄り添うようにして若い男性が一人、にこやかな微笑みを浮かべながら立っているのだが、その若い男性が、ラディオルにひどく似ているようにリーシャには見えた。ちょうど彼を少し若くしたような面差しに見える。
しかし無論、この男性が彼であるはずがなかった。写真が古すぎる。この写真に写っている男女は自分や彼よりもずっと年上の人々だろう。それならば他人の空似か、浮かべている表情や髪型などで偶然、似ているように見えただけのはずだ。それにこの人々は、この場所に写真が飾られていることからして、マアラの家族か、極めて関係の深い人々だろう。ラディオルが写っているはずなどない。彼はマアラの親族でもなんでもないのだ。それだけは確かだろう。ラディオルが語るマアラは他人が語るマアラだった。彼の言葉からはマアラと近しい関係にあることを表す親しみが感じられなかった。
では、この人たちはいったい誰だろう。リーシャはふと疑問に感じ、写真立てを手に取った。この男女は、マアラの両親ではないだろう。もしもそうなら、マアラにとっては亡き両親の遺影でもあるはずのこの写真を、こんなところに残したまま孤児院に入ったりはしないはずだ。ならばマアラにとって、比較的近しい親族の誰かだとしか思えないが、だとしたらいったい、マアラとはどういう関係にあったのだろうか。マアラが写真を孤児院に持って行かず、また孤児となったマアラを養女に引き取りもしなかったことから、決して親しいわけではなかったのだろうが、それでもリーシャはこの男女とマアラがどういう関係にあったのかを知りたいと思った。知れば、マアラのことで、何か新しいことが分かるかもしれない。それでリーシャは写真立てを慎重にそっと裏返してみた。裏側には何の装飾もないが、慎重に裏蓋を留めつけている留め金に指をかけて蓋を外すと、写真の裏が露わになる。写真の裏は何も書かれていない白紙であるのが普通だが、人によってはそこに写真を撮った日付や写された人の名前、撮影した場所などを書き込むことがあるのだ。少なくともリーシャはそう聞いていた。この写真にも、そうしたことが書いてあれば、写真に写った人々がどこの誰なのか、分かるかもしれない。
しかしリーシャのそうした思考は、写真立ての裏蓋を外した瞬間に停止してしまった。
――ラディオルさんの名前・・。なんで、こんなところに?
しばらくして、ようやくその疑問だけは湧き上がってきた。どうして彼が写っているはずのない写真に、彼の名前が記されているのだろう。しかも、記入された撮影日と思しき日付と、誕生を記念して、という文字を見れば、まるでこの女性に抱かれている赤ん坊こそが彼自身であるかのような写真ではないか。なぜそんな写真が、こんなところに飾られているのだ。
リーシャは写真を眺めながらしばし呆然としてしまったが、慌てて我に返ると、写真立てを持ったまま室内を物色してみることにした。この写真に写っている人々が何者なのか、探せばまだ何か、それを示唆する物も見つけられるかもしれない。この写真に写っている赤ん坊は、本当に自分をここまで連れてきてくれたあの彼なのか、それとも彼とは同名の別人なのか。彼だとしたら彼はマアラといったいどんな関係にあるのか、なぜそのことを自分に教えてくれなかったのか、それを知りたかった。彼が全くの無関係であるというのならそれでいいが、それでもせめてこの写真に写っている人々がマアラとどういう関係にある人々なのか、それだけは知っておきたい。
しかし居間からは何もそうしたことが判明しそうなものは見つからなかった。別室に続いているらしい磨り硝子の扉も開けてみれば案の定、食堂で、食堂は厨房と直結していた。無論そんなところから特定の個人の身元が分かるようなものなど出てくるはずもない。
それでリーシャは家内の各所を駆け回った。一階には居間と食堂、厨房の他、浴室と厠と、何に使っていたのかはよく分からない広間のような部屋があったが、これらの部屋では自分の見つけたいものを見つけることができなかった。それでリーシャは階上に上がってみることにした。廊下の端に見つけた階段に足を乗せ、駆け上がる。だがその途中でやや遠くから声が聞こえてきて、リーシャは思わず跳び上がってしまった。
「――誰かいるのか?こんなところで何してる?」
ラディオルの声だった。リーシャは驚き、慌てて二階に駆け込むと、いちばん近くにあった部屋に飛び込んだ。なんとなく、今は彼と会いたくなかったのだ。しかしすぐに彼はここまでやって来るだろう。自分の足音は階下にもはっきりと響いたはずだ。侵入者がいることはすぐに分かる。ここまでやって来るのも時間の問題だ。
――図書館に行ったはずなのに。戻ってくるのが早すぎるわよ。
思わず胸の内で毒づいてしまったが、彼は元より図書館になど赴いていないだろう。図書館に向かいかけて、すぐに振り返るかどうかしたために、リーシャの姿が消えているのに気づいて慌てて捜すことにしたのかもしれない。その過程で彼が仕立屋の敷地に入ってくれば、リーシャが廃屋のなかに入っていったことなどすぐに分かったはずだ。リーシャはここに入ってきたあの扉を開けっ放しにしているし、これだけ埃の積もった室内ならたぶん、廊下には足跡だって残っていたことだろう。
「中にいるのは誰だ?もしかしてリーシャさんか?駄目だよ、他人の家に勝手に入ったら。すぐに出てきなさい」
同じ声が再び聞こえてきて、リーシャは思わず手に持ったままの写真立てを握りしめていた。この写真を見ていなかったら、きっと自分は、迷うことなく彼の前に出ていたことだろう。けどこの写真を見てしまい、ここに写っているのが彼かもしれないと一度思ってしまえば、彼の前に出ていくことは今のリーシャにとって恐れがあった。もしもここに写っているのが本当に彼であるならば、彼はマアラと何某かの関係があるのだ。にもかかわらず彼はそのことをリーシャに何も言ってこなかった。リーシャがマアラを捜していることは十分以上に知っていたはずなのに、自分がマアラと繋がりがあることを隠していたとしたらその目的はいったい何なのか。
――まさか、彼だったりしないわよね。マアラを攫ったの。
思うだけで戦慄が込み上げてきた。そうだとしても全然妙なことはない。だがそれならばなぜ彼は意味深なことを言い自ら旅費を負担してまで自分をここまで連れてきたのだろうか。
しかしゆっくり考えていられるほどの時間はリーシャにはなかった。ラディオルの声が再び聞こえてきたからだ。
「リーシャさん?どうした?」
声は先ほどよりも大きかった。すなわち近づいてきている。耳を澄ませば足音も聞こえてきていた。
――どうしよう。
リーシャの心は激しい焦燥感でもはや巧くものを考えることすらできなかった。このままではすぐにラディオルはこの部屋までやってくるだろう。この部屋は階段を上ってすぐのところにある。ラディオルはリーシャが階段を駆け上がる足音を聞いたはずだから、間違いなく階段を上るだろうし、二階に上がって廊下にリーシャの姿が見えなければどこかの部屋に入ったとみなしてすぐにこの部屋の扉を開けようとするはずだ。リーシャは自らが駆け込んだ室内に視線を向けてみた。この部屋はどうやら、住人が暮らしていた頃には書斎として使われていた部屋らしい。窓はなく壁は全て書棚になっていた。つまり、いま自分が背にしている扉を通る以外に出られる出入り口はなく、また隠れられる場所もないことになる。つまりリーシャは、この部屋に逃げ込んだことでもう、ラディオルとすぐにも対峙することしかできなくなってしまったのだ。
ならば、とリーシャは決意した。腰に下げたポシェットを探る。このまま彼と密かに別れて、彼のことを探るという手段はもはやとれない。ならばこの場で彼に全てを話してもらうだけだ。そのほうが、きっと、何もかも巧くいく。大丈夫、自分にもそれぐらいできるはずだ。
「リーシャさん、どこにいる?何かあっ――」
声と同時に扉が開かれてきた。書斎に足を踏み入れてくる人影がある。入ってきたのは間違いなくラディオルだった。彼は室内に歩を進めてくるとほぼ同時に声を途切れさせ、驚愕したように目を見開いてくる。そして徐に微苦笑を浮かべ始めた。かなり引き攣った微笑みだった。
「リーシャさん、人に刃物を向けるのは、あんまり好ましい冗談じゃないよ」
「――教えて。ラディオルさんはいったい、マアラとどんな関係にあるの?マアラを、どうしたの?」
リーシャはポシェットから取り出したペーパーナイフの刃先を、ラディオルの喉もとに向けて突きつけながら彼をそう問い詰めた。手が震えるのを感じる。しかし決してナイフを落とすまいと必死で手に力を込めた。このペーパーナイフは、リーシャにとって貴重な自衛手段なのだ。ラディオルがもしも、本当にマアラを攫った犯人なのだとしたら、そのことに気づいたリーシャをどうするか、分かったものではない。
ラディオルはすぐには答えなかった。彼は驚いたように目を見開いている。咄嗟に言葉が出てこないのかもしれない。
沈黙が二人の間をしばらく支配していた。だがリーシャにとって、その沈黙こそが彼の意思の全てを表しているように思えた。もしも彼が真実、マアラとは何の関係もなく、この写真に写っているのは彼の同名異人にすぎないのだとしたら、彼にはリーシャの質問の意味が分からないはずだからだ。それならばこうしてナイフを向けられて、黙っているはずなどない。凶器になりうるものを他人に向けているリーシャにすかさず怒り出すのが普通の反応というものだろう。
「ここに写ってる子供、ラディオルさんでしょう?」
リーシャは右手でナイフを持ちながら、左手に持ったままの写真立てをラディオルに突きつけた。
するとラディオルは特に抵抗した様子もなく静かに写真立てを受け取った。彼の表情からは意味の分からないものを突きつけられたことに対する戸惑いのようなものがいっさい感じられなかった。ラディオルは驚きを表しながらも、リーシャが示した事実を淡々と受け止めているように見えた。
しばし無言のまま時間が過ぎて、やがてラディオルは静かに頷いてきた。
「そうだよ。まだ残ってたんだね、これ」
写真を眺めるラディオルの表情には、懐かしいものを見るようないろが滲んでいた。
「ここに写っているのは私の父母だ。もう、どちらもこの世にはいないけどね」
「父母?どうしてラディオルさんのご両親の写真なんかが、この家にあるんです?」
リーシャは詰め寄った。
「なんでですか?ラディオルさんはマアラとは何の関係もないはずでしょう。そのはずですよね?ラディオルさんは、私がマアラを捜してるの知ってても、何も仰いませんでしたから。自分がマアラとは知り合いだなんて」
「知り合いといえるほど親しいわけではなかったよ。とはいっても全く知らない人間ではなかったし、無関係の人間でもなかったから、結果としては事実を隠してたことになるんだろうけどね。どうしても言い出せなかったんだ。私が言葉で説明すれば、何をどう言ったとしたって言い訳じみたものにしかならないことは私がいちばんよく分かっていたからね。だから私としては、リーシャさんが自力でマアラさんの出自がメディレンにあることや、私がマアラさんと会っていたことを知ったのなら、このまま独力で何もかも知ってほしかったんだよ。それでここまで連れてきたんだ。メディレンに連れてくれば、私が何も言わずとも、リーシャさんなら全て理解してしまうだろうと思ったからね。ここは私にとっても故郷だし、近所の人間なら、よほど若い人以外は大抵、私のこともマアラさんのことも知ってる。リーシャさんならすぐに気づいてくれると思った」
ラディオルの答えはまるで弁明でもするかのようだった。リーシャが思わず彼を見つめてしまうと、彼は真正面からリーシャと視線を合わせてくる。
「マアラさんは私の従妹だよ」