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失踪

「着いたわよ」

 車が停まると、アリシェイルがそういってリーシャを促してきた。リーシャは彼女に礼を言って扉を開け、地面に足を下ろす。外に出ると、目の前に聳える簡素だが大きな建物を見上げた。

「リーシャはこういうところで育ったのね」

 しばらく建物を眺めていると、ふいに背後で感慨深げな声が聞こえてきた。振り返ると、アリシェイルがリーシャに続いて自動車を降りてきて、同じように建物を見上げている。

「リーシャは子供の頃、ここでどんなふうに過ごしてたの?楽しかった?」

 さあ。リーシャは曖昧に頷いてみせた。

「楽しいということはあまり感じたことがないですね。恵まれていたとは思っていますけれど。小さい頃は勉強ばかりしていましたから」

「そうなの?すごい。優等生だったのね」

「そんなことないですよ」

 リーシャは首を振った。アリシェイルは心底感心したような様子をみせていたが、リーシャは別に学問が好きだったから勉学に励んでいたわけではない。

「私は単にここの方針に従っていただけです。ここの教師は、教え子のなかに自分の評価を高めてくれそうな子供がいると、基礎学校でも実践学校でもその子に優先的に教育を施すんですよ。孤児院の院内学校であっても、官立学校である以上は生徒の成績で、教師の評価は決まってしまいますから、教師に関心を向けられた子供は必然的に勉強だけの生活をすることになるんです」

 この国では子供は皆、五歳になると基礎学校に通う。基礎学校は初等教育を施してくれる学校で、四年間で生きるために最低限必要なことを子供に教えるのだ。主に読み書きや計算、裁縫などを習い、基礎学校を卒業すれば次は実践学校に進学することになる。もっとも、必ず行かねばならないと国の法律で定められている基礎学校とは異なり、実践学校への進学は希望者のみとなっていた。進学を希望する子供だけが入学の可否を決めるための試験を受け、それに合格すれば入学することができる。実践学校では主に仕事に就くための知識や技能を六年の年月をかけて学ぶが、勉学が嫌いであれば子供は基礎学校を卒業してすぐに働き始めることもできた。しかしそういう子供は滅多にいない。基礎学校も実践学校も官立学校で学費がかからないから、どこの家でも親は子供に実践学校までは進学させようとするのだ。基礎学校を出ただけでは就ける仕事もほとんどなく、将来確実に苦労することが分かりきっている。それならば少しでも高い教育を受けておくべきと考えるのは当然で、したがって子供は実践学校を卒業してから、社会に出て働き始めるのが常だった。しかしなかには実践学校を出て以降も、勉学に励んでいる子供もいる。それがリーシャのような王立学院の学生だった。王立学院には実践学校までの教育では学問に対する好奇心を満足させることができず、さらに学びたいという意欲も能力もある者だけが進学してくる。そして己の知識欲を満たし野心を満足させるために学問に励むのだ。

 リーシャがその王立学院に入学したのは十二歳の時だった。通常、基礎学校は九歳、実践学校は十五歳の時に卒業を迎えるが、教師に能力が充分に身についているとみなされた子供はその年齢を待たずして卒業を迎えることがある。リーシャもそうで、リーシャは七歳の時に基礎学校を卒業し、実践学校にも四年間しか通っていない。リーシャのような子供は早期卒業者と呼ばれ、王立学院の学生には稀にいるものだった。通常よりも短い期間で習うべきものを全て習得してしまった早期卒業者はこの国では秀才の象徴として扱われ、早期卒業者の出た学校は教育に優れた名門校の評価を受けるようになる。その評価は官立学校の教師にとって自らが行う教育そのものよりも重要なものだった。名門校となれば国庫から下賜される補助金の額も上がり、自らが得られる俸給も名声も高いものとなるためで、早期卒業者となってくれそうな優秀な子を見つければ、その子だけを集中して指導し教育する学校は、何もここだけではないだろう。

 勿論この孤児院が、早期卒業者になるかもしれない子供にしか熱心な教育をしなかったということはない。リーシャの知る限り、ここに在所している孤児たちは毎年全員がきちんと実践学校は卒業していた。身寄りのない孤児は身につけている学問しか己が頼るものを持ち得ないのだから、最低でも実践学校まではきちんと卒業しておくようにと繰り返し指導されていたのだ。教師たちは総じて教育に熱意を持っていた。基礎学校でも実践学校でも、少しでも成績が悪ければ特別な補習を受けさせられたことをまだ覚えている。リーシャは早期卒業者になるかもしれない可能性を見出されていたから特に教師たちの関心は大きなものがあったが、そうでない子供たちもほとんど勉強以外のことをする暇はなかっただろう。

 リーシャが孤児院で自分が受けてきた教育について話すと、アリシェイルは感心したような声を発した。

「へえ。意外に教育熱心なのね。官立の孤児院って、もっと劣悪なものかと思ってたわ。時々問題になるものね」

「劣悪ということはなかったですよ。私はこの施設で育つことができて、とても幸運だったと思っています」

 リーシャは偽りのない本心を告げた。リーシャは心から、この施設で育ってよかったと思っている。官立の孤児院は時折、アリシェイルの言ったとおり劣悪な養育が問題になることがあるが、しかしリーシャが育った目の前のこの孤児院では、そういうことはなかった。リーシャは施設の教師たちに大切にされたという自覚がある。ほとんど遊ぶ時間がなかったことだけは不満に思っていたが、それぐらい勉強せねばとても、王立学院には入れないことは理解できていた。王立学院は難関で知られている。入学試験に合格するのは容易いことではない。

 リーシャはアリシェイルを振り返った。

「――ここまでお連れくださいまして、有り難うございます。施設の者をお訪ねしても宜しいでしょうか?」

 アリシェイルは微笑んだ。

「勿論よ。そんなにいちいち律儀に訊いてこなくても、そのために来たんだから行ってらっしゃい。私は車で待ってるわね」

「分かりました。なるべく遅くならないようにいたします」

 リーシャは車内に戻るアリシェイルを見送ると、再び孤児院に向き直った。孤児院の建物はその周囲をぐるりと囲う白い塀に守られており、唯一敷地内に出入りできる煉瓦造りの正門は鉄格子の門扉で閉ざされている。門柱には小さな鐘が取り付けられていた。この鐘は孤児院を訪ねた者が施設の者に自らの来訪を伝えるために使うもので、来訪者は鐘から下がった紐を引いてこの鐘を鳴らし、自らの訪問を施設の者に伝える。かつてはこの施設が自らの家であったリーシャにとって、この鐘を鳴らすのは今日が初めてだった。それで少し緊張して紐をつかみ、鐘を鳴らす。軽やかな音が鳴り響くと、少しして鉄格子の門扉越しに、建物の入口の扉が開くのが見えた。門扉から建物まではほとんど距離もない。それで扉が開くと、すぐにリーシャは出てきた人物が誰なのか分かった。

「どなたかしら?――あら?ひょっとしてリーシャなの?どうしたの急に、貴女が連絡もしないで戻ってくるなんて」

「お久しぶりです。ちょっと先生にお伺いしたいことができまして」

 出てきたのはここの教師で副院長のリラナだった。リーシャが彼女に挨拶すると、その言葉を終えもしないうちにリラナは門扉まで駆け寄ってくる。軋む音をさせながら鉄格子の門扉を引き開けると、彼女は愛しいものを見るような表情を浮かべながらリーシャを抱き寄せてきた。

「少し見ないうちに背が伸びたのね。もうリーシャも先生とほとんど変わらないわ」

 そういって微笑む彼女にリーシャは軽く頭を撫でられ、それから施設のなかへ入るよう促された。リーシャはかつての恩師に導かれるようにして敷地のなかに足を踏み入れる。建物のなかに入ると、三年前にここを出た頃と少しも変わっていないエントランスホールに懐かしさを感じた。意識が束の間、過去に飛び、しばらくして聞こえてきたリラナの声で我に返る。

「こちらにいらっしゃい。こんなところで立ち話なんかしたくないでしょう?私も、リーシャがどんな学生生活を送っているのか聞きたいわ。いま在所している子たちはみんな、リーシャが翻訳家として有名になったことを、とても誇らしく思ってるのよ」

 翻訳家って。リーシャは戸惑った。自分が翻訳の仕事をしているのは単に志生だからだ。王立学院を卒業すれば翻訳なんてする機会も訪れないだろうに、その仕事をもって誇りに感じているといわれるとどう返したらいいか分からない。

 リーシャは返答を迷ったが、リラナは特に答えがないことを気にした様子もなく一つの部屋の前で足を止めた。扉を開けながら、この部屋で話しましょうかと訊ねてくる。リーシャが頷くと、リラナはその部屋へ入っていった。リーシャも後に続いた。

 入ったところは応接室だった。リーシャにとってこの部屋に入るのは二度目だ。初めてこの部屋に入ったのはレイムが孤児院に迎えにきてくれた時で、だからこの施設を退所した日のことになる。あの日にはまさか、三年後にこうして自らが来客としてこの部屋に招かれるなど想像もできなかった。

 それでなんとなく落ち着かない気分を感じながら、リーシャはリラナに促されて応接室の長椅子に腰かけた。リラナのほうはすぐには座らず、いったん部屋を出ていく。しかしすぐに彼女は応接室に戻ってきた。両手でトレイを捧げ持つようにしている。トレイには茶器の一揃いが載せられていて、温かそうな湯気を上げていた。どうやらお茶を用意しに行っていたらしい。

「リーシャが王立学院や寄宿先でどんな生活を送っているのかを、まず訊いてみたいけど、私は先にリーシャがどんな用件で訪ねてきたのかを訊かないといけないわね。リーシャは私にどんなことを訊きたくて来たのかしら?」

 リラナはリーシャにお茶を給仕しながらそう話しかけてきた。リーシャはカップに手を伸ばしながら、マアラのことです、と短く答える。

 リーシャが今日、本来なら貴重な休暇となるはずの王立学院の休学日に、わざわざアリシェイルに頼んでまで自分の育ったこの孤児院に連れてきてもらったのはマアラの行方を訊ねるためだった。リーシャが十二で王立学院に入学し、志生としてレイムとアリシェイルの家に移った時には、マアラはまだこの施設にいた。彼女が自分より先に退所していくリーシャを羨ましがったことを、リーシャはまだ昨日のことのように鮮明に覚えている。マアラはリーシャより三つ年上なのだ。つまり、当時すでに十五歳。実践学校を卒業すれば働くことができるこの国で、孤児院の子供たちは十八の成人を待たずして十五になれば施設を出るのが普通だった。よほど能力が低かったり、身体が弱かったりして実践学校を六年で卒業できないというようなことがあれば、十五歳以降も施設に留まることはありえるが、マアラがその例に当てはまるとは思えない。ならば彼女もまた、あの年に孤児院は退所しているはずだ。しかしリーシャはマアラから退所後の居所について何も知らされていない。するとマアラが現在どこにいるのか、リーシャに知る方法はかつて一緒に暮らしていたこの孤児院を訪ねる以外にはなかった。退所して三年も経てば転居している可能性もあるから、リラナに聞いてもすぐには所在が分からないかもしれないが、退所して最初に居住したのがどこだか分かれば、まだそれほど年月が経っていないだけに、居場所を辿ることはそれほど難しいことではないだろう。

「私はマアラに会いたいのです。彼女はここを退所した後、どこに居を定めたのでしょう?先生はご存じではありませんか?もしもご存じでいらっしゃるのでしたら、連絡先を教えてほしいんです。私は今日、そのためにここに参りました」

 リーシャが言葉を切ると、室内には沈黙が満ちた。リラナはなぜか顔色を曇らせ、首を振ってくる。

「それは、無理ですね。マアラには会えません」

「なぜですか?マアラがすでに退所していることは私も承知しています。マアラももう十八になるはずですからね。すでに退所した子供の居住地は、確かに先生でも完全には把握していないでしょう。しかし退所する時に、とりあえずどこを新たな住まいとしたのか、それは全員が報告するはずです。私も退所する時、旦那様のお邸の所在地を、先生にお伝えしましたよね?勿論、マアラがまだその居住地に住んでいるとは限りませんが、しかし転居していたとしてもまだ数年しか経っていません。それなら行き先を辿ることも容易にできます。その場合、マアラの転居先は私が自力で探します。先生に手間をかけさせたりはしませんから、教えてください。私はどうしてもマアラに会いたいんです」

 しかしリラナはなおも首を振ってきた。それはできないの、と口調だけは宥めるような明確な拒否を伝えてくる。

「マアラは退所したわけではないのよ。形の上では、あの子はまだここに在所しているの。けど、会うことはできないわ」

 退所していない。リーシャはその言葉に思わず首を傾げてしまった。

「どういうことですか?マアラはもう、十八ですよね。十八でまだ、孤児院に暮らしているんですか?なのにどうして会えないんですか?」

 自然、問い詰めるような口調になっていた。すると、まるでそれに気圧されたようにリラナは口籠もり、しばし沈黙する。だがそれはほんの僅かの間だった。やがて彼女は何かを諦めたかように溜息をつく。そして徐に、驚かないでね、と話しかけてきた。

「マアラはね、いなくなってしまったの。失踪してしまったのよ。三年前に。そしてまだ、見つかってないの」


「あら、意外と早かったのね。もっと時間がかかるかと思ってたわ」

 リーシャが車に戻ると、車内で何やら本を読んでいたアリシェイルが驚いたようにそう声をかけてきた。リーシャは首を振って、人と会うだけですからとだけ答える。それからアリシェイルに向き直って頭を下げた。

「――あの、重ねて我が儘ばかりいって非常に申し訳ないのですけれど、帰りにどこでもいいので図書館に寄ってもらえませんか?少し、調べたいことができたのです。時間はとらせません。それが済んだら今度こそもうどこかに行ってくれだなんて申しませんから」

 いいわよ。アリシェイルはリーシャの頼みにあっさりと頷いてくれた。それから彼女は苦笑混じりに言葉を添えてくる。

「それくらい、大したことじゃないんだから、もっと気楽にいっていいのよ。図書館に寄ればいいのね?じゃあうちの近くの国立図書館に寄るわ。あそこなら蔵書も多いし、たぶんどんな資料でも置いてあるでしょう。私もなかに入ってゆっくりと読書するから、リーシャもゆっくり調べものをなさい」

 ありがとうございます。リーシャが礼を述べると、アリシェイルは後部座席から軽く身を乗り出して運転席に声をかけた。車を出すよう指示する。運転席に座った中年の運転手はそれに頷いて車を発進させた。車が動き出すと、リーシャはなんとなく車窓を振り返ってしまう。視線の先では、かつての我が家だった孤児院が徐々に小さくなっていった。

 その様子を見ていると、リーシャの脳裏には、応接室で交わしたリラナとの会話が甦ってくる。

「マアラが失踪したってどういうことですか?どこに行ったというんです?それも三年も行方が分からないだなんて。先生たちはきちんと探してくれたんですか?」

 リーシャが詰め寄ると、リラナは僅かに怯んだような素振りをみせた。

「勿論捜したわ、といっても信じてはもらえないでしょうけど。マアラも私にとっては大切な子供の一人であることには変わりありませんからね。私はこう見えても必死で捜したの。警察にも連絡して、新聞社にも報せて記事を載せてもらって、ラジオ局にも報せて呼びかけの放送もしてもらったわ。マアラの行きそうな店も全て訪ねて、それでも見つけられなかったの。この三年間、一度も彼女から音沙汰なんてなかった。マアラの連絡先なんて、私のほうが教えてほしいくらいよ」

 リーシャにはリラナは心底マアラのことを案じているように見えた。

「マアラはいつ、どういう形で失踪したのですか?」

 リーシャにはマアラが失踪しなければならない理由なんて思い浮かばない。リーシャはマアラのことならよく分かっているつもりだった。リーシャは四つの時に自宅の火災で両親と祖父母を同時に喪って、それでこの施設に引き取られたのだが、その頃から彼女とはずっと同室で、一緒に暮らしていたからだ。マアラはリーシャよりも三つ年上で、だからずっと、リーシャにとってマアラは姉のような存在だった。

 問い質すと、リラナはどこか遠くを見るような目をした。マアラが消えた当日のことを、思い出しているのかもしれない。

「いつなのかしら。正確な時刻は私にも分からないのよ。マアラは本当に突然、いなくなったの。あの日、朝食の席に出てこなくて私が部屋を見に行った時には、もう姿は見えなくなっていて」

 リラナによると、マアラの姿が見えなくなったのは三年前の夏、ちょうどリーシャがレイムとアリシェイルの家に移って三月ほどがした頃のことだったらしい。朝食の時間になってもマアラが食堂に来ないので、まだ寝ているのかと起こしに行ったらすでにいなかった、ということだった。寝台には寝乱れた跡があり、彼女の衣服と靴はなくなっていた。さらに窓も開いていたことから、リラナは当初、マアラは深夜に窓から出て夜遊びに行ったものと考えたらしい。それならじきに帰ってくるだろうと、その日は何もせずに様子を見ていた、とのことだった。

 なるほど、それだけなら確かにマアラは夜遊びに行ったのだと解釈できる。リラナの判断はリーシャにも納得できた。そういう子供はリーシャがここで暮らしていた頃から度々いたからだ。勉強だけの暮らしから抜け出して、外で羽目を外して遊びたくなる気持ちはリーシャにも理解できたし、リーシャ自身も何度かそうして抜け出したことがある。見つかって叱られるのを防ぐために普通は皆が寝静まった深夜に密かに抜け出して、朝食の時間よりも前に帰ってくるものだが、抜け出した時間や出向いた場所によっては朝までに帰ってこれないことはよくあることだった。姿が見えなくなったのがそれだと考えられたのなら、一日くらいは放置されたとしても特に不思議なことはない。しかしそれきりずっと姿が見えないというのならば問題は異なってくる。マアラの身に、何事かが起きたとしか思えないからだ。さすがに夜遊びで無断外出して、そのまま外泊までする子供はリーシャも聞いたことがない。マアラがその日に帰ってこなかったのなら、何事かがマアラの身に起きて、帰ってこれなくなったと考えるのが自然だった。たとえ最初は夜遊びで、自分から施設を抜け出したとしても、その後で何かが起きて、彼女は自分では帰ってこれなくなったのだ。

「けど、マアラの行方は今もそのまま、分からないままなのよ。翌日になっても戻ってこなくて、私はすぐさま警察に届け出たわ。新聞社にも、ラジオ局にも連絡して、施設の皆も総出で街を探して、なのにそれでも彼女を見つけることはできなかったの。今も、ずっと」

 リラナは本当に嘆くように言っていた。少なくとも彼女が嘘を言っているようにはリーシャには聞こえなかった。マアラは本当に、突然、失踪したのだろう。そう思えた。

 その後、リーシャはかつて自分がマアラと暮らしていた部屋をリラナに見せてもらうことができた。あの部屋は、未だにマアラが消えた当時のままになっていた。マアラはまだ、一応はこの施設の在所児のままになっているのだから、新しく入った子供の居室にはしていないらしい。幸い、そうしていても部屋が足りなくなるような事態は起きておらず、居室には余裕があるらしかった。それでそうした保存も可能になっているのだという。

 だから部屋には今もマアラの私物がそのまま残されていた。リーシャが退所してからはマアラは居室を一人で使っていたらしい。リーシャが使っていた寝台にも机にも、マアラの衣服や小物が当然のように置かれていた。読書が好きで、文芸が唯一の趣味だったという彼女は、勉強の合間によく詩歌や物語を書いていたが、それらを綴ったノートも、机の抽斗に残されていた。

 しかしかつてリーシャがこの部屋で読ませてもらった、今はなぜかエリシア王国の男の名で出版されている物語の原稿だけは、この部屋にはなかった。リーシャはリラナに、マアラが失踪してから何かなくなったものがないかと訊ねてみたが、リラナは首を振った。マアラ以外に、マアラの持ち物で消えている物はないという。この部屋には毎日、自分が換気と簡単な掃除のために出入りしているから、彼女が失踪してから何か物が消えれば、すぐに気づくと。

 ならばあの物語は、マアラがまだ孤児院で暮らしていた頃に、エリシア王国に渡っていたということになる。そうでなければマアラ自身が、あの物語を持って失踪したのだ。いったいいつ、あの物語はあの部屋から消えたのだろう。自分が退所した時には、確かにあの物語はマアラの手許にあったのだ。前日にリーシャが他ならぬマアラに読ませてもらったのだから間違いなどあるはずがなく、あの物語が消えたのは、自分が退所してからマアラが消えるまでの間であることは確かだ。

 ではその間に、いったいマアラに何が起きていたというのだろう。リーシャは自分が退所してからのリーシャの様子を訊いてみたが、リラナの答えは特に変わった様子はなかった、というものだった。当たり前に暮らし、当たり前に勉強し、近いうちに訪れる将来の自立のために準備をしていた。マアラは失踪した年の冬にここを退所する予定だったらしい。だから当然、当時はそのための準備で忙しくしていたはずだが、それでも目立った揉め事など起こしているようには見えなかったということだった。施設の他の子供とも諍いが起きているような様子もなく、関係も良好。特に親しいといえるほどの人間はいなかったようだが、喧嘩をするほど険悪な関係の者もまた、いなかったらしい。

 ならばマアラが突然失踪せねばならなくなった理由は、施設の外にあるのだ。リーシャは自分のその考えにほぼ確信に近い感情を抱いていた。マアラはリラナが推測した通り、夜遊びで施設を抜け出したのだろう。そしてその外出先で何かがあったのだ。ありえることだろう。夜の街には危険な人間が多い。若くて世間を充分に知らない女の子が不用意に歓楽街など歩いていれば、様々な危難が想定される。失踪当時の彼女は今の自分と同じ、十五歳だ。何が起きていたとしてもおかしくはないはずだ。

 しかしそれならば、図書館や警察、新聞社で、当時の新聞などの記録を調べれば、何か分かることがあるかもしれない。

「――シャ、リーシャ、どうしたの?」

 ふいに呼びかけられてリーシャは物思いから覚めた。アリシェイルのほうを振り返る。アリシェイルは心配そうな表情をしていた。

「ぼうっとしちゃって、どうしたの?車に酔った?少し降りてみる?」

 リーシャは首を振った。

「そういうわけではありません。ご心配いただきまして、有り難うございます。私は大丈夫です。少し、考え事をしていただけですから」

「そう?なら、いいけど。もうすぐ国立図書館に着くわよ」

 言われてリーシャは意識を車窓の外の景色に向けた。確かに外の風景は、リーシャにとって見慣れた街のものに変わっていた。気づかぬうちにそれなりの時間が経っていたらしい。すでにあの孤児院の姿は全く見えなくなっていた。



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