発覚
お帰りなさいませ、旦那様。
レイムは己が召し抱える侍女たちに出迎えられると、自邸の表扉のなかに足を踏み入れた。すると途端に芳しい花の香りが彼の鼻腔をくすぐり始める。最近、妻のアリシェイルが凝っているというの香りだ。彼女は邸内のあちこちで様々な香を焚いている。目を閉じていても、香りを嗅げば邸のどこにいるのか分かるほど、今の邸内の各所は芳しい香りで溢れていた。それで彼は近頃、この香りに包まれると実感が湧いてくる。我が家に帰ってきたなと。
その安堵を伴う実感とともに、花の香りのなかを彼が居間へと歩を進めていると、廊下の奥のほうから侍女の一人が彼に近づいてきた。
「旦那様、お帰りなさいませ。――あの、早速で申し訳ないのですけれど、今、宜しいでしょうか?」
何だね。彼は足を止めて小柄な若い侍女を見下ろした。侍女は短く用件を告げてくる。
「志生のリーシャさんが、旦那様がお帰りになられたらすぐにお訊ねしたいことがおありになるそうです。お呼びしても構わないでしょうか?」
何だ、そんなことか。彼は苦笑した。
「構わんよ。何か大事でも起きたのかと、思わず身構えてしまったが、とんだ取り越し苦労だったようだな。――リーシャには、すぐに居間に来るように言いなさい。そこで話を聞こう」
畏まりました。侍女はレイムの言葉に一礼すると、廊下を急ぎ足で去っていった。彼はそれを見送ってから居間に入る。ゆったりと長椅子に腰かけて寛ぎ、侍女たちに命じてステレオの電源を入れさせ、お茶を淹れさせた。彼の家には高価なステレオが据えられている。一日の務めを終えた後に、居間のステレオでお気に入りの歌手のレコードを聴きながら酒を飲むのが、彼の平日の楽しみだった。今も本当なら葡萄酒でも嗜みたいところだが、リーシャと話さねばならないのだから少し我慢せねばならない。志生とはいえ、他人と話すのに自分が酔っていては礼儀に反する。
それで侍女に淹れさせた熱い紅茶を飲みながら、レイムがレコードの歌声に耳を傾けていると、しばらくしてリーシャが居間に入ってきた。侍女に導かれるようにして彼の前に現れたリーシャは、傍で見ていても分かるほど蒼白になっていた。
レイムは驚いた。思わず腰を浮かせ、リーシャのほうに身を乗り出してしまう。
「どうしたね、リーシャ。真っ青になっているぞ。大丈夫か?」
彼が問いかけると、それで初めてリーシャはレイムの方に視線を向けてきた。力ない微笑みで、大丈夫です、と返してくる。
「――昨夜、少し遅くまで起きておりましたから。少々、疲れているだけです。たいしたことはありません」
そうか?レイムは怪訝に思ったが、リーシャ本人に大丈夫と答えられると、それ以上問い質すのは難しかった。元通り長椅子に座り直したが、しかしもうゆったりと寛ぐ気にはなれない。リーシャのほうが気になって視線も注意も彼女に向かってしまう。
「本当に疲れているだけなのだな?風邪を引いたのなら、無理はしなくてよいのだぞ。無理をして、身体を壊してしまっては、それこそ大事になる。リーシャが訳している作品はどれも、大勢の読者が翻訳が出るのを日々楽しみに待っているような人気作家の注目作ばかりなのだからね」
人気作家の、注目作。リーシャはなぜか呆然と呟くようにレイムの言葉を反復した。それから徐に彼のほうを見つめてくる。
「――あの、実はそのことで、私には、旦那様にお伺いしたいことがあるんです。旦那様が昨夜、ティラを通じて私に頼んできた翻訳のことで」
「昨夜?――ああ、あのエリシアの物語のことか」
レイムはリーシャの言いたいことを悟った。
「あれはかなりの大長編だからな。リーシャにはまだ難しかったか?リーシャにはまだ、あれほどの長編の訳を任せたことなどなかったからな。しかしあの国ではかなり人気のある作品らしいからね。そんな話題作の翻訳を手がけたとなれば、リーシャの翻訳家としての知名度も、一気に上がるだろう。そうなれば喜ばしいと思ったから任せたんだが、もしもまだ無理だというのなら、辞退してくれても構わないよ。もっと短い、今までどおり中編か短編の翻訳を任せよう。あの作品の翻訳は、もっと経験の長い、別の翻訳家にお任せすることにするから」
リーシャの思いを察し、早く安心させてあげようと先んじてレイムは言葉を紡いだのだが、しかしリーシャは首を振った。そういうことを伝えたいのではありません、と呟くように口を開いてくる。
「そういうわけではありません。私が旦那様にお訊ねしたいのは、そんなことではありません。あの作品の翻訳は、私がきちんと最後まで引き受けます」
「なら、リーシャは私に何を訊きたいのかな?」
レイムが首を傾げてみせると、リーシャはレイムを真正面から見つめてきた。書き手のことですと答えてくる。
「私は、あの作品の書き手のことを知りたいのです。原作者ですね。いったいどこのどなたが、あの作品を最初に書き上げたのでしょう?旦那様はご存じでしょうか?」
「なんだ、そんなことが訊きたかったのか」
レイムは気が抜けるような思いを感じた。
「どんな重大なことを問われるかと身構えてみれば・・。原稿には書いていなかったかね?ディルム・エルファスという人物だよ。まだ若い青年らしいな」
答えてあげると、リーシャはいつもにも増して真剣な眼差しでレイムを見つめてきた。
「青年ということは、あの作品の書き手は男性で間違いないのですか?どういう方なのでしょうか?エリシア王国で、あの作品が出版されたのは、いったいいつ頃のことなのです?」
「書き手は男性だ。私は会ったことはないが、ディルム・エルファスという名前は男の名前だからね。それに、翻訳の権利を買った時に会った、エリシアの書籍商人は書き手と面識があるらしい。ならば、間違いないだろう。その商人によると、なかなかに見栄えのいい、若い男だそうだ。初版が出版されたのは今から三年前だそうだよ。その当時はあまり売れなかったらしいが、去年、エリシアでも有名な劇団が、あの作品を基に映画を作ったらしくてね。それがあまりにも評判が良くて、本のほうも自然に売れるようになったらしい」
そうですか。リーシャはレイムの言葉を聞くと、視線を逸らしてどこか遠くを見つめだした。彼女の双眸は、何かを悟ったようないろをしている。
「有り難うございました。私の聞きたいことはそれだけです。お時間をとっていただいて申し訳ありません」
「それだけ、なのか?」
レイムはすでに居間の外に向かいかけているリーシャに呼びかけた。
「それだけのことをわざわざ訊きにきたのか?いったい何が、それほどに気になったのだ?」
「大したことでは、ありません」
リーシャは首を振った。
「あれほどの大作を、いったいどのような方が書いたのかと、それが少し、気になっただけですから」
「そう、なのか?ならもう少し、ここでゆっくりしていってはどうだ?」
レイムは自分の向かいの長椅子を指した。
「リーシャにも何か、温かいものでも持ってこさせよう。リーシャは酒は飲めないのだったな?ならリーシャにも熱い紅茶を淹れさせるから、たまには二人でのんびりとレコードでも聴かないか?この歌手はなかなかいい声で歌う。是非、リーシャの感想も聞いてみたい」
「有り難いお言葉ですが、それはまたの機会にお願いいたします」
リーシャはやんわりと微笑んで拒んできた。
「翻訳を、少しでも先に進めておきたいですし、学院の復習もしておきたいですから。今日は学院で、音楽の授業があったのですけど、私はどうしても、楽器が苦手なのです」
そうだったな。レイムも微笑み返した。
「なら、私こそ済まなかったね。頑張って練習しておいで。リーシャが素晴らしい音色を奏でられるようになるのを、今から楽しみにしているよ。レコードは、もっと落ち着いてから二人でゆっくりと聴こうか」
本当に有り難うございます。リーシャは重ねて礼の言葉を述べてきた。
「しっかりと練習しておきます。近いうちに必ず、旦那様が満足なされる演奏で、旦那様が最もお好きな曲を、お聞かせいたしますから」
間違いない、盗作だ――。
リーシャはレイムのいる居間を出ると、まっすぐに自分に与えられている部屋へと戻った。扉を閉めて机に歩み寄る。机の上には昨夜、ティラを通してレイムから預けられた原稿が載っていた。
原稿に記されたエリシア王国の文字を、視線で追っていく。異国語の得意なリーシャは、エリシア王国の言語でも母国語と同じくらい自然に読むことができた。視線を動かせば、それと同時に内容も頭に入ってくる。何度読んでも疑いようがなかった。いま自分の目の前にある文章は、マアラの文章そのものだ。
――けどマアラは、男性じゃない。
それだけは確かなことだった。三年前までは一緒に暮らしていた幼馴染みの、性別を今さら間違えるはずなどない。マアラが書いたはずの物語、未だ公にはなっていないはずの物語が、隣国の、自分には全く覚えのない男性の手によって異国語で書かれ、すでに出版されている。しかもこの国の人間が、わざわざ翻訳の権利を購入して出版しようとするほどに、よく売れた作品として今もなお流通しているのだ。この事実に、リーシャは愕然とした。こんな事態は、マアラの書いていた物語が、いつの間にかどこかで、盗まれていたのではなければ起こり得るはずがない。幼馴染みの書いた物語は、三年前までは一緒に暮らしていたはずの自分ですら気づかぬ間に、密かにエリシア王国の人間に盗まれていたのだ。それ以外に、目の前の原稿がここにこうして、異国の他人を著者として存在している理由が分からない。
最初はマアラが男性の名前を筆名として使っているのかと思った。こういった物語の書き手は、時として実際の性別とは異なる性の名を、筆名に用いることがあると聞いていたからだ。しかし実際に書き手に会ったことがあるという人物が、男性だと明言したというのならその可能性はもはやない。すると、後はマアラが、自らこれを書いたことになっているディルム・エルファスとかいう男性に原稿を売却あるいは譲渡したという可能性しか考えられなかったが、リーシャにはその可能性は限りなく低いように思えた。これほどの大長編を書くためにはかなりの時間と根気がいるはずだ。マアラが書いているのを、ずっと横で見てきた自分はそのことをよく知っている。マアラは確か、これを書くのに一年以上の月日をかけたのではなかったか。それでもこの量なら速く書けたほうに入るのではないかとすら、リーシャは思っている。リーシャには自力で物語を一から紡ぎ上げられるだけの意欲も能力もないから執筆の実際など想像しかできないものの、好きでなければ到底、それだけの時間で書き上げられる分量ではないだろう。それほどに愛着のあるものを果たして、どれほど親しかったとしても他人に渡せるものだろうか。その者の名前で発表してもいいと、許可するものだろうか。たとえどれほど金銭に困っていたとしても、いや、もしもそうであったならなおさら、マアラが自分の名前で発表するだろう。自分で書いた物語は、作者にとって何物にも代え難い財産のはずだし、他人に売るよりも自分で発表したほうが、得られる利益も名声も、より大きなものになる。
にもかかわらずここに全くの別人の名前で発表されたマアラの作品がある。これが、マアラが筆名を使っているのでも、マアラ本人が誰かに譲り渡したのでもないのならば、もはやマアラの作品は盗まれていたと考えるのがいちばん自然だった。マアラの作品は、三年前に本人も気づかぬうちに誰かに盗まれていたのだ。盗んだのも発表したのも、エリシア王国の人間なら、マアラはまだそのことに気づいていないかもしれない。もしも彼女がすでに気づいているのなら、とうにこの、ディルム・エルファスとかいう人物に対して訴えを起こしているはずだし、まだそんなことにはなっていないからだ。もしもそうなら、盗作の疑惑がある作品の翻訳の権利など、レイムがわざわざ買うはずがない。そんなことをして、権利を買った後で作品が盗作だと認定されたりしたら、売ることができなくなる。あのレイムが利益を出せずに損失だけを抱え込むような危険なんか冒すはずがない。
――けどいったい、どうしてエリシアの人間なんかに、マアラの作品を盗むことができたのだろう?
あの部屋に入ることができた人間は、限られていたはずなのに。