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学院生活

 王立学院では、天文学は必修の授業だった。

 それ故、学生の負担が最も大きいのもこの授業である。少なくともリーシャはそう感じていた。リーシャが星を見るのは好きだと、アリシェイルに言ったのは決して嘘ではないのだが、授業の大部分が天体観測の時間に当てられているためどうしても深夜に学院に行かねばならないというのは、リーシャのような仕事のある学生にとってはとても辛い。星図の読み方や描き方、占星術の解説が扱われる時は普通に昼間、教室で授業を行うことができても、天体観測は実際に夜中に星を見ながらでなければ行うことができないのだから仕方がないのだということは、頭では理解できている。しかし深夜に授業があっても翌日も朝から別の教科の授業があるとなってはほとんど寝る時間もないのだ。不満を抱いている学生も、決して自分だけではないはずだ。

 急いで出た甲斐もあって、リーシャは無事、遅刻することもなく学院に戻ることができた。同じようにいったんは帰宅して、夕食だの自習だの、あるいはリーシャのように仕事をしたり、余裕のある者は遊んだり僅かでも仮眠をとったりして再び戻ってきた学生たちと、天体観測の時に必ず集合させられる学院の中庭に向かう。リーシャが到着した頃には、すでに師範と数人の学生が中庭にいて、授業で使う望遠鏡の調整をしながら何やら熱心に討議していた。いずれも特に天文に熱心な学生たちだ。彼らは卒業したら天文を生業にした職業に就くと周囲に明言している者たちで、いつも授業の前後には師範とよく話し合っている。おそらくを志望しているのだろう、リーシャはそう思っていた。天師は国立の天文台に勤務して天体を観測し、国の農業の基盤となる暦を作成する者のことだ。天文学の授業に熱心になるのは、たいていそうした天師を目指す者たちで、そうでなければほとんどの学生はそれほど真剣には授業など聞いていない。聞いても日々の暮らしにそれほど役に立つ学問ではないからだ。必修の授業だから仕方なく出席をし、試験で定められた得点以上の点数を取って修了するために誰もがそれなりの勉強はしているものの、修了すればほとんどの者は知識を忘却の彼方に押しやっていくのが常らしいと、以前に聞いたことがある。

「――このセリアヌス星座は、今の時季は必ず南南西のアリティアス星座の北東に見える。方角を知る際の指標となる星座の一つだ。皆、よく覚えておきなさい」

 師範の言葉を受けて皆、それぞれに夜空を見上げて星座の位置を確認した。リーシャもそれに倣う。星座の位置をしっかりと記憶した。本当はすぐさまノートを開いて記録をつけたかったのだが、机もなく明かりも僅かな庭園灯しかない中庭での筆記は難儀を極めるため単に記憶するに留めた。他の学生たちも同様のようで、手を動かしている者はほとんどいない。師範の口にした言葉はしっかりと記憶するに留め、帰宅してから忘れぬうちに今日の星の動きを星図としてノートに記録するというのが、ほとんどの学生にとっての天文学の学習方法だった。

 師範による星座の説明がひと通り終わると、学生は順番に師範が用意した望遠鏡を覗き込んでいく。肉眼で観察した星座の形を、さらに詳細に見るためだ。望遠鏡は高価なもので、王立学院でもほとんど所有していない。したがって望遠鏡で観察するためにはいつも列に並んで順番を待たねばならず、定められた授業時間中に全員が観察を終えるためにも一人が望遠鏡を使える時間は制限されていた。よってどの学生も列に並んでいる間に何をどう観察すべきか、短い時間でも多く観察できるよう要点を取り纏めてから観察に臨んでいる。もっとも学生が望みさえすれば、授業が終わった後でも師範が好きなだけ望遠鏡を覗かせてくれるらしいが、天文学以外にも必修の教科が山のようにある王立学院で、天師を志す者以外にそこまでする酔狂はいなかった。

 リーシャもその一人で、リーシャは自分に与えられた観察時間が過ぎるとそのまま帰路についた。望遠鏡を使っての観察は常に授業の最後に、一日のまとめとして行われる。観察の終わった者から帰宅することになっていた。それで観察が終わると誰もが皆、足早に学院を去っていく。早く帰って記録をつけねば授業の内容がどんどん曖昧になっていくし、翌日も朝から授業があるのだから、それまで少しでも寝ておかねば体力が保たない。

 アリシェイルは遅くなるようなら電話するようにと言っていたが、リーシャは一人で帰宅した。天文学の授業が深夜になるのはいつものことだし、学院からアリシェイルの家まではたいした距離でもない。小さな子供でもないのに、夜だからといって三年も通って慣れた道の迎えを頼むのも気が引ける。それに、リーシャが電話をすれば実際に自分を迎えに来るのはアリシェイルではなく、あの家に暮らす下男の誰かになるのだから、いつもであればすでに寝ている彼らを、一介の志生ごときの迎えのためだけに起こすだなんて申し訳ない。彼らも自分同様、朝は早いのだ。

 帰宅するとリーシャは住人の寝静まった邸内を足音を忍ばせて歩き、静かに自分に与えられた寄宿部屋に戻った。明かりをつけて急いで今日の授業の内容をノートに書き留めていく。天文学の授業は自分が書いたノートこそが教典だ。試験は授業で師範が語った言葉のなかからしか出題されない。よって常に正確に書いておくことが必要だった。曖昧なところがあれば、自分で学院の図書館に行き過去の星図を紐解くか、個別に師範を訪ねて教えを乞うなりして確認しなければならない。

 ノックの音が聞こえてきたのはその作業をしている時のことだった。ひたすら自分の記憶の掘り起こしにかかっていたリーシャは、その音に驚いて思わず扉を振り返っていた。

「どなたですか?鍵はかかっていませんから、自由に入ってきていいですよ」

 こんな夜中に誰だろう。まさか、アリシェイルとも思えないが。

 リーシャは疑問に思ったが、しかしその疑問はすぐに解消された。扉を開け、静かな足取りでワゴンを押しながら部屋に入ってきたのは、この家に仕える侍女だ。ティラという、リーシャより年下の、まだ十四歳にしかならない少女だが、細やかなことにもよく気の回る娘で、家内の誰もに目をかけられている。

「――あの、夜食です。奥さまが、リーシャさんが帰ってきたら持っていってあげなさいって仰ったので、持ってきました」

 ティラはワゴンに載せられた夜食を小さな円卓の上に置き始めた。それでリーシャはノートに筆記していた手を止めるとそちらに向かう。円卓の上では温かそうな湯気を上げるシチューとパン、それにオムレツと果物の砂糖煮が載っていた。美味しそう、と思うと急速に空腹が生じてくる。そういえば自分は夕方に帰宅してすぐ翻訳の仕事にとりかかって、夕餉を食べる機会を逸していたのだ。そのことをいま思い出した。

 リーシャはティラに礼を言って円卓の傍に椅子を引き寄せて座り、夜食を食べ始めた。熱いシチューを啜っていると、ティラが遠慮がちに言葉を添えてくる。

「お風呂、まだお湯は残してありますからね。いちおう、お湯は浚ってありますから。後でちゃんと入ってくださいよ」

「有り難う。嬉しい。勿論、後でちゃんとお湯も使わせていただくわ。いつもごめんね。夜遅くにいろいろと面倒をかけて」

 リーシャは改めて礼をいった。するとティラははにかんだように微笑んで、そんなことないですよ、と首を振ってくる。

「面倒だなんてことないです、これが私の仕事なんですから。リーシャさんのほうこそ夜中までお勉強があってたいへんなんじゃないんですか?そのうえお仕事もあって。きっとすごく難儀しているのでしょうけど、頑張ってくださいね。新作、面白かったですから」

「もう読んだの?早いわね」

 リーシャは驚いて思わず言葉を返してしまった。アリシェイルに新作の原稿を渡したのは今日の夕方のことだ。あれからまだ数時間しか経っていないというのに、もう彼女は読み終えてしまったというのか。しかも読み終えてさらに、ティラにまで回して、ティラもまた、読み終えることができたというのか。

「はい。昨日、街の書物店に買いに行ったんです」

 リーシャの驚きなど意に介した様子もなく、ティラはリーシャの問いに、あっさりと頷いた。

「最新刊の氷の炎。私、リーシャさんの文章、大好きなんですよ。応援してますから、また書いてくださいね」

 微笑まれてようやく、自分が勘違いをしていたらしいことにリーシャは気づけた。氷の炎は今日翻訳を終えた作品よりも少し前に訳を終えた、同じくララ・レイシェラの物語だ。なるほど、ティラの言う新作とはあの本のことか。それはそうかもしれないとリーシャは納得した。アリシェイルがそれほど早くに原稿を読み終えるとも思えないし、売り出し前の作品を彼女が気安く侍女に回し読みさせるとも思えない。そんなことをして発売前に作品の内容が外部に漏れるようなことがあったら販促に支障が出るかもしれないからだ。

 リーシャはティラに微笑み返した。

「有り難う。実は今日の夕方に、また新しい作品の翻訳を終えたのよ。原稿は今、奥さまに預けてあるから、すぐに本になって街の書物店に並ぶと思うわ。氷の炎と同じ、ララ・レイシェラの作品だから、きっとティラには楽しんでもらえると思う」

「ほんとですか?すごい楽しみです。店頭に出たら、真っ先に買いに行きますね」

 ティラはリーシャが伝えると、リーシャが思っていた以上の喜びを表してきた。翻訳であっても自分が執筆した作品を、他者に待ち望まれるというのはとても嬉しい。リーシャはなんとなく舞い上がるような気分に包まれ、シチューを口に含んだ。冷える夜に温かいシチューはそれだけでどんな美食にも勝るものがある。味加減も絶妙で、深夜に食べるリーシャの身体に負担にならないようにだろう、いつもよりもずっと薄味で肉も野菜も柔らかく煮てあった。味加減で作ってくれたのがティラの同僚のシェラナだと分かる。彼女の配慮が感じられることも嬉しい。

 リーシャが夜食を食べ終えると、それを見計らっていたかのようにティラはリーシャに、紙でくるまれた何かの包みを差し出してきた。旦那様からの預かりものだという。受け取ってみるとかなり重かった。ワゴンに乗せていたとはいえ、ここまで運んでくるのは大変だったかもしれない。

「その包みは旦那様からです。今日のお昼過ぎに、私が旦那様からお預かりいたしました。新作の翻訳を終えたら、次はそれを訳してほしいそうです。ララ・レイシェラ女史と同じ、エリシア王国の方が書かれた物語だそうですよ」

 物語か。それを聞いてリーシャは思わず自分の手のなかの包みに視線を落とした。ずしりとした重さを感じる。物語でこれだけの重さがあるということは、かなりの大長編だということだ。少なくとも中編以上の長さがあるのは確実で、いつになく緊張するのを感じる。リーシャはまだ、これほどの長編の物語の翻訳は手がけたことがなかった。今までに訳した作品は全て中編以下の短い物語で、氷の炎も今日訳し終えたばかりの新作も、どちらも中編だ。

「旦那様は、翻訳は急がなくてもいいと仰っておられました。リーシャさんがこれほどの長編を訳すのは初めてのことになるのだし、学院の授業もあるのだから、時間をかけてゆっくりと仕上げてくれて構わないそうです。――食器、お下げしますね。お風呂も入られてください。少しでもあったかくしてから休まれないと、お風邪を召してしまいますよ。そうなったら大変ですから」

 分かったわ。リーシャは微笑んで空の食器だけをワゴンに戻して部屋を出ていくティラを見送った。一人になると、原稿の入った包みを棚の上に置いて再びノートに視線を送る。間違いなく今日の授業の内容がそのまま記されていることを確認すると、今度は棚から水桶を取り出した。空の水桶の中に入浴に必要な道具は全て入れてある。今日はもう、湯を浴びて休もう。明日も朝から授業がある。しかもリーシャにとって最も苦手な音楽の授業のある日だ。苦手科目だけによりいっそう授業に集中できるよう、朝まで少しでも休んでおきたい。

 翻訳は、明日の夕方から取り組めばいいんだから。


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