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卒業~そして夢へ~

 終業を知らせる鐘の音が鳴り響くと、リーシャは我先にとエントランスホールに走った。王立学院では、学生が電話機を使用できるボックスはエントランスホールにある。今の時期は毎年、連日のように行列ができるボックスだが、幸いなことに今はまだ電話ボックスのなかは無人だった。それでリーシャは急いでボックスの扉を押し開けて中に入る。受話器を取り上げ、財布から硬貨を取り出して電話機の投入口に落とし込んだ。もはや暗記してしまった新聞社の電話番号をダイヤルする。

 ラディオルはすぐに電話に出てくれた。初めてこのボックスから新聞社に電話をかけた時に、慣れない電話機に緊張したことを今でも覚えているが、今はもうそんなこともなくなっていた。電話機は単に自分の声を相手に伝えるための中継機械だ。怯える必要のあるものではない。

 それでいつもと同じように、リーシャはラディオルと気楽な感じで話した。王立学院の卒業式が明日であること、今日はその式の予行練習があったこと、無事に卒業ができることを報告する。

「――いちおう、ご報告しておこうと思ったものですから。あと、国営放送局も、無事に合格できましたし」

 院長を孤児院の部屋に呼び出したあの日の後も、リーシャはラディオルと頻繁に連絡を取り合っていた。リーシャにとってあの事件は、院長が警察に行って終わりではないからだ。

 あの後、リーシャやラディオルとともに警察署を訪れて告白した院長の言葉に基づいて、警察は院長の自宅を捜索した。院長は孤児院の院内に住み込んでいたリラナとは異なり、王都にそれなりに大きな邸を構えてそこで暮らし、そこから施設まで通ってきていたらしい。その自宅を捜索したら、そこで呆気なくマアラは見つかったのだ。正確にはマアラの亡骸が。マアラの遺体は、その邸の中庭に埋められていたということだった。

 その後の警察の捜査がどうなったのか、刑事ではないリーシャには詳しいことを知ることができなかったものの、大まかなことは新聞報道とラディオルの口から教えてもらうことができた。だから最低限のことは理解しているし、それで良かったとも思っている。長年暮らしをともにしてきた幼馴染みの遺体と、正面から向き合ってその死因を究明していくなど、とても自分にはできそうになかった。

 リーシャに任されていた、ディルム・エルファスのものとされていた作品の翻訳は、結局取り止めになってしまった。院長の告白とラディオルの書いた記事によって、作品が盗作であることが誰の目にも明らかなものとなってしまったからだ。レイムの判断で、翻訳も国内での出版も全て中止が決まった。レイムは盗作作品を売りつけられて損害を被ったとして、作品の翻訳と出版の権利を売ったエリシアの書籍商人を、告訴する準備を始めているらしい。書籍商人は知らなかったと主張しているらしいが、おそらくそんなことはありえないだろうとリーシャは思っている。なぜなら書籍商人が初版本を出した時点ですでに、本物のディルム・エルファスが行方不明になっていたことが分かったからだ。作家がいないのに作品が出るわけがない。最初から彼が行方不明であることを知った上で、巧く罪を被せるために利用していたのは明らかだろう。

 本物のディルム・エルファスの行方は、今に至っても分かっていない。彼はレイムの推測どおり行方不明になっていて、そのことが院長に今回の盗作を企てるきっかけを与えていたのだ。院長は旅行でエリシア王国を訪れて、その際に偶然、彼の失踪の事実を知ったらしい。その時にこの事実を利用することを思いついて、知り合いの書籍商人に話を持ちかけたということだった。院長の邸からマアラ以外の遺体は発見されておらず、証言にも辻褄が合っていることからいちおうこの話は真実として扱われている。院長は、彼は海難事故に遭ったのではと考えているらしかった。警察でもそう考えているようだと、ラディオルが教えてくれた。ディルム・エルファスは行方不明になる直前、漁船に乗り込んで漁師を手伝う仕事を主にしていたらしく、彼を雇っていた漁師の一人が、彼の失踪にちょうど重なるようにして、海の事故で亡くなっているからだと。遺体は見つかっていなくても、海難事故ではそういうことはよくあることだから特に疑問はないということだった。ラディオルもその考えで納得しているらしい。弟は音楽家を目指してエリシアに移住していても、うまくいかなくて苦労しているようだったからと話してくれた。ディルム・エルファスは兄からの定期的な送金と、いくつかの日雇いや期間雇いの仕事を掛け持ちすることでかろうじて食い繋いでいたらしい。それならばリーシャも納得できた。日雇いや期間雇いで生計を立てていくならば、どうしたって農業や漁業などの手伝いや、工場や商家の下働きのようなことをすることになる。リーシャの両親も、祖父母もそうだったからだ。少なくともそうだったとリーシャは記憶している。リーシャの両親も、祖父母も頻繁に職を変えていた。ディルム・エルファスもリーシャの家族と同じような立場にいたのなら、彼がどのような生活をしていたのか、リーシャには簡単に想像することができる。

 翻訳は取り止めにはなっても、その後でリーシャには救いともいえる出来事があった。マアラの死が正式に確認されたことで、作品そのものの権利をラディオルが継ぐことになったからだ。彼は自分の手許にある作品を、マアラの名前で、マアラの言葉のまま発表するとリーシャに約束してくれた。彼女の作品は、本来の著者である彼女の名前で世に出ることができた。リーシャが訳した文章ではない、彼女の書いた文章がそのままこの国で本になったのだ。そのことがリーシャにとってなによりの喜びをもたらした。

 受話器からは、ラディオルの言祝ぐ声が聞こえてくる。彼はリーシャの卒業と国営放送局への入局を祝ってくれた。彼が心から喜んでくれているような声を聞いていると、リーシャはいっそう、自分の進路が誇らしく思えてくる。そもそも彼が成り行きで知り合っただけの他人にすぎないぶん、その気持ちは大きかった。

「――じゃあ、来年になったら、リーシャもキャスターとしてテレビの画面に出ることになるんだね。なんだか待ち遠しい気がするな」

 心の底から待望しているように言われ、それで思わずリーシャは微笑んでしまった。目の前にラディオルがいるわけではなくても、自然に笑みが浮かぶ。

 外交官になるための道に進まず、国営放送局への入局を決めたことに、リーシャの周囲の人々は揃って驚きを表してきた。ティラもアリシェイルも、レイムすらも例外ではなかった。国で確固とした地位を得られる外交官になるのが絶対に最良なのに、まだどういうふうに成長していくかも分からないテレビ放送などというものに将来を賭けるなどするべきではないという。アリシェイルなど、わざわざ時間を作ってまでリーシャの説得をしにきたほどだ。もう一度、よく考え直したほうがいい。言い方は異なっていても、言われた内容は同一で、リーシャにも皆の気持ちはよく分かっていた。逆の立場なら、リーシャもきっと、同じように説得したことだろう。

 しかしリーシャはそうは思わなかった。リーシャはテレビがどういうものなのか、自分なりに研究をし尽くして、その上でこの道を選んだのだ。リーシャには決してテレビの将来が暗いもののようには思えなかった。いずれ必ず、テレビもまたラジオと同じよう、いや、それ以上に普及すると確信することができる。それならばリーシャは、ラジオではなくテレビのキャスターになりたかった。テレビのキャスターは受像機に映像を送ることによって人々に情報を伝えていく。新聞や雑誌や、ラジオといったこれまでの媒体とは、全く異なった新しいやり方で情報を発信していくのだ。それを知った時、リーシャは確信に近い推測を得ることができた。その場で起きている出来事を、映像として各地の受像機へ向けて送ることができるということは、どこか特定の場所で今まさに起きている光景を、その場所から遠く離れた、容易く往復することはできないほど遠くの場所にいる人々にも、そのままの形で、電話の声のように直接届けることができるということだ。そんなことが当たり前にできるようになれば、国じゅうの人を一つの出来事の当事者にすることもできるようになるだろう。誰にとっても、情報の影響力は紙面の上で文字だけで伝えられるよりも、キャスターがラジオから耳に語りかけてくるよりも、自分の目に現地の様子が飛び込んでくるほうが格段に大きいはずだからだ。そしてそうなれば、今後はマアラのように人知れず消えていく人などいなくなるかもしれない。もしもいたとしても、不当に消された人の思いを再び甦らせ、国じゅうの人に共有させることができるのではないか。国じゅうの人と思いを共有することができれば、マアラのような、自分では何も言うことができない人を助けられるかもしれない。リーシャは自分の今後の人生を、そうした人たちの救済と、思いの代弁に充てたかった。もう二度と、マアラのように人知れず消えていく人間など現れないように。たとえ不当に消された思いがあっても、第三者がそれを甦らせられるように。誰かが代弁してやらねば、何も言えない人もいる。そういう人々を助けてあげたかった。最初に決めた目標である外交官への道から大きく逸れることへの不安は今も消えていないが、抵抗や懼れはもう抱いていない。リーシャには今やテレビのキャスターになってどうしたいのか、明確な夢と希望がある。しかも、一人で全く未知の世界に入るわけではない。ラディオルもまた、自分と同じように国営放送局を受験していて、同じように合格している。彼と一緒に仕事をすることになるとは限らなくても、同じ場所に見知った人間がいれば、それだけで心強いものがあった。初めて自分で選んだ自分の道も、迷いなく進んでいけるという自信が湧いてくる。この道は、なんとなく流れで外交官になろうと思った道でも、リラナに勧められるままに王立学院を受験した道とも違う、生まれて初めて自分の意思だけで決めた自分の行く道なのだ。足を踏み出す勇気さえ出てくれば、なにもかもうまくいくような気さえしてくる。

 ――マアラ。私、これからはシェルリーシャさまのように生きていくから。

 リーシャはラディオルとの通話を終えると、受話器を電話機に戻しながらそっとマアラに語りかけた。シェルリーシャとはこの国の歴史において有名な、ほぼ伝説的な存在となっている女性の名前だ。二百年ほど前のこの国において活躍した軍人で、傷病のために軍務を退いた後はひたすら市井にあって弱者の救済活動を行ったという。救済といっても医療や金銭の施しをしたのではなく、地位がないために不当な圧力や搾取を受けた人々の権利代弁活動を行って、人々をその支配から解放したのだ。今でいうところの弁護士のような活動を、この国で最初に行った女性で、今でも国民にはとても尊敬されている。リーシャの名前の由来となった人物でもあった。リーシャがリーシャと名づけられたのは、リーシャの母親がこのシェルリーシャを尊敬していたからで、シェルリーシャの愛称がリーシャなのだ。だからリーシャという名前は、この国ではそれほど珍しくもない。ありふれた名前とは言い難いが、決して凝った名前ではなかった。今までは特に何も感じたことはなかったが、今になってリーシャは自分の名前になんとなく運命的なものを感じてしまう。愛称とはいえ、あのシェルリーシャの名前を与えられた自分が彼女を真似たような活動をしていこうと考えているのだ。まるで最初からこの道に進むのが定まっていたかのような偶然だ。それを思うと不思議な気分がしてしまう。シェルリーシャの名を持つ自分が、シェルリーシャのように生きていこうとしているだなんて。ならば自分は、せめてこの名に恥じないように生きていこうと思った。自分も彼女のように弱い人々を救済し、自分では自分の意思すら表明できない人々を助けていくのだ。

 リーシャは静かに決意を込めると、電話ボックスの扉を押し開けた。


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