表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

翻訳

 私にそれ以降、彼女と会う機会は訪れなかった――。

 リーシャは物語の最後の一文をそう書き終えると、ふうっと息をついてペンを机に戻した。無意識のうちに身体に緊張を溜め込んでいたらしい、凝り固まったようになっている手足の筋肉を解そうと大きく伸ばしていると、背後から声をかけられた。

「お勉強、終わったのかしら?お邪魔してもいい?」

「奥さま。ええ、どうぞ。今、終わったところですよ。勉強、ではなくて翻訳のほうですけれど。今、全て訳し終えました」

 振り返って声の主にそう応じた。リーシャに話しかけてきたのはアリシェイルで、彼女は部屋の戸口のところに佇み、両手で捧げ持つようにして一枚のトレイを携えている。トレイには茶器の一揃いが載せられていた。来客用の高級な茶器ではないから、彼女が自らの喫茶に供するために携えているのだろう。

 アリシェイルは穏やかな微笑みを浮かべていた。

「それならちょうどよかったわ。じつは友達から、とてもいいお茶の葉をいただいたのよ。リーシャも飲まない?すごく美味しいわよ」

 いただきます、リーシャも微笑みを返した。アリシェイルはそれを受けて室内に入ってくると、ちょっとした雑事をこなすために用いている小さな円い卓の上にトレイを置いた。彼女が茶器を整え始めると、芳醇な香りが室内に漂い始める。たしかに美味しそうなお茶のようだった。

「――ララ・レイシェラの新作、どんな感じだった?面白い?」

 アリシェイルはカップに茶を注ぎ終えると、真っ先にそう訊ねてきた。リーシャはそれに思わず微笑み返してしまったが、面白いですよ、と正直に答える。

「なかなかに読み応えのある傑作です。彼女の新作は、今回も敵国の軍事基地に潜入した女性諜報員の活躍を描いた作品ですが、今回は娯楽性の高い物語でありながらも、随所にエリシア王国の法律や政治の知識を散りばめた作品に仕上がっております。エリシア王国の法律に関心のある方でしたら、初歩的な参考書としても充分に実用に耐えうると思いますよ」

 リーシャがたった今まで訳していたのは、この国の隣国である、エリシア王国に暮らすララ・レイシェラという女性が書いた物語だ。現在はエリシア王国で軍医をしている彼女には、若い頃に軍の諜報機関に所属していたという経歴があり、そのためか彼女は時折、その時の経験を基にしたと思しき軍や諜報活動をテーマにした物語を書くことがある。軍医として施した医術の記録をまとめた医学書のほうが評価は高いらしいが、医者でも医術を学んでいるわけでもない人々には物語のほうが親しまれていた。エリシア王国では、彼女の物語を基に戯曲を書き下ろして舞台公演を行った劇団まであるほどだという。

 それほどに人気のある作者の待望の新作の翻訳を、リーシャは任されていたのだ。他でもないアリシェイルの夫から。彼女はララ・レイシェラの著作の愛読者で、新作を読むことを誰よりも楽しみにしているであろう彼女と同じ屋根の下で暮らしながら、その新作の翻訳作業をするというのは思ったよりも緊張する。エリシア王国の言語が読めないアリシェイルにとって、今やララ・レイシェラの作品とリーシャの文章は同義なのだ。下手な文章を書かれて好きな作家の作品の質を落とされれば、彼女はきっと、リーシャの人間性まで低く評価してしまうだろう。

 へえ。アリシェイルは目を輝かせた。

「それならいつも以上に興味があるわね。早く読みたいわ」

「お読みになられますか?」

 リーシャはつい先ほどまで自分が翻訳作業をしていた机のほうを振り返った。

「翻訳作業はもう終えておりますし、原稿はできあがっておりますから、お望みでしたら今すぐにでもお読みいただけますけれど」

「有り難う。けどまだいいわよ。私があまりここで長居していたら、リーシャがお勉強に集中できなくなるのではなくて?」

 リーシャが訊ねると、アリシェイルはそういって首を振ったが、彼女の視線はその間もずっと机を凝視していた。言葉では遠慮を表明していても、その視線が、何よりも雄弁に彼女の意思を語っているように思える。それでリーシャは彼女の言外の意を汲んで、机の上から翻訳を終えたばかりのララ・レイシェラの作品を取り上げた。それを静かにアリシェイルに差し出す。

「私はそんなことは気にしませんから。どうぞ、お読みになられてください。私の翻訳が、今回も原作を損なうことのない文章となっているのかどうか、旦那様にお見せする前に判断していただけたら私にとっても幸いなんです」

「そうなの?なら喜んで読ませていただくわね」

 アリシェイルはリーシャが促すと、本当に嬉しそうな様子で原稿を受け取り、リーシャに対してにこやかな微笑みを向けてきた。

「リーシャの訳文が今回も原作の魅力を最大限に引き立てているのか、その点もじっくりと見てあげるわ」

 お願いします、リーシャも微笑み返した。


 リーシャがアリシェイルの家に寄宿するようになって、もう三年目になる。

 リーシャはアリシェイルの娘ではなかった。それどころか家族ですらなく、単なる使用人にすぎない存在で、、とこの国では一般に呼ばれている立場になる。志生のリーシャをアリシェイルが夫婦で自宅に寄宿させ、面倒をみているという形になっているのだ。

 志生とはこの国独自の奨学制度である。比較的豊かで余裕のある暮らしを送っている者が、貧しくて高等教育を受けることができない者を自宅に使用人として寄宿させ、養って学校へ行かせる代わりに労務を提供してもらうのだ。リーシャはそもそも王都の孤児院に出自があるため、十二歳の時に王立学院への入学が決まっても、志生としてアリシェイルの世話を受けなければ学生として通学することができなかった。王立学院はその名の通り、この国の王家が設立した学校で、この国の最高教育機関になる。卒業生のほとんどが、研究者や教師、官僚や医者といった、社会においてその地位の高い職に就いていたが、初等教育を行う基礎学校ではないため、通うには学費が必要になるのだ。孤児のリーシャには王立学院への通学に必要な高額の学費と、四年間の学生生活の間に必要になる生活費が自力では捻出できない。この制度がもしもなかったら、リーシャはせっかく難関で知られる王立学院の入学試験に合格しても、金銭の不足を理由に入学を諦めなければならなかったかもしれなかった。

 アリシェイルは夫婦で商いを営んでいて、王都でも指折りの大きな貿易商だ。リーシャがこうしてララ・レイシェラの新作の翻訳などすることになったのも、それ故のことで、リーシャの王立学院での異国語の成績がいいことから任されるようになったのだ。もっとも、翻訳家として名があるわけでもないリーシャに他国の有名作家の新作の翻訳などが任されるようになったのは、おそらく自分が給金を払わなくていい志生だからだろうと、リーシャは認識している。名のある翻訳家に依頼すれば高額になる翻訳料も、志生なら支払わなくていいからだ。するとそのぶん安く本を作ることができるわけで、商人の手許に残る利益も大きくなる。そうでなければララ・レイシェラの新作など、もっと経験のある、有名な翻訳家が任されているはずだ。自分の名前は明らかに、ララ・レイシェラの名前の格にはふさわしくない。

 ――けどもう、私がこの仕事をするのも、あと一年しかないのよね。

 リーシャは嬉々として原稿を読み耽っているアリシェイルを見ながら、ぼんやりとそう思った。王立学院は四年制だ。あと一年もすれば、自分も卒業を迎える。卒業したら志生でいる必要もなくなるのだから、この家も出ることになるが、そうなれば翻訳の仕事を行う機会など、二度と訪れはしないだろう。

 ――卒業したら、自分はどうやって生きていこうか。

 ふいに切迫した焦りにも似た感情が、リーシャの心に湧き上がってきた。リーシャはまだ、卒業後の進路を決めていなかったのだ。


「――すごいわね」

 リーシャがぼんやりと、自分の今後について思いを巡らせていると、ふいにアリシェイルに声をかけられた。それでリーシャは我に返り、慌てて居住まいを正して彼女に向き直る。アリシェイルは心の底から感動したような表情で原稿に視線を落としていた。

「この主人公。友人のためにここまでできるだなんて」

「そう、ですか・・?」

 アリシェイルの言葉にリーシャは思わず首を傾げてしまった。自分が訳した文章なのだから、アリシェイルが口にしている場面が何を描いた場面なのかはだいたい見当がつくが、あの場面はそれほどに感動できるような場面だっただろうか。リーシャにとっては、あの場面での主人公の言動は、非現実的以外の何物でもないのだが。

「そうよ。普通、ここまでできるものではないわ。親友を庇うために敵の凶刃を自ら受けるだなんて」

 大きく頷くアリシェイルを見て、思わずリーシャは自分の意見を伝えたくなったが、何も言うことはしなかった。言うべきではないだろう。自分が感動できなかったからといって、心から感動している人間が夢中になっているのを、妨げるべきではない。

 アリシェイルが原稿以外に関心を向けなくなると、リーシャはなんとなく居心地が悪くなってきた。気を紛らわそうとカップを口に運び、意味もなく壁に掛けてある時計に視線を向け、そして咄嗟に立ち上がってしまった。驚愕し、急いで再び机に向かう。足許に置いておいた鞄を手に取ると、慌てて衣装棚に駆け寄った。

「あら、出かけるの?」

 リーシャの突然の行動に驚いたのか、アリシェイルは原稿から目を上げて問うてきた。リーシャは衣装棚から外套を引っ張り出すと、頷いて応じる。

「はい。今日は天文学の授業で、天体観測のある日なんです。日没後にまた学院に戻らなくては。今から出ますので、奥さまはどうぞ、私なんか気にせず原稿を読まれていてください」

「いつもたいへんねえ、王立学院って。夕方に帰ってきたと思ったら夜にまた行かないといけないなんて。明日もまた朝から授業があるんでしょう?」

 アリシェイルの口調は本心からリーシャを案じているように聞こえた。リーシャはそれを察すると笑ってみせる。大丈夫です、と首を振ってみせた。

「たいへんだなんて思ったことはありません。星を見るのは好きですから」

「そう?なら、いいけど。気をつけて行ってらっしゃいね。帰りは遅くなるんだから、寄り道なんかしないでまっすぐ帰ってきなさいよ。食事は夜食を用意しておくから」

 分かりました、リーシャは頷くと同時に支度を整え終え、部屋を駆け出した。アリシェイルの声は、まだ背後に聞こえている。

「あんまり遅くなるようだったら、いちど電話しなさいね。誰かを迎えに出すから」

 心得ました、有り難うございます。リーシャは振り返りながら大声でそう言い、外へ向けて駆けていった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ