かくして王城生活、はじまりはじまり。
「うわっ」
思わず悲鳴が飛び出した。天体盤の針が、想像してたよりも進んでる。私は持っていた食器を流し台に詰め込んだ。
……流し台の中がちょっと混雑してるみたいだけど、今日の夜まとめて洗えば問題ない。大丈夫。
心の中で言い訳をしながら、散らかった部屋の中を行ったり来たり。なんとか身支度を整えた仕上げに、干してある洗濯物の中から靴下とハンカチをもぎ取る。
残念ながら、掃除は苦手。あと料理も。実家にいた頃は使用人がやってくれてたし、王立学校にいた頃は寮母さんが。だから今の私に出来る家事は洗濯くらいしかないんだ。まあ、洗濯機に洗いたいものを放り込んで洗剤と水を入れるだけなんだけどさ。今はそんなに服も持ってないから、乾いたものをそのまま着ちゃうし。
ドアノブに手をかけた瞬間に、あの意地悪なことを言い出す一歩手前の笑顔が頭の中に浮かぶ。背中を寒いものが走り抜けて、私は両腕を擦った。
……この部屋の惨状は、あの白の騎士にだけは絶対に知られないようにしようっと。何を言われるか、分かったもんじゃないし。
「――――って、いけない。補佐官様に怒られる……!」
駆け足で寮を出て、王城の門をくぐって。勤務交代で出勤する途中の、ちょっとばかり疲れた顔をしてる騎士さん達を追い越して。別に私が元気はつらつなわけじゃない。郵便ポストに、補佐官様の執務室へ寄るようにという指示書が入っていたからだ。
つまり、上司からの呼び出し!
私は王女様付きの子守で、仕事の始まりと終わりに白の騎士団に顔を出す決まり。だから補佐官様はおろか騎士さん達とも、勤務中に関わることはない。それなのに、どうして補佐官様が私みたいな小物をお呼びになったのか……。
「あぁ、考えるだけで憂鬱だぁぁぁ……」
階段の一段一段を踏みしめる足が重たい。肺がつぶれるほどの溜息をつきながら、私は出来る限り急いで補佐官様の執務室を目指した。
「し、失礼します……っ」
どうぞ、と言われて執務室の中に入ると、そこにはすでにお仕事中の補佐官様がいた。彼は私の挨拶に視線を上げると、持っていたペンを置いて立ち上がる。
「おはようございます、クロエさん」
「おはようございます。
すみません、お待たせしました」
緊張で声が震える。
やっぱり補佐官様は威厳のようなものに満ちていて、ちょっと近寄りがたい。昨日の厨房では、リアさんを前にして穏やかな夫の顔になってただけなんだろうな。
勤務3日目にして呼び出しをくらった私は、何を言われるのか考えて視線を落とした。お説教やお小言は慣れっこのつもりだったのに。
「いえいえ、こちらこそ急な呼び出しをしてすみませんね」
がちがちに固まる私を前に、補佐官様が静かに言う。その声に、怒りや失望は含まれてないように聴こえるけど……。
私はおずおずと視線を上げて、小さく首を振った。
「いえ……」
「白の騎士団には、すでに伝言をしてあります。
少し遅くなるかも知れませんが、話をしましょうか」
ソファに座るように促されて腰を下ろすと、見計らったようにお茶が運ばれてきた。
運んできてくれたのは、怒っているのかと思うくらいに無表情な人。研ぎ澄ましたナイフみたいな冷たさと美しさに、心臓がドキドキする。その白くて細い、綺麗な所作でカップを置く手には渋みのある赤いコインが身につけられている……ってことは、紅の騎士団に所属する侍女さんだ。
彼女は、お礼を囁いた私と目を合わせないまま、静かに執務室を出て行った。
早朝の王城は、騎士や侍女の行き交う気配や声で満たされている。なのに、ここはとても静かで。外の世界と遮断されてしまったような気分だ。なんだかもう、とにかく居づらい。
私が湯気の立つカップを見つめていると、補佐官様が小さく息を吐いた。
「昨日は大変でしたね。お疲れ様でした。
勤務2日目に……いえ、子守自体は実質初日のようなものでしたし」
「すみません、私が目を離したから……。
今後は絶対に気をつけます。ちゃんと手を繋いで歩きますし!
万が一はぐれた時のために落ち合う場所も決めておきますので……!」
「そんなに構えなくても大丈夫ですよ」
ぺこぺこ頭を下げる私を見て何を思ったのか、補佐官様が困った顔をする。彼は、困った顔のままやんわりと微笑んだ。
「すみません……実はちょっとだけ、試させていただきました」
無意識に口が、ぽかんと開いた。自分でも止められなかったから、もうあの白の騎士に小馬鹿にされても仕方ないのかも知れない。そう諦めちゃうくらいに、びっくりしたんだ。
補佐官様は動きを止めた私に話し始めた。
「試験のようなものですよ」
「しけん……」
もう全然言われてることが理解出来なくて。私はただ呆然と補佐官様の口から出た言葉をくり返しただけ。
すると彼は言葉を選ぶように視線を彷徨わせて、再び口を開いた。
「よく考えてみて下さい。話がうますぎやしませんか。
街中から引っ張って来た人間を、王女様の子守にするなんて。
護身術の心得もない子守と、王女様をふたりきりにするなんて」
「あ、あの、全然話が」
ごめんなさい。欠片ばっかり並べられても、私の頭じゃ言いたいことなんか察することは出来ないんです。それに緊張のせいもあって言葉がうまく出てこないし。
もごもごと口を動かすだけの私を見て焦れたのか、補佐官様は複雑そうな表情を浮かべて言った。
「リディ王女を見失ったあなたの行動を見ていました。
気づいていなかったでしょうけれど、紅の騎士や侍女が監視を――――」
その時。私にとって分かりやすく衝撃的な言葉の途中で、ノックの音が響いた。
補佐官様の溜息が、とっても重い。なんだか嫌な予感。“そんなに構えなくても”……って言われたばかりだけど、思いっきり構えてしまう。
彼はドアの向こうに声をかけた。とってもとっても嫌そうに。
入ってきた彼は、私の顔を見るなり顔を引き攣らせた。でもそうしたいのは私の方だ。
補佐官様が紅の侍女さんにお茶の追加をお願いするそばで、私達はただ顔を見合わせるばかりだった。
だって、白の騎士。王城で出くわすことなんて滅多にないって言ってたじゃない。なのに昨日の今日で会っちゃうなんて話が違いすぎるよ……。
「何の御用ですか、補佐官殿」
隣に腰を下ろした白の騎士の態度が失礼すぎることに、私は飛び上がりそうになった。この人、ほんとに何考えてるの。
だけど不思議なことに、補佐官様の顔色はまったく変わる気配もない。それどころか迎え撃つ気満々に見える。
……この場に私がいる意味、ありますかね。
「ええ、すごく大事な人事の話が。
ちょうどこれから、昨日のことを話すところでした」
「へぇ……。
例えば王女様が脱走するように仕向けて、紅の連中に監視させてたとか?
上がってきた報告書に目を通したんだけど、とか。そんな話ですか?」
「おや」
補佐官様が呟いて目を細める。
ずいぶん衝撃的な内容に私は息を飲んだけど、こんな小娘のことは気にならないらしい。ふたりは視線を交えたまま。
私は空気になろうと息を潜めることにした。
「ずいぶんと察しが良いですねぇ。
さすが、異例の大抜擢で白の騎士になっただけある」
「補佐官殿のやり口ですよね、根回し暗躍。
リアから聞いてますよ、ご結婚の際の紆余曲折とか。
あんなことして嫌われなくて良かったですね」
「おやおや、心配して下さるんですか。
妻から聞いている通り、あなたは良き友人のようで安心しました」
「それは良かった。ぜひ、いつでも相談に乗るとリアに伝えて下さい」
……なんなのこの人達。
泣きたい気分で背中を丸めて小さくなる。いつ流れ弾が飛んでくるか分かったもんじゃないから、溜息さえつけない。
今すぐこの執務室を飛び出したい気持ちを抱えて、私はひたすらテーブルの木目を数えることにした。この状況で出来ることなんか限られてるもの。現実逃避だ。
すると白の騎士が、当てつけみたいに息を吐き出した。
「……ま、この話は出口がなさそうなんで。
本題を聞かせてくれますかね、補佐官殿」
「そうですね。
私も今、同じことを言おうと思っていたんですよ」
あ、やっと殺伐とした雰囲気から解放されるのね。良かった良かった。話題が変わる気配に、私は強張っていた肩から力を抜いた。
すると、さっきまで交えた視線をバチバチ鳴らしていたふたりが、同時に私を見る。
……え。なんでなんで?
「あ、あのぅ……?」
ひと回りほど年上の男の人達に凝視されることなんて、早々ない。何か悪いことでもしたのかと、私はびくびくしてしまった。
すると補佐官様が沈痛な面持ちで溜息をつき、白の騎士が呆れたように天を仰ぐ。
「さっきの話、聞いてたよね。何をホッとしてるの君は……」
「方向音痴なだけじゃなく、聞き取る力もなかったとは……」
報告書に書き加えないと、なんて言いながら補佐官様が頷いて。白の騎士がぬるくなったお茶を口に含む。ひと呼吸おいたふたりは、どちらからともなく目を合わせた。そして、目配せ。
何気なく貶されたことに落ち込む私に向かって口を開いたのは、補佐官様だった。
「先に謝っておきます。すみません。
昨日あなたが王女とはぐれたのは、私の根回しの所為なんですよ。
朝のうちに、リディに言っておいたんです。
護衛の騎士が付かないことと、新しい子守が来ること。
それから、妻が食堂でカップケーキの準備をすることを。
普段から逃亡癖があるリディがどうするかなんて、分かり切ってました。
実際その読み通りになりました。
あ、リディは私の思惑など知りませんよ。
あの子はただの、カップケーキ屋さんになりたいお姫様ですから」
「え、えっと、それってどういう……え、えぇぇ?」
矢継ぎ早に言葉を浴びせられた私は、耳を塞ぎたくなった。頭の中に言葉を捻じ込まれたみたいで、すごく動揺してる。
なんかもう、ちょっと泣きそう。さっき白の騎士が言ってたことをここまで事細かに種明かしされたら、いくら私みたいなポンコツでも理解しちゃうよ。
「まったく……」
呟いたのは白の騎士。彼は難しい顔で私を見たあと、視線を補佐官様へと移した。
「あの時、クロエから事の経緯を聞いて耳を疑いましたけど……。
やっぱり最初から試すつもりだったんですね。
僕がクロエに手を貸すことまでは、読めなかったみたいだけど」
「そうですね、あなたの存在は予想外でした。
まあ、それはそれで収穫がありましたから良しとしますが」
「……そりゃどうも」
嫌味に嫌味が返ってきたらしく、白の騎士がむっすりと黙り込んだ。
どういうわけかその態度は、泣きたい気持ちになっていた私の背中を押した。これだけ失礼な人が一緒なら、私がちょっと自分の意見を言ったところで霞んで聴こえるんじゃないかって。
よし、と意気込んだ私は、そっと息を吸い込んだ。
「あの」
「……はい」
自分で思ったよりも小さかった私の声にも、補佐官様は耳を傾けてくれた。穏やかな顔つきは、たぶん仕事用なんだろうけど。
それでも言葉を待ってくれているような気がして、私は頷いた。
「はい、その……。
試されたのは、分かりました。
でも、王女様は危険じゃなかったんですか?
本当なら、護衛が付くんですよね……?」
私の言葉に、補佐官様の眉がぴくりと動く。
もしかして怒らせちゃったかも、と内心で慌てていると、彼は困ったように微笑んだ。
「それは、許していただけたと思ってもいいんでしょうかねぇ……。
たしかに護衛が付かないと、危険度は増します。
でも昨日は紅の騎士団にお願いして、密かに護衛と監視をしていたので。
クロエさんが心配するような危険なことは、未然に防げたはずですよ」
「……え、でも誰もそばに……」
昨日のことを思い出して呟いた私は、はっと口を噤んだ。補佐官様が大丈夫だと言うんだから、大丈夫なのに。
そんな気持ちが顔に出ていたんだろう。補佐官様は私を見て、苦笑交じりに口を開いた。
「紅の一部は、相手に知られないように様子を探るのが仕事です。
領地経営の不正を内偵し、国にとっての不穏な動きを察知する……
彼らは身分を隠して仕事をするので、コインを手首につけないんです。
ですから、昨日あなたが彼らの姿を見ていないのは当然のことですね」
「……はぁ……」
聞けば聞くほど別世界の話みたいで。私は力なく相槌を打つしかなかった。言われてることは理解出来るんだけど、どうにも気持ちが追いつかない。
はっきりしない態度が気に食わなかったんだろうか。白の騎士が溜息混じりに口を開いた。
「……ということは、だよ。
君の方向音痴とポンコツ具合は、昨日のうちに紅と白の団長達に筒抜け。
あぁ、熱狂的な蒼鬼信者ってこともかな」
「えぇぇっ」
そんな恥ずかしいことになってるなんて……!
情けない声を上げて補佐官様の顔色を窺えば、その青い瞳が楽しげに細められる。声こそ出さなかったけど、きっと心は笑ってる。彼は肩を竦めて言った。
「さて、どうでしょうね。
蒼の騎士団の詰め所がある廊下で愛を叫んだみたいですし……
少なくとも彼らの噂の的には、なっているかも知れませんねぇ」
ああ蒼鬼さま。補佐官様は意地悪です……。
「クロエ、口が開いてる」
……うっさい白の騎士。
絶句していた私が我に返るのと同時に、白の騎士が口を開いた。
「それで、僕が呼ばれた理由は何です?
クロエのことで聞きたいことがあったんじゃないんですか?」
「ああ、そうでした」
補佐官様が思い出したように頷いた。
そういえば白の騎士も用があって呼ばれたんだよね。リアさんのことでバチバチやってるもんだから、すっかり忘れてた。
「なんだかもう、聞かなくても判断出来そうなんですけどねぇ……」
「判断?」
困ったように微笑んだ補佐官様を見て、白の騎士が訝しげに聞き返す。
私も内心で首を捻って、そして意味を悟った。きっと白の騎士の証言が、私の採用を継続するかどうかの判断材料だったんだ。
悟った瞬間、緊張が背中を走り抜けた。冷や水を浴びせられた気分だ。そういえばさっき、“試した”って言われたんだった。別の世界の話みたいだったのに。
……やっぱり私、ポンコツなのかも。首の皮だけで繋がってるって分かるまでに、時間がかかり過ぎだもの。
私、クビになるんですか補佐官様。寮を追い出されたら、どこかに部屋を見つけないと。それに新しい就職先を探さないといけない。またミエルさんの店で雇ってくれたらいいけど、そう上手くいくとは思えないし。帰る場所のない身としては、終身雇用をお願いしたいです……!
胸の中で念じながら、やっぱり困ったように微笑む補佐官様を見つめる。もしかしたら一部は口から漏れてたかも知れないけど、必死過ぎて自分でも分からない。
すると補佐官様は、困った顔で苦笑しながら言った。
「大丈夫ですよ、クロエさん。あなたの採用は続けます。
自分のことよりも王女の安全を気にかけてくれたので、信頼しましょう。
陛下の友人として……これから、よろしくお願いしますね」
「は――――はいっ、こちらこそ!」
思わぬ言葉に、咄嗟に頭を下げる。
それを見ていた白の騎士が呆れたように息を吐いた。
「丸め込みますね~……さすが補佐官殿。腹黒い」
「ふふ。でしょう?」
「や、褒めてないけど」
……もう、ふたりの応酬なんて気にしない。好きなだけやり合って下さい。
とりあえずクビにはならずに済んだ私は、ほっとして胸を撫で下ろした。
良かった。これでとりあえず食い扶ちは稼げそう。しかも蒼鬼さまに出会えるかも知れないし。出会えなくても、かつていらっしゃった場所で働けるなんて夢みたい。人生で一番の幸運かも。
私が半分悦に入りながら感謝していると、補佐官様との応酬に飽きたらしい白の騎士がおもむろに立ち上がった。
「じゃあ、僕はもう用済みですよね。
刀の手入れしないと。視察先でつまらない物をぶった斬ったもので」
これがリアさんの言うところの“刃物まにあ”ってやつなのかな。そこはかとなく怪しく危険な香りが……。
さらりと物騒な言葉を吐いた彼が、私や補佐官様に背を向けようとしたその時だ。腹黒いと言われたその方が、にっこり笑った。
「いやいや、あなたへの本題はこれからですよ?」
「はい?」
聞き捨てならなったらしい白の騎士が動きを止める。その顔は訝しげを通り越して、ちょっと怒ってるみたいに見える。
すると補佐官様はその反応が面白かったのか小首を傾げた。さすが腹黒補佐官、綺麗に張り付けた笑みは白の騎士の矢のような視線をものともしない。
私はただただ、事の成りゆきを見守るばかりだ。触らぬ補佐官様に祟りなし。平穏無事に王城生活を送りたいもの。
補佐官様は小首を傾げたまま、ゆっくりと噛みしめるように言った。
「あなたには本日只今より、リディ王女の護衛騎士の任を与えます。
任期は無期、子守のクロエさんと行動を共にすること。以上です」
「いやいやいやいや、嘘でしょ?!」
止まった時を再び動かしたのは、白の騎士。
いやいや、白の騎士。私だってそう叫びたかったよ……。