カップケーキは“ミエルの焼き菓子店”の看板商品ですから。
割れた卵が床の上で力なく伸びていく。それを指で突きながら、リディ王女様が「もったいなーい」なんて呟いた。
その幼さで食べ物の大切さを理解しているなんて、子守として私は嬉しいです。でも落ちた卵を指でぐちゃぐちゃにかき混ぜて溶き卵にするのは止めましょう。そこは床ですよー。
リアさんが口をあんぐり開けて、卵を握っていた格好のまま固まっている。まるで時の流れがピタリと止まったみたいに。
その目が零れそうなくらいに見開かれているのを見て、私は慌てて声をかけた。とりあえず王女様の手を洗うのは後回しだ。さすがにアレを口に入れはしないはず。
「あ、あの、大丈夫ですか……?」
だけど、リアさんは驚いた顔のまま石像みたいに動かない。蒼鬼さまに会いたい、って言ったのがそんなに衝撃的だったんだろうか。
もしかしてリアさん、蒼鬼さまのことが嫌いなのかな。補佐官様の奥様なら、良くも悪くも噂どころか本当のことが耳に入りそうだし……。
……いやいや。世間の評価はどうあれ、私は蒼鬼さまは本当は良い方だと信じてるけど。
私が珍しく憧れ話にブレーキをかけて右往左往していると、石のように動かなかったリアさんが大きく深呼吸をして言った。
「クロエはシュ……蒼鬼さんのことが、その、好きなの……?」
「大好きです」
即答すれば、リアさんが沈痛な面持ちでこめかみを押さえる。
ところがどっこい、そんな顔をされることには慣れてるんです。王立学校時代の数少ない友達は、私が蒼鬼さまの話をするたびに沈痛そうな顔を通り越して無表情になってたけどね。
「や、止めといた方がいいと思うなぁ。
蒼鬼さんには妻子がいるんだよ?
奥さんのことを子どもと取り合うくらい、仲良し夫婦だし」
「素敵ですよね~」
うっかり王城の厨房にいることを忘れた私の口から、うふふ、とお花畑な声が零れ落ちる。だって私が憧れてるのは“妻子のある蒼鬼さま”なんだもの。
すると次の瞬間、リアさんが小さく呻いた。閉じかけの冷蔵庫のドアに頭をぶつけたらしい。彼女は頭を押さえて目に涙を浮かべると、恨めしそうに私を見つめてくる。
そこで私は、ようやく我に返った。リアさんが普通にしてくれるものだから、ちょっと調子に乗ってたかも知れない。どうしよう、何か言わないと。ぶつけたとこ、痛そうだし……。
だけど何を言えばいいのか考えれば考えるほど、頭の中が真っ白になって。私は、あわあわと口を開いたり閉じたりするしかなかった。これじゃ、ほんとにポンコツだ。
すると、それまで静かにしていた白の騎士が口を開いた。
「リア」
「――――あっ、うん……?」
はっと我に返ったらしいリサさんが慌てた様子で、白の騎士に視線を向ける。すると彼はカウンターの方を指差して言った。
「その話はとりあえず置いといて。
あっちでグラス割ったみたいだから、様子見に行こう。
クロエは、その間にそこの卵の片づけよろしく」
白の騎士がリアさんを伴ってカウンターの様子を見に行ったあと、私はちょっとの間呆然としてしまった。蒼鬼さまのことになると、つい言葉に熱が入っちゃう。だから、大抵の場合は話をしてしばらくすると後悔するんだ。
それにしても、蒼鬼さまの話にリアさんがあんなに反応するなんて思いもしなかった。自分でも、ちょっと変わった人に憧れてるっていう自覚はあるんだけど。やっぱり、なかなか理解されないものなんだなぁ……少数派って生きてくのが大変。
溜息をついて床に視線を落とす。するとそこには、飽きもせずに溶き卵で遊んでいる王女様の姿が――――って。ちょっと王女様。もうそれ卵の色じゃなくなってきてるじゃん……。
「王女様、食べ物はオモチャじゃないですからねー」
「ちがうよ。おちてもったいないから、あそんでからすてるの」
「……そうでしたか」
無茶なコドモ理論はいいから、早く手を洗いましょうね王女様。
心の中で呟いた私は、彼女の腋の下を掬いあげて流し台の前に連れて行く。宙ぶらりんになって「きゃ~!」なんて声を上げたところを見ると、思いのほか彼女は厨房での時間を楽しんでいるらしかった。
王女様……というか子どもって、こんなに自由な生き物だったのね。
手を綺麗に洗った王女様が、またしてもオーブンをかじりついた。さっきと何が変わったのか私には分からないけど、ゆっくりと回るカップケーキを見つめる瞳はキラキラしている。
熱気を放つ箱に触れないように握られた小さな手が、とんでもなく可愛らしい。私は思わず尋ねてしまった。
「王女様は、カップケーキがお好きなんです?」
すると、小さな顔が私に向けられる。囁き程度の言葉だったのに、まったく子どもは耳が良いらしい。
王女様は大きく頷いて言った。
「うん、だいすき!
……ええっと……おねーさんは?」
今、困った顔しましたよね。それですぐに笑って誤魔化しましたよね。わかりますよー。まだ2日目だもの。名前なんて覚えられないよね。
王女様の困った顔が面白くて思わず笑ってしまった私は、秘密の話をするみたいに小声で答えた。
「もちろん大好きです。
実はね、子守になる前はカップケーキ屋さんで働いてたんですよ」
「そうなのっ?」
思った通りに食い付いた王女様の目があまりにもキラキラしていたものだから、私も楽しくなって少しお喋りしてしまう。
「はい。王都にある、焼き菓子のお店で。
毎日カップケーキやパウンドケーキを食べてました」
「すごい!
おねーさんも、“おかししょくにん”さんなのね!」
「……はい?」
思っていたのと違う反応が返ってきて、否定するのも忘れた私は思わず小首を傾げてしまった。しかも、おねーさん“も”って何だ。
すると王女様が興奮した様子で身を乗り出してくる。
「わたしも、おおきくなったらなるの! おかししょくにん!」
「えぇっ?」
そこまで聞いて、やっと分かった。王女様はカップケーキを作るのが好きなのか。目をキラキラさせてオーブンの中を覗き込んでいたのは、食べるのを楽しみにしてたわけじゃないんだ。しかし王女様、その“大きくなったら……”はちょっと無理があるような気がしますよ……。
「いやでも、王女様は……」
言いかけたところで、小さな瞳がわずかに歪む。明らかに悲しそうに。私はその先を続けづらくなって、言葉を飲み込んだ。
すると王女様が、プイッと顔を背けて口を開く。
「パパもママも、いいよっていったもん。
もうっ。おねーさんには、カップケーキあげないからねっ」
「えー……」
脹れっ面も可愛いけど、さすがに子守としてはいただけない。2日目にして子守相手に嫌われるなんて、解雇の文字が頭をよぎる。
私は慌てて口を開く。ところが私が王女様のご機嫌を取ろうとするよりも早く、女性の声が響いた。
「王女様ったら。
いじわるな気持ちは、カップケーキをまずくさせますよ~」
「……やだっ」
笑みを含んだ声に、王女様が慌てて立ち上がる。そして彼女は小さな両手をぶんぶん振りながら、ぽかんと口を開ける私に向かって言った。
「ごめんね、いじわるしないから!」
「い、いいえ……あっ、私の方こそすみません!」
投げつけられた言葉に首を振って、私も慌てて謝る。すると王女様は顔を歪ませてオーブンの中を覗き込むと、声のした方を仰ぎ見た。
その視線を辿って立ち上がった私が見たのは、赤毛にそばかすの、私よりも年上っぽい女性で。エプロンをつけた彼女は、たぶんカウンターの方でグラスを割った人。
「まずくなっちゃった……?」
「ううん、大丈夫。
焼く前にたくさん“美味しくなあれ”って言ったでしょう?」
「……そっか」
こくりと頷いた王女様の頭を、赤毛の女性がそっと撫でる。王女様は心配になったのか、またしてもオーブンにかじり付いた。
それを横で見ていた私は、気まずさを飲み込んで彼女に声をかけた。
「あの」
しゃがみ込んだ王女様を見下ろしていた目が、おそるおそる口を開いた私に向けられる。そして名乗ろうと息を吸い込んだ瞬間、彼女が口を開いた。
「あっちで、ふたりから聞いたよ。
わたしはアン。よろしくね」
にっこり微笑む彼女を前に我に返った私は、慌てて息を吸い直す。
「クロエです。
ここには昨日から……」
「それもさっき、カウンターで聞かせてもらっちゃった。
常連さんが話を持ってきて……だっけ?」
「あ、はい。そうなんです。
焼き菓子店なんですけど、常連のおばさまが世話してくれまして……」
「そっか。
あ、ところでミエルさんは元気?」
「え、あの……」
果たして私が緊張していることには気づいているんだろうか、アンさんの口からはポンポンと勢いよく言葉が飛び出してくる。グラスを空にした途端にワインを注ぐ給仕みたいだ。この会話の速さについていけない私は、やっぱりポンコツなのかも。
そんなことを考えていた私は、ふと耳に引っ掛かるものを感じて首を捻った。だってアンさんの口からその名前が出るなんて。
「え? ミエルさんと知り合いなんですか……?」
「うん、ちょっとね」
おそるおそる尋ねてみれば、アンさんが悪戯っ子みたいな笑みを浮かべて頷く。
その確実に何かを含んでるような笑み、ちょっと怖いなぁ……。
「ど、どういう意味ですか?」
頬が強張っていくのが分かる。今日は良くないことばっかり起きてるから、つい疑り深くなっちゃってるみたいだ。
そんな自分が嫌で思わず眉根を寄せると、アンさんが目の前で手をぱたぱたさせた。私が視線を上げれば、彼女の瞳がふんわりと細められる。
「ごめんごめん、あんまり深く考えないで。
今ここで話すと長くなっちゃうし、わたしも仕事中だからさ。
子守の仕事が終わった時間にでも、また寄ってくれたら話すから。
早番で帰っちゃってるかも知れないけど……タイミングが合えば」
話すと長くなっちゃう、っていうのもちょっと気になるけど。でもきっと悪い話じゃない……そんな気がする。
アンさんの言葉をそのまま受け取ることにした私は、小さく頷いた。すると同時に、オーブンから焼き上がりを知らせる音が流れた。
「――――できたっ。
リア、リーアーっ。クリームのせようよーっ」
「はいはい、冷蔵庫に入ってるから待ってね」
立ち上がった王女様が子どもらしく声を張り上げると、リアさんが白の騎士を伴ってカウンターから厨房に戻って来た。その表情はだいぶ落ち着いている。さっきまで恨みめいた何かがこもった視線を投げていたとは思えないくらい。
カウンターで何があったんだろ……。
内心で首を傾げていたら、白の騎士がしれっと私に言った。
「お茶淹れて」
「え、私ですか?」
きっとまた顔に出てたんだろう。白の騎士は深い溜息をつくと口を開いた。
「リアが子守してるんだから、クロエがお茶を淹れてよ」
「えー……」
ていうか、あなたって人は普段から騎士の分際でリアさんにお茶を淹れさせてるんですか。そうですか。これはもう、蒼鬼さまに言い付けてやらなくちゃ。