ああ、食堂の女神さま。
「はぁぁ……」
いつの間にか溜息が零れた。
足が勝手に王城の出口へ向かってる。このまま真っすぐ部屋に帰ったら、夕飯を食べに出る先輩に会っちゃうかも。そう思うと、体全部が重たくて重たくて。
「帰りたくないなぁ……」
誰にも聴こえないように、こっそり吐き出す。
なめくじみたいに歩く私を追い越す人達の足取りは、割と軽い。そりゃそうだ。仕事から解放されて、やっと家に帰れるっていうのに憂鬱になる人間なんて、そんなにいないと思うもの。
“お疲れ様です”“また明日”なんて会話があちらこちらから聴こえてくる。
いいなぁ、一緒に働く人がいて。その日の仕事の大変さを分け合えて、また明日も一緒に頑張ろうって言い合える人がいて。私は一緒に働いてる、っていうより監督されてるような気がするよ。
ていうか、実際そうなんだよね。補佐官様も、紅の騎士団の人達に監視させてるって言ってたくらいだし。
あー……明日が来なきゃいいのに。
「はぁぁ……」
私は何回目になるか分からない溜息をつく。いくら生きていくためとはいえ、カップケーキ店の常連さんが持ってきた話に安易に飛び付いた自分が恨めしい。
そして重たい足の先から視線を離して、気がついた。少し先の方、私を見つめている人がいることに。
「……ふぅ……」
グラスの底に小さく切った果物が沈んでる。ひとくち含んでみれば、ふんわりと甘酸っぱい。沈んだ気分が、ちょっと慰められる気がする。
「おいし……」
「どう、落ち着いた?」
グラスを片手に向かいの椅子を引きながら声をかけてきたのは、食堂の厨房で働いているアンさんだ。
彼女は通りかかった私を引き留めて、半ば強引に食堂の一角に座らせた。そして、あっという間にフルーツ水を持って来てくれて……。
たしかにフルーツ水を流しこんだら、少し気分が落ち着いた。
こくん、と頷いた私を見て、アンさんがちょっと笑う。
「来るまで待ってようと思ってたんだけどねぇ。
つい呼び止めちゃった。ごめんなさいね」
「いえ……」
小さく首を振りながら、私は思い出していた。
そういえば、“また今度ゆっくり話そう”って言われてたんだった。目の前のことで精一杯で、すっかり忘れてた……。
たしかアンさんは、私が働いてたカップケーキの店の店主を知ってるとか何とか。
頭が十分働かない私は、思い出すだけで何も言えなかった。するとアンさんが口を開く。
「子守の仕事には慣れた?
毎日元気いっぱい過ぎて大変でしょ」
苦笑が混じるのは、王女様の普段の姿をよく知ってるからなんだろうな。初めて会った時も、王女様と普通に会話してたくらいだし。
……その余裕、私も欲しいです。
「王城で迷うことは減ったと思います。
でもなんかちょっと……その、うまくいかなくて」
「そうなの? 大丈夫?」
「あはは……頑張ってるつもり、なんですけど……」
モヤモヤした感じが言葉を邪魔する。
照れ笑いなんだか何なんだか分からない顔をする私に、アンさんが眉根を寄せた。そして周りをぐるりと見回して言った。他のテーブルには届かない、小さな声で。
「もしかして振り回されちゃってる?
王女様ったら結構なお転婆だし、悪戯っ子だもんねぇ。
分かるよ、わたしも最初の頃やられたし」
「え?」
困ったように笑いながら手をぱたぱたさせるアンさんを前に、きょとんとする私。だって、そんな王女様見たことないんだもの。
お転婆? 悪戯?
「振り回されるだなんて、とんでもない……。
おとなしい、聞き分けの良い子どもだと思いますけど」
「え?」
小首を傾げれば、今度はアンさんが瞬きをして固まった。でもそれは一瞬のことで、彼女はすぐに口を開いた。テーブルに身を乗り出して。
「おもちゃの虫が服のポケットに入れられてたりとか……。
砂糖と塩が入れ替えられてたりとか……。
ないの? 1回も?」
「えっと……さすがに砂糖と塩は、子守に使わないので……」
アンさんの言葉に首を振りながらも、私は視線を彷徨わせた。言われたことの半分は、思い当たることがあったから。それも、まさに今日のことなんだもの。
「クロエ?」
呼びかけに返事が出来なかった。
頭の中、どこかでもう一人の自分が囁いてる。先輩が言ってたことの意味をちゃんと考えた方がいいよ、って……。
「大丈夫……?」
心配そうに私の顔を覗き込むアンさんの声を聞いたら、もう平気な振りなんて出来なくて。私は思わず、小さく首を振ってしまった。
「――――そっか……」
アンさんは、そっと溜息をついた。青虫の悪戯の件や白の本部からの帰り道での出来事を、相槌を打ちながら聞いてくれたあとで。
そして少し考える様子を見せた彼女は、難しい顔をして口を開いた。
「でもわたしも、キッシェさんの言うとおりだと思うよ。
悪戯したのは王女様で……だからクロエに謝ったんじゃないかな。
でもそのへんのことは、もう分かってるんだよね……?」
諭されるように言われて、私は俯いた。叱られてるんじゃないと分かってるのに、なんとなく目を合わせられなくて。
でもそれってやっぱり、私が間違ってるって自覚してるから……なんだろうな。先輩に悪いことしちゃった……。
「でもまあ……。
キッシェさんも、そう疑われても仕方ない態度を取る時があるけどさ」
ぐるぐると頭の中で考えている時に聴こえてきた言葉に、私は視線を跳ね上げた。それはとっても聞き捨てならない。
すると、そんな私に気づいたらしいアンさんが噴き出した。
「あの人、ちょっと意地悪なとこあるよね~。
リアをからかって怒られてるの、何回か見たことあるし。
クロエも、普段のキッシェさんを見てるから疑ったんでしょ」
「そっ……そうなんです……!」
思わず力説しそうになるところを堪える。だって、事あるごとにポンコツって言われるんです、なんて。恥を晒すだけじゃないか。
私はグラスの中身を一気に飲み干すことで、気持ちを落ち着けることにした。果物の香りが鼻に抜ける。こんな時でも美味しいものは美味しいみたいだ。
空になったグラスをテーブルに戻すと、アンさんの視線が遠くへと投げられた。どこを見ているのか分からないまま、彼女の口が動く。
「でもまあ、“王女様をちゃんと見ろ”っていう言葉は重いね。
“王族は綺麗なもんじゃない”っていうのも、威力あるあるー……」
「え?」
「これは孤児院で働いてたわたしの勘だけど……。
王女様はきっとクロエを試して、距離を確かめてたんじゃないかな。
どんな遊びなら楽しくて、何をしたら怒るのか……とか。そういうね」
訝しげに首を傾げた私を見て、溜息混じりのアンさんが言った。
その言葉の意味が掴めそうで掴めない私は、もう一度小首を傾げる。すると彼女はちょっと考える素振りを見せて、また口を開いた。
「……だって、まだ子どもなのよ。
ある日突然現れた子守に困惑して当たり前。
いろいろして、探り探り仲良くなるしかないじゃない?」
「だから、青虫を使って悪戯を……?」
「たぶん。
子守が虫好きなら、一緒に虫を採るんでしょうし。
嫌いなら、部屋の中で遊ぼうって言うんじゃないかな」
アンさんの話は、私にはちょっと難しかった。考えれば考えるほど、頭の中に霧がかかっていく感じ。言われた言葉がそのままじゃ理解出来ない暗号みたい。
たぶん、そういう顔をしちゃってたんだと思う。彼女は苦笑混じりに「まあ、体当たりでいいんじゃないの?」なんて言ってたけど。結局その言葉の意味も、曖昧なまま。
もうほんと、自分の安定のポンコツ加減にガッカリです。
でもハッキリしてることもあるんだ。
それは明日の朝、先輩に謝らなくちゃいけない、ってこと。しつこく犯人扱いして責めたから、相当怒ってるだろうけど……。
蒼鬼さま。どうか上手く“体当たり”出来ますように……。




