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青虫なんか、だいきらい。








「そんなに洗ったら手の皮がゲバゲバになっちゃうぞー。

 ……おーい」


先輩が横から覗き込んでくる。でも一心不乱に手を洗う私は、そんなのに構う余裕なんかない。ていうか、構おうと思うわけがない。

ほんとに意地悪。近所に住んでた、いじめっ子みたいだ。出来るものなら、手首に輝いてる騎士の証をぶっち切ってやりたい。


「あの、クロ……?」


先輩を無視しながら心の中でぷんすか怒っていた私は、ふと聴こえた遠慮がちな声に我に返った。そうだった。まだ子守の最中なんだった。

蛇口の水と一緒に、沸々と湧いてくる怒りを一旦止める。


「どうしました?」


慌てて取り繕いながら盗み見れば、先輩が何か言いたそうにしている。自分のことは無視したくせに、ってところだろうか。でも残念、子守が王女様を無視するわけがないじゃない。


そんなことを思っていたら、目の前でしょんぼりと肩を落とした王女様が呟いた。


「……お、おこらないでぇぇ……」

「え?」


小さな声をかろうじて拾った自分の耳を疑って、瞬きをくり返す。すると王女様は、ちょっと泣きそうな顔をして私の服の裾を掴んだ。小さな小さな瞳が、うろうろと彷徨っている。


ええええええ。先輩、生温かい眼差しなんかいらないから何とか言って下さい。私、補佐官様や白百合様に怒られたくない……! 


縋りつきたい気持ちで先輩を見上げるけど、素知らぬ顔で視線を逸らされる。さっき無視したからなんだろうけど、青虫持たされたり王女様に泣かれかけたり……。

ああツライ。悪者になった気分。なんで私がこんな目に遭うの。真面目に子守の仕事をしてるはずなのに。


飲み込みきれない感情に揺さぶられて思わず白目を剥きそうになっていたら、王女様が唇をへの字に曲げて口を開く。


「あおむし、ごめんなさいぃぃ……」

「もっ、もう大丈夫ですよっ」


必死に笑顔を作ってみたものの、時すでに遅し。小さな瞳から涙がぽろぽろ零れたのを見た瞬間、背筋が凍りついた。

こういう時って、どうしたらいいの。王女様は普通の子どもじゃないんだし、泣かないで、なんて言っていいわけないよね……。


内心で右往左往しながら、私は先輩の顔を仰ぎ見る。だけど彼はちょこっと肩を竦めただけ。ほんとに、それだけだった。

青虫の件で機嫌を取ろうとしてたんなら、こういう時こそ何か言ってくれればいいのに。それこそ王女様お気に入りの肩車でも、してくれたらいいじゃない。

しくしく泣いてる王女様を放っておくわけにもいかず、私は先輩を詰ってやりたい気持ちを飲み込む。そして、天を仰ぐ気持ちでしゃがんでみる。小さな彼女のさらに下から覗き込むようにして見つめると、その瞳が涙を堪えて私を捉えた。


「えっと、あの、ほんとに。大丈夫です。

 王女様が気になさることはないんですよ。王女様なんですから」


ゆっくり噛んで含むように伝えれば、王女様がコクリと頷く。分かってくれた、と思おう。

ひとつ息を吐いた私は、安堵の気持ちを肺の中に詰め込んで立ち上がった。






「――――ったく……」


騎士団で今日1日の報告を済ませて、さあ帰ろうという時。背後で盛大な溜息をついた気配に、私は思わず振り返る。もちろん青虫の件について批難するために。

ところが私が口を開くよりも早く、先輩は渋い顔をして言った。


「王女様なんだから気にすることない、なんて。

 どうしてあの場面で、あんなこと言うかねぇ……」

「なっ……」


なんですって。

言葉を失った一瞬にして頭の中が沸騰した。


「青虫持った王女様けしかけといて、そんなこと言いますか……?!」

「は……?」


訝しげに眉根を寄せた先輩に睨まれたけど、さっきからずっと燻っている怒りが再燃した私にとっては大したことじゃない。ていうか、しれっと知らない振りをするなんて。


「それでも騎士ですか?

 女性に虫を使った悪戯するなんて、いくら先輩でも酷いです」

「あのねぇ……。

 悪戯したのは姫様だろ。謝ったの、聞いてなかったのか?」


私と、珍しく語気を強めた先輩の声がよく響く。

廊下の先、扉の向こうの白の騎士団の皆さんに聴こえているかも知れない。あとで団長の白百合様からお叱りを受けるんじゃないかと思うと、ちょっと腰が引けそう。

だけど、今はそんなこと言ってる場合じゃないんだ。私の心情的に。


この短い付き合いの中でも、こんなに険しい表情をした先輩は見たことがない。私はその変化に気圧されたくなくて、こぶしを握り締めた。


「だから。

 “王女様が気にすることはない”って言ったじゃないですか。

 どうせどこかの意地悪な騎士に唆されただけなんだし」

「意地悪な騎士って……」

「先輩とコソコソしてたじゃないですか。見てたんですから!」


沈痛な面持ちの先輩が、重々しい溜息をつく。そしてすぐに何か言いたそうに口を開いたから、私は思わず身構えた。でも渋い顔をした先輩は、ただただ私の目を見つめるだけだ。どうやら言葉を飲み込んだらしい。今まで、口を開けばポンコツ呼ばわりだったのに。


なんとなくだけど、相手にされてない感じがする。しかもこの期に及んで王女様のせいにするとか、騎士としてどうなの。私に謝る以前に、不敬にあたるでしょうに。


呆れ半分にそんなことを考えていたら、先輩が眉根を寄せたまま言った。


「僕じゃない、っていうのが信じられないのは構わないけどさ……。

 もうちょっと、あの子のこと見てやりなよ」

「え? 子守の間、ずっと一緒に過ごしてるじゃないですか。

 もっと見るんですか? 王女様の方が嫌がると思いますよ」

「……そうじゃなくて。

 子どもらしい王女様のことを、ちゃんと見てやれって言ってるの」


険しい顔をそのままに、先輩は私を追い越してスタスタと歩いて行ってしまう。

私は彼の背を追うために足を踏み出そうとして、止めた。言われたことの意味が、よく分からなかったから。

すると、少し先まで歩いたところで先輩が振り返った。険しい表情の中に、どこか冷めたものを漂わせて。その目つきは、王城の地下で出会ったあの人を思い出させる。あの、ちょっと冷たい感じの強そうな人を。


「クロエが思ってるほど、王族は綺麗なものじゃないよ」


頭の中にふと浮かんでしまった人をかき消している間に、先輩が言う。


「今の君には、きっと分からないだろうけど」


私は、その言葉がどういう意味なのか尋ねられなかった。先輩のこぶしが、ぎゅっと握り込まれているのを見てしまったから。


怒ってる……。


沸々と沸いていた頭の中がすっと冷えていく感じがした。









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