夜
*
もう寝てしまっていると思っていた。けれど、電気もつけずに起きて待っていた。
「……どうしたんだ、コトコ。何か嫌な事でもあったのか?」
「いいえ。悪い事は無かったわ。今日、すごく楽しかった。一緒にお茶をして、ショッピングモールに行ってビーズでアクセサリーを作ったのよ」
「そうか、楽しかったのなら何よりだ。もしかして、ビーズアートにハマったのかい? だったら、すぐにでも器具を買い揃えればいい。いじり倒して、合わないと思ったら物置にでも突っ込めばいいんだからさ」
「映画にも行ったわ。それから、カレーも食べたの」
「映画かぁ。それだったら、会員になるといい。ファーストショーも安くていいぞ。カレーなら、本格的なスパイスを売っている店を探そう。ネットでもいい」
「楽しかったわ。本当に、今まで生きてきて一番かもしれないくらい」
「これからは、そんな日々がたくさん手に入る。何度でも、最高を更新できるさ」
「でも、私には耐えられない…………」
彼女は、変わらず無表情のまま、両の瞳から涙を流した。
「アナタは、今日も人を殺した。でも、それは本来ならば私がするべき事でしょう。なのに、それを人に押し付けて自分だけが幸せでいるなんて、やっぱりおかしいわ。本当なら、アナタこそがこうして幸せに生きるべきではないの?」
「それは違う。ぼくは、君に声をかけられなければ、死んでいたんだ。君の代わりに味わうものなんて、何も無かった。それに、ぼくは好きでやっている事さ。辛いなんて思うのは君の勝手な想像でしかないんだよ」
「そうだとしても、私はもう嫌なの。こんなに後ろめたい気持ちを背負い続けるくらいなら、いっそ幸せなんて捨ててしまいたい」
「それは絶対にしちゃいけない。何があってもだ。人間というのは、意識的であれ無意識的であれ、人に不幸を押しつけて幸せになる生き物なのさ。君が得をする番に回ったからって罪悪感で譲っちゃダメだ。いいかい、コトコ。痛みは少しずつ慣れていく。君は、いつか自身の大事な物を守る為に鈍感でいなければならなくなる。今からでも、頑張って慣らしていかなくちゃ」
「呼人。人形を返して…………」
「それはできない」
「辛いの……。お願い……。アナタだって、本当は人殺しなんてしたくないはずよ」
「いいや、ぼくは嫌じゃないよ」
「嘘よ……」
「嘘じゃない。だってぼくは、もうずっと前から殺したくてしょうがなかったんだ」
疑問を投げかけてくるような表情のコトコを見て、ぼくは自分の話をしてやらなければならないと覚悟した。そして、彼女の隣に腰掛けると、その小さな手を握った。
「君にとっては、聞きたくも無い話かもしれないけど……全て話そうか。いや、いずれ時間を取って話すつもりでいたんだ」
こうして、自分の事を口に出すのは苦手だ。みっともない所を晒すようで、とても恥ずかしいから。
「長くなるかもしれないけどね…………」
どこから話せばいいのだろうか。そうだな、それじゃあぼくが比較的マトモだった頃から話していこうか。
「子供の頃、ぼくは普通の奴だったんだよ……」
それこそもう、本当にどこにでもいるような、凡庸を絵に描いたような人間だった。それなりに親しい友人が居て、家族とはそれなりに仲も良くて、将来に不安を感じながらも努力というものに真摯になりきれず生きていた。きっと、周囲と比べても差のようなものは無かったろうね。
ある時、ぼくの父が病気になった。治らないものじゃなかった。しかし、治療にはものすごい額のお金が必要で、それほど裕福でもなかったウチには、それこそ逆立ちしたって出てきやしないくらい、高い金額だった。今でも覚えている。父の為に必死に、知り合いを虱潰しにするように頭を下げて回ってお金を工面しようとする母の姿。しかし、それでも目標にはほとんど届かなかった。後はもう、いかがわしい場所で借りるしかない、そう考えた時だった。ある人が提案を持って来た。
それは、自分と同じくらいの年齢の子供が犯した過ちを、代わりにぼくが負う事で、足りない分のお金をくれるというのである。母は最初、とても怪しんだが、これ以上母に辛い思いをさせたくない一心で、ぼくは提案を受けたいと説得した。結果として、母は折れてくれた。もうこれ以上はどこにもアテが無かったのだ。これしかないのは明白だった。
提案を受けると先方に伝えると、すぐさま願いは叶えられた。母はしばらく見せた事の無い安堵した顔で眠り、父もまた希望を感じていた。それがぼくにはとても嬉しくて……嬉しくて…………地獄のような痛みにも耐える事ができるくらい、嬉しかった。
それから、周囲がぼくを見る目は変わった。明らかな軽蔑をもって、遠巻きにされ、蔑ろにされ、尊厳という尊厳を踏みにじられた。だが、ぼくは決して口を割りはしなかった。元気な両親が戻って来るのだから。自分が耐えれば、何もかもが上手くいく。
これが正しいと信じていた。まるで苦行によって誰かを救おうとする宗教のように、ただ信じて耐え続けた。しかし、ある時期まで耐え抜いて、ようやく解放された時、もう二度と同じような場所には居たくないと思った。だから、仕事を探した。学歴の無い人間が辛い思いをせずにお金を稼げるはずもなく、苦しい日々だったが、そういう場所は自分の脛に傷があっても誰も気にしないので、気持ちは随分と楽だった。
父は退院し、母もいくぶん回復した。ぼくは三人で食卓に着いた時、とにかく、とても幸せだった。しかし、未だに風当たりは強く、ぼくら家族は堂々と生きる事はできなかった。
きっといつか、人の噂も風化する。それまで、勤勉で真面目に過ごしていよう。そう考えていたし、そう言って両親を励ました。しかし、ある時から父は帰りが遅くなる事が多くなり、そして何の言葉も残さずにぼくらの前から姿を消した。彼は何も言いはしなかったが、ぼくには考えていた事が分かっていた。きっと、自身が助かった事による罪悪感に耐えきれなかったのだ。そして、正しい選択肢も選べなくなるほど追いつめられて、逃げてしまった。
母は最初、気落ちした所を見せなかった。しかし、更に重くなってしまった荷物に、体も心も軋んで潰れていってしまった。いつからか、母はぼくのせいで父が出て行ったと責めるようになった。仕方ないのだろう。弱い人だったのだ。夫婦とはかくあるべしという世間体と、僅かな愛情だけを頼りに精一杯踏ん張ってきたんだ。
ぼくを殺してもいい。そう言ってあげたかった。それくらい、彼女は哀れに見えた。それから、何一つ事態が好転しないまま、今度は母がよく家を空けるようになった。もう結果は想像するまでもなく分かっていた。母さんもまた、ぼくを置いて逃げて行ってしまったのだ。結局、ぼくは両親を失ってしまった。きっと、永遠に……。
一人になって、誰の為にも耐える必要が無くなって、そうして自分から湧き上がってきたのは、憎しみだった。ぼくは自分の人生を捨ててでも、父を救ったのに。ぼくはあれほど一生懸命に母を支えようとしたのに。殺してやりたい。裏切った二人を、ズタズタに切り刻んでやりたい。ずっとそう考えていた。
しかし、しばらくすると激情は凪いでしまった。どういうわけか、自身が幸せだった頃の事が上手く思い出せなくなっていったのだ。きっと、体が自我を保つ為にそうしたのだろう。結局、ぼくは今の状態が主観的には不幸と思えず、いつもの事だ、と思うようになっていった。
そこでぼくは、ある事を悟った。きっと、人生というものは与えられるものに満足しなければいけないのだ、と。普通の両親を持った事も、悲劇的に壊れにくい自分自身を持った事も。そう思うと、ぼくはこれから先、人よりも大きな幸せを得る事は無いだろうと理解した。普通の人にとって三十六度ほどのそれが、自分にとっては熱せられて赤くなった鉄板ほどに触れ難いのだ。今、あるもので満足すれば、もう体を焼く事も無い。
ぼくは人生を賭けて父を救った。例え、何もかもが壊れても、ぼくは彼らに最後まで優しく接してあげる事ができた。そんな人間になった。だからもう、いいじゃないか。それ以上に何を求めようというのか。ぼくは―――――――
「満足しているんだ」
そう言った時、自分の手がきつく握られているのに気付いた。コトコは、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「どうして謝るんだ。君は何も悪くないじゃないか」
「私、アナタに甘えて、また背負わせてしまってる。最低よ……本当に最低……」
ぼくは彼女を引き寄せて、努めて優しく抱きしめてやった。
「いいんだよ。ぼくは自分自身の矜持を貫いているだけなんだから。いいんだよ、君はぼくにこうしてまた生きる機会を与えてくれたんだから。それだけで十分、お釣りが来るさ。いいかい、コトコ。弱くてもいい。醜くてもいい。自分の幸せを考えて生きてくれ。それで、余裕があったら誰かを助けてあげてくれ。決して…………ぼくのようになるな」
コトコはもう、何も言わなかった。ただずっと、ぼくの服を掴んで、ずっと泣きじゃくっていた。
涙はいらない。ぼくは泣きたくなどない。君に泣いて欲しくもない。
憎しみは凪いだとしても、溢れそうなほどに自分の中を満たしているのだ。見ず知らずの人間であっても、両親やかつて周囲にいた人々の顔を思い出すだけで、一瞬の迷いもなく人を殺す事ができる。そういう風に、ぼくは成った。




