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屋上

涙はいらない。例え、辛く、苦しい日々だったとしても、泣いてはいけない。

涙はいらない。例え、どれだけ惨めに映ったとしても、誰かに泣いて欲しくは無い。

涙などいらない。例えば、人並みという言葉に拘らなければ……。

きっとぼくは、産湯に浸かった日ではなく、虚無という言葉をその身で覚えた時、本当にこの世に生を受けたのだろう。

ああ、自由。なんて自由。何も無いという事だけは奪いようもないと信じた。



午後六時。駅に向かって行くスーツ姿の大人達に混ざりながらフラフラと歩いていた。

今自分が着ているのは、色がくすんだ緑のズボンに、毛玉の付いた黒いパーカー。伸びっぱなしの髪も相まって、周囲からは完全に浮いていた。

多くの大人たちが下を向いて歩いて、地面にささやかな幸福を探しているが、ぼくはそうはいかない。探し物は下ではなく、上にあるからだ。

 立ち並ぶビルを一つ一つ見比べていると、肩を誰かにぶつけてしまった。

「あ、すいません……」

 見ると、相手はやはりサラリーマン風の男で、手には携帯電話を握っていた。相手も頭を下げ、そそくさと去って行く。なるほど、お互いによそ見をしてしまったから、ぶつかってしまったのか。

 同じ事を二度起こしてはいけないので、ここは道の端を歩くべきだろう。人を避けながら移動していると、今度はコンビニの前でうつろな表情をしていた男性が吐く紫煙がこちらに向かってもやりと漂ってきた。歩きにくい時間だ……。

 しかし、少しズレたのが良かったのか、ぼくは目当てのものを発見する事ができた。それは、この辺りでは一番高いビルだった。

エントランスを覗いてみると、様々な会社が入っているらしく、案内板にはたくさんの会社名が書かれていた。

「うん、ここにしよう」

 ぼくは先ほどのコンビニに戻って牛乳と板チョコを買い、ビルに戻った。そしてエレベーターに乗って最上階にやってくると、ビニール袋をブラブラと揺らしながら階段を昇り、屋上へと出た。

 肌寒い風が体に当たるのを感じる。ぼくはとりあえずフェンス際に寄り、そこに腰掛けて先ほど購入したものを食べる事にした。

 幹線道路にはたくさんの車が走り、沈んでいく夕陽の方向へと吸い込まれていく。歩く人々もまた、駅の中へとゾロゾロ入って行っていた。彼らはきっと、これから数分か、あるいは数十分、混み合った電車に乗るのだろう。その苦労を思いながら、チョコレートを一カケラ口に含み、口中に広がるねっとりとした甘味を楽しんだ。

 食事はすぐに済んだ。ぼくは小さく御馳走様、と呟いて、ゴミを小さく畳んで袋に入れると、それを上着のポケットに押し込んだ。残っている牛乳が出てくるかもしれない、と考えたが、まあ周囲にゴミ箱らしいものも無いので、仕方ない。

そうして、夕陽が沈んでいくのをただぼんやりと眺めた。

「…………」

 陽が隠れた頃合いで、ぼくはおもむろに立ち上がった。

「それじゃあ、いきますか」

 フェンスを掴み、足場を確かめながら慎重に登って行く。こういう行為は、どこか儀式的なものがあるよな、と思いながら一つ、一つ、ゆっくりと手をかけ、足をかけ登って行く。意図したわけではないが、一番上にたどり着いた時、それが十三歩目だった。

 強い風に髪を弄ばれながら、今度はフェンスに遮られていない景色を見た。そこには、今まで見た事が無いほどに無機質で、しかし人の息吹が嫌と言うほどあると分かる街並みがあった。

 ぼくは深く溜息をついてからゆっくりと体勢を整え、今まさに飛び出さんとした。

「ねえ」

 と、突然、誰かの声が響き、ギクリとして止まってしまった。

 それがもしも、背後からだったのであればこれほど動揺する事も無かったろう。問題は、その声が真横から聞こえた事だ。

見ると、先ほどまでは誰もいなかったはずのフェンス上に、一人の少女が立っていた。

 その子は強風にも関わらず不安定な足場でバランスを保っている。歳の頃は十くらいだろうか。彼女は白いワンピースを着ていて、肩甲骨まで伸ばした真っ直ぐな藍色の髪と、上等なルビーのような真っ赤な瞳をしていた。

「ねえ、私が先なんだけど」

 彼女の口からそんな言葉が飛び出したものだから、こちらも何と言っていいか分からずにただポカンと相手の顔を見ているしかできない。

「……それともアナタ、どうしても先がいい?」

「いや、別にこだわらないけど」

 少女の口がへの字に曲がりながら、少し苛立たしげにしているのを見て、ようやくぼくの頭が自分の仕事を思い出して、ゆっくりと動き出した。

「でも、ぼくが登る前に君は居なかったぜ。だから、先なのはぼくの方だろ」

「アナタがノロノロと登っている時に来たの。先に頂上に着いたのは私なのだから、私が先のはず」

「そうだったのか。気づかなかったな。でも君、ここから飛ぶなんて、正気か? きっと物凄く痛いぞ。一度降りて考え直した方がいいんじゃないかな。ホラ、まだやり残した事とかいっぱいあるかも」

「別に。アナタはそうしないの?」

「ああ、ぼくも別にって感じかな。まあ、全く無いかどうかは分からないけど、一週間くらい考えたけど何も思い浮かばなかったんだよな」

「そう」

 あーあー、まさかこんな所でダブっちゃうなんて、変な感じだなぁ。

「なあ、申し訳ないんだけど、ちょっと場所変えてくれないか? だって、このままだと、どっちかが落ちた後の様子を見ちゃう事になるじゃん。人も集まって来るかもしれないしさ、巻き添えなんて食わせたら可哀想じゃないか」

「アナタが変えればいいと思うわ」

「君の方が身軽だろ? ぼくはここまで来るのも一苦労だったんだ。手間を考えれば譲ってくれてもいいんじゃないかな。別に、ここじゃなくちゃいけないってわけでも無いだろ?」

「ここがいい。下がアスファルトだし、車も人も少ない。この辺で一番高いビルだし」

 考えてる事がこっちと全部一緒だった。そうなると、彼女を説得する事はつまり、自分自身を説得する事になる。よって、これ以上の解決は望めそうもない。となると、彼女の事は無視して、このまま不意打ちで飛び降りるのが得策かもしれない。

 フェンスの縁を握る手に力を込めた時、彼女が話しかけてきた。

「……どうして、死ぬの?」

「別に。そんな大した理由は無いよ。強いて言うなら、満足したからかな」

「満足したの? 人生に?」

 それにしても、大人びた喋り方をする子だなぁ。

「ああ、まあね。そういう君は? 見たところ、ぼくとは違う種類の動機がありそうだけども」

「私は……嫌になったから」

「嫌になったのかい? 人生が?」

「ええ……。ねえ、もしもどうしてもやりたくない事があって、自分がやるしかない時があったら、アナタはどうする?」

「さあ、どうかな。逃げるかもしれないし、自分を騙してやりきるかもしれない。ケースバイケースかな」

「じゃあ、人殺し。それも、悪い人ではなく、普通の人を、殺すの」

「やってはいけない事だけど、せざるを得ないという状況が絶対に無いなんて言えない。ただし、やってしまったなら、相応の報いは受けなければならないだろうね」

「…………。アナタはもしも、自分が当事者になっても、そういう風に考えて行動できる?」

「さあね、確実じゃない事は断言したくない。でも、希望としては、そうでありたいと思うなぁ」

「……責任が無ければ何とでも言えるものね」

「そう怒るなよ。例えばの話だろ? 殺し屋じゃあるまいし、そうそう善良な人を殺す事なんて無いさ」

「そうでもないわ。実はさっきの、例え話をしたわけじゃないの。私、本当ならこれから人を殺さなきゃいけないのよ」

「へぇ……。それは何て言うか……大変だなぁ」

 やっぱりこんなに幼いのに死のうとする人間はやっぱり一味違う……。もしかして、何かの病気だったりするんだろうかな。

「本当に、どうしていいか分からないの。成功しても、失敗しても、どっちにしろ嫌な思いをする事になるもの。こんな事に何の意味があるのかしら。戦う意味って何? 考えるだけで頭が破裂しそうになる。だから、いっそ何も考えず、どちらも選ばない方がいい」

「ふーむ、しかしそうなると、君がやるはずだった仕事を別の誰かがやらなきゃいけなくなるんじゃないか?」

「そうよ。だから、ここから飛ぶ事も迷ってる」

「なるほどね……」

 彼女は沈痛な面持ちで、地面を見ている。どうやら、演技って感じではなさそうだ。

「それじゃあ、ぼくが代わってあげようか?」

 どうして自分からそんな言葉が出てきたのか、まるで分からない。しかし、言ってしまったのだから仕方ない。

 彼女は弾かれたように顔を上げると、信じられないという表情でぼくの顔を見つめた。瞳の赤色がやけに綺麗だと思っていたが、真正面から覗くと格別だ。本当に宝石が入ってるんじゃないだろうか。

「どうして……?」

「君が困っているみたいだしね。ぼくはもう未練も無いし、肩代わりするには丁度いい人間だよ。それに、どのみち自殺じゃあ天国には行けないしなぁ」

「信じられない。本気なの?」

「ああ、もちろん。さーて、それじゃあ凶器でも調達しに行こうか」

 冗談めかしてそんな事を言って反応を窺おうとしたが、それは望めなかった。気づけば、彼女の顔が息もかかりそうなほど近くに寄ってきていたのだ。一瞬、背筋がゾクリとしたが、不安定な状況なので、離れる事もできずにぼくは硬直した。

 だが、自分よりも随分と年下の女の子に迫られてドキドキするというのもおかしな話かもしれないが、幼くとも整った顔立ちの人間というのは、近くに居るだけで奇妙な刺激があるのだから仕方ないと思う。

「じゃあ、代わって。アナタが本当に自分の言葉に責任を持てるか、試してあげる」

ぼくは喋ろうと口を開いたが、彼女はそれをさせなかった。こちらの頭をガッシリ掴むと、有無を言わさず顔を寄せ、ぼくの下唇に噛みついた。


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