0-38:消えた道標
【0-38:消えた道標】
空から、地面から、木の陰から、黒い存在は次々に湧いて来る。戦士たちが倒すのと同等以上の速さで補充される〈影〉はあまりに厄介だった。向かうべき敵はアポカリュプスだというのに、次々に現れる〈影〉が壁となって戦士たちの攻撃を妨げる。魔法や弓で狙おうと〈影〉たちは消滅を厭わずアポカリュプスの盾となり、掻い潜って届かせた攻撃は彼自身の手によって相殺されてしまう。
しかし状況が拮抗している原因はアポカリュプスの側にもあった。〈影〉が幾ら束になってかかろうとも、よほどの大群でなければ少々戦士たちの足止めをする程度でしかない。それを分かっていながら、なぜかアポカリュプスは積極的に仕掛けて来ようとはしなかった。数の上での有利を活かすこともなく、時折魔法を放って応戦することはあっても、基本的には戦士たちと〈影〉を戦わせ続けるだけだ。
(なんで何もしないの……? 前はもっと強い魔法で殺そうとしてきたのに。――怖い。何を考えてるのか分からないよ……!)
戦士たちの後方から魔法で援護しながら、アイリスは不安に身を震わせた。以前は分かりやすいほどに非力な彼女を集中攻撃してきたものだが、今回は見向きもしないアポカリュプスが不気味だった。他の仲間を先に始末しようというのなら、なぜ強力な攻撃をしないのか。時間稼ぎとしか思えない手の抜きようは、嵐の前の静けさを思わせる。無意識の内に彼から離れようと、アイリスは少しずつ足を後方へ引いていた。
そうしてアイリスがアポカリュプスへの恐怖に囚われ、彼女を守る仲間たちの布陣を気付かず乱してしまった瞬間、戦況は一気に動いた。沈黙を破り、アポカリュプスが突如転移魔法で姿を眩ます。
「!! アイリス、前へ出るんだ!」
同時にクレスが仲間たちから離れてしまっているアイリスに気付くが、その声に彼女が反応した時には、アポカリュプスの準備は終わっていた。魔法陣が孤立していたアイリスをその場に縫い留め、他の戦士たちがアポカリュプスを攻撃するより早く、彼女を狙って鈍色のナイフが飛ばされる。拘束され、防御することの叶わない彼女は、来る痛みに備えて目を瞑ることしかできなかった。そして、
「よりによって女の子の顔を狙うなんて、男の風上にも置けないな」
短い呻き声に続いた言葉ではっと瞼を上げれば、眼前に迫っていたナイフはジャンの剣を持った右腕に突き刺さっていた。
「ジャン!」
「アイリス、絶対に前に出るなよ? ――治療は動けるようになったらお願い」
悲鳴に近いアイリスの呼びかけに応えたジャンの口元にはいつもの笑みが浮かんでいる。だが傷は余裕を保てるほどに軽くはない。力の入らなくなった右手からレイピアが滑り落ちた。ジャンは舌打ちして左手で構え直したが、右手はもはや指先が僅かに動くだけだ。どうやら刃に毒が塗られていたらしい。
「右腕を毒に蝕マれテなお〈影〉と戦えルか!」
「片手潰したぐらいで良い気にならないでほしいな。残念だけど、俺は両利きなんだ!」
アポカリュプスの号令で襲い掛かって来た〈影〉を、ジャンは狙い過たず貫く。剣を振るう速度はむしろ普段より速い。それもそのはずで、右利きという思い込みを利用した、左からのより速い刺突は彼の秘中の策だ。おかげで毒の影響で体が重くなり始めても、〈影〉の包囲から脱するだけの時間は稼げた。
「エルヴィラ、フィリオン! 援護頼む! ……アイリス、もう動けるな? 一緒に無敵の勇者様の所まで行こうか」
駆けつけた仲間に指示を出し、ジャンはあくまで普段通りにアイリスへ退却を促す。魔法による拘束が解けても呆然としていた彼女は、負傷したジャン以上に青い顔色で頷いた。その様子にすぐ治療に入るのは無理と判断し、ジャンは自分で治癒魔法を唱えて応急処置をしながら敵から離れ、今一番安全だろうクレスの防衛範囲までアイリスを連れて移動する。ジャンが木にもたれながらずるずると崩れ落ちるように座り込んだところで、ようやくアイリスは治癒師の本分を思い出したのか、震える手で傷を診始めた。
「……陽が沈ム。宵闇ノ中で、足手纏イを庇いなガらでハ人間は動ケまイ」
徐々に陰りの濃くなる世界の中で、アポカリュプスは淡々と言う。ジャンの治療をするアイリスがびくりと肩を震わせ、それを見た魔人は嘲笑と共に告げた。
「エルフの娘、ナンジは守らレルばかりダ。古のエルフはナンジに戦う力を残しハしなカッた。己の無力ヲ呪うガ良い。居るだケで周囲を損ネる『祝福』を与エたエルフ共を憎ムが良イ!」
「ふざけんな! オマエいい加減にしろ!」
怒りとともにゴウが斬りかかるが、アポカリュプスは難なく躱す。そしてそのまま身を翻し、笑い声と共に闇に溶けて姿を消した。〈影〉も地面に潜ると散り散りにいずこかへと逃げて行った。
後に残された戦士たちはそれ以上探索を進めようとはしなかった。時間があるとは言い難いが、夜の山を移動するか判断するより先に、一度馬車へ戻る必要がある。
「ジャン、馬車まで戻れそうか」
「……非常に不本意だけど、お前かフィリオンが肩を貸してくれるなら。本当は密着するなら絶対女の子が良いんだけどな」
剣を収めたクレスの問いに、ジャンは隠しきれない消耗を見せながらも軽く答える。しかし身長差の関係で補助を頼める相手が決まっていることへ不服を申し立てている様子からして、治癒魔法の効果は確かに出ているようだ。
「軽口を叩ける程度の元気はあるみたいだね。アイリス、ジャンは動かしても大丈夫なのかい?」
「……うん。魔法である程度解毒したから、これ以上悪くはならないはず……。馬車には薬もあるから、戻った方がもっとちゃんと手当て出来ると思う……」
エルヴィラに答えるアイリスの声は明らかに暗い。体を震わせているのは、今は恐怖ではなく、泣くのを堪えているからだ。ジャンがエルヴィラとクレスに目で合図し、黙ってなりゆきを見守っていた他の四人へも移動開始の指示を出す。クレスがジャンを支え、エルヴィラがそっとアイリスを抱き寄せた。
「良い子だ。まだあんたの仕事は終わってないからね。さ、戻ってもうひと頑張りするよ」
その声音は優しく、立ち上がらせる手は温かい。心が慰められながらも、それがどうしようもなく悔しく、アイリスは結局顔を上げられないまま歩いていた。
――――――――――
八人が馬車に戻ると、血の匂いを嗅ぎつけていたシルバが既に馬車の中に治療用の場所を用意していた。エドウィンも彼に聞いて心配しながら待っていたようで、姿を見るやいなや湯を沸かしていた焚火から離れ、クレスと交代してジャンを馬車へ運んだ。
アイリスが意気消沈しながらも治療した甲斐あって、ジャンの怪我は大事には至らなかった。さすがに毒の回りが早かったか、すぐ元通りに戦闘復帰とはいかないが、少なくとも二、三日あれば右手の麻痺も完全にとれるようだ。本人は横になりながらも至って普段の調子であるため、むしろ落ち込んでいるアイリスの方へ周囲の心配の目は向けられていった。
「……ごめんなさい」
皆が明日の用意や馬の世話をしている中、魔力消費が激しいからと休まされたアイリスは、そう指示したクレスへぽつりと呟いた。野営地の片隅で膝を抱えて縮こまる彼女は、出会って間もない頃の慣れない環境に怯えていた姿を彷彿とさせる。
「君が落ち込むことはない。彼とて戦場に立つ以上、こうなることも覚悟の上だ。むしろ君が居たからこそ、特に後遺症も残さず対処できた」
「でも、私を庇ったから……」
「一度も他者に護られなかった者などいない。私も庇われたことぐらいはある。だからこそ君の悔しさも理解できるが、今は顔を上げてほしい。……君は治癒師だ。傷ついた者の居る場所こそが君の戦場であり、治癒魔法が君の武器となる。君はアポカリュプスの言うような、非力な存在などではない」
治癒師という誰もがなれるわけではない存在。アイリスはただクレス達とは異なる戦いをしているだけだ。そこでは彼女は絶大な強さを誇り、仲間の誰も肩を並べることはできない。しかし、彼女が望んでいる強さはそれではない。
「だって! ――だって、私は、皆みたいに戦えない! 皆が傷つかないと、何の役にも立てないんだもん! そんなのっ、そんなの、嫌だよ……」
――居るだケで周囲を損ネる
アイリスは古のエルフ達に託された使命のために、必ず周囲に命を賭してでも彼女を護る者が置かれるという、彼女にはどうすることもできない運命の下に在る。それは戦闘に向かない彼女へのエルフ達の「加護」であると同時に、彼女にとっては他者に不幸をもたらす「呪詛」でもあった。故に彼女は戦う力を求めたのだ。誰かが傷つく前に、助けられる力を。
怪我をしてからでは遅い。命を落としてからでは意味が無い。そのようなことになる前に、自分も何かをしたい。だが実際は、治癒魔法が必要とされない場所でのアイリスは、ただのか弱い少女だ。
とうとう泣き出したアイリスに、クレスはそれ以上何も言うことは無かった。今の彼女は慰めてほしいわけでも、実力を肯定してほしいわけでもない。ただ誰も犠牲にせずとも、役に立ちたいのだ。それは今すぐに与えられるものではないからこそ、どうすることもできなかった。
翌朝は日の出と共に探索を開始しなければならなかった。アポカリュプスの提示した刻限を過ぎれば、本当に結界装置が失われる可能性がある。動けないジャンといざという時に転移魔法の使えるフィリオンを野営地に残し、再び八人で襲撃を受けた地点まで急いだ。
そこから先は、やはり集まっていた精霊と、ゴウの山神の力への反応を頼りに進んでいく。楔石の反応は昨日よりも弱く、鎖のような魔力の伸びる先が定まらないせいで道標にはならなかった。それでも他の手段があるからと思っていたのだが、幾らもしない内に問題が起きる。
「……精霊たちは、こっちだって言ってるよ」
「うーん。でもなんかあっちの方がざわざわするんだよなー。何かがジャマしてて、何があるのかは見えねーけど」
昨日の場所から二人の示す方向は徐々に離れ、今となっては左右正反対になってしまった。途方に暮れて仲間たちを見る二人に、クレスが苦渋の決断を下す。
「二手に分かれる。エルヴィラ、シルバとライと共にアイリスの示す方へ」
先日は少数に分かれたおかげでセドナたちが危機に瀕した。敵が来ると分かっている以上、本当は全員で行動したい。だが時間が無いのだ。間違った方向を選べば、確実に間に合わなくなる。それを理解した上で、エルヴィラは組み分けに疑問を呈した。
「いいのかい、あんたがこっちじゃなくて。アポカリュプスに狙われてるのはアイリスだよ」
「……ジャンの判断だ。必ず隊を分ける必要性が出てくるから、その時はアイリスと私は別にしろと。アポカリュプスは恐らく『アイリスの居ない方』に現れる、と言っていた。そして彼の考えが正しければ、結界装置もそちらにあるらしい」
エルヴィラの疑問は、昨晩ジャンにそう指示されたクレスも抱いたものだ。しかし理由までは完全に把握していない。毒で消耗していたジャンには今日の組分け――フィリオンを待機させたのも彼の判断だ――と今の推測を伝えるだけで限界だったらしく、根拠を話す前に寝入ってしまったのだ。辛そうな表情こそ見せなかったが、実は取り繕っていただけなのかもしれない。無理をさせるわけにはいかなかったので、今朝も出発までに目覚めなかった彼を起こしてまでは聞き出さなかった。
「ジャンの予想が間違ってた時のことを考えたら、結局そうするしかないってことかい。……先を急ぐよ。さっさと合流するためにね」
何にせよ、今は残り少ない時間で正解に辿り着くべく動くしかない。二手に分かれた戦士たちは足早に先を目指す。未だに昨日の失敗を引き摺っているアイリスは、それでも出来ることをしようと、懸命に精霊たちの声に耳を傾けた。
『アッチ、アッチ』
『モットオク』
『ナニガアル?』
そして無情にも、推測は正しかった。
『オハナ、ココハナイ!』
『コワイノ、コッチイケ、イッテタヨー』
『オハナー。オハナドコー』
精霊たちが集う先には、確かに楔石があった。切り株の上に無造作に置かれた、何の加工もされていない、手のひら大の欠片が。
「嘘……」
精霊たちはしきりに「怖いの」にここへ行けと言われたと主張している。アイリスをおびき出すためとしか言い様の無い、アポカリュプスの仕込みだろう。精霊たちには善悪の概念が無い。他者を陥れる罠であろうが、誰かを救う魔法であろうが、求められたなら何の疑問も持たずに従ってしまう。それは恐怖の対象である魔人の命令かどうかなど関係ない。
「チッ、ハメられたか。戻るぞ!」
目的の物は何も無いと分かるやいなや、シルバが真っ先に走り出す。太陽はもうだいぶ高く昇ってしまっている。既にもう一方の隊は戦闘になっているだろう。焦燥に突き動かされるように、四人は山の中を駆け抜ける。別れた地点まで戻り、足跡や匂いを頼りに追いかけた。アポカリュプスの罠はそれだけに留まらず、結界魔法が戦士たちの痕跡を消してしまう。否応なしに足を止めさせられ、僅かな手がかりでも無いかと草の根を掻き分けた。
「……動物の通った形跡すらない。セドナが何も対策せずに通りすぎるわけがないから、後から張られたのか?」
「誘い込んでから確実に分断するために、ってことかい。どうやら本気で殺しにきてるようだね」
「もっと遠くの方に、もう一つ結界魔法があるみたい。でも範囲が広すぎて、どこに向かえばいいのか分からないよ……」
「精霊も居なくなった、か。ゴウが言ってた邪魔する何かってのは、そっちの結界魔法じゃねぇのか? 楔石の反応がハッキリしねぇのもそのせいだろうな。……クソ、どうすりゃいいんだよ!」
打てる手は無かった。闇雲に歩いた所で合流できるとは思えない。あの四人が簡単に負けるはずはないが、アポカリュプスには戦士たちの把握しきれない手の内があるように思われる。
(転移魔法……は、結界魔法に弾かれてる。送念魔法は私じゃ使えない。他の使える魔法は――……)
アイリスは必死に考える。アポカリュプスのかく乱に自身が嵌らなければ、こんなことにはならなかったのだ。唯一役に立てると思ったエルフの力は、結局仲間の危機を招いてしまった。
「どうして……どうして私、何もできないの……?」
涙が零れそうになった、その時だった。ぼやけた視界の端が、黒く染まったのは。
『ここに居たか。捜したぞ、エルフの娘』
同時にその方向から、聞き覚えの無い低い声が聞こえてきた。驚いてそちらを振り向いたのはアイリスだけで、他の三人は彼女の挙動を訝しんでいる。彼女が「それ」を指して何かがいる、と言っても、やはり彼らの眼には映らない。
臙脂色とは違う、紅玉のような鮮やかな赤。ぼんやりと光るそれが二つ、黒い霧の中に浮かんでいるようだった。霧は徐々に人型を取り、赤い光は双眸としてアイリスをひたと見据える。黒いローブを纏った背は高く、広い肩幅と丸みの無い体躯から男だと分かった。だが明らかに人間ではない。長い漆黒の髪を掻き分けて、螺旋のように捻じれた細い角が上に向かって伸びている。霧の残滓は未だ彼の全身を包んでいた。そして背中に広がるのは、蝙蝠のような被膜の張った翼。
それは闇で作られた悪魔だった。
【Die fantastische Geschichte 0-38 Ende】




