0-35:闇に蠢くものたち
地の封印編。導入の短編。
【0-35:闇に蠢くものたち】
その場所は、人々の知覚出来ないところにあった。この世界であって、この世界のどこにも見つけられない亜空間。草の一本も生えない荒野が広がっているかと思えば、すぐ隣には神々しいまでの光と命に満ち溢れた楽園がある。前方に青く澄んだ海を臨む一方で、振り向けば砂嵐に包まれた遺跡が見える。まるで誰かが世界を無造作に引き千切り、無理矢理繋ぎ合わせたかのような不自然な場所だった。
亜空間に居る者達にとって、目に見える距離や物質としての壁はあまり意味を成さない。彼らの多くは転移魔法で自在に空間を行き来できる上に、クロスヴェルトで起こっていることを遠見することだって出来た。そして同じ亜空間に居る者の動向なら、手に取るように分かる。
「あら、お出掛け? 意中の人だからってあまり着け回すと嫌われるわよ? ふふふ」
妖艶な女悪魔が毒々しい赤色の唇を歪め、今まさにこの空間から出ようとしていた男へ笑みを投げ掛けた。女は蝙蝠のような被膜の張った翼を広げ、楽しげに宙を舞う。女の鮮血色の長い髪がうねるのを見上げながら、男は独特の抑揚がついた声で答えた。
「……既ニ疎まれてイるナンジが言うカ。ワレはたダ己が望みを果たスまで」
二人の間に冷ややかな空気が流れる。それもそのはず、夢魔の女メアリアーゼと魔人アポカリュプスは今この場においては共闘関係にあるが、それが無ければ互いに無関心を貫く程度の付き合いだ。
アポカリュプスは臙脂の瞳に胡乱げな光を乗せて、わざわざ彼のもとを訪れたメアリアーゼが何をするでもなくただ飛び回っているのを見遣る。彼女はくるりと一回転すると、上から彼を覗き込むようにして止まった。彼の目の前に豊満な胸が付き出される体勢になるが、色香に惑う性質でもなければ、彼女にもその気は全く無い。
「あなたって女心に疎そうだから忠告してあげてるの。まぁ、あんな気弱そうな小娘のどこが良いんだか私には分からないけど。幼女趣味は引かれるわよ」
「ナンジとは違ウ。ワレとあの娘の関係ハ永遠に相容れルことなき定メにある。ナンジも潔ク人間トの共存など諦めるノだナ」
「共存なんてする気は無いわよ? フィリオンは『特別』なの。他の人間はどうでも良いわ」
それぞれの相手に執着する理由も彼らは異なる。だからこそ異世界の戦士たちとは違い、〈災厄〉側で呼ばれた彼らは互いに利用し合うだけで、交流を深めるなど有り得ないことだ。掛ける言葉は辛辣で、絡まる視線は猜疑に満ちていた。
普段同じ場所に居ること自体珍しい二人に興味を持ったのか、どこからともなく緑髪の男までも現れる。二人が露骨に嫌悪を表せば、彼は狐目をむしろ愉快そうに更に細め、ケタケタと笑っていた。
「そんなに嫌そうな顔をしないでくださいよ。ワタクシたちは『仲間』なんですよ?」
彼――ジェラルドは「仲間」という言葉を殊更に強調したが、そこにはくだらないという侮蔑の感情がありありと滲み出ていた。彼の価値観は全て彼にとって面白いかどうかに判断基準が置かれている。信頼関係のような「綺麗事」は、彼の最も忌み嫌う概念だ。もっとも、一枚岩ではない〈災厄〉側の者たちの中にあって、彼と同じ考えを持たない者の方が少ないのだが。
「それより、面白いことをする時は教えてくださいねー。ワタクシも高みの見物に行きますから」
「邪魔ダ。ナンジは他の人間ドモと戯れテいれば良かろウ」
「あん、つれないですねぇ。大教主サマ達がしていることって結果が出るまでまだ時間がかかりそうなので、今は放置しているんですよ。ワタクシの方もシルバの坊ちゃんがドライの町に着いてからでないと」
アポカリュプスに邪険にされ、ジェラルドはへらへらと暇を訴える。異世界の戦士たちと〈災厄〉側との戦いも、彼には少々刺激的な劇の一幕にすぎない。より面白くするための傍迷惑な協力も惜しみはしないが、彼の今一番の玩具は同じ世界から来た銀狼だ。それ以外を狙う他の者たちの策は基本的に傍観することにしていた。
そんなジェラルドの勝手気ままな行動を誰も快くは思っていなかった。だが彼以外に関しても、拒絶の度合いが多少異なるだけで反応は同じだ。他者に引っ掻き回されることも、後から失敗を詰られることも気に入らない。結局は、誰も彼もが一応は味方であるはずの者たちと一線を引いて、監視と牽制に注力していた。
「魔王サマも結局大失敗だったみたいですし、退屈なんですよねぇ」
「ちょっとあなた、何もしていない癖にその言い草は聞き捨てならないわよ。そもそもの原因はあの女の方じゃない」
「でも鎖の一番脆い所を叩いておいて、壊しきれずに修復させてしまったことには変わりないですよ。ああ惜しい。ちゃんとやれば良い悲劇の種だったのに」
「……確実に仕留めておかなかったのはただの慢心でしょうし、そこは責められてもおかしくないと分かってるわよ。自分は失敗しないように気をつけることね」
ジェラルドの嘆きにメアリアーゼが怒りを見せるも、大きく咎めようとしないのは、先の戦いで迎え撃ったイオルムたちのやり方にも非があると分かっているからだ。
異世界の戦士たちは順調に目的を果たしている。両陣営とも人数に変化は無く、ただ結界装置が起動し、〈災厄〉を倒すための準備が進んでいるという事実があるだけだ。完全に敗北を喫したベルゼルビュートはともかく、魔王イオルムは詰めが甘く、魔女ベルキスに至っては手を貸すような行動に出た始末。仮にも味方であるならば、その失態に非難の声が上がってもおかしくはない。
それでも各々の目的を優先し、互いの不利益に繋がらない内は放置する。あまりにも薄い関係こそが、彼らを「彼ら」たらしめる結束だった。
「それで、アポカリュプスさんはどうされるので? あの女の子一人を狙うのは難しいでしょう」
先ほどのメアリアーゼとのやり取りと全く同じ調子で、ジェラルドはアポカリュプスの意図を尋ねる。途端に老いの表れる顔を歪めたのを見て、やはりとジェラルドはほくそ笑んだ。
「アレだけならバ殺すのは容易イ……。だが、あの娘ハいつも誰かに護ラレている。忌々しイ、エルフどもノ遺産がワレの邪魔をすル」
苦々しさを前面に押し出して、アポカリュプスは誰もいない空間を睨む。臙脂の瞳に映るのは、彼の狙うエルフの少女とその仲間である戦士たち。そして元の世界に居る、同じ色を宿す青年。ジェラルドは楽しんでいるが、彼にとっては深刻な障害だ。
治癒師の弱い小娘と侮れば、彼女以外の要因が牙を剥く。古のエルフ族が残した加護のおかげで、彼女の周りには常に守護者が居た。今も有数の実力者が揃いも揃って非力な彼女を一番に護っている。
そんな苦しい事情をジェラルドは喜んで見ている。細い目が弧を描いているのがアポカリュプスの癪に障った。
「それで? 言っておくけど、結界装置の防衛は『形だけでも』やっておいてよね。場所はちゃんと教えてあげたのだから」
「……確かにナンジの言った通りノ場所にあっタ。その〈竜剣〉の力、信じテやロウ」
メアリアーゼの念押しにも、鬱陶しいとばかりにぞんざいに返す。彼にとっては長年の悲願に比べれば、結界装置などどうでも良い。ただ事を有利に進めるために利用するだけだ。それができるのは彼女の協力あってこそだという事情も、面倒でしかない。
全ての結界装置の場所を正確に把握しているのは、メアリアーゼ唯一人。他の者が異世界の戦士たちに先んじて策を張り巡らせられるのも、彼女の情報提供のおかげに他ならない。一番の功労者とも言える彼女へのその態度に、周囲の気温が一気に下がった。
「ふん、偉そうに。……いいこと? 私たちはあくまでお互いの利が一致したから協力しているだけであって、役に立たないなら切り捨てるまでよ」
静かに殺気をはなちながら、メアリアーゼは右手を宙へ伸ばす。魔法で呼び出された彼女の「切り札」に、アポカリュプスは警戒の目を向け、ジェラルドは歓喜の声を上げた。鞘に収まった剣が抜かれることはないが、そのままで充分に懼れるべき存在であることは、彼女の知り得ないはずの知識が物語っている。
メアリアーゼの圧力に対抗するかのごとく、アポカリュプスは一歩踏み出した。しかし何かを起こすでもなく、そのまま空間の出口へと足を進める。今は味方同士で争ってもしょうがない。
「分かってイる。――だカラこそ、全てヲ滅ぼす」
同じく黙って見送る彼女たちに、振り向かないまま告げる。
「邪魔にナル者全てを、深キ怨嗟の闇へ……」
言われずとも分かっている。彼の宿願を妨げるものは、全て排除されなければならない。
陳腐な仲間意識も、他者の強大な力も、立ちはだかる戦士たちも、最後には余すことなく目的のための犠牲とするべく、復讐の魔人は亜空間を抜け出した。
【Die fantastische Geschichte 0-35 Ende】




