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遺言




 この日は、起きた時から嫌な予感ばかりがして落ち着かなかった。まるで空気が色を持ってざわついているようで、うるさくてたまらない。

 先生が顔を見せなくなってから、今までで一番時間が経っている気がする。

 その間の食事だとかは無くても慣れているし、保存食が書物の下敷きになっているはずなので心配はないが、どちらにせよ今は喉を通らないだろう。とにかく心配だった。


 少し前から先生は、疲れた顔を見せるようになっていた。いたる所に傷を作り、力を使いすぎて緋色が薄くなっていた。

 だというのに、そうやって目に見えて異変を知らせるくせして、外で何が起こっているのか俺には一切教えてくれない。大丈夫だと、俺はお前の師匠なんだからと、まるで説得力のない言葉ばかりで誤魔化そうとする。


 俺が毎回どんな気持ちで出迎えているのか、あの人は微塵も分かっていないのだろう。白銀によって知った外の世界は、けして優しくはなかった。そんな場所で、誰よりも優しいであろう先生が無事でいられる保障はどこにもない。

 出してやれないと泣きながら謝ってくれなくても、少しばかり光に慣れたからといって、出たいとはあまり思っていなかった。それで先生の助けになれるのならば、いくらでも身を尽くす。でも、何もできやしない。

 出来損ないという言葉は、俺にこそ相応しいものだ。こんなことを先生に言ったら、また泣かせてしまうのだろうけれど。


「先生……、ちゃんと帰ってくるよな」


 でなければ、今度こそ俺は白銀に喰われてしまう。先生が来てくれた日の眠りだけが、自分の持つ薄暗くも温かな日々の続きを夢で見させてくれていた。


 膝の上に置いていた本を閉じ、顔を上げる。鉄の棒が等間隔に並ぶだけの出口のない先にある、母さんでさえ腰を曲げなければくぐれなかった扉は、先生が開けるたび壁にぶつかっていた。その音が来訪の合図でもあった。


 なのに。なのに――


「ただいまぁ」


 感じたことのない気配に促されるまま見たそこに先生は居た。扉は開いていない。絶対に。だって、どれだけ静かに開けようとしたって、物腰の穏やかな母さんの手でも、扉は軋まずにはいられなかったのだから。

 なにより先生の身体は透けていた。その先に扉が見えている。

 そんな状態だというのに、いつもみたいにヘラリと笑っているのだから、目の錯覚だと思いたかった。思いたかったのに、先生は鉄格子を物ともせずに俺の前へと歩を進めた。


「ただいま」

「な……、にを」

「ごめんな」

「なにをしているんだ!」


 怒鳴り声の振動で、周囲に積み重なる本の塔がいくつか崩れる。ゴトリと、まるで首が落ちるような音がした。

 それは俺にとって、世界が壊れる音でもあった。


「死んじゃった」

「嘘だ!」

「嘘じゃない。俺、死んじゃった」


 しゃがんで目線を合わせてくれるその行動も、師匠のくせに気の抜けた顔で頼りなく笑う姿も、何もかもがいつもと同じ。間に邪魔をする棒がないだけ。必死にそう思おうとする俺を見透かして、先生は現実をあっけなく告げる。

 そして、躊躇なく手を伸ばしてきた。


 ほら、やっぱり。悪趣味な冗談だ。だって、透けていたら触れないだろう?

 けれど、期待とは裏腹に、先生が触れた箇所ではフワリ――穏やかな風が生じる。火傷の跡が目立つ俺から見ても細い腕は、その風で身体を持ち上げると、立った状態でも目線が合うよう、丁度良い高さの書物の塔の上に座らせた。

 火傷の全ては、物に移った熱によるもの。本質の同じものが、彩色士を傷付けることは絶対にない。それと同じで、持っていない色の力を使うことも出来ないはずなのに。


「なんだよ、その力……」

「びっくりだよなぁ。俺もびっくり。ま、感覚としては普通に触ってるつもりだから、操ったりはできないけど」

「なんでそんなに暢気なんだ!」

「いつにも増して質問が多いな、愛弟子よ」

「当たり前だろう! ふざけていないで説明しろ!」


 先生は、首だけになった母さんと同じような微笑みを浮かべていた。先生までもが、そんな顔で俺に想いを向ける。

 いなくなってしまうと考えただけで全身を恐怖が襲っていたのに、今まさにそれが現実になろうとしていた。


「俺の……、俺のせい……?」

「違う、それは違う。これは俺が選べなかっただけだ」

「父も、母さんも、先生も! なんで、なんで。俺は身体で庇うことすら許されない!」

「落ち着け。な? 俺と話しをしよう」

「こんな色じゃなかったら、せめて力を使えたのか? 俺は何もしてないだろう!」


 困らせたくはなかった。これが最期なのだとしたら余計に。

 でも無理だ。俺を縛るものがこれ以上、増えてほしくはなかった。とっくの昔に、生まれたときから、すでにがんじがらめなのだから。ありもしない罪に呪われ続け、自分の道を塗りつぶされ。全ての色はどこまでも重く圧し掛かる。

 先生はそれを知っているだろう? 彩色士なのだから。俺たちに認識の差など存在しないのだから。

 だというのに、この現状――


「俺を裏切るの……?」

――お前も裏切られるのだな。


 声が重なる。腹の辺りから、白銀が這い寄る気配がする。

 おぞましい感覚に思わず口元を覆うと、遠のく緋色がハッとしていた。


「そんなわけがないだろ!」


 いつだってゆったりとしていた声が音を変え、色を変え、大きく響いた。

 勢い良く抱き締められると、全身を温かさが包みこむ。いつも感じていた手のひらとそっくりな風だった。


「ごめん、ごめん。ごめんな。酷いよな、俺。師匠として最低だ」

「そう、思うなら……、なんで死ぬんだ」

「だよなぁ。ほんと俺って馬鹿。でもな? でも、これが俺なんだ。そして、そんな俺を最終的に許してくれるのがお前なんだよ」

「勝手なこと、言うな」

「……それは無理だなぁ。だって俺、自分勝手だから。そんな師匠を持ったのがお前だよ、愛弟子」


 頬に当たる風の中で、さらに小さな風が滑る感触がする。いつもみたいに泣いているのだろう。されるがままで力の入らなかった腕を動かし、そっと先生の頭に持っていく。

 何故かいつもペタンと潰れていた髪は、風になっても先生らしく柔らかかった。

 耳元で鼻を啜る音がする。何度も何度も、ごめんと小さく呟かれる。


 なあ先生、知っているか? 無力さを惨めに思えることは、とても素敵なことだ。それは力が及ばなかったと嘆いているということだから。抗おうとしたという、力を持っている確かな証だ。俺にはできないことなんだよ。


「っ……、ごめん。本当に」

「もう良いよ。死んじゃったんだろ?」

「うん」

「それでも帰って来てくれたんだろ?」

「っ、うん」

「なら、良いよ。おかえり、先生」


 ただいまは聞こえなかった。ただひたすらに謝罪を口にし、俺に罪はないのだと、この先言えなくなる分を全て出し切るように繰り返す。 


 けれど、罪はあるよ。俺だって弟子失格だ。こんなことになってもやはり、理不尽を強いる元凶が憎いし、父を殺し母さんを虐げた奴らが憎い。先生をこの国に導いた彩色士も、背中に無数の矢を放った人間も、何もかもが恨めしい。

 その想いがなければ、先生はここから俺を救い出せて、一緒に旅が出来たのかもしれなのに。


 でも、嗚呼――いつかはきっと、この国に戻ったのだろうな。

 たぶん先生は、あの狂った王さえ泣いていれば抱き締めてやるはずだ。どこまでも優しく献身的な師匠は、それと同じくらい残酷な人だったのかもしれない。


「話を聞いてくれるな?」

「嫌だと言っても話すくせに」

「そうだな。俺、自分勝手だもんな」


 身体を少しだけ離し緋色をさらに赤で染めながら、先生は俺を見つめた。涙は全然止まっていなくて次々に流れていくけれど、今までとは違ってそれが床や本に染みを作ることはなかった。ぶつかる寸前、風となって消えていく。

 自然な動きで身体を前に倒し、母さんとよくしていたように額をくっつけて言葉を待つ自分が居た。この師匠には、ほとほと甘くなってしまう。


「今から俺は酷いことを言うし、酷いことをする。だから先に言っておく。俺はお前が大好きだ」

「そんなのとっくに知っている」


 間近で見る緋色は、死してなお白に染まることなく前を見続けている。その魂は生き続ける。そんな先生が、愚かな彩色士が、俺も大好きだ。

 照れながら笑う先生に、俺も笑みを返せた。涙を流してやることはできないけれど、今にも爆発しそうな悲しみだけはなんとしても耐える。先生の曇りない表情を、未練のない逝き方を穢したくない。


「……お別れしないといけないからな。だからこれが、俺の最後の言葉になる」

「聞きたくないな」


 それでも思わず零してしまったが、先生は困った表情を浮かべるだけ。分かっているから文句は言わない。

 そして、静かに開いた唇から生まれた言葉は、その通りすばらしく酷いものだった。


「何者も憎むな。この小さく冷たい手を、俺の色でけして染めるな。お前は世界が優しくないことを知ってる。けど、温かいこともまた知ってるんだから」

「先生は本当に勝手なことばかり……」

「出来るさ、お前なら。だってお前は、母が好きだろう?」

「もちろん、永遠に」

「だったら大丈夫だ。俺の大好きな愛弟子は、師匠の言葉を無下にするはずがないしな」


 俺から憎しみが消えることがないと分かっていながら、それでも憎むなと言う先生は笑っていない。

 押し付けに他ならないけれど、残念ながら俺は知っていた。先生の言葉には、いつだって大切ななにかが含まれている。


「黒を嫌わないでくれ。お前のその色は、黒の彩色士とも白銀の彩色士とも違う。彼らが捨ててしまった多くを何一つ失わず透き通り、どこまでも羽ばたける翼だよ。星の輝きを彩る色だ。俺との出会いをなかったことにしないで欲しい」

「その言い方はずるい」

「だから言っただろ? 酷いことをすると。俺は今、弟子の優しさにつけ入り、師匠の立場を利用してる」

「泣きながら怯えた目をして、そんなことを言うのが一番ずるいな」


 そう言うと慌てて目元を拭っていたが、その行動は俺の言葉を肯定するだけだった。

 ふと落とした視線の先で、先生の足は揺らめき始めている。それに気付かないふりをした俺もまた――ずるい。


「お前は出会いに恵まれてるからな。彩色士も人間も関係無いたくさんの想いが巡り、それがお前を支えてくれてる」

「俺の中には母さんと先生しかいない。あとは白銀が息を潜めているだけだ」

「それは違う。本に込められたものをお前は読んできた。俺から耳にし、母から伝えられ、見知らぬ世界を垣間見てきたじゃないか」


 黙る俺に、先生はなおも言う。


「そして、まだ見ぬ世界には、無償に手を差し伸べてくれる同胞が待ってくれてる。皆、お前を案じ、今この瞬間もお前の分まで生きようとしてくれているんだ」

「それは理があるからだろう」

「だからどうした? 理だからこそ、それが哀れでもあると、お前は誰よりも知ってるじゃないか」


 それは母さんのことを言っているのか。それとも、先生自身を示しているのか。

 たしかに俺は知っている。潰れてしまいそうになるほど、身に染みて知っている。

 先生の両手が頬を包んだ。その動きで腕が揺らめく。

 どうして時間は流れるのだろう。このまま止まってしまえば、別れなど永遠に来ないはずなのに。


「母のような人間だってきっといる。世界は広い。俺たち彩色士は、端から端まで、全てを見る権利を与えてもらえているんだ。まさしく世界本人から」

「……だとしても。俺はここから出られない。出られたとしても、逃げる術がない。いきなり強い陽に当たれば肌は爛れ、目は焼き切れるだろうな」

「なあ、間違わないでくれ。お前は黒の彩色士と同じ全ての色を宿しているけど、彼女ではないんだ。もちろん、白銀でもない。お前は呪われてなどいない」

「それでも力はどうやったって使えない。白銀がかけた呪いはそういうものだからな。その身に返ってきているのは良い気味だけれど」

「だから出会いがあるんだろ? 一人ではままならないことも、誰かがいることで可能になっていく。お前だけでは得られなかった知識だって、俺が居たことで、ほら」


 示されたのは、檻の中を埋め尽くす書物の数々。薄いものから持つのも一苦労な分厚いものまで、所狭しと並ぶだけでは収まらずに積み重なっている。無理やり視線を動かされ、一体どうやって手に入れたのだと改めて思う。


 この時にはもう、先生が何を一番に言いたいのか気付いていた。今まで多くを教えられてきたように、少しずれた会話の中で答えは見つかる。

 恨めるものなら恨みたい。それぐらい、先生の想いには自分勝手さが溢れている。

 生かそうとした母さんとは違う、先生だからこその願い。緋色が燃えた。


「生きろ。両親の分も、俺の分も。誰よりも気高い彩色士として、世界をお前の色で染め上げろ。人として、全てを慈しめ」

「っ、……」

未来(・・)を、生きろ」


 一人では何も得られない俺に対して、それを閉ざそうとしながら先生は、現在(いま)ではなく未来を望む。

 なんて無責任な。言葉も出ない。

 それでもなんとか言葉を探そうとしている間に、先生はいつもみたいに俺の頭を乱暴に撫でると、風を起こしながらフワリと離れた。


「先生……!」

「約束だ、生きてくれ。そして今度は、陽の下で出会おうな。新しい俺たちは、絶対仲の良い兄弟として生まれるはずだ。ていうか、今俺がそう決めた」

「待って!」

「あぁ、待ってる」

「ちがっ――……」


 そして、別れの言葉も今までのお礼も言わせず、好き放題じぶんの願いだけを押し付けて、あっけなく消えてしまった。余韻も何も残さずに。

 夢であるならばどれだけ良いか。すぐにひょっこりと、最期に見せた笑顔と同じ表情で扉の奥から現れてくれるなら、今だったら許してやれる。


 宙を彷徨う腕が落ち、呆然とその扉を見つめた。期待しながらも、残された言葉を忘れないよう刻み込む冷静な自分が嫌だ。


 そんな時、目の前でキィ――と扉が鳴る。

 やはり白昼夢でも見ていたのだ。喜ぶ俺の前で、扉はゆっくりと、そう――ゆっくりと開き相手を見せる。

 途端、感じるのは失望と驚愕。さらには目を疑う現象が待ち受けていた。


 どこまでも頼りないくせして、先生の言葉はいつも正しい。

 そうだな、たしかにそうだった。俺は多くに拒絶されながらも、生まれたときから今まで、孤独というものを知らない。常に誰かが隣にいてくれた。

 けれど、今回ばかりは難しい。俺の中の白銀が、この出会いを許しはしないだろう。

 予想外の来訪者を捉えた瞬間、俺は抗う暇もなく白銀によって身体を奪われた。引きずり込まれた内側では、おおよそ心が持つ感情の全てが黒々と渦巻き暴れ狂う。

 その中には勿論、喜びも含まれていた。





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