失われた時
母が死に、自分の時間が残りわずかだと思っていたところに現れた男は、知りもしない俺に生きる事を望んだ。
より狭い空間にしか自由がない俺に様々なものを、なにより知識を与えてくれた。
「かけがえのないものは全て、お前の母が残してくれたはずだ。だから俺は、生きる術を分けてあげる」
鉄格子の中は、すぐにたくさんの書物で埋まっていく。
とても感情豊かで、特に泣き虫という賑やかな姿は見ていて飽きない。そんな変わり者は、彩色士でもあった。
どこか赤味の強い黒髪で、本質が緋色。俺から見てもひょろい優男だったけれど、それを言うと本気で落ち込むのがおかしくてたまらなかった。なんでも、俺みたいな青白い小僧に言われたら、男として終わりらしい。
先生と呼び慕うまでに、それほど時間を必要としなかった。もちろん、すぐに警戒を解いたわけではなかったが、それでもやはり同胞というだけで何かが違ったのだろう。
それに先生も同じだった。浄化されずに転生した魂の持ち主で、けれども王とは違って喰われずに今をしっかりと生きている。
「元々俺は、人格が残っていたわけじゃないし。少しの記憶と、持ち主を失った感情を整理すればそれだけでよかった」
先生が来てくれるようになってからというもの、塔には至るところで明かりが灯るようになり、俺の目は少しずつ明るさを知っていく。
語ってくれた前世は、王の幼馴染でもあった騎士の後悔と懺悔に満ちた想い。
それは、巻き込まれた今を生きる俺たちにとって、どれだけ切実であろうとも迷惑極まりないものだけれど、不思議と憎めもしなかった。
「じゃあ先生は、王に会うためこの国に?」
「それよりかは、一人でもいいから同胞を救いたかったから、かな。そもそも、王の正体を知らなかったし」
「救うって……。生まれた瞬間に殺されるから無理だと思うけどな」
「でも、お前の母がそうだったように、必ずしも全員がってわけじゃないだろ? 結果的に、この国の反彩色士主義は甘くなかったけど」
壁にかけられたランプの中の炎は青い。先生の力で炎の本質を失い、燃えないものへと変わっている。その光に照らされた横顔は淡く揺らめいていて、何が見えているのか、頬をゆっくりと涙が滑っていった。
また泣いている。でも、誰かの為に流れる涙はいつ見ても綺麗だ。きっと先生は、この国に生まれた黒髪の子供達を想っているのだろう。俺以外の生き残れなかった彩色士たちに、祈りを捧げている。
護りたかったのだそうだ。先生の前世である騎士は、友であった王の凶行を止められなかったことを悔やみ、白銀を救えなかったことを悔やみ、大切な民が消えていく様を眺めるしかできなかった無力さを悔やみ。そうして自らも、最後のその瞬間まで王の隣に立ち、消えていったのだという。
哀れだよなと、先生は苦笑していた。
「だからって別に、先生が代わりを勤める義理はないだろう? 王は昔も今も、狂ったままだ」
「そうだけど。まぁ、興味本位っていうの? 元の目的が無理そうだと分かった時に、ふと思ったんだよ」
「引きずられてるだけかもしれないのにか」
俺たちは浄化されないまま転生した魂を持つ者同士、分かり合えるものがある。前世がもたらす記憶は時に現実と混濁し、自分がどこにいるのかあやふやにさせる。内側を揺さぶられ、判断がつかなくなるあの感覚は、まさしく引きずられていると言うのがふさわしかった。
困ったように頬を掻いた先生は、どう説明したものかと唸り、暫くして鉄格子の間から手招きをしてきた。広い手のひらは、何かを撫でたり持ったりするのに便利だろう。先生にぴったりな手だ。
呼ばれるがまま移動して鉄格子に背を預けると、ガシャリ――冷たい音が響いた。向かい側で先生も同じ態勢を取るけれど、背中合わせにはどうしてもなれない。隔たりは床から天井まで、歪むことなく伸びている。
「俺は前世の記憶で、無力なことの惨めさを知っているつもりだった。あれだ、そう驕っていたんだな」
「……それで?」
先生は説明が下手だ。脈絡がなかったり、唐突だったり。脱線しているとしか思えなかったりもするが、慣れればいつだって一生懸命で、どれもが大切なことに繋がっていることに気付いた。
だから俺は、静かに聞く態勢を取るのだけれど、そうするとお前は優秀な弟子だなと褒めてくるから困る。
先生が笑うたび、背中で鉄の棒が揺れていた。
「引きずられるものが全くなかったから、逆に興味を持ったんだろうなぁ。お前みたいに対話もできないし」
「羨ましいな。俺は引きずられてばかりだ」
そして、それが繰り返されれば繰り返されるほど、憎しみも大きくなっていく。白銀を狂わせた黒に対しても募り、すると今度はその感情が自分のものか分からなくなってしまい動揺する。
それでも堕ちてしまわないのは、身体に巻かれた二本の見えない鎖のおかげだろう。母さんとの記憶が、生きなければと思わせる。
「ま、しゃーない。前世の俺はまじめもまじめ、言葉遣いから好きなものまで、なんにもダブらなかったからな。んでもって、今の俺はそいつと違って彩色士の理がある」
「それだと、俺が白銀と似通っているとも聞こえる」
「立場はそうだろ? 俺、正直お前が羨ましかったりするよ」
「羨ましい……?」
「そ。だって俺、彩色士としては致命的な欠陥があるから」
無責任にも聞こえる言葉より気になったもので首を傾げていれば、先生が身体を横に倒してこちらを窺っていた。
緋色は少しだけ怯えているようにも見えた。
「弟子にこんなこと言ったら、師匠失格か」
そして、俺が見る先で誤魔化すように笑い、無理な体勢だったせいでそのまま滑って床に頭をぶつける。結構痛かったらしく、涙目でもだえていた。
その光景で、というわけではないけれど、羨ましいと言った意味が唐突に分かった。先生は優しい。それはもう献身的に。
「そういうことだ」
俺がハッと立ち上がって先生を見つめると、剣を持てない騎士の姿がそこにはあった。
やっぱりそうか。先生は彩色士でありながら、魂のせいで人間としても人間を知っている。
だから選べなかったのだろう。だからこの国で生きていられる。そこには王の幼馴染だったという前世が利用されているだろうが、留まろうと思ったのは先生自身なはず。
母さんを手厚く弔ってくれたのだって、その行動の根源は人を慈しんでいるからこそのものだ。護るべき存在だと思っていなければ出来やしない。
この人は、自分か相手の一方しか助けられないとして、果たしてどちらを選ぶのだろう。彩色士として己を? 人として他者を? 答えを聞くのはあまりに恐ろしかった。
「人間が、好きなの、か」
「彩色士もね。こうやって改めて考えてみると、やっぱり引きずられてるのかもしれないけど。でも、本当に正反対な人格だからなぁ。俺はこれが、俺自身が出した答えだと思ってる」
「俺は嫌いだ」
「うん。お前はお前を信じてくれる奴を信じれば、それでいいさ」
床に転がったまま伸ばされた手を、俺はもしかしたら彩色士として振り払わなければならなかったのかもしれない。同じ命でも、俺たちと人間の重さは違う。量れないものだとしても、担っている役割がそれを如実に表している。
しかし、分かっていてもそんなこと、できるはずがないだろう? 俺はこの人によって生かされているんだから。
「自分勝手すぎる」
「最初に言っただろ。そうだよ、だから俺はお前をここから出してやれない。お前が今のまま、人も彩色士も憎んでる限り」
「なのに、こうやって助けるのか?」
「それはあれだ、俺がお前にもそう思ったからだな」
先生が彩る緋色は炎らしくない鮮やかさで、まるで血のようでもあるけれど、その眼差しはいつだって前を向いていた。
「母の首を抱き締め、石の上でひたすらに眠るお前を、護りたいと思ったからだよ」
そう言って先生は、最初は死んでいるかと思ってギョッとしたけどなと俺の髪を乱暴に撫で回した。照れ隠しなのがバレバレだ。
何度もそういった会話を繰り返していく中で、ふと思った事がある。父もこんな人だったのだろうか、と。白銀の記憶で感じた太陽の温もりと、先生との一時で胸に広がるものがそっくりだったから。
幼すぎて覚えていなくて、母さんの話でしか知ることはできなかったけれど。会いたいと、話をしたかったと強く思う。
俺は先生と出会うことで、母さんと違ってただの負い目でしかなかった父の死を、やっとまともに悲しむことができたのだ。
「ごめんな? ごめん。俺は俺として、お前の師匠として、白銀に奪わせたくないんだ。お前には、何の罪もないんだから」
「そんなに泣いてばかりだと、いつか干からびるぞ」
先生が頬や腕に傷を作るようになるのは、それからしばらくして。相変わらずよく頬を流れる涙は、次第に痛々しく見えはじめていった。




