第一章 3
アルの足に挟まれるようにフロラはサリファに乗っている。風が吹き付け、2人の髪が乱れた。
「わぁ!すごい」
サリファの背中越しに地上を見ながら楽しげにはしゃぐ。眼下の森はまるで緑の海のようだ。
「綺麗だろう?」
「うん!」
一晩経ってフロラは元気を取り戻したようだった。言動に陰りは薄れ明るさが見え隠れしている。
「ねぇ、アル」
前方に広がる森の海を見ながら、フロラがつぶやいた。
「なんだい?」
「私、世界が見たい。こんなところで一生が終わるなんて嫌だ。もっとたくさんいろんなものを見たい!」
―アル、一緒に世界を見にいこう!こんなちっぽけな国で、私たちは終われないんだから―
フロラの言葉を聞き、アルの脳裏に別の少女の姿がちらついた。
「アル?」
フロラは返事をしないアルを心配してそっと声をかける。
「あぁ、ごめん」
アルは頭を振ってちらつく少女の姿を消し、目の前のフロラを見る。小さな栗色の瞳がこちらを見上げていた。
「どうかしたの?」
「君と同じことを言っていた人がいて…その人のことを思い出したんだ」
アルは顔を赤めながら鼻先を右手でかいた。
「ふーん。それって、アルの好きな人?」
「あ、あいつは別にそんなんじゃ…」
慌てふためくアルを見てフロラは楽しそうに笑った。そんなフロラを見てアルも笑う和やかな空気に水を差すようにサリファの鋭い鳴き声が二人に届く。と同時に突然、2人の視界が遮られた。
「なんだ!?」
アルとフロラは、サリファもろとも大きな縄の網に捕らわれていた。サリファは翼を羽ばたかせたがうまく飛べず徐々に高度が下がる。アルがフロラを強く抱きかかえたとき、強い衝撃と共にサリファの体が地面に打ち付けられた。苦しげなサリファの声にアルは心配そうに首をなでる。
「ようやく捕まえたぞ、アルラース・ティガクリム!」
アルは聞き慣れた声にはっと顔をあげる。そこには、緑色の竜に乗った金髪の男が立っていた。まわりには3頭の竜と騎士もいる。
「お前は…グラーム副隊長!」
「よく見てくれ。もう俺は灰色の騎士服じゃない」
グラームはアルに見せるように両手を広げた。グラームが着ていたのは、竜騎隊の副隊長を表す灰色の騎士服ではなく、かつてアルが袖を通していた銀色の隊長騎士服だった。上着の胸部分には隊長を表す竜と剣のエンブレムが光っている。
「お前がなぜその服を…」
「俺は元隊長、あんたの次に優秀な人材だ。いや、むしろあんたより優れた人材。そんな俺が今まで副隊長だったってことすら可笑しな話なんだよ!」
グラームの耳障りな笑い声が森に響く。
「あんたがいなくなって次に誰が隊長になるかなんて、子供でもわかるだろ?」
グラームはアルよりも5歳年上の騎士だ。アルと同じく天才と呼ばれて育った男であり、誰よりも隊長という地位を狙っていた人物である。
「だったら、竜騎隊の隊長がなぜこんなところに?」
アルは高笑いしているグラームに問いかける。
「逃げ出した重罪人を捕まえるためだ。探すのに苦労したぞ。まさかこんな小さな貧国に隠れていたとは」
フロラがなにかを言おうとするのをアルは口をふさいで止めた。グラームからはフロラの姿はちょうど見えていない。アルとグラームが話している間も、サリファはなんとか網から抜け出そうともがいている。
「悪いが俺は捕まえられるわけにはいかない。真犯人を探さなければ」
「はっ。真犯人?そんなものあんたには見つけられないさ。何年かかってもな」
グラームがまた笑い始めたとき、網が音をたてて切れた。
「サリファ、よくやった!」
サリファは一声甲高く鳴き、アルとフロラを乗せて上空へ飛び上がった。
「だから鉄の網を用意しとけと言ったんだ!すぐに打ち落とせ!役立たずの隊員どもが!」
グラームは3人の隊員に怒声をあびせながら自分も竜を飛び立たせる。
「逃げる気か、アルラース・ティガクリム!」
「サリファ、あいつらを撒くんだ!」
サリファの鳴き声と、グラームの竜の鳴き声が重なる。
「アル、アルはいったい何者なの」
フロラが風の音に負けないように大声でアルに問う。
「ごめんフロラ。今は言える状況じゃない。お願いだから俺を信じてくれ」
アルは後ろで飛ぶグラームを見ながら早口に捲くし立てる。フロラはしばらくアルの顔を見つめていたが、ぎゅっと目をつぶってアルにしがみついた。
「打て!打ち落とせ!!」
グラームの声と共に鋭い矢がアルたちをめがけて飛んできた。大半はサリファの固い鱗に跳ね返り落ちていくが、何本かがアルとフロラをかすめる。
「サリファ、頑張ってくれ。くそ…せめて剣があれば」
アルはただ、サリファを信じるしかできない。片手でサリファの手綱を握り、もう片方の手でフロラをしっかりと抱きかかえていた。突然サリファの速度が落ちるのをアルは感じた。苦しげに鳴くサリファの声がアルの耳に届く。
「追いかけっこは終わりだ!」
グラームの声に後ろを振り返ると、緑色の竜がサリファの尾に噛みついていた。
「くそっ」
アルはどうすることもできずにサリファの首を撫でる。
「ゲラット、尾を噛み裂いてやれ!」
ゲラットと呼ばれた緑色の竜が低く唸る。鋭い牙が気味悪く光った。痛みに耐えかね、サリファは再び高度を下げる。
「サリファ、ゆっくりでいい、着地してくれ」
か細い声で鳴き応えながらサリファは翼をたたんだ。耳元で風がごうごうと鳴り、目の前に地面が迫る。
「ゲラット、離れろ」
サリファが地面に着地する前に、グラームは距離をとった。
「観念しろ」
「俺は捕まるわけにはいかないんだ!」
アルの叫びにサリファも同調して吠える。今までとは違う、威嚇を示す低く押し殺すような唸りだ。
「アル、サリファ…」
「フロラ、体を縮めて俺の影に隠れててくれ」
こくん、とうなずくとフロラはぎゅっと体を縮めた。アルにしがみつく手に力を込める。
「仕方がないな。国王からは罪人の生死は問わないと言われている。気は進まないが…死体を持って帰ることにしよう」
ニタっと笑うとグラームは腰から淡い青色の剣を抜いた。アルのよく知る、細身の剣だ。
「それは…!」
「流石と言うべきか当然というべきか。まぁ、誰でも自分の愛用していた剣を見ればすぐにわかるだろうな」
細身で速力重視ながらも破壊力は大剣に劣らない剣。アルの愛用していた青い剣だ。それが今、グラームの手にある。
「お前、なぜその剣を!!」
「さぁどうしてだろうな?」
いやらしく笑うグラームに、アルは強い敵意を視線に込めた。
「なんだその眼は。たかだか丸腰の罪人が、武装した竜騎士に勝てるとでも?」
唸り続けるサリファに、ゲラットも唸り返す。もはや興奮状態にある二頭の竜を止めることは主であるアルとグラームでも無理だろう。二頭の竜は背に乗る主の命令をいまかいまかと待っていた。
「ゲラット!」
「サリファ!」
「「やれ!」」
2人の主の声が重なった。二頭の竜が同時に戦闘開始の咆哮をし、あたりの木がざわめく。
「フロラ、俺にしっかり捕まってるんだ」
片手でフロラの体をしっかりと自分に密着させ、空いている手でサリファの首にかけた手綱を握る。
「必ずこの手で葬ってやる!!」
グラームに応えるようにゲラットがさらに太く吠えた。
*********
「サリファ!周り込め!!」
「そうはさせん!!ゲラット!それぐらいの攻撃で戸惑うな!」
二頭の竜が土煙をあげながら絡み合う。どちらも戦場を空へ変えようとはしなかった。他の竜騎士がやってこないのがアルにとっては唯一の幸いだ。
「ゲラット!やつの尾に噛みつけ!」
グラームの指示に従いゲラットはなんとか首を伸ばす。が、あとすこしでサリファが体をよじってかわす。
「役立たずがっ」
「グラーム!竜とどういう接し方をするかは俺が直々に教えたはずだ!」
「はっ。覚えてないね」
グラームは手綱を力強く打ち無理やりゲラットの首を曲げさせる。
「そんな扱いをしているうちは到底俺には勝てないぞ!!」
アルが右足でサリファの腹を軽く蹴ると、サリファはゲラットの背後に素早く回り込んでその尾に噛みついた。
「くそっ」
そのままサリファは翼を羽ばたかせ空へ飛び立つ。ゲラットは尾を引っ張られ、安定しないまま空へ浮いた。
「貴様ら、やれ!!」
グラームが木々の陰へ叫ぶと同時にアルはさっとグラームの視線の先を見る。そこには、先ほどの3人の竜騎士がいた。
「サリファ!」
アルが回避行動をとる前に、無数の矢が射たれた。
「終わりだ、アルラース・ティガクリム!」
再び高笑いをするグラーム。サリファが翼で防ぎきれなかった矢が、アルの心臓めがけて迫る。
アルは額に脂汗を浮かばせながら矢を凝視した。サリファがゲラットの尾から口を離して鳴くいたとき、あたりに鮮血が飛び散った。銀色のサリファの鱗に鮮やかな赤が栄える。
「やったか!」
グラームが歓喜の声を挙げたときアルの叫びが響いた。それは苦痛の叫びではなく、怒りの叫びだった。
「グラーム!貴様ぁぁぁぁ!!!」
「どういうことだ!ティガクリム!どんな手品を使った!?矢に射抜かれて生きて入れるはずが…!」
グラームはその時初めて、アルの手に抱かれている少女に気付いた。胸のあたりには赤い染みができ、すでに息をしている様子はない。
「そうか…その小娘を盾に使ったな!」
「黙れ!!」
アルの鋭い一言にさすがのグラームも躊躇する。アルはサリファを着地させ、フロラをそっと地面に寝かせた。
「…すまない」
瞑目をし、素早い動きでサリファに飛び乗る。その眼はさきほどとは打って変わりまるで鬼神かのような鋭い輝きを放っていた。
「その小娘の命と引き換えてでも生きたいのか、人間のクズだな」
鼻で笑うグラームも、アルの迫力に気圧されて今までのような余裕さはない。サリファがしなやかな尾で地面を叩きつけてえぐった。
「グラーム、瞬きをしたその瞬間がお前の敗因だ」
アルが静かに言ったとき、サリファが地面を蹴って一人の竜騎士と距離を縮めた。突然の接近に竜騎士と竜は驚き身を固くする。アルはサリファから相手の竜に飛び乗り、竜騎士の腰から剣を奪う。
「貴様っ」
再びサリファに飛び移り、空中へ繰り出す。グラームは慌てて剣を構えなおした。
「さらに罪を重くする気か貴様!」
一瞬の出来事だった。グラームの視界からサリファとアルの姿が消え、はっと気づいて上を見上げた時には時すでに遅くサリファの鋭い爪がゲラットの鱗に食い込みグラームごと地面に叩きつけていた。
「がはっ」
衝撃で地面に投げ出されたグラームにアルはすかさず飛びかかる。ゲラットに助けを求めるが、サリファが全力で押さえつけてゲラットも身動きできずにいた。
「や、やめろっあの小娘を殺すつもりはなかった!そもそもあんたが隠していたじゃないか!!」
「この期に及んで命乞いか」
「ひっ」
アルの手にした剣は風を切りグラームの喉元をかすめて地面に刺さる。
「…?」
恐る恐るグラームが閉じた目を開けると、アルの泣き顔が目に入った。
「くそ、殺せるわけないだろっ…もう俺を追うな。次は外さない」
ガクガクとうなずくグラームを置いて、アルはフロラを抱きかかえてサリファに乗る。
「戻ろう。この子の故郷の森に」
きゅるっと短く鳴き、サリファはフィラールに戻る風に乗った。
*********
「フロラ、すまなかった」
アルはフィラールの近くに広がる森に小さな墓を立てた。木のしたに置かれた岩には“フロラここにあり”と刻まれている。アルに前を向かせた栗色の髪の少女は、静かに木の下の土中に眠っているのだ。
「あのとき、生きてと言って俺を守ってくれたな」
フロラの名を刻んだ岩を優しく撫でる。サリファも悲しげな鳴き声をあげながら鼻を岩に当てた。
「君に生かされたこの命、大切にすると約束しよう」
涙がアルの頬を伝い、地面を黒く染めた。目を閉じゆっくりと深呼吸する。
「…行こう、サリファ。生きるために」
きゅるる、と返事をするサリファに飛び乗りアルはフィラールの地から離れた。鋭い寒さがアルを包む。日はだいぶ傾いていた。小さな国で出会った少女に、アルは己の命を守られた。自分をまったく知らないはずなのに、少女はその命と引き換えに守ってくれた。もう一度アルはフロラの墓を見て、サリファを南に飛ばせた。
―アル、生きてね。生きて世界を見て…たくさん話を聞かせて?私はここで待ってるから―
「…!」
風の音に混ざって少女の声がアルの耳に届いた。驚きながらもアルは空を見上げ、大きくうなずいた。
目指すはカルタット。逃げていてはどうにもならない。少女は体を張ってそれをアルに教えてくれた。