46歳清掃員、人生で初めて幸せになれそうだったのに
普通の幸せ
佐伯は四十六歳になった。
独身。結婚歴なし。
恋人がいたのは、もう二十年近く前のことだ。
大学を卒業して入社した会社は三年で辞めた。その後も転職を繰り返し、今はスーパーの夜間清掃をしている。
毎晩、客のいなくなった売り場を歩き、床を磨き、トイレを掃除する。
最初の頃は、知り合いに会わずに済むことがありがたかった。
今では、誰にも会わないことが当たり前になっていた。
そんな佐伯にも、最近楽しみができた。
同じ職場で働く田村という女性だった。
五十二歳。年齢の割に綺麗な人だった。身なりはいつも小綺麗で、笑うと目尻に柔らかな皺が寄る。
田村も独身で、一度も結婚したことがないという。
「佐伯さん、お疲れさま」
彼女はいつも声をかけてくれた。
最初はただの挨拶だった。
それが天気の話になり、テレビの話になり、いつしか休憩時間に一緒にお茶を飲むようになった。
ある日、田村が小さな袋を差し出した。
「クッキー焼いたんですけど、ちょっと作りすぎちゃって」
「いいんですか?」
「どうぞ。あんまり上手じゃないですけど」
袋には、少し焦げたクッキーが六枚入っていた。
佐伯は家に帰ってから、インスタントコーヒーを淹れた。
いつもならテレビをつけるところだったが、その日はつけなかった。
一枚ずつ、ゆっくり食べた。
数週間後。
「佐伯さん、今度のお休みって、空いてます?」
「ええ、特には」
「よかったら、一緒にご飯でも食べません?」
佐伯は返事をするまでに、少し時間がかかった。
「……ぜひ」
田村は笑った。
「よかった。じゃあ、お店探しておきますね」
その日の帰り道、佐伯は駅前の紳士服店に寄った。
何年も前に買ったシャツばかりだったので、一枚くらい新しいものが欲しくなったのだ。
淡い青色のシャツを選んだ。
値札を見て、一度は棚に戻した。
それから、もう一度手に取った。
*
佐伯は、黒羽リリカというVTuberをよく見ていた。
人生相談を得意とする女性VTuberで、歯に衣着せぬ発言が人気だった。
リリカの言葉には、いつも筋が通っているように思えた。
厳しいことも言うが、相談者のことを考えているのだろう。
佐伯は何度か文章を書き直して、相談を送った。
『46歳の独身男性です。これまであまり女性に縁のない人生でした。最近、職場で親しくしている女性と食事に行くことになりました。彼女と話していると楽しくて、もしかしたら恋愛に発展するのではないかと期待してしまいます。でも、この歳になってそんなことを考えるのはおかしいでしょうか。自分のような人間でも、少しくらい幸せを期待していいのでしょうか』
送信してから、最後の一文を少し後悔した。
大げさだったかもしれない。
けれど、誰かに聞いてみたかった。
*
三日後、佐伯の相談が配信で取り上げられた。
「あ、次は46歳の男性から。恋愛相談だね」
リリカが読み上げる。
佐伯はコーヒーの入ったマグカップを両手で持った。
「なるほどねえ」
リリカは少し考えるような間を置いた。
「まずさ、職場恋愛って結構難しいんだよね。普通の会社で働いてたらわかると思うんだけど、仕事とプライベートを混同すると、周りにも迷惑がかかることがあるじゃん?」
佐伯はカップをテーブルに置いた。
「でさ、相談者さん46歳でしょ? 職場の女の子と食事に行くことになったって、これ大丈夫? 女の子ってさ、年上の男性から誘われると断りづらかったりするんだよね。まして同じ職場ならなおさら。本人は仲良くなったつもりでも、向こうは気を遣ってるだけかもしれないじゃん」
コメント欄に文字が流れ始めた。
『おじアタックか?』
『年齢書いてないの怪しいw』
『女の子かわいそう』
「もちろん決めつけるつもりはないけど、ちょっと優しくされたからって恋愛感情があるとは限らないんだよね。特に、あんまり女性経験がないって自分で書いてるじゃん。だからこそ、相手の気持ちは慎重に考えてほしいかな」
『これは正論』
『勘違いおじさんあるある』
リリカはコメントを見ながら頷いた。
「あと、最後の『自分みたいな人間でも幸せを期待していいのでしょうか』ってところ。これ、私はちょっと気になったかな。幸せになりたいって気持ちはわかるんだけど、自分の幸せを他人に委ねちゃうのはよくないと思うんだよね。まずは自分の生活を充実させることが大切じゃない? 仕事とか趣味とかさ。そういう土台があってこその恋愛だと思うんだ」
『リリカ優しい』
『ほんとそれ』
『依存はよくない』
「厳しいこと言ってるように聞こえるかもしれないけど、相談者さんのためを思って言ってるからね。46歳なら、相手の女性の人生もちゃんと考えてあげてほしい。焦らず、自分を磨いていこう!」
『いいアドバイス』
『46歳でも頑張れ』
『目が覚めるといいね』
「はい、じゃあ次のお便り!」
明るい音楽が流れた。
佐伯はしばらく画面を見ていた。
普通の会社。
女の子。
自分から誘って、断りきれなかった相手。
リリカが話していた男は、佐伯とはまるで違う人間だった。
自分は会社勤めではない。
田村は自分より六つ年上だ。
食事に誘ったのも、田村のほうだった。
それでも、リリカが言っていたことには一理あると思った。
食事に誘われたからといって、好意があるとは限らない。
田村は誰にでも優しい人なのかもしれない。
佐伯は送信した相談文をもう一度開いた。
職業も、相手の年齢も、どちらから誘ったのかも書いていない。
これでは誤解されても仕方がない。
コメント欄を開いた。
『こういうおじさんに限って勘違いするんだよな』
『相手の子がかわいそう』
佐伯は文字を打った。
『相手は52歳で、僕は夜間清掃の仕事をしています。食事は彼女から誘ってくれました』
送信ボタンの手前で指が止まった。
これを読んだ人は、どう思うだろう。
四十六歳の清掃員が、五十二歳の女性に浮かれている。
そんなふうに笑われるのではないだろうか。
佐伯は文章を消した。
配信の視聴者は二万人を超えていた。
誰も、自分の本当のことなど知らない。
それは当たり前のことだった。
佐伯は画面を閉じた。
テーブルの上には、買ったばかりの青いシャツが置いてあった。
*
約束の日。
佐伯はそのシャツを着て出かけた。
待ち合わせ場所には、田村が先に来ていた。
いつもと違う服を着て、髪も少し整えているようだった。
「佐伯さん、こっちです!」
佐伯が近づくと、田村は笑った。
「そのシャツ、似合ってますね」
「ありがとうございます」
「私も今日はちょっとおしゃれしてきちゃいました」
二人は駅前の洋食店に入った。
田村はハンバーグを注文し、佐伯はオムライスを頼んだ。
仕事の話、昔見ていたテレビ番組の話、子供の頃の話。
田村はよく笑った。
佐伯も、久しぶりに声を出して笑った。
食後にはコーヒーを飲んだ。
「佐伯さんって、もっと無口な人だと思ってました」
「よく言われます」
「でも、話すと面白いですね」
「そんなことないですよ」
店を出た頃には、すっかり暗くなっていた。
二人は駅に向かって並んで歩いた。
「今日は楽しかったです」
田村が言った。
「私、こんなふうに男の人と二人で食事するの、久しぶりで」
「そうなんですか」
「ええ。なんだか緊張しちゃいました」
田村は照れくさそうに笑った。
佐伯はその横顔を見た。
どうしてこの人は、今まで結婚しなかったのだろう。
聞いてみたい気もしたが、やめておいた。
「佐伯さんは、楽しかったですか?」
「ええ、とても」
「よかった」
田村は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、また一緒に行きません? 今度はお寿司なんかどうでしょう」
佐伯の胸が高鳴った。
その瞬間、昨夜の配信が頭をよぎった。
『ちょっと優しくされたからって、恋愛感情があるとは限らないんだよね』
「……そうですね」
「お寿司、嫌いですか?」
「いえ、好きですよ」
「よかった。私、おいしいお店を知ってるんです」
「そうですか」
会話が途切れた。
田村は少し不思議そうに佐伯を見た。
「佐伯さん?」
「いえ、その……」
佐伯は一度、言葉を飲み込んだ。
「僕なんかに、あまり気を遣わなくても大丈夫ですよ」
「え?」
「職場の付き合いだからって、無理に誘っていただかなくても」
田村は足を止めた。
「無理なんてしてませんよ」
「あ、いえ。そういう意味じゃなくて」
佐伯は慌てて笑った。
「田村さんは優しい方だから。僕が勘違いしないようにしないと、と思いまして」
「勘違い?」
「すみません。変なこと言いましたね」
田村はしばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「……そうですね。私も変なこと言っちゃったかな」
「いえ、そんな」
「じゃあ、また職場で」
駅の改札に着いていた。
田村は軽く頭を下げ、改札へ向かった。
途中、一度だけ振り返った。
佐伯は反射的に頭を下げた。
彼女も小さく会釈して、そのまま人混みに消えた。
帰りの電車で、佐伯は今日のことを思い返していた。
楽しかった。
彼女も、楽しかったと言ってくれた。
また誘ってもくれた。
それでも、そこに特別な意味があるとは限らない。
スマートフォンに田村からメッセージが届いた。
『今日はありがとうございました。佐伯さんとお話しできて嬉しかったです。またご一緒できたらいいですね』
佐伯は何度も読み返した。
それから返事を打った。
『こちらこそ、ありがとうございました。お気遣いいただき、すみません』
送信すると、スマートフォンをポケットにしまった。
窓に映った自分の顔を見た。
新しく買った青いシャツが、少し似合わない気がした。
*
翌日も田村は、いつもどおり佐伯に挨拶した。
「昨日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「また行きたいですね」
「そうですね」
佐伯は笑った。
それ以上、話は続かなかった。
以前なら、休憩時間には自然と田村の隣に座っていた。
今は少し離れた席を選ぶようになった。
田村から話しかけられれば答える。
けれど自分から話しかけることは減った。
一週間ほど経った頃、田村が言った。
「この前のお寿司の話なんですけど、来週の日曜日、お休みですよね?」
「ええ」
「よかったら、どうですか?」
佐伯は一瞬、返事に迷った。
「……すみません。その日はちょっと」
「そうですか」
田村は笑った。
「じゃあ、また都合が合うときに」
「はい。すみません」
その日に予定はなかった。
帰宅してカレンダーを見ても、やはり何も書かれていなかった。
*
それから、田村が食事に誘うことはなくなった。
ある夜、休憩室で二人きりになった。
「佐伯さん」
「はい」
「私、何か気に障ること言いました?」
「え?」
「最近、ちょっと避けられてるのかなって」
佐伯は慌てて首を振った。
「そんなことありませんよ」
「なら、いいんですけど」
田村は小さく笑った。
「私、あんまり人付き合いが上手じゃないから。知らないうちに嫌な思いさせたのかなって」
「とんでもないです」
佐伯は言った。
「田村さんは、何も悪くありません」
それだけは、はっきり言えた。
田村はしばらく佐伯を見ていた。
「……そうですか」
「はい」
「それなら、よかったです」
彼女は仕事に戻っていった。
その夜、田村からメッセージが届いた。
『今日は変なこと聞いてしまってすみません。佐伯さんとお話しするの、私は楽しいですよ』
佐伯は返信欄に文字を打った。
『僕も田村さんと話すのが楽しいです』
何度か読み返した。
それから、文章を消した。
『ありがとうございます。これからもよろしくお願いします』
送信すると、すぐに既読がついた。
返事は来なかった。
*
それからも二人は同じ職場で働き続けた。
挨拶を交わし、仕事の話をした。
時々、休憩室で一緒になることもあった。
田村は相変わらず綺麗だった。
ある日、髪を少し短くしてきた。
「髪、切ったんですね」
佐伯が言うと、田村は驚いたように顔を上げた。
「あ、わかります?」
「ええ」
「どうですか?」
「似合ってますよ」
「ありがとうございます」
田村は嬉しそうに笑った。
佐伯も笑った。
以前のような時間が戻ってきた気がした。
何か話そうとしたが、そのとき休憩終了のチャイムが鳴った。
「じゃあ、行きますね」
「はい」
田村は立ち上がり、休憩室を出ていった。
佐伯はその背中を見送った。
今度の日曜日、予定は空いていた。
田村はどうだろう。
もう一度、食事に誘ってみようか。
お寿司のおいしい店があると言っていた。
きっと、楽しいだろう。
そこまで考えて、佐伯は首を振った。
また、自分に都合のいい想像をしている。
田村は誰にでも優しい人なのだ。
以前もそうだった。
自分から誘いを断っておいて、今さら何を期待しているのだろう。
佐伯は残っていたコーヒーを飲み干した。
*
帰宅すると、洗濯した青いシャツが乾いていた。
一度しか着ていないので、まだ新しかった。
ハンガーから外して、丁寧に畳む。
田村は似合っていると言ってくれた。
あの日、彼女も少しおしゃれをしていた。
緊張したとも言っていた。
佐伯はシャツを膝に置いた。
スマートフォンを取り出し、田村とのメッセージ画面を開く。
最後のやり取りから、もう二週間が経っていた。
『今度の日曜日、もしよかったらお食事でもいかがですか』
文章を打ってみた。
指が止まった。
本当は、聞いてみるだけでよかった。
断られたら、それでいい。
そう思っていたはずなのに。
もし田村が、断りづらくて困ってしまったら。
もし、自分がまた勝手な期待をしてしまったら。
佐伯は文章を消した。
そして、以前のメッセージを読み返した。
『またご一緒できたらいいですね』
ずいぶん前のことのように思えた。
社交辞令だったのかもしれない。
そう考えると、少し気が楽になった。
佐伯はスマートフォンを伏せた。
青いシャツをタンスにしまう。
また着ることもあるだろう。
そのとき、配信開始の通知が届いた。
黒羽リリカの人生相談だった。
『恋愛で勘違いしないために! 大人の恋愛相談』
佐伯は通知を消した。
あのとき、自分がもっと詳しく書いていれば。
相手は五十二歳で、結婚歴のない女性だということ。
職場は普通の会社ではなく、夜間清掃の現場だということ。
食事に誘ってくれたのは、彼女のほうだったということ。
そうすれば、違う答えが返ってきたのだろうか。
佐伯はしばらく考えた。
だが、もう確かめる気にはなれなかった。
翌日も、田村は笑顔で挨拶してくれた。
「佐伯さん、お疲れさま」
「お疲れさまです」
「今日は寒いですね」
「そうですね」
田村は少し笑って、仕事に戻っていった。
佐伯も清掃道具を取りに行った。
今夜も床を磨く。
いつもと変わらない一日だった。
ただ、帰り道に紳士服店の前を通ることはなくなった。
以前、青いシャツを買った店だった。
ショーウィンドウには、秋物のジャケットが並んでいた。
佐伯は足を止めなかった。
もう、着ていくところがなかった。




