「待って、この体すごく素材がいいじゃない!」〜前世トップメイクアップアーティスト(男)、自分自身を愛するため異世界で美容革命を始めます〜
「いつか君を、僕の隣に迎えたいと思っているんだ」
——なのに、どうして?
王立学園の裏庭。
大きな樫の木の陰で、伯爵令嬢のエリーは手で口を覆い、声にならない悲鳴を上げた。
視線の先には、幼馴染であり、いつか結ばれると信じていた青年・ユリウスの姿があった。
そして彼の首に腕を回し、背伸びをして唇を重ねているのは——他でもない、エリーの妹であるリリアだった。
金糸のような髪に、愛らしい顔立ちのリリア。片やエリーは、くすんだ灰茶色の髪をただ一つに結び、流行遅れのドレスを着た「地味な姉」。
物心ついた頃から、両親の愛情も周囲の称賛もすべてリリアに向けられていた。それでも、私にだけ特別な笑顔を向けてくれるユリウスだけは、私を選んでくれると思っていたのに。
足音に気づいたのか、二人の唇が離れた。
ユリウスはエリーの姿を認めると、弾かれたように顔を青ざめさせた。
「エ、エリー! 違うんだ、これは……」
「お姉様……ごめんなさい」
リリアが、ユリウスの胸に顔を埋めてポロポロと涙をこぼした。
「私だって……ずっと我慢していたんです。でも、お姉様ばかりユリウス様のそばにいて……もう、心を止められなかったの……っ」
可憐な令嬢の涙。ユリウスは泣き崩れるリリアを突き放すことができず、その細い肩を抱き留めたまま、助けを求めるような目でエリーを見た。
エリーを失いたくない。
けれど、この華やかな妹の涙を拒絶し、悪者になる覚悟もない。
揺れ動く瞳が、彼の生来の弱さを如実に語っていた。
「……っ!!」
エリーはショックのあまり、その場から逃げ出した。
涙で視界が滲む。
学園の石造りの階段を駆け上がろうとした、その時だった。
自分のドレスの裾を思いきり踏みつけ、エリーの体は宙を舞った。視界が激しく回転し、ゴツン、と後頭部にすさまじい衝撃が走る。
それが、エリーの意識が途切れる直前の記憶だった。
「——っっったぁぁい!! 何よもう、信じられないっ!!」
学園の医務室。
白いカーテンで仕切られた寝台の上で身を起こしたエリーは、後頭部の痛みに顔をしかめながら叫んだ。
周囲を見回し、石造りの壁を見て瞬きをする。
そして、自分の手を見た。
爪の形も、指先の状態も、記憶にあるものとはまるで違う。荒れて、ひどく乾燥した小さな手。
次の瞬間、ドクン、と膨大な記憶が脳裏に溢れ出した。
エリーの心に、ある男の記憶が急速に溶け込んでいく。
前世の名は、アキラ。
「女の子は誰でも綺麗になれる! 自分を愛しなさい!」をモットーに数々のモデルをプロデュースし、自身のブランドで化粧品開発まで手掛けた、現代日本で名を馳せたメイクアップアーティスト。
その圧倒的な美の哲学と知識が、エリーの意識と完全に同化したのだ。
エリーはベッドの脇にあった手鏡を手に取り、自分の顔を覗き込んだ。
「ひぃぃぃっ! なによこの肌! 乾燥しすぎて砂漠じゃない!」
他人の肌を見れば一瞬で状態を把握する、プロとしての本能が働く。
美容液を親の仇みたいに塗りたくってやりたい衝動に駆られながらも、様々な角度からじっくりと観察するうちに、エリーの表情が変わった。
スッと通った鼻筋、形の良いアーモンドアイ。完璧な黄金比を描く骨格。
「まって……信じられない。この子、ベースの骨格が奇跡レベルじゃないの」
前世のアキラは、男性として生まれた。
どれほど女として美しくなりたいと願っても、鏡に映る自分はどうしても「男」だった。
だからこそ、自分が表に出ることを諦め、美しくする裏方の道を選んだ。
しかし今、この手にあるのは、磨けばどこまでも光り輝く『自分自身の身体』だ。元々手先は器用で、細かな色彩の違いにも気づける性質だったエリー。
そこに美のプロフェッショナルとしての知識が重なった今、不可能はない。
「誰かに選ばれるためなんかじゃない。今度は私が、私自身を愛するために……世界一、自分を好きになれる女にしてみせるわ」
バンッ!と扉が開き、ユリウスが転がり込んできた。彼はベッドの傍に跪く。
「よかった……! エリー、さっきのは誤解なんだ! リリアが急に泣き出して……放っておけなくて、つい流されてしまったんだ。でも、僕が本当に愛しているのは君なんだよ!」
すがりつくような必死の弁明。
以前のエリーなら、彼を信じて涙を流していただろう。だが今の彼女は、すっと目を細め、ユリウスを静かに見下ろした。
「……ユリウス。あなたが悪人だとは思わないわ」
静かな声だった。憎しみはなく、ただ呆れに近い失望だけがあった。
「あなたはただ、誰かが泣けば絆され、その場の空気に流される。自分の選択で誰かを傷つける覚悟がない『弱い人』だった。それだけのことよ」
「エ、エリー……? 君、どうしたんだ……?」
「私の人生を預けられるほど、あなたは強くない。自分の足で立てない男に、私の隣を歩く資格はないわ。……さよなら、ユリウス」
呆然とへたり込む幼馴染を寝台に残し、エリーは振り返ることなく医務室を後にした。
◆
自室に戻ったエリーを待ち受けていたのは、リリアだった。
「お姉様……大丈夫? ユリウス様のこと、本当にごめんなさい……」
ドアを開けるなり、リリアは両手で顔を覆い、さめざめと嘘泣きを始めた。
『お姉様より綺麗でなければ愛されない』。両親に見栄のためだけに育てられた彼女にとって、姉から価値あるものを奪い、優越感に浸ることは、己の存在を確かめる歪んだ自己防衛でもあった。
ベッドの端に優雅に腰掛けたエリーは、指の隙間からこちらを窺う妹の顔をじろりと睨み、深いため息を吐いた。
「ねえ、リリア」
「……え?」
「泣き真似する前に、鏡を見なさいな。あなた、顔と首の色が全然違うわよ」
予想外の言葉に、リリアはピタッと動きを止めた。
「いくら『白い肌が高貴』だからって、自分の肌色に合わない粉を厚塗りするから、お面みたいになっているわ。粉のノリが悪くて小鼻の横もヨレている。取り巻きの令嬢たちは騙せても、私の目は誤魔化せないわよ」
「な、な……っ!」
一番見られたくない「メイクの粗」を的確に指摘され、リリアの顔は羞恥で真っ赤に染まった。
「お、お姉様……! いくらユリウス様をとられたからってそんな暴言を……っ」
「泣き落としは私の前じゃ通用しないわ。私はこれから忙しいから、出てってちょうだい」
冷たく言い放つエリーに、リリアはギリッと奥歯を噛み締め、足音を荒立てて部屋から飛び出していった。
「さて。私の肌を生まれ変わらせるのが先決ね」
エリーは鏡台の前に座り、異世界の化粧品ボックスをひっくり返した。しかし、中に入っている成分表示代わりの覚書を見て絶句する。
「……信じられない。この白粉、鉛がたっぷり含まれているじゃない!」
この世界では「抜けるような白い肌=高貴な身分」という常識が蔓延している。一部の錬金術師には鉛が毒だと知られていたが、「白くなる」即効性が重視され、危険性は見て見ぬふりをされていたのだ。
「他人の目を気にして身体を壊すなんて、本末転倒!こんなもの、今すぐ全部ゴミ箱行きね」
高級な化粧品をすべて破棄し、エリーの自己改造プロジェクトが幕を開けた。
天然素材だから安全、なんて素人の発想だ。前世で化粧品開発を手掛けた彼女は、肌に本当に必要なものを厳選し、ゼロから作り出す決意を固めた。
◆
まずは徹底的なクレンジング。
そして庭のハーブを使って化粧水を作る。
ただハーブを煮出しただけでは腐敗してしまう。
エリーは浄化魔法を付与した魔石を用いて微生物の繁殖を抑えたうえで、煮沸、器具の洗浄、密閉、そしてpH調整を徹底し、安全な化粧水を作り上げた。
問題は、保湿のためのクリームだった。
水と油を安定して乳化させる成分が存在しないのだ。
エリーは書庫にこもり、図鑑を読み漁る。
そして『月雫草』という、液体同士の界面張力を低下させ、魔力の膜を作る作用を持った草を発見した。
「これならいけるわ!」
しかし、現実は甘くなかった。
月雫草の樹液をオイルと精製水に混ぜて撹拌するが、分離してしまう。
魔力を入れすぎれば発熱し、配合を間違えれば嫌な匂いが鼻を突く。
前世の知識がフル回転する。
ただ混ぜるだけではない。魔力にも親水性と親油性に似た波長があるはずだ。
温度を微調整しながら、配合を変え、何十回もの試作を繰り返した。
数日後。魔力波長を完全に同調させることに成功し、ついにクリームが乳化した。
だが、油断はできない。
防腐の問題が残っている。
エリーは強い抗菌作用を持つ『白金花』のエキスを加え、念入りに保存性の試験を重ねた。
ガラスの乳鉢の中に、とろけるように滑らかで、艶やかなクリームが完成した。
「……できた」
震える指でクリームをすくい、頬にそっと乗せる。
乾ききっていた肌が、ゆっくりと潤いを取り戻していく。内側から押し返すような弾力。
自分が美しくなっていく圧倒的な感動に、エリーの視界が滲んだ。
私が、私を愛するための第一歩。
この小さな乳鉢の中に、異世界の美容を根底から覆す革命の種が産声を上げていた。
◆
数週間後。
学園の卒業を祝う盛大な夜会。
エリーは鍛冶職人に特注の魔道具を作らせていた。火魔法では温度調整が難しく髪を焦がす危険があるため、「熱振動を一定に保つ魔石」と断熱材を組み込んだ鉄の棒——この世界では初めてとなるヘアアイロンだ。
適温になった棒を髪に当てていく。くすんだ灰茶色だと思っていた髪が、光を受けて柔らかく輝くアッシュブラウンのウェーブへと変わる。
それをふんわりとまとめ、前世で愛したねじりルーズハーフアップのスタイルをこの世界の髪質に合わせて再構築した。
ドレスは、エリーの肌色に一番映える、深い緑のシルクドレス。骨格の美しさを際立たせる洗練されたデザインだ。そこにブラウン系のアイシャドウと、鉛を使わない自然由来の赤いリップを引く。
全身鏡の前には、今まで誰にも見つけられていなかった美しさが、初めてその輪郭を現していた。
◆
王城の大広間。
リリアは派手なピンクのドレスを纏い、肌には真っ白な粉をたっぷりと塗りたくっていた。
「妖精のようだ」と褒め称えるユリウスの隣で、彼女は優越感に浸っていた。
そこへ、階段を下りてきたエリーが現れる。
はじめは一人、次に二人。
徐々にざわめきが広がり、やがて会場の空気がふっと静まり返った。
白粉をべったりと塗った令嬢たちの中で、素肌の生命力と洗練された美しさを放つエリーの姿は、ひときわ視線を惹きつけた。
その光景を、少し離れた場所から観察している男がいた。
クロード公爵。
この国の流通と文化事業を統括する若き重鎮だ。仕事では合理的すぎて、人の感情に重きを置かないと噂される彼だったが、エリーの姿に目を奪われていた。
彼女は流行の白粉を一切使わず、己の肌色を堂々と晒している。クロードは歩み寄り、軽く会釈をした。
「失礼。少し尋ねてもいいだろうか」
「はい、何でしょうか」
「近くで見るとよく分かる。君の肌には、令嬢たちが使っている白粉特有の粉の膜がない。隠すのではなく、素材を引き立てるのが君の『化粧』というわけか」
「お見立ての通りですわ、公爵閣下」
エリーは優雅にカーテシーを決めた。
「化粧とは、自分を偽る仮面ではありません。自分自身を肯定するための魔法です。他人が決めた『白さ』という基準に合わせて身体を壊すなど、言語道断ですわ」
その言葉を聞いた瞬間、クロードの胸の奥で何かが静かに跳ねた。
ただの商人的な興味が、明確な『敬意』へと変わる。
「……なるほど。美しいものをただ着飾るのではなく、人間が自分自身を肯定できる技術……か。実に興味深い哲学だ」
クロードは恭しく右手を差し出した。
「よろしければ、この後のダンスを一曲、私にお願いできないだろうか。君の持つその思想について……ぜひ、詳しく聞かせてほしい」
◆
夜会から数日後。
クロードの出資により、王都の一角にエリーのための専用工房が設立された。
二人はビジネスパートナーとして画期的なスキンケアクリームの量産体制を整え、満を持して店舗を構えた。
しかし、現実は非情だった。店を開いて一ヶ月、商品はまったく売れなかった。
「品質は素晴らしい。だが、売れないな」
執務室で報告書を見つめるクロードは、顎に手を当てた。
「どうだろう。大々的に売るのではなく、王族や一部の高位貴族だけに限定して販売し、『特別な特権階級の証』としてブランド価値を吊り上げるというのは。それが最も手堅く確実なルートだ」
合理的な商人としての戦略。
しかし、エリーはきっぱりと首を振った。
「駄目ですわ、クロード様。美容はステータスを見せびらかすためのものじゃない。今、鏡の前で自分の肌を見て、泣いている人たちのためのものです。特権階級に独占させてしまっては、意味がありません」
クロードは小さく眉をひそめた。
「だが、商売には資金回収が必要だ。理想だけで市場は動かない。無名のブランドが一般層に急に受け入れられるほど甘くはないぞ」
「ええ。言葉や広告では限界があります。人の価値観を変えるには、圧倒的な『目に見える結果』が必要ですわ」
二人の視線が交差する。互いの思考が噛み合い、クロードの口元に微かな笑みが浮かんだ。
「ならば、その『結果』を最も劇的に示せる相手を、最初の顧客にすべきではないか?」
「……っ、それですわ! まずは一番肌荒れに悩んでいて、白粉の害に苦しんでいる層に直接アプローチするの。彼女たちの肌が綺麗に生まれ変われば、それが何よりの証明になる!」
「感情と合理性が一致したな。対象の絞り込みと機会のセッティングは私が手配しよう」
ある夜、工房で作業を続けるエリーの元を、クロードが温かい紅茶を淹れて訪れた。
「君は自分のことになると無茶をするな。少しは休んだらどうだ」
「だって、私はもっと自分を好きになりたいんですもの。このクリームが、きっと誰かの救いになるはずだから」
煤で汚れた顔で真っ直ぐに笑うエリーを見て、クロードは静かに息を吐く。
彼には、彼女のように他者の痛みに寄り添う感情の機微がない。
だが、欠落しているからこそ、彼女の気高い信念にどうしようもなく惹きつけられていた。
転機は、二人の立てた戦略通りに訪れた。
クロードの手配で密かに店舗に招かれたのは、鉛の白粉のせいで肌がひどく炎症を起こし、夜会にも出られなくなっていた一人の若い令嬢だった。
「私の肌なんて、もうどうにもならないんです……っ」
「大丈夫よ。他人の決めた『白さ』なんて忘れなさい」
エリーはプロの目で彼女の肌質を診断し、適切な洗顔法とクリームの使い方を教え込んだ。
数週間後。あるお茶会で、ヴェールを外した彼女が瑞々しい素肌を披露したことで、周囲の貴族女性たちは息を呑んだ。
「初めて、自分の肌を好きになれました」
彼女の口コミから、少しずつ潮目が変わり始めた。
「無理をして毒を塗らなくていい」という事実は、令嬢たちの心を救った。
ある日、クロードがふと尋ねた。
「ところで、エリー。このブランドの名前だが……なぜ『AKIRA』にしたんだ?」
エリーは少しだけ微笑んで、愛おしそうに目を伏せた。
「私が、かつて一番大切にしていた名前ですわ」
その瞬間、クロードの胸にチクッとした鋭い痛みが走った。この名前を口にするときだけ、彼女の表情が違う。己の内に芽生えた理不尽な嫉妬に戸惑いながら、クロードは静かに目を逸らした。
◆
数ヶ月かけて少しずつ顧客を増やし、既存の化粧品ギルドの妨害も跳ね除けながら『AKIRA』の支持が広がる中。
薄暗い部屋で、爪を噛みながら姉を憎悪の目で見つめる妹・リリアの姿があった。
『私はずっと、お姉様より綺麗でなければ愛されないと思っていた。なのに、お姉様は綺麗になることで、私を見下す必要すらなくなった』
姉に必要とされなくなった恐怖と、自己価値が崩壊していく焦燥。
リリアはユリウスの家のコネクションを密かに利用し、裏社会の錬金術師と接触。
彼女は父の印璽を盗み出して資産を横領し、安価で粗悪な『毒溶草』と鉛を混ぜたAKIRAの「偽物」を市場に流通させた。
「AKIRAのクリームで肌が赤く爛れた」という噂が王都を駆け巡った。
しかし、エリーとクロードは冷静だった。
「テクスチャは似せていますが、刺激臭は毒溶草。粗悪な鉛も混ざっているわ」
「なるほど。ならば私は、王都の裏の流通ルートを追おう」
クロードの諜報網が裏の錬金術師を拘束した。しかし、彼は依頼主を「西の商会だ」と偽証し、捜査は一時的な行き詰まりを見せた。
だが、エリーが押収された毒の成分記録を見て声を上げた。
「この特定の毒性の出方……不純物として、特殊なアルカリ性土壌の成分が混ざっているわ。西の土壌じゃない。この成分を使っているのは、王都でも伯爵家——うちの温室だけよ」
科学的な分析と、流通の捜査。二人の共同作業により、言い逃れのできない証拠が揃い、黒幕——リリアの存在が特定された。
「エリー。……覚悟はいいか?」
「ええ。美しくなりたいと願うお客様の心を踏みにじったこと……絶対に許しません」
その強い決意を見て、クロードは満足げに微笑んだ。彼女は守られるだけの存在ではない。ともに立ち向かえる対等な存在だからこそ、愛おしいのだと。
◆
王都の中心にある大広間。
釈明の場として集められた貴族たちの前で、リリアは涙ながらに訴えた。
「お姉様が危険な粗悪品を作ったんです! 私は止めようとしたのに!」
しかし、クロードが錬金術師を引きずり出し、リリアの署名と伯爵家の印璽が入った契約書を次々と机の上へ並べると、彼女の言葉は詰まった。
偽造化粧品の販売、毒物混入、ブランド詐欺。
言い逃れのできない証拠の数々に、リリアの天使の仮面は無残に剥がれ落ちた。
「なによ! お姉様が複雑な製法なんて作るから、私が安く皆に配れるように手伝ってあげただけじゃない!」
自己正当化のために論理すら破綻した叫び。その醜悪な姿を見た伯爵夫妻は、血走った目で前へ進み出た。
「エリー! リリアが勝手に私の印璽を持ち出し、家の資産まで横領したせいで、我が伯爵家は莫大な負債を抱え破産寸前だ! 債権者たちがもうそこまで……っ」
父親がすがりつくように叫ぶ。
「お前が『AKIRA』の権利と利益をすべて伯爵家に譲渡し、負債を補填しなさい! 家族の危機を救うのが、令嬢としての当然の義務だ!」
家の破滅を前にしても、彼らの頭にあるのは己の保身とエゴだけ。
ついに露見した両親の底知れぬ身勝手さに、エリーは氷のように冷ややかな目を向けた。
「お父様、お母様。あなた方は最後まで、私を一人の人間として見てはくださらなかったのですね」
「なっ……」
「お断りします。私はもう、あなたたちに評価される必要はありません」
きっぱりと告げられた決別の言葉。
リリアは法によって厳格に裁かれることとなり、伯爵家もまた、詐欺への関与と莫大な負債により、没落への道を転がり落ちていった。
会場の隅では、ユリウスが静かに立ち尽くしていた。何かを言いかけ、すがりつくように伸ばされた彼の手は、ただ虚しく空を切る。
エリーは彼の存在を一瞥することすらなく、ドレスの裾を翻して通り過ぎていった。
◆
騒動が片付き、数ヶ月。
王都の社交界から、徐々に白粉の匂いが消えつつあった。かつて「肌を見せるなんて下品」と笑っていた令嬢たちが、今では自分の肌色に合うドレスを選び、生き生きと笑っている。
公爵家の豪奢な自室で、鏡の前に立つ。
かつては、無意識のうちに視線を逸らすか、他人の顔の陰影ばかりを分析していた。だが今日は、真っ直ぐに自分自身の瞳を見つめ返す。指先で頬に触れると、滑らかな肌と自然な血色が返ってくる。
鏡の中の彼女は、誰かのためではない、自分自身のための微笑みを浮かべていた。
「……悪くないわね」
男性として女性を美しくする側だった人間が、女性として自分自身を美しくする側になった。アキラの記憶と価値観が重なり、彼女はついに『美しくなる方法を自分で選べる世界』への第一歩を踏み出したのだ。美容革命は、確かな実を結びつつある。
テラスで夜風に当たっていると、背後からクロードが優しく声をかけた。
「君の気高さと、不器用なほど真っ直ぐな情熱……ともに働く時間が好きだった。人の心に疎い私だが、気づけば、君が隣にいない未来が考えられなくなっていた」
クロードの金の瞳が、真摯な光を帯びてエリーを射抜く。
「君が誰かに選ばれることではなく、君自身が選ぶ人生を、私は隣で支えたい。私と、結婚してくれないか?」
ともに戦い、ともに過ちを正し合ったパートナーからのプロポーズ。
エリーは驚きに目を見開いた後、ふわりと笑みを咲かせた。
「私が私らしく生きることを、これからも隣で許してくださるなら……喜んでお受けしますわ」
「ああ、約束しよう。君の隣に立つためなら、何でも学ぼう」
夜明けの光が差し込み始めたテラスで、二人が優しく口づけを交わす。
ブランド名『AKIRA』。それは、かつて自分を愛せなかった男が、光の当たる場所を歩く今の自分に託した名前だった。
美しくなったから愛されたのではない。自分自身を愛することを覚えた彼女を、クロードは愛したのだ。
自らの手で運命を切り開いた彼女の、本当の人生が今、始まった。




