短歌と音楽 たぶんその1
私にとって短歌とは、文字通り「歌」である。
「歌」なのだから、当然、声に出して詠んだ時、歌うような響きがあるものを好む。
私はよく、擬古体で短歌を作るが、これはなにも、格好つけている訳でも、インテリを気取っている訳でもない。
(実際、私はインテリどころか、低学歴です)
擬古体を使ういくつかの理由の中に、「歌のような響きを出したいから」というものがある。
完全な私見なのだが、57577の文字数は、必ずしも現代の日本語には合っていないのではないか? と、考えている。
例えば万葉や平安の時代の言葉は、単語はおろか、文法そのものまで、現代の日本語とはかけ離れている。
そう、まるで外国語のように、別物なのだ。
外国語のように違った言語の時代に形作られた短歌……和歌が、1000年の時を経て、別の言語となった現代の日本語に、果たして合うのだろうか?
YESと即答するのは、無茶であろう。
現代語には、例えば68688とか、46466とか、なにか別の文字数がピッタリと合うのではないか? そんな思いを常に持っている。
故に、私は短歌に擬古体を使うのである。
ただ、誤解しないで欲しい。
私は決して、現代語で短歌を作っている方を、批判しているわけではない。
あくまでも、「歌うような短歌が好き」な私自身が、歌うために擬古体を選んでいる、という話である。
――さて、私にとって歌である短歌の作成には、音楽が密接に関係してくる。
私は執筆の際、必ず音楽を聴いている。
音楽なしには、執筆が出来ないのだ。
今、この瞬間も、音楽を聴いている。
音楽はいたって普通の、J-POPや洋楽だ。
私の小説は、実は常に、音楽の影響を受けて書かれている。
例えばそれが、コメディだったとしても。
そして長時間、音楽を聴いていると、ふとした瞬間に、「この曲をイメージした短歌を作りたい!」と思う時がある。
そして衝動的に、歌うように詠むのである。
私の作品にある、歌集「鎌倉~あじさいのうた~」に入れた短歌の多くが、そうして作られたものだ。
――随分と前置きが長くなったが、そんな音楽を聴いて衝動的に作られた短歌を一首、ここに記したい。
聴いた曲はサザンオールスターズの「唐人物語」である。
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背とともに 歩みをとめぬ 影法師
見やるるさくら 散るをとどめむ
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「背」とは古語で、親愛なる男性、夫などを指す。
「見やるる」は古語では、遠くを見る
あるいは、思いを馳せる、といった意味となる
つまりこれは、桜の季節に、愛する男性との別れを惜しむ、短歌である。
……正直、作った時、イマイチだと思った。
中途半端な疑古体。
なにより残念なのが、歌えていないこと。
だが、何度か詠み返していると、面白いことに気がついたのだ。
「背」を「人の成長(背丈)」と解釈すると、この短歌は、まったく別のものになるのだと。
イメージ出来る曲は……そう、森山直太朗の「さくら」だろうか?
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背とともに 歩みをとめぬ 影法師
見やるるさくら 散るをとどめむ
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「背」を「人の成長」と解釈すると、一転して、成長と旅立ちの短歌となる。
面白い。 これは面白い。
私は短歌とは、未完成で良いと思っている。
完成するのは、聴き手が想像力を働かせて、自分なりの解釈を加えた時だと思っているからだ。
だからこそ、解釈によって全く違う表情を見せるこの未完の短歌を、ここに記してみようと考えたのである。
皆さんは、どちらの解釈がお好みですか?
これ以外に、別の解釈はありましたか?
「自分なら、ここを変えて、もっと別の曲に合わせたい」と思いましたか?
是非、好きに解釈して、あなたの想像力の中で、この未完成な短歌を、完成させてみて下さい。
ご笑覧、ありがとうございました。
本作品は、読み切り完結です。
「短歌と音楽 その2」があるかは、作者自身にも分かりません。
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