嫉妬の方程式
この話は、素直になれない女の子の、長くて遠回りな恋の記録です。
主人公の鈴木叶は、頭がよくて、負けず嫌いで、好きな人の前でだけ妙に意地を張ります。「ガリ勉ね」と言いたかったわけじゃないのに、口から出てくるのはいつもそういう言葉です。心の中ではちゃんと心配しているのに、ちゃんと嬉しいのに、ちゃんと好きなのに、それが全部、一枚か二枚の鎧を着てから相手に届くので、毎回少しだけズレて伝わります。
あるいは、全然伝わりません。
でも、それが叶という人間です。そしてたぶん、そういう人間は、叶だけじゃないと思っています。
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高橋陽大という男の子は、鈍いです。
致命的なくらい鈍い。誰にでも優しいから、自分の優しさがどれだけ誰かの心臓に刺さっているか、わかっていません。「普通に思ったから言っただけ」で人を動揺させて、それに気づかずまた問題集を開きます。
叶が一番「ずるい」と思っているのは、たぶんそこです。
わかっていてやっているなら怒れる。でも、わかっていないから怒れない。怒れないから、余計に胸が苦しい。
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この物語には、受験勉強の話がたくさん出てきます。
極限の計算、微分の公式、置換積分の落とし穴、参考書の使い分け。それらは「勉強のできる子たちの話」を彩るための小道具ではなく、この物語の背骨のひとつです。
叶と陽大が机を並べて数式を追っている時間は、叶にとって「陽大の隣にいることが許されている時間」です。勉強を教え合えるから、テストで競い合えるから、この席にいていい理由がある。そう思いながら、叶は毎朝早いバスに乗っています。
好きという感情は、いつだって理由を探します。
そして叶の「理由」は、青キートとシャープペンシルと、隣の席という場所です。
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ゆずきという女の子が出てきます。
叶にとって最初は「敵」でした。でも人間というのは、会ってみると思った通りじゃないことが多い。嫌いになろうとした人間を好きになってしまうことが、世の中にはあります。叶もそれに直面します。
嫉妬と友情は、思っているより近いところにあります。
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恋愛小説でよくある「告白して、付き合って、幸せになる」という話ではありません。
少なくとも、最初のうちは。
この物語は、素直になれない女の子が、遠回りに遠回りを重ねながら、少しずつ自分の「好き」という感情の重さに気づいていく話です。
読んでくださる方の中に、かつて素直になれなかった人がいたなら。あるいは今まさに、言いたいことを一枚の鎧に包んで渡している人がいたなら。
叶の遠回りが、少しだけ寄り添えるといいと思っています。
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それでは、早いバスの話から始めましょう。
朝の教室には、青キートと、シャンプーの匂いと、言えなかった「おはよう」が待っています。
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鈴木叶の、長くて遠回りな恋の話を、どうかおつきあいください。
好きな人より良い点数を取りたいと思うのは、恋愛感情として正しいのだろうか。
鈴木叶は、夜の十一時に机の前でそんなことを考えていた。
明日は模擬テストだ。星海学園では毎月一回、実力確認のための校内模擬試験が行われる。範囲は授業の進度に合わせた「指定範囲あり」の科目と、高校入学以降の全範囲が対象になる「実力重視」の科目が混在している。今月は数学と英語と国語の三教科で、特に数学は銅黄会の進度に合わせた難問が出題される傾向があって、H組の中でも点数の差がはっきりと出る試験だ。
叶は机の上に開いた青キートのページを眺めながら、昨日から数えてもう三回読んだ同じ例題を、もう一度追った。
理解はしている。手順もわかっている。でも、この段階で「わかる」と「試験本番で確実に解ける」の間に溝があることも、叶は知っていた。だから今夜も、閉じた参考書の前でシャープペンシルを走らせる。
(陽大は今、何をしてるんだろう)
考えてしまった。
今日は火曜日だから銅黄会があった。さっき終わった時間帯のはずだ。塾帰りに自習室で追加で勉強しているかもしれないし、もう電車に乗って帰っているかもしれない。それとも──ゆずきや寛太と、どこかで話しながら帰っているかもしれない。
(考えるな)
叶は消しゴムを机に軽くたたきつけた。
今夜の自分のタスクは残り一つ、マンツーマン演習の積分の問題を五問解いて、解答の流れを頭に固定すること。ゆずきのことを考えている時間はない。
シャープペンシルを握り直して、問題を見た。
∫[0→π/2] sin^3(x) cos^2(x) dx
(sin^3 x は sin x (1 - cos^2 x)に変換して、cos x = tで置換……)
手が動き出した。
好きな人に勝ちたい、という感情が果たして恋愛として正しいかどうかは、まだわからない。でも少なくとも、叶を机の前に縛り付けているのは、その感情であることは確かだった。
第一章 模擬テスト当日、そして結果
模擬テストは、翌週の火曜日の午後に行われた。
数学・英語・国語の三教科を、午後一時から三時間かけてこなす。
叶は数学の試験用紙を受け取った瞬間に、問題の構成を三十秒で俯瞰した。全十五問。大問一から三が基本〜標準レベルで、大問四と五が応用。最後の大問五の小問三が、積分の計算とその応用に関するもので──叶はそこを見た瞬間に、昨夜の練習問題と同じ構造だと気づいた。
(来た)
心の中でそう思いながら、叶は大問一から順に手をつけた。
試験中、一度だけ隣の席に視線を向けた。
陽大は、既に大問三に入っていた。早い。ただ、シャープペンシルを持つ手が一問のところで少し止まっていた。叶には、その止まった問題がどの問題かはわからなかった。でも、陽大が止まっている──それだけでわずかに心拍数が上がった。
(チャンスかもしれない)
競争心と、それ以外の何かが混ざった、複雑な感情だった。
試験が終わったのは四時半頃だった。
採点と集計には数日かかる。結果が張り出されるのは金曜日の午前中だ。それまでの三日間を、叶は平静を装いながら過ごした。
金曜日の朝。
叶がいつもより少し早足で三階の廊下を歩いていると、H組の教室の前の掲示板のところに数人のクラスメイトが集まっているのが見えた。
模擬テストの結果の張り出しだ。
叶はペースを落として、さりげなく近づいた。
掲示板には、教科別の上位成績者と総合順位の表が貼り出されていた。叶は視線を総合順位の表に向けた。
一位──。
叶は視線を走らせた。
一位:鈴木叶(1年H組) 290点/300点満点
叶は、一秒間止まった。
次に、二位を確認した。
二位:高橋陽大(1年H組) 285点/300点満点
五点差。
叶は表から目を離して、廊下の窓の外に視線を向けた。
(取った)
心の中でそう言った。声に出すと何か壊れそうで、心の中だけで言った。
胸の奥に、静かな熱がじわりと広がっていた。
ガッツポーズはしない。叫びもしない。ただ、その熱を小さく抱きしめるように、叶は一度だけゆっくりと息をついた。
それから、また早足で教室に向かった。
第二章 一位と二位の朝
教室に入ると、陽大はいた。
今日は叶の方が遅かった。陽大はすでにマンツーマン演習を広げていて、叶が入ってきたのに気づいて顔を上げた。
「おはよう」
「おはよう」
叶は鞄を席にかけながら、何気ない顔を心がけた。
「……結果、見たか?」
陽大が、先に聞いてきた。
「見た」
「鈴木が一位だったな」
叶は陽大の顔をちらりと見た。
悔しそうか、どうか──と確認したかったのだが、陽大の顔は穏やかで、どちらかというと、何か少し面白がっているような表情だった。
「……悔しくないの」と叶は思わず聞いた。
「悔しいよ」と陽大はあっさり言った。「大問四の積分、答えは合ってたのに途中の置換のところで式の変形を一個省いて書いたら部分点が引かれた。あの五点だ」
「……書かなかったの、自分で」
「省略できると思ってた。省略したらだめだったらしい」
「記述式で途中過程を省くと減点されるって、先週私が言ったよね」
叶の声が一トーン下がった。
「……言ってたな」
「言ってたよ。マンツーマン演習の話をしてるとき、ちゃんと言った」
「そうだな。俺の確認ミスだ」
陽大はさらりと認めた。自分のミスを言い訳せずに認めるのは、昔からの陽大の性質で、叶はそれをわかっていながら、今日はその「さらり」が少しだけ物足りなかった。
もう少し悔しがってほしかった。
(……なんで私、そんなことを思ってるんだ)
叶は鞄からヒスタンを取り出して、顔を伏せた。
「おめでとう、鈴木」
陽大がそう言った。
叶の手が止まった。
「……は?」
「一位。おめでとう、って言った」
叶はヒスタンを机に置いて、陽大を見た。
陽大は真顔だった。
「なに、そのリアクション」
「急に言うから」
「急じゃないだろ、普通のタイミングだろ」
「……べ、別に、一回取れたくらいで調子に乗るつもりはないから。来月は返り咲くつもりなんでしょ」
「当然」
「じゃあ私も守るから」
「望むところ」
二人は同時に前を向いた。
叶の心臓は、また必要以上に動いていた。
(「おめでとう」って言われると思ってなかった)
ライバルから、ちゃんと「おめでとう」と言われること。それがこんなに嬉しいとは、今の今まで知らなかった。
第三章 放課後の提案
その日の六時間目が終わった放課後。
叶が鞄に荷物を詰めていると、後ろの席の女子、宮沢さんが声をかけてきた。
「鈴木さん、一位だったね!すごい!」
「……ありがとう」
「高橋くんとほぼ毎回上位争いしてるの、なんかドラマみたいで格好いいよね」
叶は愛想笑いを返しながら、「ドラマ」という言葉の表面だけをそっと受け取った。
ドラマ。
もしこれがドラマなら、叶は今頃「一位を取った日に告白する」くらいの展開になっているはずだ。現実の叶は、「おめでとう」と言われただけでドキドキが収まらないまま、これからどこに帰ろうかを考えている。
(今日、火曜だ)
叶は気づいた。
今日は火曜日。銅黄会の曜日だ。
放課後から銅黄会の授業まで、陽大には二時間弱のフリータイムがある。先週の火曜日は、ゆずきから「一緒に行こ」というメッセージが来ていた。今週も──おそらく同じだろう。
(四々木、か)
叶はバスの時刻を、スマホで確認するか一瞬迷った。
今日は金曜日じゃない。火曜日だ。去年から叶が「ばったり作戦」で使ってきた日だ。四々木駅経由のバスで遠回りすれば、銅黄会帰りの陽大に会えることがある。
でも、先週は「行かない」と決めた。
今週は──。
(一位、取ったし)
叶は心の中でそう言った。
それは理由にならない、ということはわかっていた。でも、今日という日は叶にとって少し特別で、もう少し陽大の顔を見ていたいという気持ちが、去年から積み上げてきた「遠回りの習慣」を呼び起こしていた。
叶は鞄を肩にかけて、席を立った。
第四章 四々木行きのバス
四々木駅経由のバスは、最寄りのバス停から乗れる十七時二十二分発だ。
叶は学校を出て、バス停まで少し早足で歩いた。
五月の夕方は、もう随分明るくなっていた。風は少し生温かくて、叶のポニーテールを柔らかく揺らした。制服のブレザーが少し暑いけれど、夕方はまだ気温が下がるから着たままにしておく。
バス停についたのは、発車三分前だった。
先に並んでいた数人の後ろに立ちながら、叶はスマホを確認した。
陽大からのメッセージはない。当然だ。叶と陽大はクラスのグループチャットでつながっているだけで、個人的なやり取りはしたことがない。
(してみたいとは思ってるけど)
してみたい、と思うだけで実行したことは一度もない。何を送ればいいのかわからない、という問題と、「送ったら何か変わってしまうかもしれない」という漠然とした恐怖が合わさって、叶は結局いつも行動しなかった。
バスが来た。
叶は乗り込んで、窓際の席に座った。
四々木駅まで、このバスでおよそ二十分。
叶は窓の外を見ながら、自分が何を期待しているのかを正直に整理しようとした。
陽大に会えるかもしれない。会えたとして、どうするか。「ばったり会った」ふりをして「あら奇遇ね」と言う。それだけだ。それだけのことのために二十分余計に揺られて、帰りが遅くなる。
(我ながら、本当に)
叶は窓に額を軽くつけながら、苦笑いした。
でも、やめなかった。バスを降りる気にもならなかった。
揺れるバスの中で、叶は目を閉じた。
今日の朝の「おめでとう」が、まだ耳に残っていた。
第五章 四々木駅の夕方
四々木駅のバス停は、駅の南口から徒歩一分のところにある。
叶がバスを降りたのは十七時四十五分頃だった。銅黄会の授業は夜七時からで、陽大はその前に自習室を使うか、駅周辺で時間を潰すかしているはずだ。
叶は南口の改札前に来て、さりげなく周囲を見渡した。
夕方の四々木駅は、それなりに人がいる。帰宅する会社員と、塾通いの中学生・高校生と、買い物帰りの主婦たちが混在していて、駅前の小さなロータリーが賑わっている。
陽大の姿は──ない。
(まだ来てないか、もう塾に入ったか)
叶は改札の前に立って、どうするかを考えた。
このまま帰ってもいい。陽大に会えなかったなら、それはそれだ。バス賃が余計にかかって帰りが遅くなっただけで、特に何も変わらない。
でも、もう少しだけ待ってみようか、という気持ちもあった。
叶は駅前の小さなコンビニに入った。とりあえず何か買って、時間を持て余したふりをしながら外で待てばいい。作戦としては薄すぎるが、今日の叶にはそれが限界だった。
アイスのコーナーで一番安いアイスを一本選んで、レジに並んだ。
会計を済ませて、コンビニを出た。
そして、叶は見た。
第六章 見てしまったもの
駅の北口側に、銅黄会の自習室があるビルに続くと思われる方向の歩道に、二人の人影があった。
一人は、高橋陽大だった。
見間違えるはずがない。あの背格好、あの歩き方、肩にかけた黒いリュックの形。叶が一年以上かけて頭に刻み込んだ輪郭だ。
そしてもう一人は、女の子だった。
叶の知らない女の子。
身長は叶よりも少し低くて、ふわっとした明るめの茶色い髪が肩のあたりで揺れている。陽大の隣を歩きながら、何か話しかけているらしく、顔が陽大の方を向いていた。笑っている。
陽大も、笑っていた。
二人は並んで歩いていて、距離が近かった。肩が触れそうなくらい近い。特に意識していない距離感、という感じで、それが逆に「長い付き合いの人間同士の自然な近さ」として叶の目に見えた。
(ゆずき、だ)
叶は確証はなかったが、確信した。
あれがゆずきだ。陽大の幼馴染の、ゆずきだ。
叶はコンビニの前で、アイスを持ったまま固まった。
二人は叶に気づいていない。叶の方を見ていない。ただ、並んで、笑いながら、銅黄会のある方向に歩いていく。
叶は、動けなかった。
アイスの棒が、指の中で冷たかった。
二人の背中が、夕方の人混みに紛れていく。陽大のリュックと、ゆずきの揺れる茶色い髪と。それが少しずつ遠ざかっていくのを、叶はただ見ていた。
(……なんだ、これ)
心の中が、静かだった。
静かすぎて、怖かった。
嫉妬、という感情は、叶は今まで「ざわざわした熱さ」として感じることが多かった。でも今は、ざわざわではなく、ただ静かに何かが沈んでいく感覚だった。冷たくて、重くて、底がどこかわからない。
(あんなに自然に、並んで笑ってる)
叶と陽大は、隣の席に一年以上座っていて、毎朝話して、勉強を教え合って、テストで競い合っている。それでも、ああいう「何も意識していない自然な隣」を、叶はまだ一度もできたことがない。
叶が陽大の隣を歩くとき、叶はいつも意識している。歩幅とか、距離とか、何を話すかとか、自分の顔がどんな顔をしているかとか。全部が少し余計で、全部に少し力が入っている。
ゆずきには、たぶん、そういうのがない。
陽大の隣が、自然な場所なんだ。
(かなわない、な)
叶は思った。
泣きたいとは思わなかった。ただ、静かに「そうか」と思った。
アイスが溶け始めているのに気づいて、叶はようやく体を動かした。
第七章 帰り道の温度
帰りのバスに乗った。
今度は四々木駅から乗るのではなく、一本遠回りして違うバス停から乗った。なんとなく、さっきのバス停に戻りたくなかった。
窓際の席に座って、アイスを食べた。
チョコレートの安いアイスで、半分くらい溶けていて、手がべたついた。でも食べた。食べないと持て余すから。
(好き、なんだよな)
叶は窓の外の夕暮れを見ながら、確認するように思った。
高橋陽大が好きだ。あの横顔が好きで、くまのある目が好きで、「おめでとう」という言い方が好きで、問題を解くときに眉が少し動く癖が好きで、自分のミスをさらっと認めるところが好きで。
全部ひっくるめて、好きだ。
その「好き」が、さっき駅前で見た二人の姿によって、何か変わったかというと──変わっていなかった。
(むしろ、はっきりした)
叶は窓に頭をもたれさせながら、目を閉じた。
かなわないかもしれない。ゆずきという存在が陽大の隣に自然に立っていることは、叶にとってどうしようもない事実だ。それでも、叶の中の「好き」という感情は、さっきの光景を見てから今この瞬間まで、一ミリも小さくなっていなかった。
それが腹立たしくもあり、少し可笑しくもあった。
(私の「好き」って、かなり頑丈に作られてるな)
叶はアイスの棒を袋に入れながら、自分でそう思った。
頑丈すぎて、少し困る。
でも、たぶん、その頑丈さが今の叶の支えでもあった。
第八章 帰宅、そして夜の決心
家に帰ったのは夕方の六時を少し過ぎた頃だった。
制服を着替えて、手を洗って、机の前に座る。いつものルーティン。でも、今日は少しだけ動作が遅かった。
鞄から参考書を取り出すのに、いつもより五秒かかった。
叶は机の前で、しばらくぼんやりした。
さっきの光景が、まだ頭の中にある。
陽大とゆずきが並んで笑って歩いていた。あの距離。あの自然さ。
(幼馴染ってそういうもの、なんだろうな)
叶は思った。
幼馴染には、積み上げてきた時間がある。物心つく前から一緒にいた時間が。叶がどれだけ陽大の隣の席に座って、毎朝話して、テストで競い合っても、その「時間の蓄積」には届かない。
それは、事実だ。
でも──。
(私には私の、ここ一年があるんだけど)
叶はシャープペンシルを手に取った。
中三C組で初めて同じクラスになってから、高一H組になった今まで。勉強を教え合って、テストで競って、毎朝早く来て話して。その全部が、叶にとっては大切な積み上げだ。
ゆずきの「幼馴染という時間」には届かないかもしれない。でも、叶には叶の「隣の席という時間」がある。
それを、簡単に諦める気にはなれなかった。
(来月も、一位取ろう)
叶は青キートを開いた。
今夜は第二章の微分に入る。微分の基本から、合成関数の微分、対数微分法。範囲は広いが、来月の模擬テストまでに仕上げるつもりだったから、今夜から始めればちょうどいい。
シャープペンシルが、ノートの上を走った。
叶の手は、今夜は最初から止まらなかった。
第九章 翌週の朝、ゆずきの話
翌週の月曜日。
叶が教室に入ると、陽大はいた。今日もマンツーマン演習を開いていた。微分の章だ。叶と同じ進度だと気づいて、叶は内心で少し笑った。
「おはよう」と叶は言った。
「おはよう」と陽大は顔を上げて言った。「今日も早いな」
「習慣になったから」
叶は鞄を席にかけながら、何気ない顔を作った。
金曜日のことは、言わない。四々木駅に行ったことも、二人を見たことも、言わない。そんなことを言ったら「なんでそこにいたの」と聞かれて、答えられない。
「なあ、鈴木」
「……なに」
陽大がペンを置いて、叶の方を向いた。
「先週の火曜、四々木の方に来なかった?」
叶の心臓が、一拍飛んだ。
「……は?」
「ゆずきが、コンビニの前に鈴木みたいな子がいたって言ってて」
(見られてた)
叶の背中に、さっと冷たいものが走った。
「……人違いじゃない?」
「そうかな、制服が一緒だったって言ってたけど。帽子はかぶってなかったし、確実ではないらしいけど」
「四々木経由のバスが、たまたまあっちを通るんだけど」
半分本当で、半分嘘だった。バスはたまたまではなく、意図的に選んでいる。でも経由することは本当だ。
「そっか、バスか」
陽大は特に疑う様子もなく「それなら奇遇だな」と言って、マンツーマン演習に戻った。
叶はヒスタンを取り出しながら、心臓の動悸を落ち着かせた。
(ゆずきが気づいてた……)
あの子が、叶を見ていたのか。叶はゆずきを見ていたのに、ゆずきも叶を見ていた。それが少しだけ、予想外だった。
「それで」
叶は、聞こうかどうか一秒迷った末に、聞いた。
「ゆずきって、どんな人なの」
陽大が少し意外そうな顔をした。
「ゆずきのこと、気になってたの?」
「べ、別に気になってるわけじゃない。名前はよく聞くのに会ったことないから、どんな人かなと思っただけ」
「そっか。明るくて、よく喋る。勉強もできる。銅黄会でも上位クラスにいるから、たぶん鈴木と話が合うと思う」
叶は「そう」とだけ答えた。
明るくて、よく喋る。勉強もできる。陽大の説明は簡潔で、特別な感情の乗せ方をしていなかった。でもそれが、「特別な感情をわざわざ乗せる必要もないほど自然な存在」ということの証明のようにも聞こえた。
(「話が合うと思う」か)
それは、叶とゆずきを引き合わせようとしているのか、それとも単なる情報提供なのか。陽大の言葉の意図を、叶はいつも読み切れない。
「……今度、紹介してよ」
口から出た言葉に、叶自身が驚いた。
なぜそんなことを言ったのかは、自分でもわからなかった。会いたいのか、会いたくないのか。でも、知らない存在のままでいるより、ちゃんと顔を見て話したいという気持ちが、どこかにあったのかもしれない。
陽大は少しだけ目を細めた。
「……いいよ、今度機会があれば」
その「今度」がいつのことを指しているのか、叶にはわからなかった。
第十章 微分の授業と、叶の計画
その日の三時間目は数学だった。
フジモン先生が黒板に微分の応用問題を書き始めた瞬間、叶はすでに答えまでの道筋が見えていた。昨夜、青キートで同じタイプの問題を五回解いていたから。
先生の説明を聞きながら、叶はノートに解答を書いた。
f(x) = x^3 e^x のとき、f''(x) を求めよ。
積の微分の公式。
{f(x) g(x)}' = f'(x) g(x) + f(x) g'(x)
叶はこれを二回繰り返して、f''(x) = (x^3 + 6x^2 + 6x) e^xを導いた。
視線を左に向けると、陽大も同じ式を書いていた。
ほぼ同時に答えを出して、ほぼ同時に顔を上げて、二人の目が合った。
陽大がわずかに口角を上げた。
叶は視線を黒板に戻した。
(意識するな)
でも口の端が動いてしまうのは、止められなかった。
授業の後半で、フジモン先生が少し難しい問題を出した。
「これ、答えを言える人いる?」
難易度から言って、H組でもすぐに手が挙がる問題ではない。叶は頭の中で素早く計算した。対数微分法を使えば処理できる。
叶が手を挙げようとした瞬間、隣で陽大が先に手を挙げた。
「高橋、どうぞ」
陽大が立ち上がって、淀みなく解答を述べた。正確だった。
「正解。さすが高橋、速いな」
先生に褒められた陽大が席に戻りながら、ちらりと叶を見た。
(今日は私が先に挙げるつもりだったのに)
叶は陽大を見返した。
陽大は小声で「惜しかったな」と言った。
「……うるさい」
叶は小声で返した。
でも、そのやり取りが、なぜか今日の一番の出来事みたいに感じられた。
第十一章 放課後の廊下
六時間目が終わって、ホームルームの後。
叶が廊下に出ると、陽大が教室の入り口のあたりで寛太と話しているのが見えた。
今日も火曜日だから、銅黄会がある。陽大はもうすぐ四々木に向かうだろう。ゆずきとも合流するかもしれない。
叶はそれを思いながら、階段に向かって歩いた。
今日は四々木には行かない、と決めていた。
先週見てしまったものが、まだ胸の中に残っているのに、もう一回同じものを見たら、今度は「静かな沈み方」では済まないかもしれない。
そう判断した。
「鈴木」
後ろから声をかけられた。
振り向くと、陽大だった。
寛太と話すのをちょうど終えたらしく、一人で廊下に出てきたところだった。
「なに」
「来月の模擬テスト、また勝負な」
叶は一瞬、固まった。
陽大は特に深刻な顔でも、笑った顔でもなく、ただ真っ直ぐに言っていた。
(宣戦布告、だ)
「……当然」と叶は言った。「今月が一回だけだと思ってたら大間違いだから」
「それはこっちの台詞だけど」
「どっちが言っても構わない、結果が全てだから」
「だな」
陽大はそう言って、軽く手を上げた。じゃあな、という感じの、気軽な仕草だった。
叶はその仕草に、また一瞬心臓が動いた。
(「またな」みたいな感じ、が好きなんだよな)
特別な言葉ではない。でも陽大がやると、なぜかそれが全部温かく見える。
「……行ってらっしゃい」
叶はぽつりと言った。
陽大が足を止めて、少し振り向いた。
「ん?」
「銅黄会、頑張ってきなさいよ」
「ああ、うん」
陽大が何か少し考えるような顔をしてから「ありがとな」と言った。
叶は前を向いて歩き出した。
背中が、少し熱かった。
第十二章 四々木の方程式
叶は今日も、帰りのバスで窓の外を見ていた。
今日のルートはまっすぐ家に帰る方向で、四々木駅は経由しない。バスは普通の速度で走っていて、叶の家の最寄りのバス停に向かっている。
窓の外に夕暮れが広がっていた。
先週の四々木駅での光景が、また浮かんだ。
陽大とゆずきが並んで歩いていた。笑っていた。自然な距離で、自然な空気で。
それを思い出すたびに胸が痛い。でも、今日の「来月も勝負な」という陽大の言葉も、「行ってらっしゃい」に対する「ありがとな」という返事も、同じくらい鮮やかに残っていた。
(嫉妬の方程式、か)
叶は思った。
ゆずきへの嫉妬がxで、陽大への好意がyだとしたら、叶の今の状態はどんな式で表せるだろう。
xが増えるたびにyも増える。ゆずきのことが気になるたびに、陽大のことが好きだという気持ちが確認される。嫉妬が「好き」の証明みたいになっている。
(全然解けない方程式だな、これ)
叶はため息をついた。
バスが揺れた。
叶は窓に少しだけもたれながら、目を閉じた。
嫉妬して、それでも好きで、来月のテストで一位を取ろうとして、「行ってらっしゃい」と言って。
ゆずきとの勝負でも、テストでの勝負でもなく、叶はただ「陽大の隣にいたい」という一点だけを目指している気がした。
隣の席。それが今の叶の、唯一確かな場所だ。
それを守るために、叶は明日も早いバスに乗る。
第十三章 帰宅と、今夜の勉強
家に帰ってきたのは、いつもより少し早い夕方五時半頃だった。
制服を着替えて、机の前に座る。鞄から青キートを取り出して、今夜の範囲を確認する。第二章の微分の続き、合成関数の微分と逆三角関数の微分だ。
叶はシャープペンシルを手に取って、例題の最初の式を見た。
d/dx (arcsin x) = 1 / √(1 - x^2)
逆三角関数の微分は、公式を丸暗記するよりも導出の過程を理解した方が応用が利く。y = arcsin xをx = sin yと書き直して、両辺をxで微分し、陰関数微分の形でdy/dxを求める流れを、頭の中で一度たどってみる。
dx/dy = cos y から dy/dx = 1 / cos yで、cos y = √(1 - sin^2 y) = √(1 - x^2)
を代入すれば公式が出る。
この「丸暗記せず導ける」状態にしておくことが、難問に対応するときの底力になる。叶は参考書の解説を読みながら、自分の言葉でノートに書き直した。
(陽大はこのあたり、もう解けてるのかな)
午前の授業で対数微分法を即答していたから、微分の基礎は固まっているはずだ。逆三角関数の微分まで進んでいるかは不明だけれど、銅黄会の進度から考えれば、おそらく叶と同じかそれより先にいるかもしれない。
(だったら私も急がないと)
手が止まらなかった。
嫉妬と対抗心と、「一位を守りたい」という意地と。それら全部が今夜の叶の燃料になっていた。
二時間後。
叶は青キートの第二章の半分を終えていた。
手が少し疲れて、首を回した。窓の外はもう暗くなっていて、虫の鳴く声が小さく聞こえてくる。五月も後半に差し掛かっている。
スマホを見ると、時刻は夜八時十五分だった。
(銅黄会、終わった頃かな)
陽大は今頃、帰り道にいるだろう。電車の中か、駅を出た後の道か。ゆずきや寛太と一緒かもしれない。
叶はスマホを伏せた。
今日は考えない。
でも──来週の火曜日は。
叶は少し考えて、また考えをやめた。来週のことは来週に決める。今日の叶は今日の分の勉強をするだけだ。
青キートを開いて、続きに取り掛かった。
エピローグ 方程式の答えは出ないけれど
叶がその夜、勉強を終えたのは夜の十時過ぎだった。
青キートを閉じて、ヒスタンを確認して、明日の予習を軽くして。全部終わってから、布団に横になった。
天井の染みが、今日もそこにあった。
(ゆずきに、会いたい)
自分の中から出てきた言葉に、叶は少し驚いた。
「見たくない」とか「嫉妬する」とか「怖い」とかじゃなくて、「会いたい」だった。
どんな人か、ちゃんと知りたい。陽大が自然に笑える相手が、どんな人間なのか。会ってみれば、何かがわかるかもしれない。それとも、会ったらもっと苦しくなるかもしれない。
どちらにしても、知らないままでいるより、知った方がいい気がした。
(陽大に「紹介して」って言った)
今朝、確かにそう言った。口から出てしまった言葉は消せない。陽大は「今度機会があれば」と言った。
その「今度」が、怖くもあり、早く来てほしくもあった。
叶はスマホを手に取った。
クラスのグループチャットに、今日新しい通知はなかった。陽大からの個人メッセージは、もちろんない。
叶はスマホを置いて、目を閉じた。
嫉妬の方程式は、まだ解けていない。
でも、叶には来月の模擬テストという目標があって、毎朝早く来るという習慣があって、隣の席という場所がある。
それで今は十分だ。
方程式の解は、きっと──その先にある。




