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ガリ勉と呼んだ口で、好きだと言えない  作者: ドナルド


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幼馴染の影

この話は、素直になれない女の子の、長くて遠回りな恋の記録です。


 主人公の鈴木叶は、頭がよくて、負けず嫌いで、好きな人の前でだけ妙に意地を張ります。「ガリ勉ね」と言いたかったわけじゃないのに、口から出てくるのはいつもそういう言葉です。心の中ではちゃんと心配しているのに、ちゃんと嬉しいのに、ちゃんと好きなのに、それが全部、一枚か二枚の鎧を着てから相手に届くので、毎回少しだけズレて伝わります。


 あるいは、全然伝わりません。


 でも、それが叶という人間です。そしてたぶん、そういう人間は、叶だけじゃないと思っています。


---


 高橋陽大という男の子は、鈍いです。


 致命的なくらい鈍い。誰にでも優しいから、自分の優しさがどれだけ誰かの心臓に刺さっているか、わかっていません。「普通に思ったから言っただけ」で人を動揺させて、それに気づかずまた問題集を開きます。


 叶が一番「ずるい」と思っているのは、たぶんそこです。


 わかっていてやっているなら怒れる。でも、わかっていないから怒れない。怒れないから、余計に胸が苦しい。


---


 この物語には、受験勉強の話がたくさん出てきます。


 極限の計算、微分の公式、置換積分の落とし穴、参考書の使い分け。それらは「勉強のできる子たちの話」を彩るための小道具ではなく、この物語の背骨のひとつです。


 叶と陽大が机を並べて数式を追っている時間は、叶にとって「陽大の隣にいることが許されている時間」です。勉強を教え合えるから、テストで競い合えるから、この席にいていい理由がある。そう思いながら、叶は毎朝早いバスに乗っています。


 好きという感情は、いつだって理由を探します。


 そして叶の「理由」は、青キートとシャープペンシルと、隣の席という場所です。


---


 ゆずきという女の子が出てきます。


 叶にとって最初は「敵」でした。でも人間というのは、会ってみると思った通りじゃないことが多い。嫌いになろうとした人間を好きになってしまうことが、世の中にはあります。叶もそれに直面します。


 嫉妬と友情は、思っているより近いところにあります。


---


 恋愛小説でよくある「告白して、付き合って、幸せになる」という話ではありません。


 少なくとも、最初のうちは。


 この物語は、素直になれない女の子が、遠回りに遠回りを重ねながら、少しずつ自分の「好き」という感情の重さに気づいていく話です。


 読んでくださる方の中に、かつて素直になれなかった人がいたなら。あるいは今まさに、言いたいことを一枚の鎧に包んで渡している人がいたなら。


 叶の遠回りが、少しだけ寄り添えるといいと思っています。


---


 それでは、早いバスの話から始めましょう。


 朝の教室には、青キートと、シャンプーの匂いと、言えなかった「おはよう」が待っています。


---


鈴木叶の、長くて遠回りな恋の話を、どうかおつきあいください。

好きな人のことを考えながら眠れない夜が、世界でいちばん甘くて、いちばん苦しい。


 鈴木叶はそう思う。


 布団の中でスマホの画面を眺めながら、今日で何度目になるかわからないため息をついた。時刻は午後十一時二十分。試験前でもないのにこんな時間まで起きているのは、完全に自業自得だった。


 原因はわかっている。今日の放課後、廊下ですれ違った高橋陽大が「鈴木、今週のテスト対策どう?」と声をかけてきた、それだけのことだ。それだけのことで、夕飯もろくに喉を通らなかったし、お風呂でいつもより三十分も長く湯船に浸かってしまったし、こうして日付をまたぎそうになるまでぼんやりしてしまっている。


 我ながら重症だと思う。


(あいつ、また朝早くから学校来てるんだろうな)


 叶は仰向けになって、天井の染みを見つめた。


 高橋陽大。隣の席の男子。中学三年生のC組からずっと同じクラスで、今は高校一年生のH組──学年上位四十人で構成された特進クラス──でも机を並べている。電車通学で、朝は誰よりも早く教室に来て、数学の問題を解いている。サッカー部でもなく、文化部でもなく、勉強だけに全集中しているわけでもなく、それでも学年のTOP20に常時顔を出している。中二からずっと級長を務めていて、クラスメイトからの信頼も厚い。


 そして、叶の学年順位は二位だ。


 一位が誰かは、言わずもがな。


(……なんであいつが一位で、私が二位なのよ)


 悔しいのか悔しくないのか、自分でも判断がつかなかった。陽大が一位を取るのは誇らしいような気持ちがあるし、自分が追いつけないもどかしさもある。でも、「抜かしてやろう」という純粋なライバル心よりも、「もっと近くにいたい」という気持ちの方がずっと大きい自分が嫌だった。


 叶はスマホを伏せて、目を閉じた。


 明日は早起きしよう。


 理由? 理由なんてない。ただ──早く行けば、もしかしたら陽大より先に教室に着けるかもしれない。朝の静かな教室で、「おはよう」と言える側になれるかもしれない。


 それだけだ。


 本当に、それだけのことで、叶は目覚まし時計を午前五時四十五分にセットした。



第一章 五月の朝、バスの窓、そして──


 翌朝。


 五月の空はまだ薄青く、住宅街の路地には昨夜の雨の名残りが黒く濡れた路面として残っていた。朝五時五十分のバスに揺られながら、叶は窓の外を流れていく景色を眺めていた。


 バスは空いていた。通勤ラッシュにはまだ少し早い時間帯で、乗客はサラリーマンが二人と、老人が一人と、それから叶だけだ。制服のスカートがシワにならないよう気をつけながら窓際の席に座って、膝の上に置いた通学カバンをぎゅっと握る。


 昨夜遅くまで起きていたくせに、目覚ましより三分早く目が覚めた。緊張していたのかもしれない。自分でも呆れるくらい単純な動機で早起きしておいて、緊張するなんてどうかしている。


 でも、緊張していた。


 バスが学校の最寄りバス停に着いたのは、六時二十分を少し過ぎた頃だった。校門が開くのは六時半からだから、少しだけ早い。叶はバス停のそばのコンビニで温かいカフェオレを買って、ゆっくりと歩いた。


 星海学園の正門は、古いレンガ造りの壁に鉄製の門扉が組み合わさった、いかにも「お嬢様学校」然とした作りをしている。でも、この学校が本当に力を入れているのは見た目よりも中身だ。東大・京大・医学部への進学実績は都内でも指折りで、特進クラスのH組ともなれば、一年生の段階から大学受験を意識したカリキュラムが組まれている。


 校門が開いてすぐに入ると、守衛のおじさんが「早いね」と笑いかけてきた。


「今日から気合い入れようかなと思って」


 答えながら、叶は心の中でこっそり付け加えた。


(まあ、そういうことにしといてください)


 渡り廊下を抜けて、昇降口で上履きに履き替えて、階段を上がる。H組の教室は三階の端だ。廊下を歩きながら、叶はさりげなく深呼吸をした。


 朝の学校は好きだ。誰もいない廊下に自分の足音だけが響いて、黒板の前に差し込む朝の光が黄色くて、掃除したての床がきれいに光っている。この時間帯の教室には、昼間とはまるで違う静謐さがある。


 引き戸に手をかけて、ゆっくりと開けた。


 そして──。


「……やっぱり」


 叶は思わずつぶやいた。


 窓際の一番前から二番目の席。そこに、高橋陽大はいた。


 ブレザーの上着を椅子の背もたれに引っかけて、シャツの袖をゆるく折り返して、机の上に分厚い参考書を広げて、シャープペンシルを走らせている。朝の光が窓から斜めに差し込んで、彼の横顔を照らしていた。


 叶は教室の入り口で、三秒ほど固まった。


 三秒後、「なんでも平常心、なんでも平常心」と心の中で唱えながら、自分の席──陽大の隣の席に向かって歩き出した。



第二章 青キートと睡眠不足の横顔


 叶の席は陽大の右隣だ。


 カバンを机の横にかけながら、視線が勝手に陽大の机の上に引き寄せられる。


 青い表紙の、分厚い参考書。


 『青キート 数学III・C 完全網羅版』


 叶はその背表紙を見た瞬間、思わず眉をひそめた。


 青キートといえば、数学の網羅系参考書の代名詞だ。例題から類題、応用問題まで体系的にカバーされていて、難関大を目指す受験生のほぼ全員が一冊は持っている。ただ、問題数が膨大な分、「全部やろうとしたら一年かかる」と言われるくらい重厚な参考書でもある。


 そのIII・C巻、という部分が問題だった。


 数学IIIは、高校の数学の中でも最難関と言われる単元だ。極限・微分・積分を中心に、複素数平面や曲線の面積・体積まで含んでいて、理系大学を目指す受験生が最後まで苦しめられるのがこの範囲だ。それを、まだ高校一年生の五月に開いている。


 陽大は、中三の段階で数学II・B・Cまでを銅黄会の授業で終わらせている。叶も同様だ。だから、高一の今、先取りでIIIに入っているのは不思議ではない。不思議ではないけれど。


(こんな朝早くから……)


 叶が思わずじっと陽大の横顔を見てしまったのは、その顔に疲れが滲んでいたからだ。


 目の下に、うっすらとくまがある。


 まつげが長いのが相変わらずずるいと思いながら、叶はそのくまに気づいてしまった。肌の色が少し白っちゃけていて、いつもより口元が引き締まっている。シャープペンシルを持つ右手だけが、淀みなく動いている。


(銅黄会の宿題か……今週、なにか課題でもあったっけ)


 銅黄会は、週に火曜と土曜の二回授業がある。そして、授業よりも宿題の量で有名な塾だ。「銅壁」と呼ばれる英単語の課題は、週に百単語を確認テスト形式でこなさなければならないし、数学の宿題はA4で五〜六枚が当たり前だ。おまけに授業の進度が恐ろしく早い。叶のクラスメイトの何人かも銅黄会に通っているが、「あそこに入ってから睡眠時間が二時間削れた」という証言が複数ある。


 陽大も、そのしわ寄せが顔に出ているのかもしれなかった。


(心配、じゃないけど──)


 叶は鞄からペンケースを取り出しながら、また余計なことを考えた。


 別に心配してるわけじゃない。ただ、あの顔色は昨日より悪い。昨日のすれ違いのときよりも、目が少し充血している気がする。いくら東大を目指してるからって、体を壊したら元も子もないのに。


(……自分の勉強しよ)


 叶は気持ちを切り替えるように、カバンからヒスタンを取り出した。英単語帳を開いて、赤シートを乗せる。今週の範囲は第三章、1001語〜1200語のあたり。


 でも、ページが頭に入ってこなかった。


 なぜなら、左隣から聞こえる、ごく小さな唸り声のせいだ。


「…………ん」


 陽大が、低く呻くように息をついた。シャープペンシルの動きが止まって、消しゴムでごしごしと何かを消す音がする。また書いて、また止まる。


 叶は視線をヒスタンに落としたまま、横目で陽大の手元をちらりと見た。


 ノートに、極限の計算式が並んでいる。分数の形になった式に、様々なアプローチを試した跡が残っていて、そのほとんどが消された後だった。


(あ、あれ……)


 叶は、式を見た瞬間にぴんと来た。


 lim (x→0) (sin(3x) - 3x) / x^3


 まだ消えていない数式が、そう書いてあった。



第三章 「ガリ勉」と言いたかったわけじゃない


「…………」


 叶は五秒、自分の中で葛藤した。


 声をかけるべきか、かけないべきか。


 教えてあげたい、というのは本心だ。この問題なら、叶にはすぐにわかる。$\frac{\sin x}{x} \to 1$という有名な極限の応用なのだが、そのまま代入すると$\frac{0}{0}$の不定形になるので、式の変形の仕方にコツがいる。分子を工夫して因数分解的に捉えると見通しが良くなる、という話を叶は以前、銅黄会の参考書で読んだことがあった。


 でも、素直に「わかった、教えてあげる」と言えないのが叶の欠点だ。


(なんで私が教えてあげなきゃいけないの。自分で考えなさいよ)


 心の中でそう言いながら、体は既に陽大の方を向いていた。


「……こんな朝早くからやってるなんて、相変わらずガリ勉ね」


 口から出てきたのはそれだった。


 我ながら最悪の言い方だと思いながら、叶は内心でがっくりしていた。


 陽大が顔を上げた。少し眠そうな目で叶を見て、それからわずかに口の端を持ち上げた。


「おはよう、鈴木。今日珍しく早いじゃん」


「……べ、別に。たまたまバスが早く来ただけ」


 嘘だ。わざと早いバスに乗った。でも、それを言えるわけがない。


「そっか」


 陽大は特に深く追及することなく、ペンを置いて伸びをした。背筋を伸ばして、首をゆっくり回す。骨の鳴る音がした。


「昨日、遅くまでやってたの?」叶はヒスタンを閉じながら、なるべくさりげなく聞いた。


「うん。銅壁の追い課題が出て」


「追い課題?」


「先週の確認テスト、八十六点だったから。九十点未満は追い課題が出る」


 叶はわずかに眉を上げた。


「……十四点分も間違えたの?」


「俺の弱点、不規則変化動詞の過去分詞なんだよな。わかってるのに何故か本番で抜ける」


 陽大はあっさりと言って、後頭部を掻いた。叶には、その姿が少しだけまぶしく見えた。自分の弱点を恥ずかしがらずに言えるのは、それだけ自分の現状を客観的に把握している証拠だ。


(で、そのまま今朝は数学、か……)


 叶はそっと陽大のノートを盗み見た。さっきの極限の問題が、まだ解決されていないまま放置されている。


 悔しいけど、言おう。


「……ねえ」


「ん?」


「その問題、見ていい?」


 陽大は一瞬キョトンとした顔をしてから、ノートを叶の方に少し傾けた。



第四章 極限の話と、ちょっとしたコツ


 叶は陽大のノートを覗き込んだ。


lim (x→0) { (sin(3x) - 3x) / x^3 }



「これ、どこで詰まってる?」


「分子をどう処理すればいいかわからなくて。sin 3xはテイラー展開で開けるのはわかるんだけど、III・Cの範囲でそれを使っていいのかどうか迷ってる」


 叶は少し考えてから、首を振った。


「テイラー展開は使わなくていい。というか、青キートのIII・Cの段階じゃまだそこまで要求してないはずだよ。もっとシンプルな処理で解ける」


「シンプルな処理?」


 叶はシャープペンシルを出して、陽大のノートの余白をちょいちょいと指さした。


「書いていい?」


「どうぞ」


 叶はペンを走らせながら、説明を始めた。


「まず、sin 3x をそのまま扱おうとするから詰まるの。t = 3xって置換してみて」


 叶は書いた。


x→0 のとき t→0, x= 3t



(sin 3x - 3x) / x^3 = (sin t - t) / ( (t/3)^3 ) = 27 (sin t - t) / t^3


「ここまではわかる?」


「ああ、置換ね……なるほど、分子と分母のバランスが取れるのか」


「そう。で、ここから先は(sin t - t) / t^3をどう処理するか、なんだけど」


 叶はペンを持ち替えるような仕草をしながら、少し声のトーンを変えた。講義モード、と呼んでもいいような感じだ。中学の頃から、叶は誰かに勉強を教えるときだけ、少し別人みたいになる。


「(sin x) / x → 1っていう基本極限は知ってるよね」


「知ってる、当然」


「じゃあそれを変形して(sin x - x) / x^3を考えるとき、直接x → 0を代入すると0/0の不定形でしょ。ここでロピタルの定理を使う方法もあるんだけど、青キートのIII・Cの段階ならもっと前の技を使うべきで──」


「ロピタルはまだ習ってないから使えないんだよな」と陽大が苦い顔をした。


「うん。だから、こっちの方法を覚えて」


 叶は書いた。


sin t = t - t^3/6 + t^5/120 - ...


「え、これテイラー展開じゃ」


「厳密にはそうなんだけど、sinの近似公式としてに近いときx が 0 に近いとき、sin x は x - x^3/6 に近い。

って使うのは、高校数学でも認められてることが多い。参考書によっては『はさみうちの原理を使って厳密に証明できる』って書いてある方法と同値なの」


 叶は声を続けた。


「これを使うと、sin t - t ≈ - t^3/6になるから──」


(sin t - t) / t^3 ≈ ( - t^3/6 ) / t^3 = -1/6


∴ lim (x→0) (sin 3x - 3x) / x^3 = 27 × (-1/6) = -9/2


「……あー」


 陽大がノートを見て、低く言った。


「そういうことか。分子にx^3の項が残るから、分母と消えて有限な値が出るんだ」


「そう。よく0/0型の極限で詰まる人は、分子か分母のどっちかにしか注目してないから。分子が$0$に収束するスピードと、分母が0に収束するスピードの比較なんだよ、極限って」


「……鈴木、やっぱり教え方うまいな」


 不意打ちだった。


 叶はペンを持ったまま、一瞬止まった。


「……な、なに急に」


「いや、普通に思ったから」


 陽大は真顔で言った。叶の心臓が、ドンと鳴った。


(褒めてきた。こいつ、今褒めてきた)


 顔が熱くなるのを感じながら、叶はペンケースにシャープペンシルを押し込んだ。


「……ただ解法を説明しただけ。こんなの標準問題よ。あなたが、寝不足で頭が回ってないだけ」


「そうかもな」


 陽大がくすりと笑った。その笑顔がまた、ずるかった。



第五章 朝の教室で起きた事故


 それから少しの間、二人は並んで自分の勉強をしていた。


 叶がヒスタンの単語を頭に叩き込みながら、心の中では全然別のことを考えていた。


(「教え方うまいな」って言った。あいつ、ちゃんとそう言った)


 リフレインが止まらない。


 陽大は今、また青キートの問題に向かっている。叶の説明が効いたのか、今度はペンの動きが止まらない。コツを掴んだら一気に解き進める、というのが陽大のやり方だ。叶はそれを知っていた。中学の頃から見てきたから。


(ずっと見てたから、知ってる。知りたくなくても、知ってしまう)


 叶はヒスタンのページをめくった。


 consider──熟考する。candidate──候補者。contribute──貢献する。


 単語と日本語訳を頭の中で繰り返しながら、叶は視界の隅で陽大の手元を追っていた。問題を解くとき、陽大は左手でノートの端を軽く押さえる癖がある。利き手じゃない方の手が、紙を固定するためだけに存在している。その何気ない仕草が、なんとなく好きだった。


(……なんとなく、じゃないか)


 叶はヒスタンを閉じた。


 考えたら単語が入らない。今日は諦めて、数学でもやろう。


 叶は鞄の底から自分の青キートを引っ張り出した。III・Cのやつ。陽大と同じ参考書の、同じ巻。叶は付箋を貼った問題から再開しようとして、ペンケースを取り出そうとして、鞄の中を漁った。


 シャープペンシルが、いない。


(さっき陽大のノートに書くときに、どこに置いた……?)


 叶は自分の机の上を見た。ない。鞄の中を確認した。ない。座ったまま床に視線を落とした。


 シャープペンシルが、陽大と叶の机の間の床に落ちていた。


(あ、机の間に落ちた……)


 叶は立ち上がって、二つの机の間にしゃがもうとした。狭い。机と机の間隔が思ったよりも狭くて、身を縮めようとして、足元が少し滑った。


 朝掃除したての廊下から続く床は、若干滑りやすかった。


 足が滑った、と気づいた次の瞬間に、叶の体はバランスを崩して右側に傾いた。


「っ──!」


 とっさに手を伸ばしたが、机の角が届かなかった。


 そのまま、叶は陽大の方に倒れ込んだ。



第六章 シャンプーの香りと、十五センチの距離


 衝撃はなかった。


 叶が覚悟した転倒は、柔らかいものに受け止められた。


 陽大の肩だった。


「──っ、鈴木?」


 驚いた陽大の声が、すぐ近くで聞こえた。


 叶は反射的に顔を上げようとして、気づいた。


 顔が、近い。


 陽大の顔が、十五センチくらいの距離にある。


 叶の体は陽大の肩口に半分もたれかかる形になっていて、立て直そうとした手が陽大の机の端をつかんでいる。陽大は叶の転倒に気づいて椅子ごと少し叶の方を向いているから、二人の顔が正面から向き合う形になっていた。


 叶の視界に、陽大の目が映った。


 薄い茶色の虹彩。まつげが長い。睫毛の先が少し上に向かって伸びている。くまがある目の下のうっすらとした影でさえ、間近で見ると整った顔のパーツのひとつみたいに見えた。


 鼻腔に、なにかの香りが届いた。


 シャープな、でも甘みのある香り。男の子のシャンプーの匂い、だと思った。石鹸っぽいベースに、少しだけハーバルな後味がある。叶はその香りを嗅いだことがなかったはずなのに、なぜかそれが陽大の匂いだということを瞬時に理解した。


(ちか……っ)


 心臓が止まる、と思った。


 止まりはしなかったけれど、ものすごい速度で打ち始めた。鼓動の音が耳に聞こえる気がして、叶は咄嗟に視線を外そうとした。でも体が固まっていて動けない。


 二秒か、三秒か。


 おそらくほんの一瞬だったはずの時間が、ひどく長く感じられた。


 陽大が、静かに言った。


「……大丈夫か?」


 低くて、落ち着いた声。


 その声が耳に届いた瞬間に、叶の意識が一気に戻ってきた。


「っ──!」


 叶は机をつかんでいた手を離して、勢いよく身を引いた。


 自分の席に戻って、椅子を引いて座って、ヒスタンを机の上に叩きつけた。全部が機械的な動作で、頭は完全に真っ白だった。


「ゆ、床が滑った」


「そか。怪我ない?」


「ない! 全然ない! なに普通に聞いてるの!」


 叶の声が一オクターブ上がった。


 陽大はわずかに目を細めて、叶を見た。


「……顔、赤いぞ」


「冷房が寒すぎるから! 体温調節がうまくいってないだけ! 全然赤くない!」


「今日まだ冷房入ってないけど」


「うるさい!」


 叶はヒスタンを開いて、単語帳で顔を隠した。


 (考えるな、考えるな、考えるな)


 シャンプーの匂いを、まだ覚えている。あの距離で見た陽大の目を、まだ覚えている。柔らかかった肩の感触を──。


(考えるなって言ってるでしょ!)


 叶は心の中で自分に怒鳴りつけた。


 単語帳のページを猛スピードでめくる。単語は一ミリも頭に入らなかった。


 陽大は特に何も言わず、また青キートの続きに戻っていた。その「元通りの平静さ」が、叶にとっては逆に落ち着かなかった。


(あいつ、なんであんなに普通なの。私が普通じゃないだけ?)


 そうだ。きっとそうだ。陽大にとってはただの「同じクラスの女子がちょっとよろめいただけ」のことであって、特別な意味なんて何もない。ドキドキしているのは叶だけだ。いつだってそうだ。


(……馬鹿みたい)


 叶は単語帳の後ろで、こっそりため息をついた。



第七章 いい雰囲気の余韻と、崩れた朝


 それから十分ほど、教室はふたたび静かになった。


 他のクラスメイトが登校してくるには、まだ少し早い時間だ。叶と陽大以外に教室に来ているのは、隅の席でイヤホンをしながら英文を読んでいる松岡くんと、黒板の前でノートを広げている三田さんの二人だけだった。


 叶はいつの間にか、顔の赤さが引いていることに気づいた。


 心臓の動悸もだいぶ落ち着いた。ヒスタンのページを正面に持って、今度こそ単語を頭に入れようとする。


appropriate──適切な。appropriate……適切な。appropr──。


「なあ、鈴木」


 また声をかけられた。


「……なに」


「さっき教えてもらった極限の解法さ、マンツーマン演習にも似たやつが載ってたんだけど、解法が少し違うんだよな。どっちで覚えた方がいいと思う?」


 マンツーマン演習という名前を聞いた瞬間に、叶の「勉強モード」のスイッチが入った。


 青キートが網羅系の参考書なら、マンツーマン演習は実戦的な問題集だ。青キートで概念と解法パターンを身につけて、マンツーマン演習で応用力を鍛える、というのが難関大を目指す受験生の一般的なルートとされている。


「どういう解法だったの、マンツーマンの方は」


「はさみうちの原理を使って、不等式で両側から挟んで証明する方法で、計算の流れが青キートより丁寧なんだけど、本番で使うには字数が多くなりそうで」


「それはマンツーマン演習の方法の方がいい」と叶は即答した。「特に入試で記述式が求められる場合、極限の証明は途中過程を省くと減点されることがある。本番で時間が惜しくてもはさみうちを書いた方が確実に点が取れる。青キートの解法は概念理解のためのショートカットで、答案として使うものじゃないから」


「なるほど……」


 陽大が頷きながら、マンツーマン演習の該当ページを開いた。


「あと」と叶は続けた。「マンツーマン演習は青キートより一段階難しい問題が多いから、青キートを七割以上仕上げてから移った方がいい。今、IIIのどのあたりやってる?」


「……第一章の数列と関数の極限。あと第二章の微分に少し入ったくらい」


「じゃあ今はまだ青キート中心でいいと思う。IIIの微分が終わったあたりから、並行してマンツーマン演習の微分の章をやり始めるといいよ」


 陽大がノートにメモを取っている。叶はそれを横目で見ながら、なんとなく満足した気持ちになっていた。


(喋りすぎた)


 でも、嫌じゃなかった。陽大に勉強のことを話すとき、叶はいつも少しだけ自分の鎧が軽くなる気がした。


「ありがとな、鈴木。助かった」


 陽大が顔を上げて、真っ直ぐ叶を見た。


 叶はまた、一瞬止まりそうになった。


 陽大が叶をまっすぐ見るとき、その目にはいつも変な含みがない。駆け引きもない。ただ純粋に、「ありがとう」という気持ちが目に出ているだけだ。それが叶にとっては、どんな言葉よりも刺さった。


「……べ、別に。あなたが詰まってたから、たまたま説明してあげただけ。あなたの成績が上がっても私の点数が下がるわけじゃないし、むしろ首位のレベルが高い方が二位の私もモチベーションが保てるから」


「俺が首位なのを気にしてるんだ」


「気にしてない!」


「そっか、気にしてるんだ」


「してないって言ってる!」


 陽大がまた笑った。


 叶は「うるさい」と言いながら単語帳に顔を向けたが、口の端が少し上がっているのを止められなかった。


(……なんなんだよ、本当に)


 嬉しい。嬉しいのに、素直になれない。素直になれないのに、嬉しい。このループが、中三からずっと続いている。


 窓の外では、朝の光がだいぶ強くなっていた。他のクラスメイトたちが登校し始める時間が、もう少しで来る。


 もう少し、この時間が続いてほしい。


 叶がそう思いかけたとき──。


第八章 ゆずきからのメッセージ


 陽大の机の上で、スマホが震えた。


 叶は条件反射のように視線を向けた。


 陽大のスマホの画面が、通知で光っている。陽大は青キートを読んでいたので、最初は気づかなかった。叶は気づいた。


 気づいてしまった。


 スマホの画面のロック前の通知表示に、こう書いてあったのを。


「ゆずき:今日の銅黄会、一緒に行こ!☆」


 一瞬、教室の空気が変わった気がした。叶だけが感じる、内側からの温度変化だ。


 陽大が通知に気づいて、スマホを手に取った。画面を見て、小さく「ああ」と言った。特別嬉しそうでも、迷惑そうでもない。ただ「ああ、ゆずきからだ」という声色だった。それが余計に、叶の胸にひっかかった。


 ゆずき。


 名前は知っている。陽大の幼馴染の女の子。銅黄会に陽大と同じタイミングで入って、同じ曜日の同じ授業を受けている。寛太も一緒だから、彼らは週二回、塾の行き帰りをほぼいつも一緒にしている。


 叶は、ゆずきに会ったことがない。


 ない、はずなのに、この名前だけで心がざわつく。


 陽大がスマホをしまいながら、何気なく言った。


「ゆずきが銅黄会一緒に行こって。火曜だしな、今日」


「……そ」


 叶の声が、少しだけ低くなった。


(気づかれてないよな)


 陽大は特に叶の変化を気にする様子もなく、「今日土曜と間違えるとこだった」とつぶやきながら青キートに戻った。


 叶はヒスタンのページを、もう一度めくった。


jealous──嫉妬した。jealous──嫉妬した。


(あ、今日の範囲にちゃんとあった、この単語)


 自分でも笑えないジョークが頭をよぎって、叶はこっそり口を引き結んだ。


(別に嫉妬してるわけじゃない。してない。してないから)


 ゆずきが陽大の幼馴染なのは昔からだ。一緒に塾に通っているのも、陽大と親しいのも、何も今日始まったことじゃない。叶が知っているずっと前から、その関係はある。


 わかってる。わかってるのに。


(「一緒に行こ」って、なんでその末尾に「☆」をつけるのよ)


 そんな細かいところまで覚えてしまっていることが、自分でも嫌だった。


 一瞬だけ見えたスマホの通知が、脳裏に焼き付いている。送信者の名前と、文面と、文末の星マーク一個が、じっとりと頭の中に残っていた。


(あいつ、今日の放課後また四々木に行くんだ)


 四々木駅は、銅黄会の最寄り駅だ。叶の自宅からは、少し遠回りになる。でも、火曜日と土曜日は叶はわざとそのルートのバスを選ぶことがある。銅黄会の終わる時間帯にうまくバスが来れば、四々木駅のあたりで陽大に「ばったり会う」ことができるから。


 今日は──どうしようか。


 叶は考えた。


 行ったとして、ゆずきも一緒にいるんだとしたら。ゆずきっていう女の子が陽大の隣に立っているのを見たら。


(……やめとこ)


 叶は静かにそう決めた。


 でも決めた直後から、もう迷いが生まれていた。



第九章 嫉妬の正体


 時間は七時二十分を回っていた。


 教室に他のクラスメイトが増えてきて、朝の静寂はほぼ消えた。叶と陽大だけの空間だったものが、三十人以上の日常に塗り潰されていく。


 それが少しだけ寂しかった。


 叶はヒスタンを鞄にしまいながら、隣の陽大をそっと横目で見た。


 陽大はもう青キートを閉じていた。朝のホームルームまでまだ余裕はあるが、スマホを触っている。ゆずきへの返信をしているのかもしれない。叶には確認する方法もないし、確認すべきでもない。


(「今日の銅黄会、一緒に行こ!☆」)


 また浮かんできた。最悪だ。


 叶はペンケースを机の端に押しやって、頬杖をついた。


 嫉妬、というのは厄介な感情だと思う。相手が悪いわけじゃない。ゆずきが何か叶に対してひどいことをしたわけじゃない。ただ、陽大と仲がいいというだけで、叶の中でゆずきという存在は「特別に気になる人」になっていた。


 陽大と仲がいい女の子、というカテゴリに入る人間は、叶の中では無条件で警戒対象になる。


(そんなことを考えてるから、素直になれないんだよ、私は)


 わかっている。わかっているのに、どうにもならない。


 中三のC組から同じクラスになって、もうすぐ二年になる。叶は陽大が好きだ。「好き」という言葉の意味が明確に自分の中で固まったのは中三の秋くらいだったが、振り返れば最初から「この人が気になる」という気持ちはあった。


 でも、告白はしていない。


 する気も、今のところない。


 なぜかというと、陽大が叶のことをどう思っているかが、全くわからないからだ。


 陽大は誰にでも優しい。クラスの誰が困っていても助ける。誰が話しかけても笑って返す。誰かが落ち込んでいれば声をかけに行く。それが陽大という人間のデフォルトの仕様であって、叶が多少特別扱いされていると感じる瞬間があったとしても、それが「特別な好意」なのか「いつも通りの親切心」なのかの区別がつかない。


 陽大に関しては、叶はいつも判断力がゼロになる。


(さっきの、あの距離……)


 また思い出しかけて、叶は慌てて思考を遮断した。


 ダメだ。考えるな。授業が始まる前に考えるな。


 叶は教科書を机に出しながら、深呼吸をした。


 今日一日を乗り切ろう。


 それだけでいい。今は、それだけ考えよう。



第十章 ホームルームの陽大と、叶の密かな決心


 八時ちょうどにホームルームが始まった。


 担任の藤本先生──通称フジモン先生、三十代後半の数学の先生──が教室に入ってきて、出席を取り始める。H組は四十人いるから、出席確認だけで五分かかる。


 叶は先生の声を聞きながら、半分上の空で陽大を見ていた。


 陽大は前を向いて、きちんと出席確認に返事をしている。今日は火曜だから、六時間授業のあとに、銅黄会がある。銅黄会の授業は夜の七時からで、四々木駅から電車で一駅か二駅のところにある塾の建物で行われる。


 そこへ、ゆずきと一緒に行く。


(別に構わない)


 叶は心の中で言った。


(別に構わないけど、私はちゃんと今日中に数学IIIの第一章の残りを終わらせる。帰ったらマンツーマン演習の対応する問題も確認する。週末の模擬テストまでに、陽大の一個上の点を取る。それだけ考えよう)


 ライバルとして、叶と陽大の間には明確な「学力の競い合い」がある。叶が学年二位で、陽大が一位というのは今の事実だが、その差は毎回の試験で入れ替わりかねない。叶は陽大に勝つことを諦めていないし、陽大もおそらく叶を「追いかけてくる存在」として認識している。


 その競い合いが、叶にとっては陽大と自分をつなぐ最も確かな紐帯だった。


 恋愛感情を持て余しても、勉強の話は素直にできる。教え合いができる。点数で競える。それが叶にとって、陽大との関係における唯一の「対等な場所」だった。


(だから私は、勉強で負けるわけにはいかない)


 フジモン先生がホームルームの連絡事項を読み上げている。来週の中間テストの日程、クラス委員の仕事の確認、体育祭のスローガン案の募集。叶はそれを聞き流しながら、ノートの端に小さく書いた。


 数学III第一章 本日中に完了。


 ヒスタン 第三章完全習得。


 模擬テスト:陽大に勝つ。


 三行書いて、線を引いた。


 目標を書くと、少し気持ちが落ち着く。泳ぐ方向さえ決まれば、どんな流れの中でも進める気がする。


 ちょうどそのとき、陽大がふと後ろを向いた。


 叶のノートに視線を落として、一瞬止まった。


「……模擬テストで俺に勝とうとしてる?」


 叶は反射的にノートで手元を隠した。


「見てたの!?」


「普通に視界に入っただけ。そんなに必死に隠さなくてもいいじゃん」


「必死じゃない! 個人のメモを勝手に見ないでよ!」


「見ようとして見たわけじゃないけど」


 陽大が笑いながら前を向いた。


 叶は顔が赤くなるのを感じながら、ノートをカバンに押し込んだ。


(恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい)


 でも、その恥ずかしさの奥に、もう一つの感情があった。


 「俺に勝とうとしてる?」と聞いたときの陽大の顔。驚いていて、でもどこか嬉しそうで、少しだけ口の端が上がっていた。


 叶はその顔を、ゆっくりと頭の中にしまった。


 勝負は来週の模擬テストだ。それまでに準備する。陽大が銅黄会の宿題をこなしている間に、叶には叶の戦い方がある。


 そして──もし模擬テストで一位を取れたら。


 叶はそこまで考えて、少し笑いかけた自分を止めた。


(先走りすぎ。まず今日の授業を乗り切ることを考えろ)



第十一章 昼休み、そして四々木の選択


 五時間目と六時間目の間の昼休み、叶は図書室で一人でおにぎりを食べた。


 H組の中で仲がいい女子グループはいくつかあるが、叶はどこかのグループに強く所属しているわけではない。一人でいることが苦にならないし、むしろ昼休みに一人で勉強できる時間を確保しておく方が自分には合っていると思っていた。


 おにぎりを食べながら、青キートのIII・Cを開く。今日の目標に書いた「第一章完了」に向けて、昼休みでいくつか片付けておきたかった。


 極限の問題は、午前の陽大への説明でだいぶ頭の整理がついた。関数の極限と数列の極限の違い、はさみうちの原理の使い方、$\frac{\sin x}{x} \to 1$の応用パターン。それらを頭の中で整理しながら、青キートの例題を順番に追う。


 数学は「わかった」と「できる」の間に大きな溝がある、と叶は思っている。


 例題の解説を読んでわかった気になっても、解答を閉じて自力でもう一度解き直すと手が止まることがある。その「手が止まる経験」の回数を積み上げることが、本当の意味での理解に繋がる。陽大に説明しながら、叶は改めてそのことを感じていた。


 誰かに教えることは、自分の理解の穴を発見する最良の方法だ。


(陽大に説明しながら、私も整理できてたな)


 叶はシャープペンシルを走らせながら、午前の会話を少し思い返した。


 あの距離は思い出すな。シャンプーの匂いも思い出すな。そこは余計な部分だ。


 でも、問題の解説をしているときの陽大の顔は思い出してもいい。真剣に叶の説明を聞いていて、理解した瞬間に「なるほど」と言う顔。それは叶が好きな陽大の顔のひとつだ。


(好きな顔のひとつって、もう複数あるのか私)


 自分でそのことに気づいて、少し遠い目になった。


 授業中の集中した横顔。問題を解いているときに眉が少し寄る癖。笑うと少しだけ左の口角の方が上がる非対称さ。廊下で誰かに話しかけられるときの、少し腰を落として目線を合わせるような癖。


 全部、知っている。


 全部、覚えてしまっている。


(重症どころか末期だ、これ)


 叶はおにぎりの袋を丸めながら、自分の状況を冷静に診断した。


 末期だと認識できているうちはまだ大丈夫だ、というのが叶の基準だった。本当にどうにもならなくなったら、たぶん客観視できなくなる。


 そう思うことにした。


---


 放課後。


 六時間目の現代文が終わって、教室がざわめき始めた頃、叶は鞄に荷物を詰めながらさりげなく陽大の方を見た。


 陽大は寛太と話していた。寛太は銅黄会に通っている陽大の親友で、がっちりした体格をしている男子だ。今日が銅黄会の曜日だから、放課後に一緒に出るのだろう。ゆずきのことを考えると、今日は四々木行きのバスに陽大たちと乗り合わせることはないかもしれない。ゆずきは電車組なのか、バス組なのか、叶には知るすべがなかった。


(行くのか、行かないのか)


 叶は心の中で今日何度目かの自問をした。


 四々木駅のルートを通れば、陽大と「ばったり会う」チャンスはある。でも今日はゆずきも一緒だ。三人になる。


(……いや、寛太もいるんだから四人か)


 四人のうちの一人として、叶が混ざるのはどうなんだろう。


 答えが出ないまま、叶は立ち上がった。


 鞄を肩にかけて、教室を出る。廊下に出たところで、少しだけ立ち止まった。


 四々木方面のバスの時刻を、スマホで確認した。


 十七時二十二分発。今の時刻は十六時五十分。


 乗れなくはない時刻だ。少し急げば間に合う。


(どうする、鈴木叶)


 叶は廊下の端で、誰にも見えないように小さく深呼吸をした。


 考えた。五秒ほど考えた。


 今日は行かない。


 今日は、素直に帰ろう。帰って、部屋で青キートの続きをやる。ヒスタンを完璧に仕上げる。模擬テストの対策をする。ゆずきのことは、今日は考えない。陽大のシャンプーの匂いも、あの距離も、全部忘れる。


 でも──忘れられないことはわかっていた。


 叶はため息をついて、帰りのバス停に向かって歩き出した。



第十二章 バスの中の、叶だけの恋愛論


 帰りのバスは混んでいた。


 座れなかった叶は、窓際につかまりながら揺られていた。


 隣には中年の男性と、高校生くらいの女の子がいる。二人とも叶の知らない人で、それぞれスマホを見ていた。


 叶はカバンを抱えたまま、窓の外を眺めた。


 五月の夕方の住宅街。帰宅ラッシュ前の微妙な時間帯で、バスの中には疲れた大人と、下校途中の学生が混在している。


(今頃、四々木の方に向かってるのかな)


 考えないと決めたのに、すぐ陽大のことを考えてしまう。


 銅黄会の授業は夜七時から。それまでの一時間半ほど、陽大と寛太とゆずきは何をしているんだろう。駅前のどこかで時間を潰すのか、それとも塾の自習室を使うのか。陽大はきっと自習室だ。寝不足でも勉強する人間が、塾に行く前に遊んでいるとは思えない。


(ゆずきはどうするんだろう)


 ゆずきという人について、叶は何も知らない。名前と、陽大の幼馴染であることと、銅黄会に通っていることだけ。


 それだけで十分すぎるほど気になる存在になってしまっているのが、叶の今の状態だ。


 バスが揺れた。


 叶はつり革を握り直して、もう一度窓の外に視線を向けた。


(好きって、こんなに面倒なんだな)


 そう思う。


 好きだから、遠回りしてバスで四々木に行くことを考える。好きだから、ゆずきのことが気になる。好きだから、「教え方うまいな」の一言で夜まで眠れなくなる。好きだから、シャンプーの匂いを覚えている。


 全部、好きという感情が引き起こしていることで、叶は特別何かをしたわけじゃない。


 ただ、高橋陽大という人間が好きなだけだ。


 それだけのことが、これほど大変なんだと思う。


 バスが停留所に停まった。ドアが開いて、外の空気が少し流れ込んでくる。五月の風は、まだ少し肌寒い夕方の温度だった。


(来週の模擬テスト、絶対一位取る)


 叶は心の中で改めて決めた。


 それが今の叶にできる、陽大への最大の「主張」だった。点数で、ライバルとして、隣に並び続けること。それ以上のことは、まだ怖くてできない。


 でも、並んでいる間に──何か変わるかもしれない。


 少し、そう思っていた。



第十三章 今夜の勉強と、明日への誓い


 自宅に帰ってきたのは、夕方の五時半頃だった。


 ランドセルではなく通学カバンを玄関に置いて、叶は二階の自分の部屋に上がった。制服のまま机の前に座って、カバンから青キートとマンツーマン演習を取り出す。


 窓を少し開けると、夕方の風が入ってきた。


 どこかの家で夕飯の準備をしているのか、醤油の焦げる匂いがかすかに漂ってくる。遠くで子供の声がする。普通の夕方だ。


 叶は机の前で背筋を伸ばして、今日の目標リストを脳内で確認した。


 数学III第一章 本日中に完了。


 ヒスタン 第三章完全習得。


 模擬テスト:陽大に勝つ。


 一つ目から始めよう。


 青キートを開いて、付箋を貼っていたページへ。数列の極限の続きだ。先ほど昼休みにある程度終わらせておいたから、残りは十問前後のはずだ。


 叶はシャープペンシルを手に取りながら、今日の朝の陽大への説明を頭の中でもう一度おさらいした。


 sinの近似公式と、分子・分母の収束スピードの比較。極限の問題を解くときの視点として、これは応用が利く。類似の問題がマンツーマン演習にもいくつかあるはずだから、今日中に確認しておこう。


 青キートの例題を解いて、答えを確認する。正解。次の問題。


 やり直し問題のマークをつけていく。「わかった気になっていたけど手が止まる」問題と、「スラスラ解ける」問題を分類する作業は、地味だが重要だ。この「分類」の精度が、限られた勉強時間の効率に直結する。


 叶は集中していた。


 今日の朝の記憶──シャンプーの匂い、「教え方うまいな」、ゆずきからのメッセージ──は全部、今は頭の端に追いやっていた。机の前では、勉強する自分でいられた。


 一時間後。


 青キートの第一章は、完了した。


 叶は参考書を閉じて、少しだけ椅子に背を預けた。


(よし)


 小さな達成感。それだけで、今日の胸の重さが少し軽くなる気がした。


 ヒスタンを開く。第三章の単語を赤シートで確認する。朝にあれだけ眺めていたのに、頭に入っていない単語がまだいくつかある。appropriateはいける。contributeもいける。でもambiguousとelaborateで一瞬詰まった。


 スペルから意味を推測する練習と、例文ごと覚える練習を組み合わせるのが、叶のヒスタンの使い方だ。英単語帳は「意味の暗記」に使うだけでは勿体なくて、その単語がどんな文脈で使われるかまで頭に入れておくと、長文読解でも英作文でも対応力が全然違う。


(銅壁も、そういう使い方してるのかな)


 陽大が追い課題を食らっているという銅黄会の英単語課題のことを思い出した。叶はそちらには通っていないが、銅黄会の教材の評判は耳に入ってくる。銅壁は体系的な単語配置が特徴で、語源による分類や派生語のまとめ方が優れているらしい。


 ヒスタンとは方向性が違う教材だが、どちらも使い込んだ分だけ力になる。


 問題は「量をこなすこと」ではなく「頭に入れること」だ。それを叶は信じている。


 夜の九時を過ぎた頃、叶はヒスタンを閉じた。


 今日の目標の二つ目も、おそらく完了だ。確実に言うには来週の確認テストを受けてみないとわからないが、手応えはある。


 残るは三つ目──模擬テストで陽大に勝つ──は、今日明日でどうなるものじゃない。来週に向けて積み上げていくしかない。


 叶はスマホを手に取った。時刻は九時十五分。


 銅黄会の授業は夜七時から九時か九時半頃まで、という話を聞いたことがあった。つまり今頃、陽大は塾の帰り道にいるかもしれない。


(四々木駅の改札を出て、ゆずきと並んで帰ってるのかな)


 また考えてしまった。


 叶はスマホを伏せた。


 考えることも勉強のうちじゃない。思考のリソースをそこに割くのは効率が悪い。わかっている。わかっているのに、止まらないのが「好き」という感情の悪いところだ。


 叶は布団に横になった。


 天井の染みを見上げる。昨夜と同じ体勢、同じ場所で、昨夜と同じことを考えている。


(来週の模擬テスト、本当に一位取ろう)


 それだけを考えよう。


 でも叶の頭の中には、一位を取ったときのことよりも、朝の教室で陽大が「教え方うまいな」と言ったときの横顔の方が、ずっとくっきりと残っていた。



エピローグ 青キートと幼馴染の影の向こう側


 翌朝。


 叶はまた、早いバスに乗った。


 昨日と同じ六時台のバスで、昨日と同じルートを通って、昨日と同じ時刻に校門をくぐる。


 昨日との違いは──今日は守衛のおじさんへの挨拶がだいぶ堂々としていたことと、コンビニのカフェオレをやめてお茶にしたことだけだ。


 三階の廊下を歩く。H組の引き戸に手をかける。


 また、固まった。


 陽大がいた。


 昨日と同じ席で、昨日と同じ姿勢で、今日は青キートではなくマンツーマン演習を広げていた。昨日の叶の説明を受けて、もう移ったのか。その吸収の早さに、叶はわずかに口の端を動かした。


 そして今日の陽大の目の下のくまは、昨日よりも少し薄かった。


(昨日は早く寝たんだ)


 叶はそう思いながら、自分の席に向かった。


「おはよう」


 今日は先に声をかけた。


 陽大が顔を上げて、少し目を細めた。


「おはよう。また早いじゃん」


「……今日からしばらくこの時間にする予定」


「そっか」


 陽大は短く答えて、マンツーマン演習に視線を戻した。


 叶は鞄からヒスタンを取り出しながら、心の中でこっそりと言った。


(ゆずきのことは、まだしばらく考えちゃうと思う。でも、負けない。あなたの隣で、ちゃんと二位で──いや、一位でいられるように、私はここにいるから)


 素直になれるのが、いつのことになるかはわからない。


 でも、この席が自分の場所だということは、知っている。


 朝の光が、斜めに差し込んでくる。陽大のシャープペンシルの音と、叶の単語帳を束ねる赤シートの音だけが、静かな教室に重なっている。


 五月の朝は、今日もまだ続いていた。

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