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黒紗の目隠し~異世界冒険譚~  作者: CLASSIC.com


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第009話「名前を、預ける」


◆ ◆ ◆


朝の光が、ルーチェの冒険者ギルドの喧騒を照らし出していた。いつもならば活気に満ちた一日の始まりであるはずの場所だが、今日の空気はどこか重く、澱んでいた。冒険者たちの会話も少なく、ひそひそと囁き合う声だけが耳につく。


私は受付カウンターの前に立ち、マリアに一枚の書類を提出していた。昨日遭遇した、不可解な転移事件についての詳細な報告書だ。発生した場所、時間、予兆としての光の現象、そして転移先の座標——正確には「不明」としか記せなかったが——について、記憶にある限り正確に記述した。


マリアは書類を受け取ると、いつもの柔和な微笑みではなく、深刻な面持ちでそれに目を通した。彼女の細い指が紙面を滑るたびに、眉間の皺が深くなっていく。


「……やはり、報告通りでございますね」


マリアが顔を上げ、声を潜めて言った。


「裁定様。実は、同様の転移事件に関する報告が、昨日だけで他に四件も寄せられております」


「四件」


私は短く反復した。多い。偶発的な事故や、迷宮の暴走によるものではない。これだけの頻度で、しかも特定の日に集中して発生しているということは、何らかの意図、あるいは大規模なシステム的な異常が起きていることを示唆している。


「はい。ギルド長も事態を重く見ておりまして、早急に調査チームを編成する方針を決定いたしました」


マリアは地図を取り出し、カウンターの上に広げた。ルーチェを中心とした周辺地域の地図だ。そこには赤いインクで数箇所の印が付けられている。


「調査の結果、ルーチェ周辺の森林や廃墟に点在する『古代魔法陣』が、一連の転移の起点になっている可能性が高いことが判明しました。これらは長い間、魔力を失ってただの遺跡と化していたものですが……」


「再起動している、ということか」


「その可能性が高いと見られています。ただ、なぜ急に動き出したのか、誰が動かしているのかは、全くの不明でございます」


私は地図上の赤い印を見つめた。その配置には、まだ規則性を見出すことはできない。だが、何かが胸の奥でざわつく感覚があった。昨日の転移先で見た、あの奇妙な石板の文字。「禁」「異」という、見覚えのないはずの文字。それが、私を呼んでいるような気がした。


「……調査には、誰が向かう」


「現在はシルバーランク以上の冒険者を中心に、数チームを編成中です。ただ、未知の魔法現象が絡むため、慎重な人選が進められておりますが……」


「私も行く」


私の言葉に、マリアは驚いたように目を見開いた。


「裁定様……? しかし、昨日の今日でございます。お体の方は……」


「是非お願いしたいところですが……ご危険では」


「……一度経験した。問題ない」


私は端的に答えた。危険なのは百も承知だ。だが、昨日の転移先で感じた「何か」を確かめなければならない。私のステータスプレートに現れた「Code」という文字と、あの石板の関連性。それを知るためには、再びあの現象に触れる必要がある。


「俺も行くぞ!」


背後から豪快な声が響いた。振り返ると、ガロンが腕を組んで立っていた。赤髪の大男は、いつものように不敵な笑みを浮かべているが、その目は真剣そのものだった。


「ガロンさん……」


「昨日の今日で放っておけるかよ。それに、古代魔法陣なんざ、俺みたいなベテランの出番だろうが」


ガロンは私の肩をバンと叩いた。


「安心しろ、裁定。俺がついてりゃ、変な場所には飛ばさせねぇよ」


「……頼もしい限りだ」


私が小さく頷くと、マリアも安堵したように表情を緩めた。「ガロン様がいらっしゃるなら心強いです。では、第五調査班として登録させていただきます」


手続きが進む中、私はふと視線を感じて顔を上げた。ギルドホールの喧騒から少し離れた柱の陰に、一人の人物が立っていた。


金髪のショートヘアに、白銀の軽鎧。腰には細身の剣と小さな盾。


ジャスタだ。彼女は静かにこちらを見ていた。その青い瞳が、薄暗いホールの中で鋭く光っているように見えた。彼女は私と目が合うと、かすかに頷いたようだったが、すぐに視線を逸らしてギルドの外へと歩き出した。


あの目は、何かを知っている目だ。昨日の転移事件のこと、あるいはもっと深い何かを。

◆ ◆ ◆


ルーチェの北西に位置する「古の森」。そこにある廃墟群が、今回の調査対象の一つだった。かつては何らかの施設だったと思われる石造りの建造物が、いまや苔と蔦に覆われて森に沈んでいる。


私とガロン、そしてダリルを含む数名の冒険者からなる調査チームは、慎重に森を進んでいた。木々の間から差し込む光は弱く、湿った土の匂いが立ち込めている。


「うへぇ、なんか気味が悪い場所だなあ」


ダリルが身を震わせながら言った。彼は軽口を叩きながらも、絶えず周囲を警戒している。


「泣き言を言うな、ダリル。ここには魔物の反応もある。気を抜くと死ぬぞ」


ガロンが低く警告する。その時だった。


「……少し、いいか」


凛とした声が、私の隣から聞こえた。いつの間にか、ジャスタが私のすぐ側に並んで歩いていた。


「ジャスタ……いつの間に」


「ギルドを出た時からだ。気配を消していたわけではないが」


彼女は淡々と言った。確かに、彼女の足取りは音もなく、森の風景に溶け込むような自然さがあった。


「私も同行していいか。転移の痕跡には……心当たりがある」


彼女の言葉に、私は足を止めた。ガロンたちも振り返る。


「……根拠は?」


私は問い返した。彼女がただの冒険者ではないことは、これまでの立ち居振る舞いから察していた。だが、この異常事態に対して「心当たりがある」というのは聞き捨てならない。


ジャスタは真っ直ぐに私を見つめ返した。その青い瞳には、揺るぎない意志が宿っていた。


「過去に似た事例を見たことがある。詳しくは言えないが、お前の力と無関係ではないかもしれない」


「私の力……?」


「ああ。お前が昨日経験したこと、そしてお前自身が抱えているもの。それらが繋がっている可能性がある」


彼女は多くを語らなかった。だが、その言葉には確かな重みがあった。嘘やハッタリではない。彼女は何かを知っている。そしてそれは、私が求めている答えに近いものかもしれない。


「……同行を許可する」


私は短く答えた。ガロンが「おいおい、いいのかよ」と口を挟もうとしたが、私は手で制した。「彼女の知識が必要になるかもしれない」


「ふん、まあ裁定が言うなら従うがな。嬢ちゃん、足手まといにはなるなよ」


「心配には及ばない。自分の身は自分で守る」


ジャスタは涼しい顔で答えた。


調査を再開して間もなく、私たちは最初の痕跡を発見した。崩れかけた石壁の近くの地面に、微かに光を放つ魔法陣が刻まれていたのだ。苔の下に隠されていたそれを、ジャスタがいち早く見つけ出した。


「これだ」


彼女は魔法陣の前にしゃがみ込み、手袋を外した指先でその文様をなぞった。複雑な幾何学模様と、古代文字らしき記号が並んでいる。


「これは古代の座標系だ。誰かが意図的に配置している」


ジャスタがつぶやいた。その横顔は、冒険者というよりは、学者のように知的で冷静だった。


「意図的に……? つまり、誰かが転移を起こそうとしてるってことか?」


ダリルが恐る恐る尋ねる。


「あるいは、何かを呼び込もうとしているか。……この術式は不完全だ。だから暴走し、無作為な転移を引き起こしている」


彼女は立ち上がり、周囲を見渡した。


「ここだけではない。この森全体に、同様の結節点が作られているはずだ」


ジャスタは何者だ。ただの冒険者が知るはずのない知識を持っている。古代魔法陣の構造、座標系の理論。そして、彼女の瞳は何かを知っている。もっと深い、この世界の理に関わる何かを。

◆ ◆ ◆


昼過ぎ、私たちは廃墟群の中央にある広場で小休止を取ることになった。崩れた石柱が散乱する中、それぞれが水を飲んだり、武器の手入れをしたりしている。


私は皆から少し離れた場所にある、倒れた石柱に腰を下ろしていた。仮面の奥で目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませる。森のざわめきの中に、微かな魔力の流れを感じ取る。


「……隣、いいか」


ジャスタの声がした。目を開けると、彼女が水筒を持って立っていた。


「……構わない」


彼女は私の隣に腰を下ろした。適度な距離を保ちつつも、拒絶ではない空気感。彼女は一口水を飲むと、遠くの空を見上げた。


「……お前のステータスプレート。普通じゃないだろう」


唐突な問いかけだった。私は反射的に身を硬くしたが、彼女は私の顔を見ようとはしなかった。ただ淡々と、事実を確認するように言葉を続けた。


「……見たのか」


「転移の際に少し見えた。お前が光に包まれたあの一瞬だ。文字化けだらけだったが……一か所だけ、はっきり読めた文字があった」


彼女はそこで初めて、私の方を向いた。その青い瞳が、私の仮面の奥にある目を射抜く。


「『レス』。それがお前の名前か?」


風が吹き抜け、森の木々をざわめかせた。沈黙が落ちる。私は彼女の視線を受け止めながら、答えを探した。否定することはできる。見間違いだと言うこともできる。だが、彼女の瞳には、嘘を見透かすような清廉さがあった。


ジャスタは私の沈黙を急かすことはしなかった。ただ静かに待っている。あるいは、答えを期待していないのかもしれない。


「……答えなくていい。ただ、覚えておく」


彼女はそう言って、視線を外そうとした。女性らしい落ち着きと、相手の領域を侵さない配慮。それが、私の心の鍵を少しだけ緩めた。


「……そうだ。レスが私の名前だ」


私の口から、その言葉が自然とこぼれ落ちた。自分でも驚くほど、静かな声だった。


ジャスタの動きが止まった。彼女は驚いたように目を見開き、再び私を見た。


「裁定は仮の名だ。ルーチェで名乗っただけの名前。レスが……本当の名前だ」


一度口にすると、言葉は堰を切ったように溢れ出した。誰にも言えなかったこと。自分自身ですら確信を持てなかったこと。


「まだ自分でもよくわかっていない。記憶も断片的だ。だが……お前には、言っておく必要があると思った」


なぜそう思ったのかはわからない。ただ、彼女なら受け止めてくれる気がした。この不可解な状況の中で、唯一「理」を知る彼女なら。


ジャスタは静かに頷いた。その青い瞳が、かすかに揺れているように見えた。それは同情でも憐れみでもなく、共感に近い光だった。


「……レス。わかった。私だけが知っている。他には言わない」


彼女の声は優しかった。断定的な口調の中に、温かな響きが含まれていた。


「それと、私のことも——いつか、ちゃんと話す。今は言えないが、私も背負っているものがある」


「……背負っているもの」


「ああ。お前とは違う形かもしれないがな。……だから、お前の孤独が少しだけわかる気がする」


彼女は小さく微笑んだ。それは、初めて見せる柔らかい表情だった。


「……待ってる」


私が答えると、彼女は満足そうに頷き、再び前を向いた。


二人の間に、言葉にならない信頼の糸が張られるのを感じた。それはまだ細く、脆いものかもしれない。だが、確かに繋がった。


初めて、誰かに自分の名前を渡した。怖くはなかった。それが不思議だった。名前を呼んでもらえること、知ってもらえることが、これほど心を軽くするとは。

◆ ◆ ◆


休憩を終え、さらに奥へと進んだ私たちは、森の最深部にある広大な広場に出た。そこには、これまでに見たどの魔法陣よりも巨大で、複雑な文様が描かれた祭壇があった。


「こいつは……でかいな」


ガロンが呻くように言った。祭壇の中央には黒い石柱が立っており、そこから不気味な魔力が波紋のように広がっている。


「これが中心か」


ジャスタが剣の柄に手をかけながら呟く。「警戒しろ。空気が違う」


その時だった。ガロンが一歩近づき、「これが転移の根源か?」と石柱に手を伸ばそうとした瞬間、魔法陣が激しく反応し始めた。


ブゥンッ!


重低音と共に、地面からどす黒い光が噴き出した。祭壇全体が脈打つように明滅し、周囲の空間が歪み始める。


「やばい、また飛ばされる!」


ダリルが叫び、頭を抱えてしゃがみ込んだ。あの時の感覚だ。身体が浮遊し、意識が遠のくような、強制転移の前兆。


「させない!」


私は叫びと共に地面を蹴った。瞬時に裁定之紋章を展開する。左手の甲が熱く輝き、光の粒子が収束して剣の形を成す。


狙うは魔法陣の核心、魔力の供給点だ。


「はあっ!」


私は光の剣を祭壇の基部に突き立てた。物理的な衝撃ではなく、魔力を断つ一撃。紋章の力が魔法陣の術式に干渉し、その構成を強制的に書き換えていく。


バチバチバチッ!


激しい火花が散り、光が霧散した。空間の歪みが収まり、重苦しい空気がふっと軽くなる。


「……抑えた。……しかし、一時的だ」


私は剣を消し、荒い息を吐いた。完全な破壊ではない。あくまで回路を遮断しただけだ。


「今の……どうやった」


ガロンが目を丸くして私を見ていた。ダリルも腰を抜かしたままポカンとしている。私の力——紋章による術式干渉は、通常の魔法や剣技とは一線を画するものだ。


だが、ジャスタだけは違った。彼女は冷静に祭壇に近づき、私が斬りつけた石柱の残骸を調べていた。


「中心石を見ろ。文字が刻まれている」


彼女の声に促され、私も覗き込む。黒い石の表面に、赤く光る文字が浮かび上がっていた。


「禁」「境」「転」


三つの文字。それを見た瞬間、私の内側で何かが反応した。背筋に電流が走るような、強烈な既視感。


「……ッ」


私は無意識に胸を押さえた。「禁」の文字。それは昨日の石板にもあった。そして私のステータスプレートにある「Code」の中にも。


「……この文字は、知っている気がする」


呟きは、誰に向けたものでもなかった。だが、ジャスタはそれを聞き逃さなかった。


「……そうか。なら、その感覚を大切にしろ」


彼女は静かに、落ち着いた女性の声で言った。その響きには、導く者としての威厳が含まれていた。


「それはお前の記憶の鍵であり、この世界の理に触れるための手がかりだ。恐れるな、レス」


彼女が私の本当の名前を呼んだ瞬間、恐怖は消え去った。代わりに残ったのは、確かな決意だった。


この文字が何を意味するのかはまだわからない。だが、私はここから逃げてはいけない。これは私の物語の一部なのだから。

◆ ◆ ◆


調査を終え、ルーチェに戻る頃には、空は茜色に染まっていた。祭壇の封印により、当面の転移の危険は去った。ギルドへの報告を済ませた後、私はガロンと二人で並んで歩いていた。


街の通りは夕食の準備をする人々の活気で溢れているが、私たちの周りだけは静かな空気が流れていた。


「……お前、今日の魔法陣の奴。怖くなかったのか」


ガロンがふいに口を開いた。彼にしては珍しく、探るような慎重な口調だった。


「……怖い、という感覚がよくわからない。でも……止めなければと思った」


私は正直に答えた。恐怖を感じるよりも先に、体が動いていた。それは使命感なのか、あるいは本能なのか。


「そうか」


ガロンは短く、深く頷いた。それ以上は追求せず、ただ私の隣を歩き続ける。その大きな背中が、妙に頼もしく見えた。


私は立ち止まった。彼にも、伝えなければならない。


「……ガロン」


「あ?」


彼が振り返る。夕日が彼の赤い髪を燃えるように照らしていた。


「……私の名前は、レスだ」


「……裁定じゃなくて?」


「裁定は仮の名だ。レスが……本当の名前だ。まだ数人しか知らない」


ガロンは目を瞬かせ、しばらく黙り込んだ。彼の中で私の言葉を反芻しているようだった。やがて、彼はニッと口角を上げた。


「……レスか。なんで俺に言った?」


「……ずっと見ていてくれたから」


珍しく素直な言葉が出た。私が何もわからずこの街に来た時から、彼はことあるごとに気にかけ、助けてくれた。その恩義と信頼に応えたかった。


ガロンは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに破顔した。


「……そうか! ガハハ、よし、わかった。俺だけの話だな!」


彼は豪快に笑い、私の背中をバンと叩いた。痛かったが、不思議と嫌ではなかった。


「でも、まあ……お前が言いたいと思ったときに言えばいい。急がなくていいぞ。名前がどうあれ、お前はお前だ」


「……ありがとう」


二度目の「ありがとう」。今度は、少し違う重みを持って響いた。


今日、二人の人間に名前を渡した。怖くはなかった。それどころか……少し、軽くなった気がした。自分という存在の輪郭が、他者の中に刻まれることで、よりはっきりとしたような。

夜、三日月亭の自室に戻った私は、窓から夜空を見上げていた。星々が瞬く静寂の中で、私はそっとステータスプレートを開いた。


Name

レス

Level

■■■

Code

神■X%(未来干渉・終焉干渉・禁■干渉)

神■Y%(過去干渉・創世干渉・禁■干渉)

神■Z%(現在干渉・摂理干渉・禁■干渉)

「禁■干渉」の文字が、今日見た石碑の残像と重なり、昨日よりも少し明るく輝いているように見えた。謎はまだ多い。だが、一人ではない。


レスは仮面の奥で、静かに目を閉じた。——今日、自分の名前を二人に預けた。それが何を意味するのか、まだわからない。だが、確かにそれは、正しい選択だったと思った。

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