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黒紗の目隠し~異世界冒険譚~  作者: CLASSIC.com


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第006話「剣と剣の間で」

裁定は仮面の奥で、そっと目を細めた。


一回戦の勝利から間もないルーチェ中央広場は、熱狂の余韻を孕んだまま、次なる戦いへの期待にざわめいている。石畳の上に張られた簡易結界のリング。その四方を囲む観客たちの視線は、先ほど鮮烈な勝利を収めた「仮面の女」である裁定に注がれていた。


だが、裁定の意識は周囲の喧騒にはない。彼女の視線は、リングの反対側に佇む一人の男に向けられていた。


「ありゃあ……厄介な相手だぞ、裁定」


観客席の最前列に戻った裁定に、ガロンが低い声で告げた。その表情には、いつもの豪快な笑みはなく、真剣な戦士の眼差しがある。


「シド。三十代、大剣使い。元シルバーランクの冒険者だ」


「……元?」


裁定が短く問うと、ガロンは腕を組み、顎をしゃくった。


「ああ。かつては前線で名を馳せた男だがな。ある依頼でパーティーを全滅させちまって、一人だけ生き残った。それ以来、何かを背負い込むようにふさぎ込んじまって、ランクもブロンズまで落ちた。だが、腕は錆びちゃいねえ。実力だけなら間違いなくこのトーナメントで一番だ」


隣で聞いていたダリルが、青ざめた顔で裁定を見た。


「お、おい、本当に大丈夫かよ……? 元シルバーってことは、俺たちとは格が違うってことだろ? しかもあんなでかい剣、一発でも食らったらおしまいじゃないか」


ダリルの視線の先、シドと呼ばれた男は、身の丈ほどもある無骨な大剣を背負い、石像のように動かずに立っている。短い黒髪に、無精髭。その瞳は深く沈殿した沼のように暗く、しかし鋭い光を宿していた。


「……問題ない」


裁定は淡々と答え、再びシドを見据えた。その観察眼は、冷徹に相手の情報を解体していく。


重心が低い。立ち姿に隙がない。あの大剣の重量を、身体の一部のように扱っている証拠だ。背負った剣の柄に置かれた手には、無数のタコがある。単純な力押しではない。技術スキルに裏打ちされた膂力。


その時、シドがふと顔を上げた。 暗い瞳が、まっすぐに裁定を射抜く。 言葉はない。挑発もない。ただ、剣の柄に手をやっただけだ。


しかし、その動作だけで十分だった。 彼もまた、裁定を「敵」として認識し、品定めを終えたのだ。


無駄な殺気がない。静かだ。……深淵の魔物たちとは違う、理知ある獣の気配。


「行くぞ、第二試合だ!」


審判の声が響く。 裁定は黒マントを翻し、再びリングへと足を踏み入れた。


 ◆ ◆ ◆ 


試合開始の合図が鳴り響いても、二人は動かなかった。


広場を包む歓声が、ふと遠のいたように感じる。 対峙するシドは、背の大剣を抜き放ち、下段に構えたまま微動だにしない。切っ先が石畳に触れそうなほど低く、しかし全身のバネは極限まで圧縮されている。


「待つ」タイプだ。 相手の動きを見て、後の先を取る。重量武器の隙を消すための、熟練の構え。


裁定もまた、自然体で立ち尽くす。 黒紗の仮面の奥、橙金色の瞳がシドの呼吸、筋肉の微細な収縮、視線の動きをスキャンし続ける。


一秒、二秒、三秒。 張り詰めた糸が切れるような緊張感に、観客たちが息を飲む。


先に動いたのは、裁定だった。


「……ッ」


音もなく踏み込む。 直線的な突進と見せかけ、直前で軌道を変えるフェイント。残像を残すほどの速さでシドの左側面へと回り込む。


だが、シドの反応は速かった。


「ふんッ!」


短く吐き出された呼気と共に、轟音が響く。 下段にあった大剣が、常識外の速度で跳ね上げられたのだ。斬撃というよりは、爆発に近い。


ごうッ!


地を削りながら振るわれた剛剣が、裁定の身体を両断せんと迫る。 速さと重さが両立した、必殺の一撃。


裁定は即座に反応し、バックステップで回避する。 しかし、剣圧だけで生じた風が、彼女の黒マントを激しく煽り、頬の横の髪を数本切り飛ばした。


「……っ」


着地した裁定の足元が、わずかに揺れる。 直撃していれば、防御の上からでも骨を砕かれていただろう。


「……シドの本気だ」


観客席で、ガロンが呻くように呟いた。「あの重さを、あの速さで振り回す。あれが『鉄塊』シドの剣技だ」


シドは追撃を急がない。 再び静かに構え直し、じり、と間合いを詰めてくる。その姿は、徐々に獲物を追い詰める巨岩のようだ。


激しい攻防が続く。 裁定が仕掛け、シドが剛剣で迎撃する。 大剣のリーチと破壊力を前に、裁定は決定的な一打を打ち込めずにいた。アヴァロンで培った体術も、この物理的な質量差の前では分が悪い。


シドは無口だ。剣だけで語る。 『軽いな』『届かぬぞ』『次は砕く』 その一撃一撃が、言葉よりも雄弁に裁定へ圧力をかけてくる。


だが。


この男、強い。だが……読める。


裁定の思考は冷徹に澄み渡っていく。 シドの剣には「型」がある。洗練されているがゆえに、次の動作への予備動作が、極めて微細ながら存在する。


呼吸の溜め。 足首の角度。 肩の筋肉の収縮。


裁定之紋章が、手の甲で熱く脈動し始めた。 それは一回戦の時よりも強く、深く、彼女の意思に応えるように。


ドクン。


心臓の鼓動とリンクする。


シドが踏み込んだ。 これまでで最も深く、最も重い一撃。 横薙ぎのフルスイング。回避場所を潰す広範囲攻撃。


逃げ場はない。 ならば。


裁定は一歩、前へ出た。


「なッ!?」


ガロンが叫ぶ。自殺行為だ。あの質量に生身で突っ込めば、肉塊になる。


大剣が迫る。 その瞬間、裁定は右腕を掲げた。


カッ、と閃光が走る。


手の甲の紋章から溢れ出した黄金の光が、瞬時に展開され、裁定の右腕全体を包み込む。 それは剣でも盾でもない。極薄の光の膜。


ガギィィィンッ!!


金属音とは異なる、高周波の衝撃音が響き渡る。 シドの大剣が、裁定の右腕――その表面を覆う光の膜によって、完全に受け止められていた。


「……!」


シドの目が驚愕に見開かれる。 ありえない硬度。鋼鉄の大剣が、細い腕一本に止められた事実。


その硬直を見逃す裁定ではない。


「……終わりだ」


光の膜を盾にしたまま、裁定は体ごとシドの懐へと飛び込んだ。 超至近距離からの体当たり。 だがそれはただの体当たりではない。紋章から溢れるエネルギーを、衝撃波として解放する。


ドンッ!!


「ぐはッ……!」


巨漢のシドが、枯れ葉のように吹き飛んだ。 リングの石畳を転がり、結界の端まで叩きつけられる。 大剣が手から離れ、虚しく音を立てて落ちた。


静寂。


裁定は右腕を下ろす。 そこには、黄金の残光が陽炎のように揺らめき、数秒の後、ふっと空気に溶けて消えた。


「しょ、勝者、裁定選手ーッ!!」


審判の声が裏返る。 一拍置いて、広場が爆発した。


「おい見たか!? 今の!」 「大剣を腕で受け止めたぞ!?」 「紋章が光った! 腕を覆ったんだ!」 「ありえねえ……魔法か? ギフトか?」


どよめきの中、遠くの観客席で一人、立ち上がっている人物がいた。 金髪のショートヘアに、白銀の軽鎧。 正義ジャスタ。


彼女は真剣な眼差しで、リング上の裁定を凝視している。その青い瞳は、ただの勝利への称賛ではなく、もっと深い「何か」を見極めようとする色を帯びていた。


「…………」


リングの端で、シドがゆっくりと上半身を起こした。 ダメージは深いが、意識はあるようだ。 彼は自分の手から離れた大剣を見つめ、それから視線を裁定へと戻した。


無言。 しかし、その目から険しさは消えていた。 彼は短く、一度だけ頷いた。 戦士が、己を打ち負かした強者へ送る、無言の敬意。


裁定もまた、無言で小さく頷き返す。 そして黒マントを翻し、静かにリングを降りていった。


 ◆ ◆ ◆ 


リングを降り、選手用の待機エリアに戻った裁定を、ガロンとダリルが待ち構えていた。


「おい、お前……」


ガロンが珍しく言葉に詰まっている。豪快な赤髪の男が、困惑と驚愕の入り混じった顔で裁定の右腕を凝視していた。


「今の何だ。見間違いじゃねえぞ。紋章が、腕を覆った。まるで光の甲冑みたいに……あんな芸当、ただの身体強化バフ魔法じゃねえ。一体どうなってる?」


ガロンの問いは、周囲の冒険者たちの疑問を代弁するものだった。 近くにいた他の参加者たちも、聞き耳を立てている気配がある。


裁定は、自分の右手の甲に視線を落とした。 紋章は今は静まり返り、ただの黒い印に戻っている。


「……わからない」


裁定は短く答えた。嘘ではない。 アヴァロンで手に入れたこの力は、彼女自身にとっても未知の領域だ。


「ただ、動いた。防ぐ必要があると判断した時、勝手に」


「勝手に、だあ?」


ガロンは呆れたように天を仰ぎ、太い息を吐いた。 そして、乱暴に頭を掻く。


「……そうかよ。まあ、お前が『わからない』って言うなら、そうなんだろうな。嘘をつくような奴じゃねえし」


彼は不思議と納得したようにニヤリと笑い、裁定の背中をバンと叩いた。


「まあ、それでいい! 勝ったもん勝ちだ。次もその調子で勝て!」


「すごいすごい! もうブロンズ最強じゃないか!」


ダリルが興奮して飛び跳ねる。「あんなの初めて見たよ! シドの大剣を弾き返すなんて、ゴールドランクだって出来るか怪しいぜ! 裁定さん、やっぱり英雄なんじゃないの!?」


「……騒がしい」


裁定はダリルを一瞥し、渡された水筒の水を一口飲んだ。 冷たい水が喉を通る感覚を確かめながら、視線を広場の向こうへと向ける。


そこでは、別の準決勝が行われている。


その観客席の端。 人混みから少し離れた場所に、ジャスタの姿があった。 彼女はこちらを見ていない。腕を組み、試合を観戦している。だが、その佇まいには周囲を寄せ付けない凛とした空気が漂っていた。


……見られていた。 戦いの最中、あの女の視線を感じた。


裁定は再び自分の手を見る。


紋章が変化した。今日、これで三度目だ。 ケルト戦での手甲。シド戦での防御膜。 昨日よりも確実に反応が増している。私の意思に、より鋭敏に、より強力に応え始めている。


「次は準決勝だぞ、裁定!」


ガロンの声に、裁定は意識を引き戻した。 黒い手袋を締め直す。


「……ああ。わかっている」


 ◆ ◆ ◆ 


準決勝の相手がリングに上がると、会場の空気が一変した。 黄色い歓声と、親しげな声援が飛び交う。


「いっけー! ヴェルンちゃーん!」 「見せてやれ、天才魔術師!」


対戦相手の名はヴェルン。 二十代後半、ブロンズ上位の魔術使い。 細身で、少し癖のある茶髪。育ちの良さそうな整った顔立ちには、人懐っこい笑顔が浮かんでいる。


「やあやあ、よろしくね! 仮面のお嬢さん!」


ヴェルンは軽やかに観客席へ手を振り、裁定に向かってウインクをして見せた。


「君の試合、見てたよ。すごいフィジカルだね。でも、僕には届かないと思うなー。だって僕は、君の苦手なタイプでしょ?」


陽気な口調とは裏腹に、彼が構えた杖の先端には、すでに赤と青の魔力が不穏に渦巻いていた。


「……開始!」


審判の声と同時だった。


「はい、ドーン!」


ヴェルンが杖を振るう。 詠唱破棄。 放たれたのは、炎の矢と氷の礫。 複合属性の魔術が、散弾のように裁定へと殺到する。


「……ッ」


裁定は即座に反応し、地面を蹴る。 だが、ヴェルンの魔術は速い。そして、数が多い。 近接戦闘を主体としてきた裁定にとって、これほど高密度な遠距離攻撃の連射を受けるのは初めてだった。


逃げ場を塞ぐように展開される爆炎。足元を凍らせようとする冷気。 近づこうとすれば、迎撃の風が吹き荒れる。


「……ヴェルンの魔術は速い。しかも正確だ」


ガロンが険しい顔で呟く。「あいつは才能の塊だ。ブロンズにいるのが不思議なくらいのな。あれが当たれば、ただじゃ済まねえぞ」


その言葉通りだった。 回避しきれなかった炎の矢が、裁定の左肩を掠めた。


ジュッ!


肉が焼ける音と匂い。 ミリタリーコートの生地が焦げ、白い肌が赤く爛れる。


「あっ!」ダリルが悲鳴を上げる。


だが。


裁定は表情一つ変えなかった。 そして次の瞬間、信じられない現象が起きる。


焼け焦げた肩の傷が、蒸気のようなものを上げて、見る見るうちに塞がっていったのだ。 火傷の痕すら残さず、再生する。


不老不死の片鱗。


「え……?」 近くにいたダリルが目を見張る。「い、今、傷が……消えた?」


痛い。熱い。 だが、止まらない。傷は消える。肉体は損なわれない。 だから、動ける。


裁定は痛みを情報としてのみ処理し、思考を加速させる。


魔術の発動には予兆がある。 視線。杖の角度。魔力の集束点。 すべて見える。すべて読める。


裁定の動きが変わった。 回避行動から、前進への切り替え。 炎の矢を、首を数センチ傾けるだけで避ける。 氷の礫を、最小限のステップで躱す。 まるで、雨の中を濡れずに歩くかのように。


「えっ、ちょ、嘘でしょ!?」


ヴェルンの笑顔が引きつる。 「全部避けてる!? 気持ち悪いくらい見えてるじゃん!」


アヴァロンの深淵で、死と隣り合わせで磨かれた動体視力。 今の裁定には、魔術の軌道が光の線として視えていた。


「……終わりだ」


ヴェルンが焦って大技の詠唱に入ろうとした、その一瞬の隙。 魔力切れの予兆。


裁定は地を蹴った。 爆発的な加速。


「させないよ! 『炎壁ファイア・ウォール』!」


ヴェルンの前に炎の壁が出現する。 だが、裁定は止まらない。 右手を前へと突き出す。


ドクンッ!!


裁定之紋章が、今日最大級の脈動を上げた。 熱い。焼けるようだ。 何かが、形になろうとしている。 守るための膜ではない。敵を討つための、牙。


何かが来る。 まだ完全な形にはなっていない。 だが確かに、目覚めようとしている。


シュンッ。


裁定の手の甲から、鋭利な光の刃が伸びた。 長さはわずか十センチほど。 短剣ですらない、爪のような刃。


だが、その輝きは絶対的だった。


裁定はその光の刃で、眼前の炎の壁を「切り裂いた」。


「なっ――」


物理的な炎が、まるで布のように左右へ断ち切られ、道が開く。 その向こうにいたヴェルンが、信じられないものを見る目で硬直する。


次の瞬間、裁定はヴェルンの懐に飛び込んでいた。 光の刃はすでに消えている。 裁定はヴェルンの襟首を掴み、足を払って地面に叩きつけた。


ドスッ。


「ぐっ……降参! 降参だあ!」


ヴェルンが情けなく叫び、両手を上げた。


「勝者、裁定選手!!」


わあああああっ!! 会場が揺れるほどの大歓声。


「おい見たか!? 炎を斬ったぞ!」 「仮面の女が準決勝も勝った!」 「決勝だ! ブロンズの頂点だぞ!」


その熱狂の渦の中で。 少し離れた場所で見ていたジャスタが、静かに腕を組んだ。


「……なるほど」


彼女は独り言のように呟き、青い瞳を細めた。


 ◆ ◆ ◆ 


試合が終わり、次の決勝戦は明日に持ち越されることがアナウンスされた。 夕暮れが近づく広場の喧騒から少し離れ、裁定は一人、給水所で息を整えていた。


そこへ、一人の人影が近づいてきた。


金髪のショートヘア。白銀の軽鎧。 正義ジャスタ。


今度は、偶然ではない。明確な意思を持って、裁定の前に立った。


「お前の紋章、今日三度変化した。気づいているか?」


挨拶もなしに、単刀直入な問い。 その声は凛としていて、真っ直ぐだ。


裁定は仮面越しに彼女を見返した。


「……気づいている」


「それは良かった。自分の力を知ることが、最初の一歩だ。無自覚な力は、時に持ち主を滅ぼす」


ジャスタは腕を組み、裁定の手の甲――今は沈黙している紋章へと視線を落とした。


「その光……どこか懐かしく、しかし異質な輝きだ。お前の戦い方には迷いがない。まるで、戦うために造られた刃のように」


「……お前は何者だ」


裁定が問うと、ジャスタはふっと口元を緩めた。 それは初めて見せる、年相応の少女のような微かな笑みだった。


「ただの冒険者だ。今は、な」


それだけ言い残し、ジャスタは踵を返した。 夕日の中に去っていく白銀の背中。


裁定はそれを無言で見送った。


ただの冒険者ではない。 あの女が何を知っているかは不明だ。 だが……敵ではない。


直感がそう告げていた。


日が傾き、広場が茜色に染まっていく。 ガロンとダリルが迎えに来た。


「おう、裁定! お疲れさん! 明日はいよいよ決勝だぞ!」 「勝てるよ、絶対勝てる! 今日のお祝いに美味いもん食おうぜ!」


二人の明るい声が、心地よく響く。


「明日、決勝だ。今夜はゆっくり休め」


ガロンの言葉に、裁定は頷いた。


「……そうする」


歩き出しながら、裁定はもう一度、自分の手の甲を見つめた。 黒い印章。 だがその奥底には、確かな熱が眠っている。


剣となり、盾となり、あるいはもっと別の何かに。


――明日、また舞台に立つ。 それだけで、今は十分だった。

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