第004話 目覚める証
翌朝の光が、三日月亭の古びた木窓から差し込んでいた。埃を含んだ光の筋が、静かに部屋の空気を照らし出している。
裁定は、粗末な木製のベッドから身を起こした。簡素な寝具の感触を確かめるように、黒いグローブを嵌めた指先でシーツをなぞる。昨晩の記憶――手の甲に刻まれた裁定之紋章が、自らの意志に呼応するかのように仄かに脈動した感覚は、一夜明けても鮮明に残っていた。
「……まだ、わからない」
呟きは、誰に聞かせるものでもなく、空気の中に溶けていった。彼女は黒と金を基調としたミリタリーコートを身に纏い、腰のベルトを締める。最後に黒紗の装飾仮面を顔に装着すると、視界がわずかに遮られる感覚と共に、世界との間に薄い膜が張られたような安心感を覚えた。
一階の食堂へ降りると、すでに数組の客が席についていた。木のテーブルが並ぶ薄暗い空間には、パンの焼ける香ばしい匂いと、煮込まれたスープの温かな香りが漂っている。
「おはようございます、裁定さん。昨日はよく眠れましたか?」
宿の主人であるレオンが、湯気の立つボウルを盆に載せて近づいてきた。恰幅の良い体躯に似合わず、足取りは軽い。
「……ああ」
裁定は短く答え、指定された席に座った。レオンが置いたのは、黒パンと根菜のスープだ。湯気と共に昇る素朴な香りが、空腹を刺激する。
「今日はまた一段と賑やかでしょうね。街中が浮足立っているようだ」
レオンは布巾でテーブルを拭きながら、楽しげに言った。
「……何かあるのか」
スプーンを手に取りながら、彼女は問うた。感情の読めないその声色にも、レオンは慣れた様子で応じる。
「おや、ご存じないですか? もうすぐ『ギルド対抗戦』の時期なんですよ」
「対抗戦……」
「ええ。年に一度、この国中の冒険者たちが腕を競い合うトーナメントです。ランクごとに試合が行われて、優勝すれば特別な報酬が出るのはもちろん、ランクアップの特典もあるとか」
ランクアップ。その言葉に、裁定の手がわずかに止まった。
「特にブロンズランクの優勝者は、飛び級でシルバーへの昇格が認められることもあります。実力を示すには絶好の機会ですよ」
彼女はスープを口に運びながら、周囲の喧噪に耳を傾けた。隣のテーブルに座る旅人風の男たちも、興奮した様子で語り合っている。
「今年の優勝候補は誰だ? やっぱり紅鋼のガロンか?」
「いやいや、今年は新星が出るって噂だぜ。東の街から凄い魔術師が来てるらしい」
「ブロンズ部門も熱いぞ。なんでも、たった数日で頭角を現した新人がいるとか」
その言葉が自分を指しているのかどうか、裁定には興味がなかった。だが、ランクアップという響きには惹かれるものがある。より高位の依頼を受けることができれば、この世界の深層へ近づけるかもしれない。アヴァロンの噂――「何かが出てきた」という言葉の真意にも。
「裁定さんも、出てみたらどうです? その腕前なら、きっといいところまで行けるでしょう」
レオンの言葉に、彼女はスープを飲み干してから顔を上げた。
「……考える」
それだけ言い残し、彼女は席を立った。代金をテーブルに置き、食堂を出る。背後でレオンが「いってらっしゃい」と声を掛けるのが聞こえた。
宿を出ると、朝のルーチェの街はすでに活気に満ちていた。石畳の道を馬車が行き交い、市場からは威勢の良い売り声が響いてくる。色とりどりの果実や織物が並ぶ露店の間を縫うように歩きながら、裁定は周囲の視線を感じていた。
橙金色の長い髪。頭上の猫耳。そして顔を覆う黒い仮面。
異質な外見は、この街でも十分に目立つ。好奇と、微かな畏怖を含んだ視線。だが、彼女はそれらを意に介することなく、ただ真っ直ぐに冒険者ギルドを目指して歩を進めた。
◆ ◆ ◆
冒険者ギルドの重厚な扉を開くと、熱気が肌を打った。まだ午前の早い時間だというのに、ホール内は多くの冒険者たちで溢れかえっている。
その中心にあるのは、中央の巨大な掲示板だった。そこに貼り出された真新しい羊皮紙に、多くの視線が注がれている。
『ギルド対抗戦 開催告知』
金色の装飾文字で書かれたその告知文を、裁定は遠巻きに眺めた。参加資格、開催日程、そして報酬。レオンの話通り、ランク別のトーナメント形式であり、優勝者には名誉と実利が約束されている。
「よう、お嬢ちゃん。いや、『仮面の姐さん』って呼んだ方がいいか?」
軽い調子の声が掛かり、裁定は視線を巡らせた。そこにいたのは、茶髪の若い冒険者、ダリルだ。数日前、絡んできた彼をあしらって以来、妙に懐いてくるようになった。
「……ダリル」
「へへ、名前覚えててくれたか。光栄だね」
彼は嬉しそうに鼻の下を擦り、周囲を見渡して声を潜めた。
「知ってるか? 最近、アンタの噂で持ち切りなんだぜ。『たった一人でグラスウルフの群れを素手で壊滅させた』とか、『魔法も使わず傷ひとつ負わずに帰還した』とか」
「……事実は事実だ」
「そこを否定しないのがアンタらしいよ。まあ、おかげで『仮面の女』って二つ名は、もうこの街じゃ知らぬ者はいないレベルだ」
ダリルは肩をすくめて見せたが、その瞳には純粋な敬意が宿っていた。
その時、ホールの入り口付近が急にざわめいた。人垣が割れ、一組のパーティーが入ってくる。先頭を歩く男の存在感が、周囲の空気を圧していた。
身長は二メートル近いだろうか。燃えるような赤髪を短く刈り込み、首には真紅のスカーフを巻いている。大剣を背負ったその姿は、岩塊のような威圧感を放っていた。
「おい、あれ『紅鋼』のガロンだぞ」
「ゴールドランクのトップチームか。やっぱり対抗戦の登録に来たのか?」
冒険者たちの囁きが波紋のように広がる中、その男――ガロンは迷いなく歩を進め、裁定の目の前で足を止めた。
見下ろす視線と、見上げる視線が交錯する。
「……お前が噂の『仮面』か」
重低音の声が、腹に響くようだった。裁定は表情を変えず、ただ静かに彼を見つめ返した。
「……そうだとしたら?」
「ハッ、度胸はあるな。俺の顔を見ても眉一つ動かさねぇとは」
ガロンは口の端を吊り上げ、ニヤリと笑った。それは威圧ではなく、純粋な興味の色を帯びていた。
「俺はガロン。『紅鋼』のリーダーだ。お前の噂は聞いてる。ブロンズにしちゃあ、随分と派手な立ち回りをしてるそうじゃないか」
「……必要なことをしただけだ」
「その『必要』の基準が高ぇって話だ。単刀直入に言うぞ。俺たちの依頼に付き合わねぇか?」
周囲がどよめいた。ゴールドランクのパーティーが、ブロンズの新人を誘うなど前代未聞だ。
「……理由は」
「対抗戦の前に、ちっとばかし厄介な獲物を狩りに行こうと思ってな。だが、いつもの斥候が怪我しちまって欠員が出た。腕の立つ奴ならランクは問わねぇ。お前の実力、俺の目で見極めさせてくれ」
試されている。その意図を瞬時に理解し、裁定は短く思考を巡らせた。ゴールドランクの仕事。それは現在の自分のランクでは受けることのできない、高難易度の依頼だ。自らの力――そして未だ謎多き裁定之紋章の力を試すには、絶好の機会かもしれない。
「……対象は」
「フォレストベア。東の森の奥に巣食う、森の主だ。中型だが、力も速さも半端じゃねぇぞ」
フォレストベア。ブロンズランクでは遭遇することすら許されない、危険度Aクラスの魔物。しかし、裁定の心に恐怖は微塵も湧かなかった。
「……いいだろう」
「決まりだ! 話が早くて助かるぜ」
ガロンは豪快に笑い、裁定の背中をバシと叩いた。衝撃に身体が揺らぐこともなく、彼女はただ静かに、その申し出を受け入れた。
◆ ◆ ◆
東の森へと続く街道は、昼下がりの日差しに照らされていた。鬱蒼とした木々の影が道に落ち、冷涼な空気が肌を撫でる。
「しっかし、本当になんで仮面なんか着けてるんだ? 視界が悪くなるだけだろうに」
歩きながら、ガロンが不躾とも取れる質問を投げかけてきた。悪意はない。ただ純粋な疑問なのだろう。
「……必要だからだ」
「必要、ねぇ。顔に傷でもあるのか? それとも、素顔を見せられない訳ありってやつか?」
「……想像に任せる」
裁定の素っ気ない返答にも、ガロンは気を悪くした様子はない。「ま、腕が立てば何でもいいさ」と笑い飛ばす。
パーティーは四人編成だった。リーダーで大剣使いのガロン。神経質そうな痩せ型の魔法使い、エミル。そして穏やかな笑みを絶やさない神官の女性、リーナ。それぞれが手練れの雰囲気を漂わせている。
森の深部へと進むにつれ、鳥のさえずりが途絶え、異様な静寂が支配し始めた。木々の幹には鋭い爪痕が刻まれ、その主の巨大さを物語っている。
「……来るぞ」
裁定が短く告げたのと同時だった。前方の茂みが爆発したかのように弾け飛び、黒い巨塊が姿を現した。
フォレストベア。全長三メートルを超える巨体。鋼のように硬質な黒毛に覆われ、両腕には鎌のような爪がぎらついている。その瞳は知性を宿した狡猾な光を放っていた。
「散開! エミル、援護だ! リーナは後方待機!」
ガロンの号令と共に、戦いが始まった。
「オォォォラァァッ!!」
ガロンが大剣を振るい、正面から斬りかかる。だが、巨体に似合わぬ敏捷さでフォレストベアはそれを回避し、丸太のような腕を薙ぎ払った。風圧だけで木々がへし折れる。
「《火炎球》!」
エミルの放った魔法が着弾し、爆炎が上がる。しかし黒毛は炎を弾き、浅い焦げ跡を残すのみだ。咆哮と共に魔物が突進する。その速度は、巨体からは想像もできないほど速い。
「速いッ……!」
ガロンが防戦に回る。大剣で爪を受け止めるが、衝撃で足が地面にめり込む。そこへ追撃の爪が迫る。
その瞬間、黒い影が割り込んだ。
裁定だった。彼女は滑るように間合いを詰め、ガロンを庇う位置に入った。武器はない。黒いグローブを嵌めた拳のみ。
回避は間に合わない。彼女は判断した。避けるのではなく、受ける。
ズッ、と鈍い音が響いた。
「――ッ!?」
ガロンが目を見開く。フォレストベアの鋭利な爪が、裁定の腹部を深々と貫いていた。鮮血が飛沫を上げ、ミリタリーコートを濡らす。常人ならば即死級の致命傷だ。
「おい、嘘だろ……!」
リーナの悲鳴が上がる。
だが、裁定は倒れなかった。仮面の下の瞳は、揺らぐことなく目の前の怪物を見据えている。
「……痛覚、遮断。損傷箇所、特定。修復プロセス、開始」
体内を熱い奔流が駆け巡る。それは血液ではない。もっと根源的な、生命そのものの力。
引き抜かれた爪の跡から、金色の粒子が溢れ出した。見る者の常識を嘲笑うかのように、裂けた肉が、断たれた血管が、瞬きの間に繋がり、塞がっていく。
不老不死。アヴァロンが与えた呪いであり、祝福。
傷跡ひとつ残さず再生した腹部を、彼女は無造作に撫でた。血に濡れたコートだけが、そこにあった惨劇を証明している。
ガロンたちが、そしてフォレストベアさえもが、理解の範疇を超えた現象に動きを止めた。
その静寂の中で、裁定は右手を掲げた。
手の甲に刻まれた印章が、かつてない熱を帯びて脈動する。ドクン、ドクンと、心臓の鼓動に重なるように。
「……来い」
彼女の意思に応え、裁定之紋章が輝きを放った。
黄金の光が手の甲から溢れ出し、螺旋を描いて収束する。光は物質としての質量を帯び、確かな形を成していく。それは、彼女の手の延長にあるかのような、鋭利な刃の形状。
短剣ほどの大きさの、純粋な光の刃。
「……斬る」
呟きと共に、裁定は大地を蹴った。先ほどまでの動きとは桁が違う。認識のラグを置き去りにする神速の踏み込み。
フォレストベアが反応し、腕を振り上げる。だが遅い。
光の刃が一閃。
抵抗感は皆無だった。鋼鉄よりも硬い毛皮も、強靭な筋肉も、骨格さえも。すべてを透過するかのように、光の刃は魔物の首を両断した。
巨体がずくりと揺れ、どうと音を立てて崩れ落ちる。遅れて噴き出した血飛沫が、森の緑を赤く染めた。
残心を示すように佇む裁定の手元で、光の刃は霧散し、元の印章の形へと戻っていった。
森に、再び静寂が戻る。
「……馬鹿な」
ガロンの乾いた呟きだけが、その場に響いた。
◆ ◆ ◆
ルーチェの街に戻った一行を迎えたのは、夕暮れの茜色だった。討伐の証として切り取られたフォレストベアの巨大な耳を手に、裁定は静かにギルドへの道を歩く。
隣を歩くガロンは、森を出てからずっと黙り込んでいた。時折、探るような視線を裁定に向けてくるが、彼女はそれに気づかないふりを通した。
ギルドに入ると、喧噪が彼らを包み込んだ。いつもの光景。だが、カウンターに辿り着いた瞬間、ガロンが沈黙を破った。
「おいマリア! 手続きだ!」
大声に、周囲の視線が集まる。
「はい、お疲れ様ですガロンさん。……あ、裁定さんもご一緒だったんですね」
受付のマリアが微笑むが、ガロンはカウンターに身を乗り出して捲し立てた。
「聞いて驚け。こいつ、化け物だぞ!」
「は、はい……?」
「腹をブチ抜かれたんだ! 爪で、こう、ズボッとな! 普通なら即死だ、内臓までイッてたはずだ! なのに……塞がったんだよ! 目の前で、一瞬で!」
ホール内が水を打ったように静まり返った。
「それにあの光だ! 手から剣を出したんだ! 魔法じゃねぇ、もっと別の……とんでもねぇ何かだ!」
興奮冷めやらぬガロンの言葉に、マリアは困惑の表情を浮かべ、恐る恐る裁定を見た。彼女のコートの腹部には、確かに生々しい裂け目と大量の血痕が残っている。だが、その隙間から覗く肌は、白磁のように滑らかで傷一つない。
「さ、裁定さん……これは……」
「……討伐証明だ」
裁定は質問を無視し、無造作に魔物の耳をカウンターに置いた。マリアは一瞬息を呑んだが、すぐにプロの顔を取り戻し、手続きを進める。
「か、確認いたしました。フォレストベア討伐……特別報酬を含め、金貨三枚となります」
革袋に入った報酬を受け取り、裁定は背を向けようとした。その肩を、ガロンの大きな手が掴む。
「待て」
振り返ると、そこには真剣な眼差しがあった。
「お前、何者だ」
それは、この場にいる全員の疑問だった。不死身の肉体。未知の力。そして仮面の奥の読めない表情。
裁定は彼の手を見つめ、それから静かに彼の目を見返した。
「……わからない」
「あ?」
「記憶がない。だから、私が何者なのか、私自身も知らない」
嘘偽りのない言葉。その響きに、ガロンは目を丸くし、やがてふっと力を抜いた。
「……そうか。全部忘れてるってのか」
彼は乱暴に頭を掻き、ニヤリと笑った。
「なら、俺が見ていてやる」
「……どういう意味だ」
「そのまんまだ。お前のその力、危なっかしくて見てられねぇ。記憶が戻るまでか、お前が何者かわかるまでか知らねぇが……俺が証人になってやるって言ってんだよ」
一方的で、強引な宣言。だが不思議と嫌な感じはしなかった。
「……好きにすればいい」
裁定は短く答え、ギルドの出口へと向かう。その背中に、冒険者たちの囁きが降り注ぐ。「不死身の女」「光の剣」「ゴールド級を凌ぐ実力」。噂は、確信へと変わりつつあった。
出口の脇にある掲示板の前で、彼女は足を止めた。
『ギルド対抗戦』
その文字を、仮面の奥の瞳がじっと見つめる。
◆ ◆ ◆
夜の三日月亭は静かだった。一階の喧噪も、二階の個室には届かない。裁定は窓辺に座り、月明かりの下で自分の右手を眺めていた。
手の甲に刻まれた裁定之紋章。それは今、沈黙を守っている。だが、昼間の感覚は指先に残っていた。熱く、脈打ち、自らの一部として変容したあの感覚。
彼女は意識を集中させた。あの時のように、力を引き出そうと試みる。
「……」
紋章が微かに明滅した。皮膚の下で光が蠢き、ほんの少しだけ形を変えようとする。だが、昼間のような剣の形にはならない。ただ不定形の光が揺らめくだけだ。
「……まだ、足りない」
制御できていない。引き金となるのは危機感か、それとも感情か。
「この力は何だ。なぜ私はこれを持っている。答えはまだない」
「記憶はない。過去もない。だが……」
「しかし確かなことがある。この紋章は私のものだ。この命も、この力も」
ガロンの言葉が脳裏を過る。『俺が見ていてやる』。
他者。自分を見て、認識し、記憶する存在。これまで孤独にアヴァロンを彷徨っていた彼女にとって、それは初めて得た「繋がり」のようなものだった。
感情というものを、彼女はまだ理解していない。だが、計算としては理解できる。この街で生きていくために、協力者は有用だ。そして、自分の力を試し、理解するためには、より強い相手、より過酷な環境が必要だ。
「……ギルド対抗戦」
呟いた言葉は、決意の形をしていた。
出場すれば、注目を浴びる。平穏な生活は遠のくだろう。だが、それ以上に得られるものがあるはずだ。自分の限界を知ること。紋章の力を制御すること。そして、その先にあるかもしれない「記憶」の手掛かり。
「裁定之紋章の力を測る。それが、今の目的だ」
彼女は立ち上がり、窓の外を見た。ルーチェの街の灯りが、星空の下で揺れている。この広い世界のどこかに、自分の過去を知る者がいるのだろうか。
答えはまだ、闇の中だ。だが、足を踏み出すことはできる。
仮面の女冒険者は、静かに夜を越えていった。




