第002話 白紙の旅人
光の先へ
視界が、白に染まった。
永遠に続くかと思われたアヴァロンの深淵。あの絶対的な漆黒と静寂の世界から一歩を踏み出した瞬間、私の網膜を焼き尽くさんばかりの奔流が押し寄せたのだ。それは暴力的なまでの光だった。暗闇に順応していた瞳孔が悲鳴を上げ、私は反射的に目を細めた。まぶたの裏にまで透過する熱量。肌を刺すような微かな痛み。
「……外だ」
自身の呟きが、風に乗って拡散していくのを感じた。
風。その概念を、私は肌で初めて知覚した。アヴァロンの内部には空気の流れこそあれど、このような意志を持ったような動きは存在しなかった。頬を撫で、髪を揺らし、黒のマントをはためかせる不可視の流体。それは湿り気を帯びており、どこか青臭い、それでいて生命の根源を感じさせる匂いを運んでくる。
数秒、あるいは数十秒。光に目が慣れるのを待ち、私はゆっくりと瞼を持ち上げた。
そこには、色が溢れていた。
頭上には果てしなく広がる蒼穹。深淵の天井とは違う、どこまでも高く、吸い込まれそうな青。そこに浮かぶ白き雲の塊が、風に流されて緩やかに形を変えていく。足元には緑の絨毯。膝下まで伸びた草々が波のように揺れ、その隙間で無数の小さな命が蠢いている。遠くには濃緑の森が壁のようにそびえ立ち、その向こうには霞んだ山々の稜線が巨人の背骨のように横たわっていた。
圧倒的な色彩の暴力。情報の奔流。
これが、外。私が目指した場所。
感情は動かない。心臓の鼓動も一定だ。だが、私の脳裏には強烈な認識が刻み込まれていた。この光景を、私は『知らない』。知識としての空や森という単語は脳内にある。だが、この圧倒的な実存としての世界を、私の目は、私の肌は、私の魂は、かつて一度たりとも経験していない。
何も覚えていない。記憶の欠落は依然として深い霧の中だ。だが、この光景が私にとって『初めて』だということだけは、痛いほどに理解できる。
ふと、右手の甲に熱を感じた。
視線を落とす。黒のグローブの隙間、露出した肌に刻まれた幾何学的な紋様――裁定之紋章が、淡く明滅している。それはアヴァロンの深奥で得た力の証。太陽の光に呼応するかのように、金色の粒子が紋様のラインをなぞり、呼吸するように輝いていた。
この紋章が何を意味するのか、今の私には分からない。ただ、これが私の一部であり、この世界で生きていくための唯一のよすがであることだけは確かだった。
背後で、重厚な地響きが鳴った。
振り返る。草原と森の境界に切り立つ巨大な岩壁。その中央にあった亀裂のような入口――アヴァロンへの門が、独りでに閉じようとしていた。岩と岩が擦れ合い、轟音を立てて密着していく。深淵からの冷たい吐息が、最後の一瞬だけ漏れ出し、そして断ち切られた。
ズゥゥン……。
完全に閉ざされた岩肌は、もはやそこに入口があったことすら感じさせない、ただの絶壁へと戻っていた。帰るべき場所も、生まれた場所も、今、永遠に閉ざされた。
「……戻る場所は、ない」
事実を確認するように、短く口にする。未練はない。そもそも、過去を持たない私に未練など抱きようがない。あるのは、ただ目の前に広がる未知の空間と、歩を進めるという選択肢のみ。
私は前を向いた。風が、背中を押すように吹いた。
一歩。草を踏みしめる感触。土の柔らかさ。私は黒のミリタリーコートの裾を翻し、果てしない緑の海へと足を踏み入れた。
◆ ◆ ◆
太陽が中天を過ぎ、影が東へと長く伸び始めた頃。私は草原を抜け、踏み固められた土の帯を見つけ出した。
街道だ。
方角など知る由もない。ただ本能的に、風の匂いに混じる微かな「人の気配」――焚き火の残り香や、家畜の排泄物の臭い――を辿って歩き続けた結果だった。私の感覚器官は、常人よりも遥かに鋭敏にできているらしい。視覚、聴覚、嗅覚。それら全てが、この世界を解像度の高い情報として脳に送り続けてくる。
土の道には、車輪の轍が刻まれている。新しくはないが、古くもない。ここを何かが通った証拠だ。
私は道の端を歩き始めた。しばらくすると、前方から砂煙が上がっているのが見えた。リズミカルな蹄の音。木材がきしむ音。そして、人間の声。
荷馬車だ。
二頭の馬が引く、幌付きの荷車。御者台には一人の男が座っていた。ふくよかな体躯の中年男性で、日に焼けた顔には愛想の良さそうな笑い皺が刻まれている。彼は手綱を緩めながら鼻歌を歌っていたが、道の端を歩く私の姿を認めると、ぎょっとしたように目を見開いた。
「お、おおっ!? こんなところに人が……」
男は手綱を引き、馬車を減速させた。馬がいななき、車輪が土を噛んで止まる。男の視線は、私の全身を舐めるように巡った。橙金色の髪、頭上の猫耳、顔の上半分を覆う黒紗の仮面、そして軍服のような黒のコート。
「いや、その格好は……それに、ここらは魔物も出るってのに、護衛もなしか?」
警戒と好奇心が入り混じった眼差し。私は足を止め、男を見上げた。彼からは敵意を感じない。ただの驚きだ。
「この道は、どこへ続く」
私は問いかけた。声色は平坦に。抑揚を排して。
男は一瞬、私の声の冷たさに気圧されたように身を引いたが、すぐに人の良さそうな笑みを浮かべて答えた。
「あ、ああ。この先はずっと行けば商国アウルムの領内だが……一番近いのは『ルーチェ』だ。小さな街だが、冒険者も多いし宿もある。あんた、旅の人か?」
「……旅人、かもしれない」
「かもしれない? はは、妙な言い方だな」
男は緊張を解いた様子で、手巾で額の汗を拭った。どうやら、私が魔物や盗賊の類ではないと判断したらしい。
「俺は行商人のトマだ。近隣の村で野菜や干し肉を仕入れて、ルーチェに卸しに行くところさ。あんた、名前は?」
名前。
その問いに、思考が一瞬だけ停止する。自分を定義する記号。個体を識別するためのラベル。私には、それがない。
「……ない」
「へ?」
トマと名乗った男は、きょとんとして瞬きをした。
「いや、名前がないってことはないだろう。親からもらった名とか、愛称とか」
「ない。記憶が、ないからだ」
「記憶喪失……ってやつか? 本物の?」
男は目を丸くし、それからまた私の奇抜な風体をしげしげと眺めた。そして、何か納得したようにポンと手を打った。
「なるほどなぁ。世の中には不思議なこともあるもんだ。その格好で記憶喪失とは、まるで物語の登場人物みたいじゃないか」
彼は豪快に笑った。その屈託のなさは、私には理解しがたいものだったが、不快ではなかった。
「ははは、変わった人だ。じゃあ『名前のない旅人さん』ってことか。それで、あんたもルーチェへ?」
「そのつもりだ」
「なら乗っていくか? 荷台は空いてるし、話し相手が欲しかったところだ。一人より二人の方が心強いしな」
「……同行させてもらえるか」
「ああ、構わないよ。さあ、乗りな!」
トマは親指で荷台を指した。私は小さく頷き、言葉少なく礼を述べた。
「……恩に着る」
荷台の板に腰を下ろす。木の感触は硬いが、歩き続けるよりは効率的だ。トマが鞭を振るうと、馬車は再びきしみ音を立てて動き出した。
流れる景色。揺れる視界。私は膝の上で手を組み、じっと前を見据えた。隣でトマが何か陽気な歌を口ずさみ始める。その旋律は、私の空っぽな記憶のどこにも引っかからない、未知のものだった。
◆ ◆ ◆
空が茜色に染まり、やがて群青の帳が下りる頃、トマは街道脇の開けた場所で馬車を止めた。夜間の移動は危険だという彼の判断だった。
慣れた手つきで枯れ木を集め、火打ち石で火を起こすトマ。揺らめく炎が、周囲の闇を円形に切り取っていく。鍋の中で干し肉と野菜のスープが煮え立ち、素朴だが食欲をそそる香りが漂い始めた。
「ほらよ、粗末なもんだが温まるぞ」
手渡された木の椀。中には湯気を立てるスープと、固い黒パンが一欠片。私はそれを受け取り、スプーンで一口すくって口に運んだ。熱。塩気。野菜の甘み。肉の旨味。
「……」
「どうだ? 俺の特製スープは」
「……悪くない」
「はは、そいつは光栄だ」
記憶はなくとも、食事の作法や味覚の機能は正常なようだ。私は黙々とスプーンを動かした。空腹という感覚すら希薄だったが、身体はエネルギーを求めていたらしい。胃の腑に熱が落ちると、指先の冷えが少し和らぐのを感じた。
焚き火を挟んで対面に座るトマが、枝で火をいじりながら話しかけてきた。
「なあ、あんた。本当に記憶がないのか? 自分の名前も、出身地も?」
「……ない。目覚めたとき、何もなかった。気がつけば、あの草原に立っていた」
アヴァロンの深淵のことは伏せた。説明したところで理解されるとは思えなかったし、無用な警戒を招く可能性が高い。
「ふぅん……世の中には色んな事情があるからな。深くは聞かねえよ。でも、何も知らないんじゃ苦労するだろう。教えてやるよ、この『外の世界』のことを」
トマは教師のように指を立て、語り始めた。
彼によれば、この世界は大きく分けて中央にある三大国と、その周辺を取り囲む六つの外縁国で構成されているらしい。私たちが向かっているのは商国アウルムの辺境にある街、ルーチェ。そこには『冒険者ギルド』の支部があり、魔物退治や素材採取といった依頼を仲介しているという。
「冒険者ギルド……」
「ああ。腕に覚えがあるなら、登録してみるといい。身元が怪しくても、実力があれば稼げる場所だ。ランクってのがあってな、最初はブロンズからだが、実績を積めば上がっていく」
トマは私の姿を改めて観察し、顎をさすった。
「その猫耳、珍しいな。獣人族か? いや、獣人にしては人の特徴が強すぎる気もするが」
「……わからない」
私は自分の頭上の耳に触れた。柔らかい毛並みと、温かい体温。それは間違いなく私の一部だが、その起源は不明だ。
「それに、その仮面も。呪具か何かか? 普通の旅人がつけるもんじゃない。それに……」
トマの視線が、私の右手に注がれた。
「その手の甲の紋章。さっきから、たまに光ってる気がするんだが……魔法の刺青か?」
私はグローブの隙間から覗く裁定之紋章を見つめた。夜の闇の中で、それは蛍のように淡く、しかし確かな光を放っていた。その光は不気味なものではなく、どこか神聖ですらある。
「……何か特別な力を持ってるんじゃないか? あんた」
トマの声には、恐れよりも純粋な好奇心が混じっていた。
「……そうかもしれない」
私は曖昧に答えた。否定も肯定もできない。私自身が、この力の正体を知らないのだから。
食事を終え、トマは毛布にくるまって横になった。焚き火の爆ぜる音だけが響く静寂の時間。私は眠気を感じなかった。不老不死のギフトの影響か、あるいは単に身体がまだ覚醒状態にあるのか。
見上げれば、満天の星空があった。
アヴァロンの天井にはなかった、無数の光の粒。ダイヤモンドを撒き散らしたような煌めき。その美しさは圧倒的で、息を飲むほどだった。
私は何者だ。
星々を見つめながら、問いかける。答えは返ってこない。空虚な内面。過去の不在。自分という存在の輪郭があまりにも曖昧で、この広大な世界の中に溶けて消えてしまいそうになる。
何のためにここにいる。何をするべきなのか。
思考は巡るが、着地点はない。ただ、心臓は動いている。肺は空気を吸い込んでいる。生きている。その事実だけが、今の私を繋ぎ止める鎖だった。
答えは出ない。ならば、前に進むだけだ。
私は膝を抱え、夜明けまで瞬きもせず、星の運行を見守り続けた。
◆ ◆ ◆
東の空が白み始め、世界が再び色彩を取り戻す頃、私たちは出発した。朝霧の立ち込める街道を、馬車はゆっくりと進んでいく。
数時間ほど揺られただろうか。霧が晴れるにつれ、前方に人工物の集合体が見えてきた。
「見ろよ、あれがルーチェだ」
御者台でトマが指差した。
石畳の街道の先に広がる街並み。巨大な城壁に囲まれた要塞都市のような威圧感はない。低い木の柵と、煉瓦や木材で組まれた建物が密集する、こじんまりとした地方都市だ。だが、そこからは確かな活気が立ち上っていた。煙突から昇る炊事の煙。行き交う馬車。遠くまで響く鐘の音。
街の入口には簡易的な検問所があったが、顔馴染みのトマは軽い挨拶だけで通過を許された。荷台の私も「連れだ」の一言で通された。
街の中に入ると、トマは広場の隅で馬車を止めた。
「さて、俺はここから市場へ向かう。商売の時間だ」
彼は荷台から降りた私に向き直り、ニカっと笑った。
「ここまでだな。ギルドに行くなら、この大通りを真っ直ぐ行って、突き当たりのでかい建物だ。何か仕事が見つかるかもしれないぜ」
「……世話になった」
私は深く頭を下げた。見ず知らずの、しかも怪しい風体の者を拾い、食事まで与えてくれた。この世界での最初の出会いが彼で良かったと、理屈ではなく直感でそう思った。
「いいってことよ。名前のない旅人さん、またどこかで会おうな! 死ぬなよ!」
トマは手を振り、馬車を引いて雑踏の中へと消えていった。
残された私は、一人で街の大通りに立った。
圧倒的な「生の気配」。
アヴァロンの静寂とも、草原の自然とも違う、人間が作り出す熱量。露天商が声を張り上げ、果物や装飾品を売り込んでいる。子供たちが笑いながら駆け抜け、その後ろを母親らしき女性が怒鳴りながら追いかける。焼きたてのパンの香ばしい匂い。馬糞の臭い。鉄を打つハンマーの音。
情報量が多すぎる。私は無意識に眉をひそめた。
そして、周囲の視線。
「おい、見ろよあの格好……」
「猫耳? 獣人か? にしては雰囲気が……」
「あの仮面、ちょっと不気味じゃないか?」
すれ違う人々が、私を見て囁き合う。好奇心、警戒、あるいは嘲笑。私の異質な外見――黒衣に仮面、そして猫耳――はこの平和な街では明らかに浮いていた。だが、私は気にしなかった。彼らの視線は私を傷つけない。ただの現象だ。
私は無表情のまま、トマに教えられた通り大通りを歩いた。
ふと、一軒の建物の前で足が止まる。「宿屋」という看板。窓からは温かそうな暖炉の光が見える。
そこで、致命的な問題に直面した。
通貨がない。
トマの馬車でここまで来たはいいが、私は一文無しだ。この世界で生きるには対価が必要だ。食事をするにも、雨風をしのぐ場所を得るにも、金が要る。
ポケットを探っても、出てくるのは何もない。あるのは身につけている衣服と、手の甲の紋章だけ。
泊まる場所。食事。通貨。この世界で生きるには、それらが必要だ。生命維持のためのリソースが欠如している。
どうする。盗むか? いや、それは合理的ではない。捕まれば行動の自由を制限される。物乞い? 効率が悪すぎる。
思考を巡らせ、トマの言葉を思い出す。
『腕に覚えがあるなら、ギルドへ行け。実力があれば稼げる』
選択肢は一つだ。
「仕事を得る。冒険者ギルド、と言っていたか」
私は視線を上げ、道の突き当たりにある大きな建物を見据えた。そこへ行けば、私の「力」を「通貨」に変換できるはずだ。
◆ ◆ ◆
街の中心広場に面して、その建物はあった。
木造三階建ての堅牢な造り。入口の上には剣と盾を交差させた意匠の看板が掲げられ、「冒険者ギルド・ルーチェ支部」という文字が刻まれている。扉は常に開け放たれ、剣を背負った男や杖を持った女たちが頻繁に出入りしていた。
私は一瞬だけ立ち止まり、その喧騒を見上げた。ここが、私の出発点になる場所。
躊躇いなく足を踏み入れる。
ムッとするような熱気と、酒と汗の匂い。広いホールには多数の円卓が並び、昼間からエールを煽る者、依頼書を広げて議論する者たちで溢れかえっていた。壁一面には羊皮紙が貼られた掲示板があり、その前にも人だかりができている。
私がホールに入った瞬間、近くにいた数人が会話を止め、こちらを見た。
「……おい、新人か?」
「見ない顔だな。随分と気取った格好だが」
視線が集まる。品定めするような、粘着質な視線。だが、私が無視してカウンターへと直進すると、彼らは興味を失ったように再び自分たちの会話に戻った。
正面奥にある長いカウンター。そこには数名の職員が立ち、忙しなく対応に追われていた。私が空いている窓口に立つと、書類仕事をしていた若い女性職員が顔を上げた。
真面目そうな銀縁眼鏡に、亜麻色の髪をシニヨンにまとめた女性。整った制服を着こなし、職業的な笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませ。冒険者ギルドへようこそ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
よく通る、澄んだ声だった。
「……登録」
私は短く告げた。
「冒険者登録ですね。かしこまりました。では、こちらの書類に必要事項をご記入いただけますか?」
彼女は慣れた手つきで羊皮紙と羽ペンをカウンターに置いた。名前、年齢、出身地、得意な武器、ギフトの有無……それらを記入する欄が並んでいる。
私は羽ペンを手に取り、インク壺に浸した。しかし、ペン先が紙に触れる直前で手が止まる。
書けない。
文字は読める。書き方も分かる。だが、書くべき「内容」が存在しない。
「……名前がない」
私が呟くと、職員の女性はきょとんとした顔をした。
「え? 申し訳ありません、もう一度……」
「記憶がない。名前も、過去も。ここには書けることが何もない」
淡々と事実を告げる。私の言葉に、周囲の喧騒が一瞬だけ遠のいた気がした。職員の女性は目を見開き、少し困ったように眉を寄せたが、すぐにプロフェッショナルの表情を取り戻した。
「そうですか……記憶喪失、でいらっしゃるんですね。稀にですが、そういった事情の方もいらっしゃいます」
彼女は穏やかな口調で続けた。
「ですが、登録にはお名前が必須となります。管理上の識別が必要ですので……本名でなくとも、仮の名前でも構いません。何か、ご自身を呼ぶための名前を決めていただけますか?」
仮の名前。
私はペンを置いたまま、自分の手を見つめた。黒のグローブ。その下にある、黄金に輝く幾何学模様。
裁定之紋章。
アヴァロンの最奥で得た、唯一の所有物。私という空虚な器に刻まれた、唯一の意味ある記号。
「……裁定」
無意識に、その単語が口をついて出た。
「え?」
「裁定、だ。それを名前にする」
「サ、サイテイさん……ですか? 少し変わったお名前ですが……」
職員は戸惑いながらも、羊皮紙の名前欄に『裁定』と代筆した。文字として記されたその名は、奇妙なほどしっくりと私の心に収まった。
「年齢や出身地は不詳とさせていただきますね。得意な武器は……どうされますか?」
「……これだ」
私は右手を軽く掲げた。職員は私の手を見て首を傾げた。
「体術、ということでしょうか?」
「印章。変形する武器だ」
「はあ……特殊武装、としておきますね。ギフトは?」
不老不死。その言葉が脳裏をよぎるが、私は口を噤んだ。そんなものを公言すれば、面倒事に巻き込まれるのは明白だ。
「……なし」
「承知いたしました。では、手続きを進めます」
彼女は手早く書類を処理し、奥の棚から一枚のプレートを取り出した。鈍く光る銅色の金属板。
「当ギルドではランク制を採用しております。実績に応じてブロンズ、シルバー、ゴールド、プラチナ、ダイヤモンド、そして最高位のオリハルコンへと昇格していきます。裁定さんは、まずブロンズランクからのスタートになります。よろしいですか?」
「……構わない」
「では、これがあなたの冒険者証です。紛失しないようご注意ください」
差し出されたプレートを受け取る。ひんやりとした金属の感触。表面にはギルドの紋章と、私の仮の名前『裁定』、そしてランク『Bronze』の文字が刻まれていた。
「裁定さん。冒険者ギルドへようこそ。あなたの旅路に、幸運がありますように」
職員の形式的だが温かい言葉。
私はプレートを握りしめ、じっと見つめた。これが、私のこの世界での最初の証明書。
裁定。私の名は、裁定。
心の中で反芻する。それは単なる仮称ではない。この瞬間から、私は「名無し」ではなく「裁定」という個体として、この世界に存在し始めたのだ。
ここから始める。記憶も過去もない。だが、未来は白紙だ。この世界で、私という存在を、ゼロから築く。
ギルドの喧騒の中、私は静かに踵を返した。出口から差し込む午後の陽光が、私の手の中にある銅のプレートと、手の甲の紋章を同時に照らし出していた。
私の、長い旅が始まる。




