第001話 深淵より来たりし者
意識の浮上は、泥沼の底から気泡が昇るように緩慢だった。
瞼を開く。そこにあったのは、光の一切を拒絶するような濃密な闇だった。 視界が機能していないのかと疑うほどの漆黒。だが、数秒と経たずにその認識は修正された。完全な闇ではない。目を凝らせば、空間の輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる。
彼女は身を起こした。 硬質で冷たい感触が掌に伝わる。地面は土ではなく、ガラス質の結晶のような物質で覆われていた。 自身の体を確認する。手足はある。指も動く。痛みはない。 黒いグローブに包まれた手を目の前にかざし、握り、そして開く。動作に遅延はない。神経系は正常に機能しているようだ。
(ここは……どこだ?)
問いかけた自身の声が、頭蓋の中で反響する。 答えはない。 それどころか、自分が「誰」であるのかさえ、霧がかかったように思い出せなかった。名前、年齢、出身、家族……自己を構成するはずの情報の全てが欠落している。まるで白紙の本だ。
恐怖はなかった。 本来であればパニックに陥ってもおかしくない状況だ。記憶喪失、暗闇、未知の環境。だが、彼女の心臓は驚くほど一定のリズムを刻み続けていた。感情という器官が麻痺しているのか、あるいは元々持ち合わせていないのか。 彼女はただ、現状を「情報」として処理し始めていた。
服装を確認する。 黒と金を基調とした厚手のミリタリーコート。肩にはマント。腰から太腿にかけては革製のストラップが締め付けられている。機能的でありながら、どこか儀礼的な装飾性も帯びた衣服だ。 顔に手をやる。硬い感触。 目元が何かで覆われている。黒紗のような素材で作られた、装飾的な仮面だ。視界を妨げているようには感じない。
ふと、頭頂部に違和感を覚える。 猫の耳のような器官。触れると確かに知覚がある。人間ではないのか? あるいは、そういう種族なのか。それすらも比較対象となる記憶がないため判断がつかない。 長い髪が背中を流れている。その色は、わずかな光源を反射して橙金色に輝いているように見えた。
「……ステータス」
無意識にその単語が口をついて出た。 何故その言葉を知っているのかは分からない。だが、それがこの世界における理の一つであることを、本能が理解していた。
空中に淡い光の粒子が集束し、半透明のプレートが形成される。
NAME: ■■■■■■
RACE: ■■■■■■
CLASS: ■■■■■■
LEVEL: ■■
HP: ■■■■■ / ■■■■■
MP: ■■■■■ / ■■■■■
STR: ■■■
VIT: ■■■
DEX: ■■■
AGI: ■■■
INT: ■■■
MND: ■■■
SKILLS:
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(読めない)
全てが黒塗りのように文字化けしていた。 システムのエラーか、あるいは自身の認識能力の問題か。いずれにせよ、ここから得られる情報は皆無だ。 彼女は小さく息を吐き、手を振ってプレートを霧散させた。
落胆はない。事実を確認しただけだ。 彼女は立ち上がった。ブーツの踵が結晶質の床を叩き、硬質な音が闇に響く。 空気は重く、淀んでいた。鼻を突くのは、金属が錆びたような臭いと、有機物が腐敗したような甘ったるい悪臭の混合物だ。通常の生物ならば、この空気を吸うだけで肺が焼けるような不快感を覚えるだろう。だが、彼女の呼吸器は何の拒絶反応も示さなかった。
周囲を見渡す。 光源はないはずだが、目が慣れるにつれて、壁面を構成する結晶そのものが微弱な燐光を放っていることに気づく。 壁は垂直に切り立っているわけではなく、不規則にねじれ、隆起し、有機的な曲線を描きながら天井へと伸びている。天井はずっと高く、見通せない。 ここは洞窟というよりは、巨大な生物の体内か、あるいは次元の裂け目のような異質な空間だった。
遠くから、音が聞こえる。 岩が擦れるような音。何かが這いずるような湿った音。あるいは、風が空洞を吹き抜ける音かもしれない。 だが、彼女の鋭敏な聴覚は、その音の中に明らかな「意志」を感じ取っていた。 捕食者の気配。
(……行くしか、ない)
留まっていても状況は変わらない。 彼女はコートの裾を翻し、歩き出した。 目指すべき方向など分からない。だが、風の流れ、わずかな空気の密度の変化が、微かだが「上」へと続く道を指し示しているように感じられた。 闇の奥へと足を踏み入れる。その一歩が、彼女にとっての世界の始まりだった。
***
歩き始めてどれほどの時間が経過しただろうか。 この空間には時間の概念が希薄だった。空はなく、太陽も月もない。体内時計だけが頼りだが、それさえも狂い始めている感覚がある。
道は険しくなり始めていた。 床から鋭利な結晶の棘が突き出し、壁面は圧迫するように迫り出してくる。 彼女は音もなく進んだ。足音を殺す技術を、教わった記憶はない。だが体は自然とそう動いた。重心を安定させ、視線は常に周囲を巡回し、死角を作らない。 まるで、戦うために作られた人形のように。
ピタリ、と足を止める。
前方の闇が揺らいだ。 結晶の陰から、ぬらりと光る複眼が現れる。 それは異形の魔物だった。 全身が黒曜石のような甲殻に覆われている。多脚の節足動物を巨大化させ、歪にねじ曲げたような姿。鎌のように鋭い前脚が二対。口元からは絶えず粘液が滴り落ち、地面の結晶を溶かして白い煙を上げている。
サイズは人間を優に超えている。全長は5メートルほどだろうか。 生物としての生理的嫌悪感を催す造形だ。 魔物の複眼が、彼女を捉えた。 瞬時に発せられる殺気。それは純粋な食欲だった。
「――――ッ!」
魔物が奇怪な鳴き声を上げ、飛びかかってくる。 巨体に似合わぬ敏捷さだ。鎌のような前脚が、彼女の首を刈り取ろうと水平に薙がれる。
(速い)
思考よりも早く、彼女の体が反応した。 後ろへ跳ぶのではない。前へ。 上半身を低く沈め、振り抜かれる鎌の下を潜り抜ける。風切り音が頭上の空気を裂く。 踏み込んだ勢いのまま、彼女は魔物の懐へと侵入した。
武器はない。 だが、彼女の瞳は冷静に敵の構造を解析していた。 甲殻は硬い。徒手空拳で打ち砕くのは効率が悪い。だが、関節部分には可動域を確保するための皮膜がある。 彼女は滑り込む動作の中で、地面に突き出ていた鋭利な結晶の破片を拾い上げていた。長さ30センチほどの、ナイフ代わりの即席武器。
迷いなく、彼女はその結晶片を魔物の「右前脚の付け根」に突き立てた。
ギャアアアアアッ!
魔物が絶叫し、暴れる。 彼女は突き刺した結晶片を離し、即座にバックステップで距離を取った。 暴れた魔物の別の脚が、彼女が先ほどまでいた場所を粉砕する。 彼女の表情は動かない。心拍数さえ上がっていない。 恐怖はなかった。あるのは「どう殺すか」という演算だけだ。
(右の攻撃手段を一つ封じた。バランスが崩れている)
魔物は怒り狂い、残った脚で滅茶苦茶に攻撃を繰り出してくる。 単調だ。 彼女はその全てを最小限の動きで回避する。紙一重。コートの裾が風圧で煽られるが、本体には掠りもしない。 動きを見切る。パターンを覚える。 そして、隙を見つける。
魔物が大きく振りかぶった瞬間、彼女は再び加速した。 今度は結晶の破片はない。 だが、彼女の黒いグローブに包まれた手は、鋭く尖った手刀の形を作っていた。 魔物の攻撃を半身で躱し、その勢いを利用して懐深くへ。 狙うのは、頭部と胴体の接合部。甲殻の隙間。
踏み込み、腰の回転、全身のバネ。全ての運動エネルギーを一点に集中させる。
――貫手。
ズブり、と生々しい音がした。 彼女の手刀が、魔物の急所を深々と貫いていた。 硬い外殻の内側、柔らかい肉と神経の束を引き裂く感触。 魔物の動きが止まる。 痙攣し、やがて糸が切れたように崩れ落ちた。
彼女は腕を引き抜く。 ドロリとした黒い体液がグローブを濡らし、地面に滴り落ちた。 汚い、とは思わなかった。ただの現象だ。 彼女は倒れた魔物を見下ろす。完全に沈黙している。
(……弱い)
ふと、そんな感想が浮かんだ。 自分が強いのか、相手が弱いのかは分からない。 だが、この程度の相手ならば問題なく排除できる。それが分かっただけで十分だった。 彼女はグローブについた体液を軽く払い、再び歩き出した。 結晶の壁が微かに明滅し、彼女の影を長く伸ばしていた。
***
深淵は続く。 上へ、上へ。 道中は死闘の連続だった。 先ほどの魔物は、この領域においては最弱の部類に過ぎなかったらしい。 酸を吐く粘体、姿を消して忍び寄る影の獣、全身が刃物で構成されたような無機質な怪物。 多種多様な「死」が彼女に襲いかかった。
彼女はその全てを屠り、進んだ。 武器は現地調達した。魔物の牙、硬い骨、鋭利な鉱石。使えるものは何でも使った。 傷も負った。脇腹を裂かれ、肩を食いちぎられかけたこともある。 だが、彼女は止まらなかった。
やがて、風景が変わった。 狭く入り組んでいた結晶の洞窟が開け、巨大な広間のような空間に出た。 そこは「中層」への入り口だった。 そして、そこには門番がいた。
「――――」
彼女は足を止め、その巨影を見上げる。 それは竜の成れの果てのように見えた。 肉の大部分が腐り落ち、白い骨が露出している。胸郭の中では、心臓の代わりに赤黒い魔力の核が脈打っていた。 翼はボロボロで飛ぶことはできないだろうが、その四肢には岩盤を砕くほどの力が宿っていることは明らかだった。 腐竜。深淵の主の一体。
敵意の質量が違う。 今までの魔物が「捕食」を目的としていたなら、この怪物は「排除」を目的としていた。 領域を侵す者を許さない、絶対的な殺意。
『グルルルルゥ……』
低周波の唸り声が空間を震わせる。 次の瞬間、腐竜の口が大きく開かれ、紫色の炎が吐き出された。 ブレスだ。 彼女は全力で横へ跳躍する。 直後、彼女が立っていた場所が紫炎に包まれ、結晶の床が一瞬で融解し、蒸発した。 熱波が肌を焼く。コートの裾が焦げる。
(直撃すれば消し炭になる)
冷静な分析とは裏腹に、状況は絶望的だった。 武器は魔物の骨で作った粗末な槍一本。対して相手は戦略級の怪物。 だが、彼女の瞳から光は消えない。
彼女は駆けた。 炎の雨をかいくぐり、腐竜の足元へと肉薄する。 巨大な足が踏み下ろされる。衝撃波で体が吹き飛ばされそうになるのを耐え、骨の槍を足の指の隙間に突き刺す。 硬い。まるで鋼鉄だ。槍先が砕け散る。
「ッ!」
腐竜の尻尾が薙ぎ払われた。 回避が間に合わない。 彼女は腕をクロスさせ、防御体勢を取る。 衝撃。 全身の骨がきしむ音がした。体がボールのように吹き飛ばされ、広場の壁、硬い結晶の岩盤に叩きつけられる。 肺から空気が強制的に排出され、口から血の塊が吐き出された。
背骨が折れたかもしれない。内臓もいくつか潰れた感覚がある。 激痛。 通常の人間ならショック死してもおかしくないダメージだ。 だが、彼女は意識を手放さなかった。 それどころか、奇妙な感覚が彼女を襲っていた。
熱い。 傷口が、体の芯が、燃えるように熱い。
彼女は自身の体を見た。 潰れたはずの胸部が、目に見える速度で隆起し、元に戻っていく。 折れた腕が、パキパキと音を立てて接合される。 裂けた皮膚が塞がり、血が止まる。
(再生……している?)
それは治癒魔法などという生易しいものではない。 時間の逆行に近い、強制的な復元。 「不老不死」。 彼女はその言葉を知らない。だが、自身の体が「死ぬことを許されていない」という事実だけは理解した。
痛みは消えない。苦しみも消えない。 ただ、死なないだけだ。 彼女は壁に手をつき、再び立ち上がった。 その姿を見た腐竜が、明らかに困惑したように動きを止める。獲物は確実に仕留めたはずだった。だが、それは何事もなかったかのように立ち上がっている。
「……まだだ」
彼女は呟く。 なぜ戦うのか。なぜ苦痛に耐えてまで進むのか。 理由は分からない。 ただ、ここで終わるわけにはいかないという確信だけがある。 魂の奥底、記憶よりも深い場所に刻まれた何かが、彼女を突き動かしていた。
彼女は砕けた槍を捨てた。 素手で構える。 相手の動きは見切った。ブレスの予備動作、尻尾の軌道、そして、胸郭の奥で輝く核の位置。 死なないのなら、何度でも挑めばいい。 勝機が見えるまで。
彼女は再び駆け出した。 その背中には、黒いマントが翼のように翻っていた。 死を超越した少女と、死を撒き散らす竜。 深淵の底で、常識を超えた死闘が再び幕を開けた。
***
どれほどの階層を登っただろうか。 中層を抜け、上層へと至る道は、果てしない登攀だった。
敵は強くなり続けた。 だが、彼女もまた強くなっていた。 戦闘経験が、身体に眠っていた戦闘技術を呼び覚ましているようだった。 無駄な動きが削ぎ落とされ、最適解だけを選択するマシーンのような動き。 不老不死の肉体を盾にし、相手の攻撃をあえて受けてカウンターを叩き込むような、狂気的な戦術さえも躊躇なく実行した。
上層へ至る頃には、彼女のコートはボロボロになり、返り血でどす黒く染まっていた。 だが、その瞳の輝きだけは失われていない。 橙金色の瞳は、暗闇の中でも鋭く、冷徹に光を放っていた。
空気の質が変わった。 腐敗臭が薄れ、どこか乾いた、清浄な空気が混じり始めた。 風が吹いている。 上から下へ。 出口が近い。
最後の難所と思われる長い螺旋階段を登りきった時だった。 視界が開けた。 そこは、巨大な神殿のような空間だった。 天然の洞窟ではない。明らかに人工的に整えられた、石造りの広間。 その遥か天井には、亀裂が入っており、そこから一筋の「光」が差し込んでいた。
光。 燐光ではない、本物の太陽の光。 彼女はその光景に目を奪われた。 美しい、と感じた。 記憶のない彼女にとって、それは初めて認識する「美」の概念だったかもしれない。
その時だった。 空間全体が震え、頭の中に直接響くような「声」が降り注いだ。 耳で聞く音ではない。魂に直接語りかける波動。
汝、深淵を踏破せし者よ
汝、死の理を超越し者よ
アヴァロンの試練は果たされた
汝に、称号『使徒』を授ける
汝に、ギフト『不老不死』を正式に認可する
「世界の声」。 この世界を管理・運営するシステムそのものの意志。 荘厳で、無機質で、しかしどこか祝福を帯びた響き。
『使徒』。 アヴァロンを踏破した者にのみ与えられる至高の称号。
彼女はその場に立ち尽くしていた。 情報の奔流が脳内を駆け巡る。 文字化けしていたステータスの一部が、強制的に書き換えられていく感覚。 自分の存在が、この世界に「登録」されたのだと理解した。
彼女は何も答えなかった。 感謝も、疑問も口にしない。 ただ静かに、その事実を受け入れた。 自分は『使徒』であり、死なない存在である。 それが、今の彼女を定義する全てだった。
光の方へ歩き出す。 神殿の出口。そこには、外の世界へと続く大階段があった。
***
階段を登りきると、そこは断崖の途中にあるテラスのような場所だった。 外気が肌を撫でる。 これまでの澱んだ空気とは違う、冷たくも澄んだ風。 目の前には、広大な世界が広がっていた。
夜だった。 空には満天の星が輝き、巨大な二つの月が蒼白い光を地上に投げかけている。 眼下には、見渡す限りの雲海と、その合間に見える荒涼とした大地。 ここは高い山脈の中腹のようだ。
「……外」
彼女は呟く。 ここが自分の居場所なのか、それとも新たな戦場なのかは分からない。 ふと、出口の脇にある岩壁に、奇妙なものが埋め込まれているのに気づいた。 それは、手のひらサイズの「印章」だった。 複雑な幾何学模様が刻まれた、黄金色の金属片。 月光を浴びて、脈打つように淡く発光している。
彼女は吸い寄せられるように、その印章へと手を伸ばした。 本能が告げていた。 これは「私のもの」だと。 彼女のために用意され、彼女が来るのをずっと待っていたのだと。
黒いグローブの手が、印章に触れる。
カッ!
強烈な光が迸った。 印章が液状化し、彼女の手の甲へと流れ込んでくる。 灼熱感。だが不快ではない。 まるで失われていた半身が戻ってきたような、強烈な全能感。
光が収まると、彼女の右手の甲には、黄金色の紋様が焼き付いていた。 『裁定之紋章』。 変幻自在の武器であり、彼女の権能の象徴。
彼女は手を握りしめる。 力が満ちていくのを感じる。 記憶はなくとも、力はある。意志はある。命はある。 ならば、進むことができる。
彼女は夜風に髪をなびかせながら、眼下に広がる世界を見据えた。 未知なる世界。 そこには何が待っているのか。 七王と呼ばれる者たちか、敵対する七罪か、あるいは自身の過去に繋がる真実か。
彼女は仮面の奥で、静かに目を細めた。 感情の読めない、しかし確かな光を宿した瞳で。
「…………始まり、か」
その呟きは風に溶け、広大な夜の闇へと吸い込まれていった。 アヴァロンの使徒。禁忌の王となる運命を背負った少女の物語は、今ここから静かに動き出したのだった。




