第九話 絶望
リュミエールを見送り、家に戻ると時刻はもう深夜を回っていた。
誰もいないリビングのソファに深く腰を下ろし、大きく息を吐いた。
天井を見上げながら、今日一日の知りえたことを整理しようとする。
ザフィール国の粛清。次元統制院の存在。審判による破壊の可能性。……それに、父さんと母さんの死の真相。
リュミエールの言葉が頭の中で反響する。
「どうすればいい……?」
つぶやきながら、思考が堂々巡りになる。
リュミエールの提案通り、彼女と共にエターナルへ行くのは賢明なことかもしれないが、しかし、次元統制院の審判が実行されれば、みんなはどうなる?
アッシュは? ステラは? ソフィアは? ルナは?
目を閉じた。……瞼の裏に浮かぶのは、仲間たちの顔。
アッシュの家族を守る正義感に満ちた眼差し。ステラの希望を胸に明日を信じる笑顔。ソフィアのルナを慈しむ優しい瞳。
審判で、みんなの未来が失われてしまう。……そんなことはダメだ。
ゆっくりと目を開けた。
――僕はみんなの未来を守りたい――。
胸の奥から湧き上がる感情。それは迫りくる恐怖ではなく、みんなへの思いだった。
そして、僕自身が、もう誰も失いたくない。……あの日、父さんと母さんを失った時のような絶望を味わいたくない。
――審判を止めよう――。
次元統制院へ行って話をすれば、何か解決方法があるかもしれない。
もちろん、次元統制院へ行くためには、リュミエールの協力が必要だろう。
でも、彼女は「力になりたい」と僕に言ってくれた。
「明日……リュミさんに話そう」
静かに立ち上がり、窓辺に立った。
部屋を優しく照らしている月を見ながら、決意を固めた。
翌日の放課後、僕はリュミエールと屋上に立っていた。
彼女は僕の言葉にしばらく沈黙していた。
その長いまつげが伏せられ、銀色の瞳がわずかに揺れる。そして彼女は静かに口を開いた。
「エターナルへ行きたい……ですか?」
彼女の声には複雑な響きがあった。期待と不安のようなものが含まれている。
「はい」
しっかりとうなずいた。
「ただし、審判から逃れるためではなく、審判をやめるよう頼みに行きたいんです」
「ブラン……あなたは……」
リュミエールの瞳が驚きに見開かれた。驚きと困惑が入り混じった顔で僕を見つめる。
彼女の声が途切れた時だった。
「ほう……? 何やら面白い話をしているようだな」
冷たい声が屋上に響いた。
僕とリュミエールは同時に振り返る。
二人が立っていた。
一人は青白い長髪を束ねた鋭い目つきの男――ドミニオン。
もう一人は水色のショートヘアの女性――エクスシア。
二人とも無表情で、まるで氷のような視線を僕たちに向けている。
「ドミニオン……エクスシア……」
リュミエールが静かにつぶやいた。
ドミニオンは、ゆっくりと歩み寄りながら口を開いた。
「エンジェル……ここでは、リュミエールだったな。……なぜ邪魔をする?」
その語尾には明らかに苛立ちが含まれていた。
「我らの使命は明白であろう。秩序を乱す要因は排除する。それが次元統制院の掟である」
リュミエールは毅然と立ち、ドミニオンを正面から見据えた。
「ドミニオン、次元統制院の決定事項にブランたちの排除はありません。これは個人的な判断による過剰な干渉です」
ドミニオンの眉がぴくりと動いた。
「過剰だと? 彼らはこの星の秩序を脅かす存在だ」
「待ってください!」
僕は思わず口を開いた。声が少し震えていたが、言わなければならない。
「ザフィールのようなことは、これ以上行わないで欲しい。ザフィールは確かに次元粒子技術を軍事利用しようとしていた。……でも、だからといって、何もかも壊してしまうのは……」
ドミニオンは僕を一瞥した。その青白い瞳に射貫かれるような感覚があった。
「何もかも? いや、違うな。そうする必要があるものを壊すだけだ。秩序を守るためならば手段を選ばぬ。それが、次元統制院の信念であり我が正義だ」
彼は冷たく言い放った。
「でも……」
僕は言葉を選びながら続けた。
「未来を守るために、秩序があるんです。……家族がいて、友達がいて、みんな守りたい人がいるんです。その人たちの未来を奪うなんて……そんな秩序は納得できません」
僕の言葉に、ドミニオンはわずかに眉を動かした。
その瞬間、屋上の扉が勢いよく開いた。
「ブラン! 何か粒子反応があったぞ!」
アッシュが息を切らせて飛び込んできた。その後ろからソフィアも走ってくる。
「ブラン! 大丈夫ですか?」
二人の顔に緊張が走る。彼らはドミニオンとエクスシアの姿を認めるなり身構えた。
ドミニオンがアッシュに視線を向けた。
「また貴様か……アッシュ・グレイ。貴様も抵抗するつもりか?」
アッシュは一歩前に出て、拳を握りしめた。
「抵抗する……ってかよ。俺はただ、守りたいだけだ。家族を、仲間を」
その声には怒りが滲んでいた。
「認めてやるわけにはいかんな。……秩序を守るが我が正義」
ドミニオンの声は静かだが威圧的だった。
「なら、家族や仲間を守る。それが俺の正義だ」
アッシュは一歩前に踏み出した。
その言葉に、ドミニオンの口元がわずかに歪んだ。まるで嘲笑っているかのようだった。
「ならば……貴様の正義を示してみよ」
ドミニオンがゆっくりと構えを取ろうとする。
ザフィールでのすさまじいジャッジメントの映像が頭をよぎる……。
その時、ソフィアが悲鳴に近い声を上げた。
「やめてー!」
ソフィアの恐怖した叫びと同時に、彼女の手から眩い光が放たれた。
「コンデンスフレア!」
光の粒子が収束し、爆発寸前の球体となって、ドミニオンへ向かう。
それと同時に、エクスシアが動き出していた。
「ガーディアン!」
ドミニオンたちの前に、半透明の青色の防壁が展開された。
ソフィアの放った球体の爆発は防壁の前で分散し、周囲に粒子の残滓が舞う。
防壁には傷一つない、攻撃は完全に防がれた。
「プロテクトウォール!」
アッシュも咄嗟に両手を前に突き出した。彼の前に半透明の橙色の壁が立ち上がる。
「ブラン! ソフィア! 下がれ!」
アッシュが叫ぶ。
ハッとして、僕は二人に駆け寄ろうとした。
振り返ると、ドミニオンの手のひらから青白い光がほとばしり始めていた。
その光は次第に収束し、鋭い形状を成していく。
「ブラン!」
リュミエールの焦った声が聞こえた。
「ムーブメント!」「ガーディアン!」
リュミエールが叫び、僕たちの前に瞬間移動しようとしたその瞬間。
エクスシアの声と共に、水色の防壁がリュミエールの行く手を阻んだ。
「……ジャッジメント……」
ドミニオンの低い声が響くと同時に、青白い稲妻の如き光が一直線に放たれた。
標的はアッシュの「プロテクトウォール」だ。
ドミニオンのジャッジメントが、猛烈な勢いで、アッシュのプロテクトウォールに激突した。
橙色の壁が激しく震え、亀裂が走る。
アッシュが歯を食いしばって耐えているのが見える。
――パリーン――。
アッシュのプロテクトウォールが砕け散る破砕音と共に、僕の意識は白く染まった。
次の瞬間、激しい衝撃が全身を襲い、僕はソフィアと一緒に、数メートル後方に吹き飛ばされていた。
痛みで霞む視界の先で、アッシュが膝をつき、その胸に深々と黒い十字の傷が刻まれているのが見えた。
「――アッシュ!――」
僕とソフィアはよろめきながら、アッシュに駆け寄った。
「みんな!」
同時にステラが、アクセラレーションで屋上の扉から飛び込んでくる。
「なんで……どうして……」
ステラは息を切らして、フラフラしながらアッシュの横に座り込む。
「アッシュ! 大丈夫ですか⁉」
ソフィアが必死に呼びかける。
僕もアッシュの肩を揺さぶるが、彼はぐったりと動かない。
胸の傷から衣服が赤黒く染まっていく。僕の声が大きくなる。
「アッシュ! アッシュ‼」
その時、アッシュがかすかに口を開いた。
「俺は……守ることが……できたのか……」
か細い声。息遣いも浅い。
「……もう……家族が死ぬのは……ご免だからな……」
そうつぶやいた後、彼の目は閉じられた。……そして、そのまま動かなくなった。
「アッシュ――――!」
僕の叫びは虚しく響く。ソフィアは涙を流しながらへたり込んでしまう。
「粒子反応みて、繰り返し飛んで……ここまで必死に飛んで……なのに……こんな……」
ステラは表情を失って、呆然としている。
その僕たちの前に、リュミエールが静かに立ちはだかった。
彼女は僕たちに背を向け、ドミニオンに対峙すると、両手を広げた。
ドミニオンはリュミエールを見据えた。そして動かなくなったアッシュを見下ろした。
「……それが貴様の正義であるか」
その言葉には感嘆のような響きもあった。
低くつぶやくと、ドミニオンはゆっくりと踵を返した。
エクスシアも無言で彼に続く。
二人の姿が消えると同時に、いつの間にか、周囲に影響を与えないよう張り巡らせていた、エクスシアのガーディアンが静かに解除された。
……屋上はまるで何事もなかったかのようだった。
残されたのは、倒れたアッシュと、絶望と無力感に打ちひしがれる僕たちだけだった。
彼らの姿が完全に消え去ると、リュミエールはふっと息を吐き、僕たちに向き直った。その表情には深い憂いが刻まれていた。
「いやだよ……だめだよ……何言われても……文句言わないから……返事してよ……」
ステラが涙声で話しかけ続けている。
「お願いです……目を……開けてください……」
ソフィアがアッシュの肩にふれる。
「アッシュ……」
僕は再び呼びかけるが、彼は動かない。
アッシュの冷たくなっていく手を握りしめたまま、僕は顔を上げた。
「リュミさん……どうすれば……僕はみんなを……守れますか?」
絞り出すような声だった。
リュミエールは僕の目をじっと見つめた。
「私には、次元統制院へ報告する義務があります。観測者として……」
彼女は一度言葉を切り、そして静かに続けた。その銀色の瞳には、迷いを断ち切る決意が揺らめいていた。
「観測者として、この星を監視し続けるよう進言します。『審判はまだ下すべきでない』と……様子を見るべきだと」
そして、リュミエールは僕たち三人の顔を順に見つめた。
「この場で起きたことは、次元統制院の記録には残りません。……エクスシアのガーディアンが、全ての痕跡を封じています」
リュミエールの声は静かに響いた。
「ですから……ここでは何も……起きていないことにしましょう」
彼女はそう言うと、ゆっくりとアッシュの元へ歩み寄った。
そして、息をしていないアッシュを抱き上げる。その手つきは優しく、慈愛に満ちていた。
「アッシュは……私が……丁重に……」
リュミエールは静かに言った。
次の瞬間、彼女の姿とアッシュが共に、光の粒子となって霧散した。
リュミエールが去った屋上に、僕たちはただ呆然と座り込んでいた。
吹き抜ける風だけが、静寂を破っていた。
「アッシュ……」
ソフィアが涙を流しながらつぶやいた。
「あたし……何もできなかった……」
ステラも肩を震わせている。
僕はアッシュが倒れていた場所を見つめた。
……もう家族が死ぬのはご免だからな……。
アッシュの最後の言葉が胸に響く。
「僕だって、……もう家族が死ぬのはご免だよ……アッシュ」
僕は涙を流すことも、立つこともできずに、ただただ座り込んだまま動けなかった。
アッシュがいなくなってから数日が過ぎた。
家の中はまるで時間が止まったかのように静かだった。
あの騒がしい笑い声が聞こえない。あの頼もしい背中が見えない。
ただただ、虚無感だけが胸に穴を開けていた。
ルナが食事の準備をしているステラに尋ねていた。
「お姉ちゃん。アッシュさん、しばらく見てないけど……どうしたの?」
その言葉が引き金だった。ステラは顔を上げると、ルナを見つめながら、涙をぼろぼろとこぼし始めた。
「ルナ……あのね……アッシュは……もう……この家には……帰ってこないの……」
嗚咽交じりの声だった。ステラは言葉を詰まらせながらも続けた。
「私たちから離れて……行っちゃったの……だから……もう……会えないんだよ……」
「……なんで?」
ルナは純粋な疑問を口にした。
「アッシュさん……怒っちゃったの……?」
ステラは首を横に振った。
「……ううん……そうじゃないの……アッシュは……ずっと行きたいところが……あったんだって……」
ステラは涙を拭いながら言った。
「だから……自分の居場所を……探しに行ったんだよ……」
ルナはしばらく黙っていた。やがて小さな声でつぶやいた。
「……そうなんだ……ルナも寂しいよ。アッシュさんに会いたいな」
「……そうだね……寂しいね……会いたいね」
ステラはルナを抱きしめた。
そのやり取りを聞いていた僕は、部屋にこもって、そのまま動けずにいた。
アッシュのいないこの家は、まるで魂の一部が抜け落ちたように空虚だった。
食事も喉を通らず、ただ窓から見える空をぼんやりと眺めるだけの日々。
父さんと母さんがいなくなった時と同じように、胸にぽっかりと穴が開いたような感覚。
そして、両親がいなくなった時と違って、励ましてくれたアッシュはいない……。
ソフィアがノックもなしに、僕の部屋に入ってきたのは、そんな時だった。
「ブラン……」
呼びかけるソフィアの声は静かだった。
「……ご飯……ちゃんと食べてくださいね」
うなずいたが……声は出ない。
ソフィアがベッドの僕の隣に、そっと腰掛けた。
「ソフィも……アッシュにもう会えないと思うと、胸が張り裂けそうです。……家族だったブランは、もっと辛いのでしょうね。……ブランの悲しさをわかっていないのかもしれません。……でも、ソフィも悲しいです」
彼女はもう一度呼びかけた。
「ブラン……」
そして優しく言葉をかけた。
「……泣いていいんですよ。……辛いって、声に出していいんですよ。……辛い時は……我慢しなくていいんです」
その言葉に、顔を上げた。ソフィアの青い瞳には涙が浮かんでいた。
「ソフィ……」
僕の声はかすれていた。今まで流れなかった涙が溢れてくる……。
「僕だって……もう家族が死ぬのはご免なんだよ……」
声が漏れてしまう。
アッシュの正義感に満ちた眼差し。彼の屈託のない笑顔。それが永遠に失われたという現実が、重くのしかかってきた。
すると、ソフィアは何も言わず、僕の顔を優しく胸に抱き寄せた。
……彼女の温もりが心地よかった。
……あの日から、流すことができなかった涙が頬を伝った。
僕はソフィアの胸の中で、堰を切ったように、声を出して泣き続けた。
抑えていた感情が一気に溢れ出し、涙を止めることができなかった……。
どれくらい時間が経っただろうか。……僕は泣き疲れて、ソフィアの胸の中で、眠りに落ちてしまっていた。




