第十話 八百万
翌日、カーテンの隙間の朝日で目が覚めた。
いつの間に眠ったっけ?……そうだ、泣き疲れていつの間にか……ソフィアの胸にしがみついて…………なんだか柔らかい感触があった気が……。
思い出しながら、記憶がはっきりしてくると顔が熱くなってきた。
(……なんだ……そんなこと考えられるなんて……元気あるじゃん……)
僕は「ふぅ」とため息をつきながら、何だか胸につっかえていたものが、少し取れたような感じがしていた。
部屋から出て、久しぶりに朝食の席に着いた。
テーブルには温かいスープとパンが並んでいる。
ステラは、僕が部屋から出てこなかった日も、きっと用意してくれていたのだろう。
「おはよう、ブラン」
ステラが僕の顔を見て、少し安心したように微笑んだ。
目の下にはうっすらと隈ができている。きっと、彼女も眠れない日を過ごしていたのだろう。
「おはよう」
僕は小さく答えて、席に着いた。
「いただきます」
食事を始めると、心配そうな顔をしているルナが、僕の顔をじっと見つめてきた。
「ブランお兄ちゃん、元気になったの?」
「うん。ありがとう」
その純粋な問いかけに、僕は少し戸惑ったがうなずいた。
スープを飲み、パンを口に運び始めると、ステラが意を決したように口を開いた。
「私ね、脳波検査を受けてみようと思うんだ」
驚いて顔を上げた。彼女は僕の目をまっすぐ見つめている。
「あたしにできること、もっとあるかもしれない。自分の次元粒子適性のことが、もっと知りたいの。……みんなの役に立てるかもしれないから」
ステラの声には、決意が込められていた。
彼女はアッシュがいなくなってから、毎日食事の用意をしてくれていた。
……泣きながら、包丁を握っている姿を見かけたこともある。
それでも彼女は、僕が食べられるようになるまで、諦めずに用意してくれてきた。
きっと、希望を失ってはいないのだ。
「うん。ステラなら、きっとできるよ」
そう答えると、ステラはぱぁっと顔を輝かせた。
久しぶりに、いつもの明るい彼女の笑顔を見た気がした。
夕食後、ソフィアがいつものように僕の家を訪ねて来た。あの日以来、彼女は毎日、僕たちの様子を見に来てくれている。
「ブラン、ステラ……」
ソフィアは少し改まった様子で切り出した。
「ソフィね、カスタマイズデバイスの改良を……もう一度、やってみようと思うんです」
ソフィアの提案に、僕とステラは彼女をじっと見た。
「デバイスの改良?」
僕が尋ねると、ソフィアはうなずいた。
「はい。……次元統制院の力は凄かったので。……もっと、少しでも、みんなの能力を引き出せるように、調整できないかと思って」
ソフィアの青い瞳には真剣な光が宿っていた。
彼女もまた、自分にできることを探し、前に進もうとしているのだ。
「それでね……ステラの脳波データもあればと思うんですが……協力していただけますか?」
ソフィアはステラを見つめた。
「もちろん! あたしにできることなら、何でも協力するよ!」
ステラは即答した。
「実はね、あたしも脳波検査受けてみようと思ってたんだ!」
その返事を聞いて、ソフィアはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます。ブランさんのデバイスも……よろしいでしょうか?」
「うん。もちろん。ソフィアがそう言うなら……きっとすごいデバイスになると思うよ」
「はい……頑張りますわ!」
ソフィアは照れくさそうに微笑んだ。
アッシュはもういない。その喪失感は依然として、僕たちの心に重くのしかかっている。
でも……僕は今、立ち止まっていられないはずだ。
それを今度は、アッシュの代わりに、ステラとソフィアが、気づかせてくれたのだから……。
その夜、僕はなかなか寝付けなかった。暗闇の中で何度も寝返りを打つ。
ステラとソフィアは、アッシュを失った悲しみを、僕が一番深く感じているはずだと考えて、気丈に振る舞ってくれているに違いない。
(……情けない……)
ようやく自分を見つめることができるようになり、自己嫌悪に陥っていた。
「……ちょっと、外の空気を吸ってくる」
そう独り言をつぶやいて、そっと部屋を抜け出した。
Tシャツの上に上着を羽織り、静まり返った家を出る。
悶々としていたせいで、夜風が頬にあたるのが心地よかった。
(アッシュ……君がいなくなって、こんなに世界が物足りなく感じるなんて、思わなかったよ)
夜道を歩きながら、胸に空いた穴の深さを、今度は受け止めようとしていた。
(そうだ……命がけで守ろうとしたアッシュの分も、今度は僕が仲間を守らなければ)
その決意は、落ち着きを取り戻すとともに、確かなものになっていった。
そして、そのためには……次元統制院の審判を止めなくてはならない。
彼らの定める秩序が、必ずしも正しいとは限らない。少なくとも、今の僕たちには受け入れられない。
足は自然とよく散歩に来る、近所の神社へと向かっていた。
深夜の静寂の中、いくつもの赤鳥居が並んで続く石畳の参道を、考えにふけりながら歩く。
月明かりが石灯籠の列を淡く照らし出していた。境内に入ると、いつもより空気が澄んでいるように感じた。
ふと、微かな声が聞こえた気がした。風の音かとも思ったが、確かに何かを訴えるような……泣き声だ。
(泣き声……? こんな夜中に?)
その声は小さく、途切れ途切れだったが、確かに人の……少女の声に聞こえた。
辺りを見回したが、誰もいない。気のせいだろうか。しかし、妙に気になって仕方がない。
声の聞こえた気がした方向へと歩いていく。
本殿脇の小さな祠……そこに祀られているお稲荷様の像の前で足を止めた。
狐の面のような石像が静かに佇んでいる。
(この像から……聞こえた気がする……)
吸い寄せられるように、お稲荷様に近づき、そっと像の頬に触れた。その瞬間だった。
ゴォッ! と全身を巨大な何かに包み込まれるような感覚。
視界が白く染まったかと思うと一瞬で暗転した。まるで世界が切り替わったかのように、何も見えなくなった。
(な……なんだ……⁉ 何が起きたんだ……⁉)
意識はある。だが何も感じない。闇の中で、ただ浮遊しているような感覚だけが続く。
視界が戻ると、そこは見覚えのない景色だった。
街灯もないのに強く輝く星明りで周りを十分に確認できるくらい明るい。
鬱蒼とした雑木林の中の道らしき場所に立っていた。
舗装もされていないあぜ道がどこまでも続き、遠くにいくつかの家らしきものが見える。
まるで、昔話の世界に迷い込んだかのような風景に、思わず息を呑んだ。
(どこだ……ここは……?)
混乱する頭でスマホを取り出すが、電波は完全に圏外。メッセージも通話も使えない。地図アプリを開いても位置情報は取得できなかった。
(まずい……完全に孤立した……)
仕方なく、遠くに見える家らしきものの方へ歩き出した。
この場所がどこなのか、誰かに話を聞かなければならない。
そして……この奇妙な状況から抜け出す方法を見つけねば。
近づくにつれて、その家々の異様さがはっきりしてきた。
昔の木造建築の様な、たたずまいの家が何軒かあるが、みな壊されている。
朽ちたというよりは、意図的に取り壊されたような。……まるで嵐の後のような荒れ具合だ。瓦礫が散乱し、柱だけが残っている家もある。
不気味な静寂の中を歩いていると、また微かに泣き声が聞こえた。
道から少し離れた場所に、比較的壊れていない家があった。声はそこからだ。
(また……泣き声……?)
引き寄せられるように、その家へと足を踏み入れる。
埃っぽい空気と焦げ跡の匂いが鼻をついた。家の中は暗く、ほとんど家具も残っていない。
がらんとした空間に、少女が一人、うずくまって泣いていた。
「……どうしたの?」
声をかけると、少女はびくりと肩を震わせた。
ゆっくりと顔を上げた、彼女の薄緑色の瞳から、大粒の涙が、左目尻の泣きボクロに落ちる。
……星明かりに照らされたその顔は、悲しみに歪んでいた。
そして……僕は息をのんだ。
彼女のベージュ色の髪の上には、猫……いや、狐のような耳が二つ、背中の向こうには、ふさふさとした立派な尻尾が覗いていたからだ。
(狐の……耳と尻尾……?)
普通なら驚愕すべき光景のはずなのに、不思議と自然に受け入れていた。
それよりも、彼女の表情から、孤独と絶望がより強く伝わってきて、胸が締めつけられるようだった。
「……みんな……いなくなっちゃた……もう誰も……」
少女の言葉に、アッシュがいなくなったあの時の光景が、一瞬フラッシュバックする……。
……僕は我に返り、慌てて彼女の前にしゃがみ込みんだ。
「もう、大丈夫だよ」
できるだけ穏やかな声で言った。
「……もう……一人じゃない……の?」
少女はか細い声でそうつぶやく。
「もう一人じゃないよ。僕がいる」
この言葉が自然と口から出ていた。
その言葉を聞くと、彼女は僕の胸に顔を埋めて、大きな声を上げて、わあっと泣き出した。
その小さな体は震えていて、まるでこの世にたった一人きりで、放り出されたかのようだった。
優しく背中をさすっていると、少女の嗚咽は少しずつ収まり始めた。
僕はそっと手を止め、顔を覗き込んだ。
「落ち着いた?」
少女はこくりとうなずいた。まだ涙の跡が残る頬が星明かりに照らされている。
「……ありがとう」
小さな声だったが、はっきりとした感謝の言葉だった。
「あの……名前を教えてくれるかい?」
僕が尋ねると、少女は少し恥ずかしそうに顔を伏せた。
「うちは……タマモ……」
「タマモちゃんか。僕はブラン。よろしくね」
「ブランさん……」
タマモは僕の名前を小さく繰り返した。
「どうして君は一人なの?……それと……ここはどこなの?」
タマモはしばらく黙っていたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。
「ここは……稲荷の里……うちは里長の娘……だったんです」
「だった……?」
タマモはこくりとうなずいた。その薄緑の瞳には深い悲しみが宿っていた。
「この里の近くの山に、八百万の災厄と呼ばれている、恐ろしい大蛇が現れたんです。……八つの頭を持ち、何もかもを飲み込んでしまう……『オロチ』って言います」
答える彼女の声は震えていた。
「オロチが現れると、都からスサノオ様が派遣されて、討伐してくださるのですが、……スサノオ様が来られなくて」
タマモの声が詰まった。
「オロチが里に下りて来て……みんな……食べられてしまいました」
彼女は両手で顔を覆った。
「父さまは……うちを地下室に隠して……」
その言葉だけで、すべてを察することができた。
彼女がたった一人、この壊滅した里で生き残った理由。
そして、その孤独の重さを。
(――この子を守らなきゃ――)
そう強く思った。僕の味わった喪失感を彼女に重ねてしまったのかもしれない。
「もう大丈夫だよ。君は一人じゃない。僕がいる」
タマモの頭にそっと手を置いた。
タマモは顔を上げた。その瞳はまだ悲しみが曇っていたが、少しだけ生気が戻ったように見えた。
「ブランさん……」
タマモは小さな声でつぶやいた。その声には、かすかな安堵が混じっていた。
「もう怖くないよ。僕がそばにいるから」
できるだけ優しく言った。
タマモはしばらく僕の顔を見つめていたが、やがてゆっくりとうなずいた。……すると。
「ぐぅ……」
彼女のお腹が鳴った。彼女は少し恥ずかしそうにしている。
その音に、思わず笑みがこぼれた。
僕は立ち上がり、あたりを見回した。
家の奥に小さな台所らしき空間がある。棚には壊れた食器が転がっているが、隅の方に木箱が残っていた。
「何か食べるものがあるかな……」
箱を覗き込むと、中には乾燥した米と干し肉、そしていくつかの根菜が残っていた。これなら簡単な料理ができるかもしれない。
「少しだけ待っててね」
僕は台所の壊れた道具を使い、火を起こして簡単な粥を作った。出来上がったものを椀に盛り、タマモの元へ運ぶ。
「ほら、これ食べられる?」
タマモは目を丸くして椀を見つめた。
「……ありがとう」
小さな声でとつぶやくと、ゆっくりと粥をすすり始めた。
「……ブランさんは……どうして稲荷の里に……?」
タマモは少し遠慮がちに尋ねた。
「わからないんだ。神社にいたと思ったら突然ここに……」
「神社……?」
タマモが目を丸くした。
「うん。……お稲荷様の祠の前で……でも、こことは違う世界だと思う」
「……違う世界……稀にそうやって、遠くの世界から、迷い込む人がいるって、父さまが言ってました……」
そう言いながら、タマモは僕をまじまじと見ている。
「遠くの世界から?」
僕は思わず聞き返す。もしやとは思ったが、次元転移したのだろうか?
「そう。……でもね、ほとんどの人は戻れないんだって」
「どうやったら、戻れるんだろう?」
ほとんど戻れない、という言葉に僕は少し焦る。
「うちにはわからないけど、八百万を治めるアマテラス様なら、知ってるかもしれないです」
「アマテラス様?……どこにいるの?」
「ここから、一日半くらい歩いたところにある『イセの都』にいらっしゃいます」
……どうやら、都までの移動手段は徒歩らしい。
「 もしよかったら……僕と一緒に、イセの都まで行かないかい?」
僕の言葉に、タマモは驚いたように顔を上げた。
「……いいんですか?」
薄緑の瞳には、不安の中に、少しだけ希望の光が宿ったように見えた。
「もちろんだよ。君一人にはしておけない」
僕はうなずいて微笑みかけた。
タマモはしばらく迷っていたが、やがて小さく首を縦に振った。
「一緒に行きたいです……ありがとうございます。ブランさん」
タマモは粥を食べ終えるとウトウトしている。そのまま僕の肩にもたれるように眠ってしまった。
……この子を守らなきゃ……そう思いながら、僕も眠くなってきた。
少しだけ寝よう……瞼を閉じると浅い眠りについた。
「用意ができたら出発しようか」
目が覚めるとタマモに声をかけた。
「少し片付けて……必要なものだけ持っていきます」
彼女はそう言うと、家の奥へと向かった。
僕も手伝おうかと立ち上がった時だった。タマモが戻って来た。その手には古びた勾玉が握られていた。
「母さまの形見です」
彼女は……薄紫色の勾玉……を大切そうに握りしめた。
「……これは持っていかないと」
僕は黙ってうなずいた。生まれ育った里を離れる悲しみと決意が、伝わってくるようだった。
タマモが衣服や食料などを持ってきて準備を終えると、僕たちは壊れた里を後にした。
歩きながら、タマモに色々聞いてみる。
この星は八百万といい、国家という概念はなく、全てが八百万の民とのことである。
イセの都を中心に、各地に里が点在して地域ごとの自治を重んじて運営しているようだ。
科学文明は高くないが、なんと次元粒子を認識できる生き物が多く存在するらしい。
「へぇ……じゃあ、狐耳と尻尾は、八百万の民みんなにあるのではなく、稲荷の里の民の特徴なんだね」
タレ目なタマモを見て、狐耳なのにツリ目じゃないんだな……と、僕は思わず頬を緩めた。
「そうなんです。八百万にはいろんな種族が居るんですけど……」
タマモはこくりとうなずいた。
「実は稲荷の里から、出たことなかったから。……外のことは、聞いてただけで、見たことはないんです」
その言葉には、少しの不安と期待が、混じっているように感じた。
「ブランさんは……知らないところで、一人っきりで……大丈夫なんですか?……うちは……」
その声には、まだ悲しみが残っていたが、ほんの少しだけ信頼が感じられた。
「……もう、大丈夫だよ」
「そうなんですね……」
タマモは少し驚いた顔をして僕を見ていた……。
歩いていると、タマモは僕の後ろを、ちょこちょことついて来る。……時折、小走りで。
しばらくすると、彼女が僕の服の裾を引っ張った。見下ろすと、彼女は少し照れくさそうにして、訴えかけるように微笑んでいた。
(しまった!……歩くのが早かったな。……イセの都へ気がはやっていたかな)
僕はタマモの手をそっと握った。彼女は驚いたように顔を上げたが、すぐに握り返してきた。
その温もりを感じながら、タマモに歩調を合わせて再び進んだ。
僕たちはイセの都を目指して歩き続け、山道に入るとタマモは僕の手をしっかり握っていた。
山道は険しく、時折吹く風が木々を揺らし、まるで何かの唸り声のように聞こえた。
タマモの話だと、イセの都へは、オロチのいる山を抜けなければならない。
オロチは一度に大量に食べるが、そのかわり数か月に一度しか食べないから、すぐに山から下りてはこない。
……しかし、山に近づくと縄張りに入ったとみなして、攻撃してくるかもしれない、とのことだった。
「ブランさん……オロチが来たらどうしよう……」
タマモの声は少し怯えていた。
「大丈夫だよ。僕がいるから」
そう言いながら、僕自身も不安を感じていた。
もの凄く大きいと言われても、度合いの感覚がつかめない。オロチとは一体どんな存在なのか……。
けれど、タマモを守らなければ、という気持ちだけは強くあった。
幸い、デバイスを身に着けたまま生活していたので、今も装着されている……。
タマモが突然立ち止まった。
「ブランさん……何か……感じます……」
辺りを見回した。
森の奥から不気味な気配が漂ってくる。その瞬間、大地が揺れ始めた。
「タマモ! 急いで!」
僕はタマモの手を引いて走り出した。……だが遅かった。
目の前の木々が次々と倒れ、地面が裂けるように割れていく。そして……それは現れた!




