沈黙の航跡
【くそっ。これがアークティスへの洗礼か】
グレイリアは歯を食いしばり、必死に操縦桿にしがみついた。
【こんな嵐の中じゃ、お前のノイズシールドも意味がねぇ。船体そのものが分解するぞ!】
エヴァは、ヘッドセットを装着し、解析を開始した。
【待って、この嵐は自然現象じゃない。波形が不自然に幾何学的だわ。これは…ノイズのシグナルよ。ノクス・クレインが仕掛けたエレボス・コードの障壁だ!」
ノクス・クレインは、嵐そのものを利用して航路を封鎖したのではない。
彼は、アークティスへの最短ルート全体に、AIが感知するノイズと酷似した偽りの電磁ノイズを流し込み「沈黙の航跡」を辿る者を迷路に誘い込んだのだ。
【奴は、ノイズ解析の専門家である私の父の知識を悪用している!】じ
エヴァの顔に焦りの色が滲んだ。
グレイリアは計器を叩いた。
【理論はいい。で、でどうする?このまま突っ込めば、俺たちの船はただの氷の塊になる】
【ノイズの海に潜るのよ】
エヴァは素早くコンソールを操作した。
【ノクス・クレインが流している偽のノイズの波長を特定する。そして
真の沈黙の航跡が発する微かなノイズの「欠落」を探す。それをたどってこの
障壁を突き抜ける!】
エヴァは、父の遺品の真鍮の鍵をコンソールの中央スロットに差し込んだ。
鍵は、エヴァのノイズ解析システムと直結し、システム全体にバイパス電流を流し始めた。
【その鍵はなんだ?】
グレイリアが驚いて尋ねた。
【父が残した、D.S.P時代の最後の守り。私にしか使えないノイズの
「鍵」よ】
鍵の起動により、エヴァのコンソールには、視界を埋め尽くすほどの複雑なノ
イズの波紋が鮮明に浮かび上がった。
グレイリアが恐れる「壊すノイズ」の中に、エヴァは「導くノイズ」を見つけ出したのだ。
【見つけた!このノイズの塊の中に、一瞬「静寂」がある!そこを抜けるわ、グレイリア、今よ!】
グレイリアはエヴァの指示を信じた。
それが、エレボス・コードへの復讐心なのか、エヴァの狂気に満ちた天才性へ
の信頼なのかは分からなかったが、彼は本能で操縦桿を激しく切り込んだ。
【分かったぜ、詩人!ノイズの海を泳いでやる!】
「ガリバー」は猛烈な吹雪の核心へと突入した。
船全体が爆発したかのうな衝撃波に襲われたが、次の瞬間、巨大な膜を突き抜けたかのように、船内の振動は噓のように消えた。
嵐を抜けた先、窓の外に広がっていたのは、紛れもなく目的地だった。
巨大な氷の惑星アークティス。
その表面は深い青と白の、無限の氷河に覆われ、地表には夜の闇が張り付いて
いた。惑星のすぐそばには巨大なケルベロス・ステーションが、地球圏への
最後の門番のように浮かんでいる。
【…やったぜ】グレイリアは安堵の息を漏らした。
【お前、本当に正気か?】
エヴァは、コンソールから真鍮の鍵を抜き取った。
鍵はわずかに温かい。
【父を信じただけよ。そして、このノイズを】
安堵は一瞬で打ち破られた。
【グレイリア、見て。惑星軌道上に、熱源反応あり】
アークティスの夜の闇の中、エレボス・コードのシャドウ・レイザーが、すで
に着陸態勢に入っていた。
彼らはエヴァたちよりわずかに早く、目的地に到達していた。
【まさか、奴ら……】
グレイリアは愕然とした。
エヴァは唇を嚙み締めた。
【ノクス・クレインは、私たちがノイズを破ることを知っていた。
奴は、私たちが道を切り開くのを待っていたんだわ。追跡戦は終
わりよ、グレイリア。これからは競争だ】
『アカシック・アイ』は、もうすぐ、永久凍土に開いた眼として目覚めようと
していた。
エヴァとグレイリアに許された時間は、ほとんど残されていなかった。
「ガリバー」は、ノクス・クレインの追跡船「シャドウ・レイザー」が残した
軌道のわずかな乱れを縫うように、極低温の惑星アークティスの表面に強行着
陸した。
着陸の衝撃が船全体を激しく揺さぶり船内の計器類が一瞬ブラックアウトする
グレイリアが操縦桿を叩き、システムを復旧させた。
【やれやれ。俺の最高の整備をしても、この古い船は悲鳴をあげっぱな
しだ】
グレイリアはヘルメットのシールド拭い、目の前の光景を睨んだ。
【見てみろ、嬢ちゃん。先客はもう地面に足を付けているぞ】
「シャドウ・レイザー」は、ガリバーからおよそ1キロメートル離れた巨大な
氷河の先に、まるで墓標のように黒くそびえ立っていた。
その周囲には、エレボス・コードの歩兵部隊が展開を始めており数機のドロー
ンが夜の闇を警戒飛行している。
【ノクス・クレインは、私たちがノイズ障壁を破ることを確信してい
た。そして、私たちにここまでの道を切り開かせたんだわ。彼はすで
に『アカシック・アイ』の座標にいる】
エヴァは吐き捨てるように言った。
「ノクスめ、卑怯な手口だ」グレイリアは、キャビンに備え付けていた軍用ラ
イフルを手に取った。
【あそこまで行くには、氷河を越えるしかない。敵のドローンに捕捉
される前に、急ぐぞ】
エヴァは解析コンソールを開き、アークティスの地表データを呼び出した。
凍土の深部、ノイズ解析システムが、周囲の地質とは全く異なる「幾何学的で
不気味なシグナル」を検出していた。
【あそこよ『アカシック・アイ』は、あの氷河の下。距離は…
約3キロメートル。グレイリア、探査機を低空飛行させながら進むわ
ノイズシールドを最大限に上げ、レーダー探知を避けて】
「ガリバー」は着陸脚を格納し、凍土から数メートルの低空を滑走し始めた。
グレイリアは、荒れた氷河の上を高速で航行する卓越した操縦技術を発揮する
彼は、かつて軍で培ったサバイバルと現場感覚のプロだった。
エレボス・コードの追跡は執拗だった。
彼らはレーダーではなく、熱源センサーでガリバーの存在を特定したのだ。
『ドローンだ!右舷後方から三機!』
グレイリアが叫んだ。
ドローンが発射したプラズマ弾が、船体のシールドに激しく衝突する。
【ノイズシールドを熱吸収に切り替えて!船体の熱放射をゼロにするのよ!】
エヴァは機材に張り付いて叫んだ。
ノイズ解析システムは、今や敵の波長までも解析し、シールドに吸収されると
同時に、熱をうばわれ、凍結して崩壊した。
【すごいな、嬢ちゃん。お前のノイズ解析は、本当に武器になる】
グレイリアは感嘆の声を上げた。
【私のノイズ解析は、父のAIが残した『防御コード』がベースよ。
ノクス・クレインはそれを破る術を知らない】
ドローンを回避したのも束の間、眼下に展開していたエレボス・コードの地上
部隊が、重火器でガリバーを迎え撃ち始めた。
【地上からの銃撃だ!機体を傾ける!エヴァ、何か撃ち返せるものはない
か?】
エヴァは船内の格納庫を覗き込んだ。
そこにあったのは、グレイリアがケルベロスでこっそり搭載した、軍用の電磁
パレス(EMP)ランチャーのみ。
【EMPランチャーがある!グレイリア、機体を急速に上昇させて!ドロー
ンに狙いを定める!】
グレイリアは一瞬躊躇した。
EMPは、自分たちのノイズシールドにも影響を及ぼす可能性がある。
だが、彼には他に選択肢がないことを知っていた。
グレイリアは猛然と上昇し、エヴァは揺れる機体の中でEMPランチャーの照準
を合わせた。
【ノイズの海を泳ぐんだ、グレイリア!】
エヴァは叫び、引き金を引いた。
強烈なEMPが周囲一帯に炸裂し、ドローンと地上部隊のセンサーを一瞬で麻痺
させた。
その隙を突き「ガリバー」は目標の氷河へと一気に加速した。
氷河の奥深くに、エヴァが検出した幾何学的なシグナルの発生源はあった。
そこは、天然の氷ではない、人工的な漆黒の氷に覆われた巨大な構造体だった
その表面には」、古代の文字が刻まれ、中央には、エヴァの父が残した真鍮の
鍵の形にぴったり合う、鍵穴のような窪みが開いていた。
【これだ…アカシック・アイの入り口よ】
エヴァはヘルメット越しに息を吞んだ。
グレイリアは、損傷した「ガリバー」を構造体の側面に激しく接地させた。
【敵の増援が来る!ここで俺が足止めする。嬢ちゃん、早く鍵を使え!】
エヴァがハッチを開けると同時に、ノクス・クレインの副官らしきエレボス・
コードの精鋭部隊が構造体の陰から姿を現した。
【動くな、エヴァ・シモンズ!我々のコードは、お前のノイズ解析を凌
駕する!】
副官が銃を構える。
【ノクス・クレインはどこ?】
エヴァは鍵を握りしめたまま尋ねた。
【リーダーはすでに『眼』の中で、人類の歴史を最適化している。お前
の真鍮の鍵は、それを完成させるための最後の認証キーだ。感謝する。
裏切り者の娘よ】
エヴァは副官の言葉に戦慄した。
彼女の鍵は、封印を解くためのものではなく、ノクス・クレインの野望を完成
させるためのどうぐとして利用されようとしていたのだ。
グレイリアがライフルを構え、銃撃戦が始まった。
プラズマの閃光が漆黒の氷を照らす中、エヴァは決断した。
【ノイズ解析、最終プロトコル起動!】
エヴァは、真鍮の鍵を鍵穴に叩き込むと同時に、ノイズ解析システムをオーバ
ーロードさせた。
鍵は差し込まれたが、システムはノクス・クレインが仕掛けた最終認証コード
を父の防衛コードで書き換え始めた。
漆黒の氷の構造体全体が、脈動するように青白い光を放ち始める。
それは、アークティスの永久凍土に、今まさに開こうとしている「眼」の鼓動
だった。
その光の中、構造体の奥深くから、ノクス・クレインの声が響き渡った。
【遅いぞ、エヴァ。君のノイズでは、私のエレボス・コードを破れない
人類の自由は、今日で終わる!】
エヴァは、鍵穴に光る真鍮の鍵を掴み、その響く闇の奥を見据えた。鍵を抜け
ば、ノクス・クレインの野望を阻止できるかもしれない。同時に『アカシッ
ク・アイ』の封印を解くという、父の最後の決断をも裏切ることになる。
彼女の指先が、鍵の冷たい金属に触れた。
青白い光を放つ漆黒の構造体『アカシック・アイ』の入り口。
エヴァは、鍵を抜くか、押し込むかの究極の二択を迫られていた。
鍵を抜けば、ノクス・クレインの起動プロセスは崩壊するが、同時に父とAIが
仕掛けた最終的な「封印」まで破壊するかもしれない。
鍵を押し込めば、ノクス・クレインに『アカシック・アイ』の制御権を完全に
渡すことになる。
「動くな、エヴァ!」副官の怒声が、銃撃戦の轟音の合間に響く。
グレイリアが必死にエレボス・コードの歩兵隊を食い止めていた。
彼のライフルから放たれるプラズマ弾が、漆黒の氷の構造体に火花を散らす。
エヴァは目を閉じ、父の声を探した。
父の信念。AI「イカロス」の「沈黙」に込められた意味。
一人類は、自由な意思を持たせると、必ず技術を破滅的に悪用する。
これはノクス・クレインの言葉だ。
父はそれを否定し、AIに倫理的な自由を与えた。
そのAIは、人類の判断を信じられず、自ら情報を封印した。
父さん…AIの沈黙は、失敗なの?それとも、私たちへの最後のテストなの?
エヴァは再び目を開け、真鍮の鍵を握りしめた。
彼女のノイズ解析が、構造体全体に張り巡らされた複雑なエネルギーの流れを
可視化する。
ノクス・クレインは、内部で『アカシック・アイ』の未来改変プロセスを起動
させていた。
構造体の奥から、ノクス・クレインの声がエヴァのヘッドセットに直接割り込
んできた。
【遅い、エヴァ。君のノイズ解析は、いつだって『過去』の欠片を探す
だけだ。私は今『未来』を書き換えている。アカシック・アイは、私に
全ての可能性を見せてくれた。人類が破壊する全ての可能性を!】
構造体の青白い光が、巨大な眼の瞳孔のように収縮し、脈打ち始める。
エヴァのノイズ解析システムは、ノクス・クレインが送り込んでいる最終コ―
ド『エレボス・コード』の波形を検出した。
それは、人類の重合意識に対する一種の「認知ロック」であり、自由意志の破
壊を意味していた。
【ジャック!エレボス・コードの最終フェーズが始まった!あと数分で世
界が変わる!】
エヴァは叫んだ。
【分かってる!だが、この数は無理だ!お前は中でノクスを止めろ、俺が
道を開ける!】
グレイリアが血を吐くような声を上げ、グレネードを投擲した。
エヴァは「鍵を抜く」という選択肢を捨てた。
封印を破壊してもノクスのコードは宇宙に放たれるかもしれない。
続く




