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1.ここは


──青年が最初に目にしたものは、鏡に写った自分の姿だった。最初に、といってもこの世に生を受けて初めてという意味ではない。この世界で意識が覚醒してから最初に、という意味だ。


「……これ、俺、なのか?」青年は鏡に向けた視線を、頭の先から靴のつま先までゆっくりと移動させた。

 自分の顔を両手で触りたくってみたりもした。鏡に写っているのだから、視線の先にある人物が青年自身の姿である事は間違いない。しかし、青年はひどく混乱していた。青年には鏡に写るその姿に、全く見覚えが無かったからだ。無造作に切り揃えられた灰色の髪に、青い瞳が埋め込まれた気怠けだるそうな目、身につけている服や革のベルト、果ては自身の手足にまで、全てに言いようのない違和感を感じた。


 青年は鏡から視線を外し、辺りを見回した。「ここは?……俺は……誰だ?」青年には記憶が無かった。

 自分が誰で、一体どんな理由でここにいるのか、全てが分からなかった。ただ一つ言えることは「寒い」という事だった。意識の覚醒に伴い、少しずつ肌が外気の冷たさに反応を示し始めていた。


 青年は鏡の方を向いたまま、ゆっくりと目を閉じて、深く息を吸い込んだ。何一つとして理解が出来ない状況だったが、そんな時に必要なのは取り乱すことではなく冷静になる事だと、記憶は無くとも本能が覚えていた。


 青年は肺の中を満たした冷たい空気を、数秒間閉じ込めた後一気に吐ききり、そしてゆっくりと目を開けた。


「……外套がいとうと剣……外に出ろ?」

 鏡に写った文字を、青年はそのまま読み上げた。ついさっきまで青年の姿しか写し出していなかった鏡は、青年が大きく吐いた息で曇り、そこに指でなぞったような文字が浮かび上がっていたのだ。


「クソ、何がどうなってんだ……」青年は悪態をつきながらも、部屋の中を見回して壁にかけてあった黒い外套がいとう、薄汚れた木製テーブルの上に横たわってホコリを被っていた剣と革の剣帯を手に取った。

 外套を羽織り、腰に剣を挿し、部屋に一つだけあった扉を開けると、眩い光が青年を照らした。


「……どこだ、ここ……街、なのか?」瞳を射す太陽の光を手で遮りながら、青年は辺りを見回した。眼前には雪に覆われた石造りの建物がズラリと並んでいて、青年もその建物の内の一つから出てきていた。


 青年はしゃがみ込み、足元の地面に積もっていた雪を指ですり潰した。

「冷てぇ……」青年は雪で濡れた指を外套でぬぐい、立ち上がった。


「……外に出ろ、ね」青年はチラリと背後の姿見を振り返って、扉の外へ足を踏み出した。一見投げやりにも見える青年は、しかしどこか冷静で、五感は周囲の情報を取り込み、外套の内側で左手はしっかりと剣に添えられていた。


 姿見のあった建物を出た青年は、ある程度の情報と状況を把握する事にした。手始めに近くにあった建物の屋根によじ登り、街を見回した。

「道に積もった雪に足跡はないし、こんなクソ寒いのに煙突から煙が出てる家が一つも見当たんねー……誰も住んでないのか?」青年の独り言には当然誰の返事もなく、乾いた風の音だけが吹き抜けた。


 屋根から降りた青年は、次にボロボロの井戸を調べた。 

「井戸の滑車が風化して動かねぇな。人がいなくなってからかなり経ってる」青年が井戸の滑車に繋がったボロボロの縄を何度か引くと、縄はぶつりと千切れ落ちた。


 井戸を離れ、再び人気のない市街地を歩く。建物の中には時折看板をぶら下げているものが見られたが、しかし、どの看板に書いてある文字も青年にはゆかりの無いものだった。


「最悪なことに、さっき見た鏡の文字以外で読める文字が一つも見当たんねえ……けどまあ、裏を返せばこのゴーストタウンが俺の地元ってことはないわけだ。その点においてはだけは最高だな」青年は手当たり次第に取り込んだ情報を整理するように、独り言を呟きながら歩き続けた。


 青年は時折目についた建物を覗き込んだり、中に入って物色したりもした。

「建物に経年劣化以外で壊れた様子はなし。鍵は殆ど開けっぱなしで家具も運び出されてる。街を捨てて移動したって考えんのが妥当だけど、なんでだ? 街を出る理由……たとえば、避難とか……だとしたら何から逃げたんだ?」


 青年は歩くのをやめ、その場に立ち止まって考え込んだ。そのとき、青年の耳が微かな異常を察知した。明らかに風の音や鳥の声ではない、何か異質な音だ。


「……今の音、あっちの方からだな」青年は音の聞こえた方へ向かって歩き出した。歩みを進めるにつれ、微かに聞こえていた音は段々と大きくなり、輪郭を帯びていった。好奇心に背中を押された青年の足取りは徐々に速くなり、ついには走り出した。


 青年が数分走ると、街と街道を繋ぐ大きな門にたどり着いた。音は街道から逸れた森の奥から聞こえているようで、既に剣呑けんのんな雰囲気が漂っていた。青年は門の前で立ち止まり、鬱蒼うっそうとした森へ注意を向けた。進むべきかどうか、青年は考えた。


──その時、森の奥から眩い光が放たれ、一際大きな音と衝撃が辺りを駆け抜けた。思わず身構えた青年は次なる衝撃に備えたが、いくら待てどもそれっきり森は黙り込んでしまった。


 青年は元来た道を引き返そうと考えた。しかし、先程森の奥から見えた光に、後ろ髪を引かれる思いを断ち切ることが出来なかった。

「……まいった。どうやら俺って人間は好奇心を抑えんのが苦手な奴みてぇだな」




* * *

 



 青年は雪で真っ白に染め上げられた森に入った。腰に差してあった剣は、今は右手に握られている。所狭しと並び立った大木の間を縫いながら、光が漏れ出た場所を目指してひたすら歩く。


 進めど進めど景色は変わらず、青年は方向感覚がおかしくなりそうになった。それでもなんとか進み続けると、程なくして青年は足を止めた。ほんの数メートル先から、景色がガラッと変わっていたからだ。


(……マジかよ、なんだアレは……!?)


 ()()を視界に収めるのと殆ど同時に、青年は木の影に背中をピッタリくっつけるようにしてしゃがみ込んでいた。


 青年の背後には、根本から薙ぎ倒されたようにして散乱している無数の倒木たち。そのさらに奥、元々木が生えていたであろう場所に()()()がいたのだ。


 青年は息を潜めて剣の刀身だけを木の影から出し、鏡の代わりにして様子を伺った。


(バカでけぇ……2体いるけど、1体は……ありゃ死んでんのか?)


 刀身に写ったのは、青年の三倍はあろうかという巨躯きょくの怪物。白い体毛で覆われたずんぐりとした体に、鳥の脚のような細い手足がくっついている。その白い怪物の傍に、黒い怪物が倒れていた。黒い怪物は地面に倒れ込んでいるうえに背中を向けているため、姿形ははっきりとは分からない。しかし、少なくとも白い怪物と同じくらい巨大であることは十分把握できた。


(ありゃいったいなんて生き物なんだ? 黒いのは白い奴にやられたのか? もし襲われたらこんな剣一本でどうにか出来る相手なのか? 今すぐ逃げた方が……いや、下手に動かない方がいいのか?)青年の頭の中は目まぐるしく回転していた。見知らぬ土地で記憶もなく、好奇心で殆どの行動指針を決めていた青年だったが、この瞬間だけは生存本能が『動くな』と身体に銘じていた。


 青年は鏡代わりにしていた剣をゆっくりと引っ込めようとした。ちらほら雪が降る曇天は太陽の光を遮ってはいたが、万が一にでも剣が光を反射してあの白い怪物に気付かれてはいけないと思ったからだ。しかし、その時──


「……うぅ」という、微かな声が青年の耳に滑り込んだ。青年は引っ込めかけた剣の角度を調整し、再び白い怪物の姿を刀身に反射させた。というのも、声の出どころがまさに白い怪物の方からだったからだ。


(……おいおい、人間だぜ……人間の、女ぁ?)


 先程までの四つん這いから、しゃがみ込むような体勢になった怪物の手には、明らかに人間だと思われる者の姿があった。流石に顔立ちまでははっきりと見えないが、白くて長い髪や華奢な手足が見て取れる。


 うめき声を発していたのだからまだ生きてはいるのだろうが、それも時間の問題であることは明白だった。青年は今度こそ剣を引っ込めて、体の正面で強く握り直した。


(……くそ、何がどうなってんだ……どうすりゃあいいんだよ、誰か教えてくれ!)


 青年はパニックになるのを必死に堪えながら、固く目を瞑った。先程まで気配を殺すために抑えていた呼吸も、意識が回らず荒くなった。


(落ち着け、落ち着け……焦るな、クールになるんだ……)


 青年は数秒かけて深く息を吸い込んだ。そしてまた、数秒かけて息を吐き出す。たったこれだけでもいくらかは冷静さを取り戻す助けになった。青年は固く瞑っていた目をゆっくりと開いた。すると──


「……マジかよ」青年の目の前、固く握りしめた剣に()()()()が浮かび上がっていた。姿見の時と同様、青年の吐いた息が刀身に文字を浮かび上がらせているのだ。


「……クルルルル……」背後からは白い獣が不気味な声を発している。青年はゆっくりと立ち上がり、剣を片手に走り出した。なりふり構わず全速力で、()()()()()


「……クルルッ!?」白い怪物は突如現れた青年に泡を食い、咄嗟に女を掴んだ右手で身体をかばった。その刹那、青年は怪物と目が合ったが、怯まずに剣を振りかぶった。


「うおおおおお!!!」


 青年の頭の中はたった一つのことで埋め尽くされていた。そうする事でとてつもない恐怖を押し殺していた。先程剣に浮かび上がった文字はこう書かれていた……。


『女を助けろ』と──


 


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