1-3
「……さて、まずは私の知っている情報を整理してみよう」
改めてベレンは切り出し、少女は頷く。
「あの事件……私が最初に捜査に関わったのは、未成年の広域誘拐事件だ」
「誘拐……ですか」
少女は少し意外そうな顔をする。
「ああ。だがもちろん、ただの誘拐に宇宙犯罪捜査局が関わることはない。元々は別の警察組織が個別に事件を追っていた。しかしその中で、子供達が連続して宇宙に連れ去られていることがわかったんだ。これらのことはスペース・ポートやスペース・シャトルの記録から発覚した」
「なるほど……」
少女は黙って頷く。
「ここで初めて、宇宙犯罪捜査局がこの事件を追い始めた。我々の仕事は、連れ去られた子供達の行方を追うことだった。その結果突き止めたのが、月の研究施設<ルナティックレイカー>。元々はイギリスの民間研究施設ということになっていたのだが、誘拐された子供の行き先がここだとわかったんだ」
「ルナティックレイカー……そういう名前だったのですね」
「ああ……よくわからない名前だ」
少女はなぜかクスっと笑った。
「あの人らしいです。馬鹿者をもじったものですね。狂気の掬い手ということでしょう」
「なるほど……?」
ベレンはよくわからず首を傾げたが、
「とにかく我々は、その研究施設に誘拐された子供が何らかの理由で集められている、ということを突き止めたわけだ。しかし我々が調べた限りでは、その研究施設はスーパーコンピュータを使った素粒子観測・解析研究施設だった。そんな場所に子供を誘拐する意味がわからない」
「……」
少女は沈黙している。その意味は、まだベレンにはわからない。
ベレンは構わず話し続ける。
「となると、研究内容の申請自体が嘘か、それとも別の理由があるのか……。ともかく我々は、研究施設に対して強制捜査を行おうと証拠を集め、準備をしていた。その矢先だった」
ベレンは思い出す。あの時の驚愕、混乱を。
「――研究施設付近で、巨大なエネルギー反応が観測された。エネルギー反応というと漠然とした表現だが……近いものでいえば太陽フレアだろうか。あらゆる波長の電磁波が瞬間的に強力に放出された。月軌道上のステーションはもちろん、地球上の電子機器にまで大きな影響を及ぼした。ガンマ線の強度が比較的少なかったのは不幸中の幸だったが……」
各所で瞬間的に発生した大規模な通信障害は、様々な組織や人間を大いに混乱させたようだ。
今の時代では太陽風などの大規模な通信障害を引き起こす天体要因は高い精度で予測可能であり、また広範囲に通信障害を起こすような行為は宇宙航行の安全を損なうものとして厳しく禁じられている。
「いずれにせよ、これたけの高エネルギー反応、爆発的な発光現象は、地球や宇宙での人類の活動に深刻な危険を及ぼすものだ。大量破壊兵器や戦略兵器への転用の危険もある。もしこれが彼らの研究によって生み出されたものなら、それが何であれ我々は一刻も早く取り締まらねばならない。発光現象が治まった直後から、我々はすぐに強制捜査に乗り出した」
「それは――」
少女は純粋な声で問う。
「子供の誘拐よりも、深刻な事態だと判断したからですか?」
「それも、ある」
ベレンは慎重に言葉を選びながら答えた。
「むろん、誘拐に対して即座に強制捜査に入らなかったのは、それが状況証拠だけで現行犯は抑えていなかったから、というのもある。だが確かに、残念ながら子供の誘拐と大量破壊兵器密造では、脅威度が――与える影響の大きさがまるで違う」
「……なるほど。確かにそうです」
少女はあっさりと頷いた。その態度が逆に、ベレンの心を痛ませた。
彼は今、大人の理屈で命を天秤にかけたのだ。命の重みを比較するような非人間的な彼の答えをあっさり少女が受け入れたことが、ベレンにとっては逆に自分の残酷さを思い知らされた気分だった。
しかし捜査官としては、人間一人一人の気持ちに寄り添うのではなく、全体の利益を考えて行動しなければならない。
そのために優先順位は厳格に決まっている。それが残酷な現実だった。
「そして我々は、月軌道上で国際救難信号を受信した。我々が月軌道上で見つけたのは、小型の航宙カプセルだった。中には少女が一人だけ――そう、君だけが入っていた。航宙カプセルにも地球までの帰還プログラムが設定されてあり、計算上は燃料も足りていたが……リスクも考え、我々で保護することにした。後は……君が知っての通りだ」
「――はい」
少女は頷いた。
「では、彼らは――<ルナティックレイカー>の研究者たちは……?」
少女の問いに、ベレンは直接答えず、
「君は、取引がしたいと言ったよね」
「――はい、そうでした」
それだけでベレンの意図を察した少女は、やはり八歳とは到底思えない聡明さだった。
「では取引条件として、あの実験の詳細……高エネルギー反応がどのようにして起こったのか、そしてその時私が何をしていたのかをお話しします」
それは、事態の核心に迫る情報だ。
もったいぶることなくいきなりその情報を出してくるのは、まだ幼いゆえの素直さか、取引と言いながらも彼女なりの誠実さがあるのか、それとも――もっと重大な情報があるのか。
ベレンにはまだ判断がつかない。
「あの実験は<フェルミオン・シンクロナイザー>の理論実証実験です」
「フェルミ粒子共振装置……?」
ベレンは困惑する。
「聞いたことないな……一体なんだそれは」
「ええ、あれは理論から彼らが新規に創り上げたものですから……調べてもほとんど情報は出てこないと思います」
少女はこともなげに言う。
しかし、少数の研究者たちが完全新規の理論を構築し、あまつさえそれを実験段階にまで持っていくなどにわかには考え難いことだ……とベレンは思う。
そんなベレンの思考を知ってか知らずか、少女は淡々と説明を続ける。
「<フェルミオン・シンクロナイザー>は、簡略して説明するとフェルミ粒子共振作用を用いてフェルミ粒子からエネルギーを取り出す装置です。今回の理論実証実験では、取り出したエネルギーは電磁波と粒子線、熱エネルギーとして変換されました」
「観測された強力な電磁波というのは、そのフェルミ粒子から取り出されたエネルギーによるものだと……?」
「はい。あなた方が真っ先に観測したのは電磁波のようですが、実際には月面湖の水分子――水素原子と酸素原子も反応し、電子線や陽子、中性子線等も放出されています。月面湖の水もその大半が熱エネルギーによって蒸発してしまいました」
「ふむ……とにかくその<フェルミオン・シンクロナイザー>……によって大きなエネルギーが生み出されて、それが様々な形で放出された……我々が観測したのはその一部……電磁波だというのは理解した」
ベレンは唸り、考えを整理しながら言葉を繋ぐ。
「しかし、そもそもフェルミ粒子からエネルギーを取り出すとは……どういう理屈だ? ……それに。その実験を行うとして――」
ベレンはそこで言葉を切り、
「――その実験が、子供の誘拐とどう関係がある?」
「……順を追ってお話しします」
ベレンの問いに少女は頷き、
「まずは、<フェルミオン・シンクロナイザー>の理論から簡単に。フェルミ粒子からエネルギーを取り出す、といっても、すごく漠然とした話に思えますよね」
「そうだ。フェルミ粒子という括り自体が、あまりに大きすぎるように感じる」
ベレンは喋りながら、かつて大学で勉強し、研究した分野の一部――素粒子物理学の基礎を思い出す。
「フェルミ粒子という言葉自体、クォークやレプトンを含む、ある角運動量を持つ素粒子の総称だ。結局……電子、陽子、中性子も全てフェルミ粒子から成り立っている。それら全てから……エネルギーを取り出す? それは具体的にどうやってだ? 核分裂でも核融合でも、対消滅でもなく?」
「さすが、詳しいですね。はい、仰る通り、核分裂や核融合、対消滅のどれにも当たりません。<フェルミオン・シンクロナイザー>は原子や原子核絵はなく、素粒子そのものからエネルギーを取り出す……それは、素粒子を波動として捉え、波動からエネルギーを取り出すということなのです」
「ふむ……」
腑に落ちない、というベレンの顔を見て少女は言葉を追加する。
「波動そのもの……というと分かりにくいですね。例えば振動する物体からエネルギーを取り出すには、どうすれば良いと思いますか?」
「エネルギーを取り出す……それは、移し替えるしかないのではないか?」
ベレンは思考しながら言葉を続ける。
「例えば熱交換も振動エネルギーの移行だ。熱平衡によって、分子の振動エネルギーが接触面から伝わり、二つの物体の振動エネルギーは等しい値に近づいていく……」
「はい。<フェルミオン・シンクロナイザー>はそれと同じことを素粒子でするだけなんです」
「同じこと……? しかし分子の振動は分子同士の衝突が繰り返させることでその振動エネルギーが均等になっていく。では素粒子は?」
「そうですね。その点で言うならまさに『共振』という名が示す通りなのです。音叉の共振はわかりますか?」
「知っている。しかし……なるほど。漠然とではあるが、少しは理解できた気がする」
音叉の共振は同じ音叉を並べ、その片方の音叉を鳴らすともう一方の音叉も同様に音を鳴らすようになるという現象だ。同じ周波数同士の音叉のみに起こる現象だ。
音叉の共振は片方の振動がもう片方に移動しているように見える。少女が言うには素粒子も同じことが起こる、ということか。
「しかし……結局これは、子供の誘拐とどう関係するんだ?」
ベレンの問いに少女は、
「素粒子の波動を共振させる、と言葉では簡単に説明しましたが、実際のところこれは非常に難しいのです」
それはそうだろうな、とベレンは思う。
そんなことが簡単にできるのなら、既にその技術は実用化されているはずだ。
「対象となる素粒子の周波数を解析し、同じ固有振動数の適切な素粒子を探し出さなければならない。エネルギーを相互移動するための素粒子対これを目的に応じて空間的に適切な組み合わせを一つ一つ探し出し、エネルギー的に接続しなければならないのです」
「そこは、音叉と同じ原理か……」
「ここで必要なのは極めて高度な計測装置と――膨大な演算処理能力を持つ演算装置」
「ふむ……」
まだ話は見えない。
「このような演算用途に対して彼らは――物理的なニューラルネットワークを持つチップセットが有効だと考えた」
「ああ、ニューラルネットワークチップセットならAI関連をメインに導入されているな。この前もアリスメティック・ベータ社が新しいNNPUの開発を発表していた」
「はい、しかし、従来型のNNPU――Newral Network Proccessing Unitでは、彼らの目的には不十分だったのです。確かにNNPUは高精度シリコンダイヤグラムによってニューラルネットワーク構造を再現していますが、これはあくまで従来型――ノイマン型コンピュータの一部品としての使用を想定しているにすぎないもの。発想や役割としてはGPUと同じ――CPUから命令を受けて一部の処理を受け持ち、またその結果を返すものにすぎない。それでは――ダメだったのです」
それは当たり前のことだ。
21世紀も半ばを過ぎて技術が進み、量子コンピュータやNNPUをはじめとする革新的な技術が現れ、その技術が一部実用段階に入っても、まだ多くのコンピュータはノイマン型コンピュータの延長であり、CPU、メモリ、ストレージというそれぞれの部品による構成は変わっていない。
NNPUはあくまでその発想の中で、使いやすい演算用ニューラルネットワークチップとして生み出されたのである。
だが……それでは不十分だったというこか。
「彼らはNNPUではなく、次世代型の――記憶部分と演算部分が分離されていない――ニューラルネットワーク構造のみで構成された演算装置を作り出そうとしたのです。……しかし、それを一から構築することは、非常に難易度の高いものでした」
「ああ、その研究は昔から何度もされているが、私の知る限りまだ実用段階に達したものはなかったはずだ」
ベレンは頷く。
それこそが、ノイマン型コンピュータがいまだに覇権を取り続けている理由だ。
「ですが、正しくニューラルネットワークだけを使った演算処理機構は既に自然界に存在しています。彼らは――その構造を使った」
「まて、それはつまり……」
ベレンの嫌な予感を肯定するように少女は頷き、
「はい、子供を誘拐したのはそのためです」
「……、では、生きた子供の、脳を……?」
ベレンはぞっとする。
もしすると、誘拐された子供は狂気の研究者たちに、生きたまま自分の脳を解剖されて――
「すみませんベレンさん。言い方がややこしかったです」
少女は頭を下げて謝った。
「彼らは、生きた子供の――成長期の人間の脳構造を参考にしたんです」
「参考に、した……」
「そうです。彼らの脳の構造をスキャンして、全く同じ形のネットワーク・シナプス構造を持つ疑似脳の集合体を作り出しました。それが――<ドーマ>」
「そんなことができるのか? 生きた人間の脳構造を解析するなど……そんな技術、聞いたことないぞ」
「いえ……これはそれほど革新的な技術ではありません。あくまで医療技術の延長。MRIと同じようなものです」
「MRI――核磁気共鳴か……」
ベレンは唸る。
「では、誘拐された子供たちはどうなったんだ? それに君は……君も、同じように脳の構造をスキャンするために誘拐されたのか?」
――それにしてはおかしい。ベレンは思った。
ただそれだけのためなら、なぜこの少女はこれほどまでに事情に詳しいのだろう。
そしてなぜ、この少女はこれほどまでに高度な学術的、技術的内容を理解できているのだろう。
「いえ、私は……」
そこで初めて、少女は口籠った。
「私は、<オペレーター>でした」
「……<オペレーター>?」
「ドーマには確かに私の脳構造も反映されていますが、私の役割はそれだけではありませんでした。私は、彼らの研究内容の一部を理解することができた。だから私は、ドーマのコントロールを担うことになりました。ドーマに脳構造が反映されている私だからこそ、できることでした」
「それはつまり、君はあの研究で非常に重要な役割を果たしていた……ということか? それは、君の意思だったのか?」
「それは……はい」
一瞬ためらったあと、少女は頷く。
「そうか……だが、なぜ……?」
少女の答えを聞き、ベレンは一層不可解に思った。
「そもそも彼らはなぜ、こんな危険な研究を始めたんだ? 君はなぜ、その研究に協力した? 君は一体――」
「……ここで、全てを話すことはできません」
ベレンの言葉を遮るように少女は言った。
「全てを話すには、もう一度、あの月の研究施設に行かなければ」
「そうか……」
ベレンはゆっくりと息を吐いた。
「つまり、今君が話せるのはここまでというわけか」
「……はい」
少女は頷き、
「これで、もう一つの条件は呑んでくれますか?」
「もう一つ……?」
ベレンは首を傾げ、
「ああ、彼らが追われる理由とその行方だったな」
「はい」
「追われる理由は最初に話した通りだ。子供の誘拐もそうだが、大量破壊兵器の可能性が懸念される膨大なエネルギー反応を、我々は見過ごすことができなかった。……一応訊いておくが、あの研究は大量破壊兵器へ転用可能かな?」
「もちろん可能です」
少女はあっさり答えた。
「ただしそれは最終的には……ですが。現段階……少なくともあの実験の時点では、あの研究施設……月面湖にエネルギーを生み出すことしかできません。任意の場所にエネルギーを発生させるには、もう何段階か踏む必要があります」
「……逆にもう何段階か踏めば、それも可能だと?」
「その見通しはありました。理論上での話ですが」
「それだとますます放っておけないな……」
ベレンは呟く。
「それで、彼らの行方はどうなりましたか? もう……捕まってしまったのでしょうか」
「彼らの行方か……」
ベレンはなんとなく上の方を見る。
「実のところ、彼らの行方は我々にもわからない。彼らが逃走に使ったであろうスペース・シャトルは見つかったが、彼らの姿は忽然と消えていた。月の研究施設にももちろん捜査は入ったが、彼らは見つからなかった。どちらにせよ、それはすぐに引き上げたが」
「……それはなぜ?」
「月面湖から有害な放射線が観測されたからだ」
ベレンは答えた。
「なので、どちらにせよ我々はしばらく月には行けない。ことの真相は、月に近づけるようになってからだな」
「そうですか……わかりました」