表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/24

廃墟にて

 玄関ホールへと侵入するなり予告なくせまってきたカビ臭さと土臭さは鼻腔をツンと刺激して、思わずむせ返りそうになる。光が十分に届いていないせいでやけに中はほの暗く、外よりじめっとした文字通り陰湿な空気が場を支配していた。ランプやソファーは時が止まったそのままの状態で土汚れをかぶっているのに対して、目の前のエレベーターは電源が落ちている以前に朽ちかけだ。半開きになった隙間から底なし闇を見せつけて、おいでおいでとばかりに手招きをしているように感じた。おどろおどろしい雰囲気に面喰らった僕たちは、おのずと互いの手をきつく握り硬直して立ちすくむ。じっとりと冷や汗をかいた肉球は、血が通っているはずなのにどこかひんやりとしてあたかも恐怖の感情を分かち合っているようだった。

 しばらくの間は立ち往生が続いたものの日が落ちていないことも含め空間に段々と慣れてきて、あらかじめ用意していた二本の懐中電灯で自然にあたりを照らし始めたんだ。僕は手前横の廊下のつき当たりにある扉を調べ、アホは上階に行くための階段を探す。管理室だと思われるその部屋は幸いにもカギが壊れ開いていて、内部では清掃用具が入ったロッカーといくつかのモニターが厚いホコリに埋もれていた。奥の壁に鍵束が吊るされていたのでありがたく頂戴する。

 おーい、とアホの呼ぶ声がちょうど聞こえたのでそちらに向かうと、階段へと続く通路が鉄柵で封じられていた。先ほど拾った鍵束が使えないか、ガチャガチャ何回か試したところ四つ目の鍵で解錠できてやった、と僕らは再びハイタッチする。この先になにか、とてつもなく恐ろしいものが待ち構えているやもしれない。そんな怖いもの見たさでいっぱいな、期待とも不安ともとれる胸の高鳴りをこらえつつ暗路をぬけ階段に足をかけ二階へ駆け上がり、さあ探検だといさんで各フロアを順に見てまわった。

 ——結論からいえば、どこもかしこも施錠されていた。当然っちゃ当然だ。使われてない部屋であれ退去後もとい事件後あけっぴろげのままだなんてずさんな管理はされていなかったのだろう。いくらもぬけの殻になってしまったとはいえだ。鍵束もこれといって役に立たなかった。管理室に置いてあったことからして点検用だったのではと推測してみる。まるで炭酸が抜けたコーラみたいにパンチのないこの探検において怖かったことを強いてあげるとするならば、入り口のフチが完全に塗り固められてドアノブすら取り外された部屋が少なからず存在していたことはそこそこ不気味だった。そこで何が起こってどうして封印まがいにも閉ざされたのか、この頃の僕らには知るよしもなかったのだけど嫌に想像が及んで肝を冷やす思いだったんだ。でも、面白くはなかった。風情は十二分でも、怪現象が発生しなければお化け屋敷にすら劣る。そんなこんなで一通り回りきってしまった僕らは最上階からのびる階段に座って、わざわざ訪れた甲斐がないだの濡れて損しただのおもいおもいにぶつくさと悪態を吐き散らかしていた。幽霊が聞いていたとしてもひょっとしたら同情するかもしれない、なんて。

 そんな折だった。ふと背後のほうからカラコロン、と無機質で不自然な音がした。後ろには屋上へ向かう階段が続いているのだけど途中で頑丈そうな赤錆びた鉄格子がはめられており、ついでに重々しい錠前もぶら下がっている。どうやらなにかが鳴ったのはそのさらに先のようだ。重い腰をあげて一か八かと持っていた鍵束で総当たりに合うか合わないかひたすら繰り返すと、十三番目のひときわ小さな鍵で崩れたように錠前は落っこちてしまった。

 最後の最奥の意外な展開に、はやる気持ちを抑えつつ鉄の檻だったものをくぐる。すこし進むと目の前にとても小さなすすけたドアが、カギもなく待ち構えていた。ドキドキしながら一緒にノブへ手をかけ、せーのと力任せに引っ張る。と、蝶つがいが壊れたのかバキッとドアが外れそのまま僕らは下敷きになった。イタタイテテと思っていたよりに薄い鉄のおもしからはい出る。軽く痛みにもだえつつやっとこさたどり着いた屋上には、これまで見たことのない光景が広がっていた。

 雨雲の群れから顔を覗かせた、かなた遠くで真っ赤に燃える夕焼けの空。ポツポツ光りはじめた数えるのも億劫になるほどの、眼下に広がる街の明かり。そしてそれぞれを鏡として対称に映す、一面の大きな水たまり。そう、連日毎夕の豪雨と排水管がつまっていたことで、屋上の全体が水にあふれていたんだ。膝丈までつかるほどに深く張られた水面には、どこか学校のプールを思わせるものがあった。

 あまりに現実離れした壮観にすっかり見入っていると、いきなりアホに背中を押された。勢いはそのままに、あれよあれよと水に浸かってしまう。水道水のそれとはまた異なるニオイと、ぬるい温度を感じた。

 こうなったらもう誰も男子小学生を止められやしない。バシャバシャはしゃいで水をかけ合い、こりもせず再びずぶ濡れになる。外だから無論水底に泥がたまっていて汚いけれど、すっかり興奮しきった僕らがそんなささいなことを気に留めるわけもなかった。自分たちだけの楽園や秘密基地みたいな雰囲気にあてられて、どんどん行動はエスカレートしてゆく。給水塔に登って遠吠えしてみたり、平べったいパラボラアンテナを浮かせてビート板に乗るようにバランスをとってみたり。しまいには靴を脱ぎ捨て裸足で隣り合った団地へ跳び移るという、まったく危険を省みない遊びをするまでに至った。棟と棟の隙間およそ数メートルの幅を、助走をつけて一気に跳び越えるんだ。もちろん安全ネットなんてものはないし、しくじればすなわち死を意味するに他ならない。そんなスリルとすらいえない無謀ささえ、アホと僕の調子を加速させていったんだ。しかも段々と余裕ができてきて、どちらがより離れた棟に移れるか競う流れになっていた。

 この頃には夕日はとうに沈みかけで、逢魔時が差し迫った薄闇の空模様が目に焼きついている。アホがギリギリ頭から水につっこんで下半身は半ば宙ぶらりんという、もはや着地とすらいえない状態で成功して僕の番が回ってきた。おそらくここでは最も距離のある団地の棟。ここぞとばかりに助走をもうけたって、タッチできるかさえ甚だあやしい距離だ。ビビっていては転落死するのが目に見えてるし、けれどいまさら降参するのも納得がいかなかった。一旦目を閉じて、落ち着いて深呼吸をする。そしてまさしく清水の舞台から飛び降りるような覚悟をもってして僕は、翔んだ。

 空を切っているさなか、やけに自分の動きがスローモーションに感じられた。いや、周りも遅くなっている……あ。これってもしかして、走馬燈とかいうあれか。

 もう、届かないや。

 一匹の黒猫は僅差で建物に触れること叶わず、重力に身を任せおおよそ数十メートルを奈落の底へと落ちていった……かにみえた。


 ここからはあとになってアホから聞いた話だ。 僕が視界から突然消えたときてっきりどこかにふざけて隠れているのかと、はじめアホは思ったらしい。けれど声をかけども返事がないし、何より気配がなくなっていた。そのことに気が付いた刹那、一気に嫌な予感が頭の中をかけ巡ったという。すぐさまそれは確信へと変わり、夏だというのに背筋につららが刺さってみぞおちまで貫かれるような鋭い感覚に襲われたそうだ。夜闇の迫る廃墟の屋上に独りきり、うまく呼吸することもできず、動くことすらままならない。自分が誘って連れてきた幼なじみが目の前でおそらく死んだと思われる状況はさぞ苦しかったろうに違いない。

 そんな折だった、とアホはのちに語る。突如として天をつんざくようなおびただしい数のケモノの断末魔が敷地全域に響きわたり、地震とは明らかに異なる強い揺れが建物を襲った。それと同時に身体の自由が利くようになって、ぐしゃぐしゃに泣きじゃくりながら階段を七つ八つ飛ばしする勢いで走り転がり出るようにして団地を脱出したらしい。ほうほうの体でところどころつまずいてボロボロになりつつようやく抜け出しても、とにかく灯りがあるところ目指し傷だらけの足を止めなかったそうだ。近くのコンビニに飛びこみ要領を得ないもつれた舌で必死にさっき起きたことを店員に伝え通報されて、いよいよこの件は大ごとになってくる。警察や救急どころかレスキュー隊すら駆けつけて、ほぼ確実に死んだであろう僕の捜索がはじめられた。ちなみにアホの親御さんがくる前に僕の母親がズカズカとやって来て、事情を聞く警察を前にしてはり倒すわつかみかかって罵詈雑言の限りを浴びせるわでだいぶひどい仕打ちを受けたらしい。実の子を亡くしかけた親とはいえあのヒステリックさはおぞましすぎるというあたり、二重に三重にトラウマを植えつけられたアホも阿呆なりに大変だったのだろう。

 団地周辺を囲い、地面に死体が落ちていないか探し続けるという絶望的な二時間弱が経った先のことだった。落下したと思われる地点のきっかり31m上付近に、何かがぶら下がっていると一隊から連絡が入った。もはや葬式ムードだった現場はまさかと一瞬どよめいたが、万が一のため別の一隊がハシゴ車を伸ばし確認する。それは、まさしく僕だった。しかも見た目生きていて怪我一つしていない五体満足そうな黒猫が、夜のビル風にひるがえっていたのだ。その知らせを聞いたアホの反応ったら、どっと安堵があふれてなにもいえず、うつむいて嬉し涙する他なかったらしい。

 ただ、不可解なことが一つ残った。というのもぶら下がっていた僕のありさまが、それこそ実に奇妙だったらしいんだ。実際に救出してくれた隊員さん曰く、遠目に見て何かに引っかかっていたわけでも捕まっていたわけでもなさそうなので最初壁にくっついているのかはたまた宙に浮かんでいるのか疑問に思ったという。隊員さんがハシゴ車を近づけ見上げてみると、その答えは目の前にありありと示されていた。僕の爪は、廃団地の一棟を途中まで大きく真っ二つに切り裂いていた。深く刻まれた亀裂の隙間に指を引っかけ、なんでもないような涼しい顔ですやすやと寝息をたてて干されていたんだ。高層建築の屋上から真っ逆さまに落下したごく普通の猫の少年、しかもただの小学五年生が。

 我ながらこんな話、信じられない。でも僕はこっぴどく叱られ日常に戻って、現に生きている。

 この一件の落着から、早三年が経過した。 事件以降すぐ廃団地はより厳重に全面封鎖となって、それまでのもたつきが嘘のように解体工事が進んだ。跡地となってからは幽霊沙汰なんて、今や見る影もない。それどころか現在は、新しい工事のまっただ中にある。

 一筋の黒線が空を裂いて、天へと延びてゆく。それは大気圏をはるか越えて上空36,000kmの静止軌道上のターミナルへと接続し、ケーブルはその先の巨大な鉄球によって常につり合いを保ち張り詰めている。

 一般には軌道エレベーターと呼ばれる馬鹿みたいにデカい建物。地表では廃団地跡を中心として巨大なプラントが建造されている真っ最中だ。ちょっと前、住民の大多数の反対を押しきって地区の三分の一が新興企業国家“アストラル・アークマトン”によって買い占められる大事件があった。ほとんどが莫大なお金の力によって黙らされたけれど、それでもしばらくの間、大人たちは喧々でゴウゴウの大騒ぎだったんだ。

 不定期に試運転として稼働するエレベーターの発する低周波は、およそ40km離れたここからでも微かに感じ取ることができる。その得体の知れない地響きみたいな持続音は、僕にはなんだか不吉なざわめきのように思えた。音波は今日もうっすらと広がり、都市近郊を覆いつくしていく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ