梅干しの効能①
佐久間の男は早死にする家系だと聞いていた。
小夜の父・茂は五十歳、祖父は三十歳を目前にして亡くなった。佐久間家の仏間に飾られていた男性陣の遺影も若い人が多かったように記憶している。
その中にあって、他家から嫁入りしたおかげか祖母・久理子は八十歳を過ぎても元気にしていた。健康診断はほぼ問題なし。ちょっと高かったらしい血圧は「この年齢になって、どこもおかしいところがない人のほうがおかしい」という本人の弁を借りれば、ある意味では年齢相応だったのかもしれない。
――それに。
無意識のうちに奥歯をかみしめていたことに気づき、口を閉じたまま奥歯を離す。止めなければと思いつつ、気づくとかみしめてしまっている。
顔を上げて車窓の向こうを見れば、マンションやビルといった背の高い建物はあるものの、東京のような圧迫感はない。穏やかな街並みとともに時間の流れもすこしだけ緩やかに感じられる街だ。
ここまでは見れる。だがその先、海側に広がる景色を小夜は見ることができない。この十年ほど、あえて避けてきたと言っても過言ではない。
あの日を境に変わってしまった街だ。がれきは撤去され、倒壊した建物も解体されて街は復興を果たしたように見える。その綺麗に整備された街を目にする都度、当時何もできなかった現実を突きつけられる。
みんなが辛くとも歯を食いしばって生活しているのに、目を背けて逃げた。そして街が落ち着きを取り戻してから、何もなかったかのような顔をして戻ってきた。誰もそんなことは言わないのに、そう思ってしまうのは事実だからだ。
東京にいたのをいいことに、すべてを久理子と母・明美に甘えた。二人とも大切な人を亡くしていたにも関わらず、初孫と一人娘を甘えさせてくれた。
だが、今度はそうはいかない。久理子が亡くなった以上、当事者は小夜だけだ。そして今度は逃げることができない。
――織衣ちゃん。
十五歳、高校生になったばかりの女の子を身一つで無情に放り出せるほど、小夜の心は強くない。
電車が減速し、先日も聞いたばかりの駅名のアナウンスが流れたところで網棚から荷物を下ろし、キャリーバッグを引いて電車から降りる。
お昼過ぎで利用客もまばらな時間帯に、右手でキャリーバッグに紙袋二つを持ち、左腕にバッグを下げて歩くアラサー女性というのはどのように見えているのだろうか。これが東京なら誰も注意を払わない。主張帰りか旅行帰り、または時期をずらしての帰省かと思われているだろうか。
「小夜さん」
バッグから乗車券を取り出し、改札を出るのにまごついているうちに女性に声を掛けられる。誰かと思って見渡すと、キャリアウーマン然とした女性がキーケース片手に手を振っている。久理子が亡くなった時にお世話になった尾崎の妻・紀香だ。
「紀香さん」
「行き違いならなくてよかったです。今日来るって聞いていたから、こちらに来てみました。送っていきますから乗ってください」
「そんな、悪いです」
「構いませんよ。先客がいるので」
「先客?」
言いながら紀香は小夜の右手から荷物を引き取ると、駐車場に向かって歩いていく。その有無を言わせなさに従い、バッグ一つで身軽になった体で紀香を追う。
「織衣ちゃんの入学式、出席していただいてありがとうございました」
小夜は織衣の入学式に出席できず、代理で紀香が出席してくれた。
「私も久しぶりに入学式に参列できて楽しかったので。東京は引き払ってきたんですか?」
「えぇ。学校の方は今月末での退職扱いですけど」
キリよく三月末で退職してもよかった。だが後任の先生との引継ぎが意外と長引いた。それにこれからの収入がどうなるかわからない以上、いくらでも収入はもらっておきたい。自分一人なら構わないが、養わなければならない子がいる。
「いただけるものはきちんといただくに越したことはありません。……私がこんなこと言うのもアレですが、退職でもめて争うことになるケースもありますから」
紀香は夫同様、自身も弁護士として活躍している。夫の尾崎が離婚や家族関係を専門にするのに対し、紀香は労働事件を主にしているそうだ。
紀香は車へ向かう道すがら声を落とし、若干早口になる。
「ご近所で織衣ちゃんが、茂さんが浮気して外でつくった子だという情報が広まっているようなのでご報告までに」
「……わかりました。ありがとうございます」
ちくりと胃が痛む。
田舎はこれが怖い。秘密なはずの、よその家の家庭の事情が公に知られている。
満子が言うように、佐久間家の事情が「外でつくった子」だ。
茂は浮気性で仕事も長く続かず、ふらふらしていることの多い人間――しいて言えばヒモ――だった。それでも明美が茂と離婚しなかったのは、子煩悩だったことと茂の見た目の良さだ。小夜が熱を出して保育園から呼び出しが来れば迎えに行って病院へ連れていき、慣れないながらも看病をする。長期休暇の際は必ず遊びにつれていき、学校行事にも参加する。
そして茂は、昔で言うなら二枚目という端正なルックスをしていた。
『見た目がいいから浮気くらい大目に見てたのよね。最後は小夜かわいさで、私のところに帰ってくるって高をくくっていたのよ。それが子どもつくったのは誤算だったわ』
浮気は大目に見ていたものの、子どもができれば話は別だ。幸い、明美は医師として小夜と二人で暮らせるほどの収入があり、即離婚となった。それ以来、小夜は新しい家庭を持った茂とは会わなかった。
そうして茂と浮気相手であった女性との間に生まれたのが織衣だ。小夜からすれば腹違いの妹に当たる。亡き両親の事情を織衣は一切知らなかったし、茂が以前に別の女性と結婚していたなんて夢にも思わなかっただろう。
久理子の葬儀の際、久理子の近所に住む満子が口を滑らせて茂の浮気を織衣に知られることになった。
『浮気相手の子どもなんて面倒みてやる必要ないじゃない! 私なら絶対嫌! ざまあみろって思うわよ』
人間は切羽詰まった時に本音が出る。きっとあれが満子の本音だと小夜は睨んでいる。
――これからもっといろいろ出てきそうなんだよね。
頭をよぎるのは織衣の伯父夫婦を名乗る人物だ。本当の伯父夫婦かは尾崎が調査中との申告だが、本物だったらだったで何かありそうな気がして仕方ない。
「第三者に後から耳に入れられても困惑されるかと思いますので、先にストレートに言っておきます。満子さんは小夜さんを追い出したいみたいです」
「……織衣ちゃんが、私を追い出したいのではなく?」
「満子さんです」
織衣ならわかる。久理子と長く二人で暮らしてきた家に、実は持ち主ですと小夜が出てきては面白くないだろう。
だが満子は他人だ。小夜が戻ってきたところで不利益を被ることもない。久理子から土地を買い取るときに、明美が謄本で確認したが所有権や抵当権に不審な点はなかったと言っていた。
「そこまで言えば、近所で噂を流しているのも誰か察しが付くかと思いますが」
「……そうですね」
名前を出さないだけの分別はある。おそらく尾崎夫婦も噂の出所には感づいていて、頭を悩ませているのだろう。
「なんかすいません」
「いいえ。小夜さんや織衣ちゃんが謝る必要は一切ありません。私もそうですが、日本人はすいませんと言ってしまいがちですが、自分に非がないのにすいませんとは言ってはいけません。世の中、言葉尻を変にとらえる人もいますから。特に誰、とは言いませんけど」
「すいま……ありがとうございます」
すいませんと言いそうになるのを言い換えると、紀香は満足げに微笑む。年齢不詳の美魔女だ。
「なんでこっちに戻ってきたのとか素知らぬ顔して聞かれるかもしれませんけど」
「母もこっちにいるので、いつかは戻るという選択もしなきゃいけないと考えていたので。それが少し早くなっただけですから」
万が一に備えてあらかじめ用意していた回答を口にすると、紀香は正解というふうに頷く。