思い出ケチャップライス⑧
――それでも十分にそろってるのは、さすが食堂経営者よね。
キャスターにはひじきや切り干し大根などの乾物、パスタにカレールー、かけるだけのパスタソースやレトルト食品も揃っている。おからパウダーにオートミールなど、久理子世代からすれば「ハイカラ」なものもストックされている。
「野菜をスープとサラダにして、メインは……」
肉も魚も賞味期限は過ぎている。卵は賞味期限内だから、卵をメインにするしかない。
「……オムライス?」
子どもっぽいと言われるかと思えば、織衣は意外にも素直に頷く。
「パパが作ってくれた」
「包むやつ? とろとろの?」
「ケチャップライスに薄焼き卵かけるだけの」
あれかと思う。
久理子は食堂を経営していたが、その息子である茂は料理の方はさっぱりだった。それでもたまに頑張って、それらしきものを作ってくれた。
ほのかにカレーの味がするチャーハン、生肉を触りたくないからと鶏肉の代わりにちくわを使った親子丼だった。カレーとシチューのルーを両方入れた謎の煮込み料理もあった。
その中でも食べられる味だったのがオムライスだ。
玉ねぎ、人参、マッシュルームとベーコン(茂は生肉を触りたくない)を炒め、冷やご飯を投入したらケチャップで味をつける。それをお皿に盛り、薄焼き卵をかけたら、ケチャップで名前かハートやお星さまを描く。
小さな子供はケチャップ味のものが好きだ。小夜も当然、ケチャップ味のものが好きだったから茂のオムライスは好きだった。ケチャップライスだけではダメで、上に薄焼き卵が載っていなければならなかった。
「チキンないから、ベーコンでいい?」
「ベーコンかウインナーだった」
育った環境は違えども、茂に食べさせてもらったオムライスは同じようだ。
材料を手早く用意し、ケチャップライスを作り始める。トマト缶もあったが、茂のケチャップライスはケチャップ一択だ。
玉ねぎを切っていると、カウンターの向こうにいる織衣が口を開く。
「パパ、ママと浮気したの?」
「……そうみたいだね」
「淋しかったら、浮気していいの?」
「私は結婚したことないから、なんとも言えないけど……」
小夜も中学生になって、茂と一緒にどこかに行く機会は減った。年頃の子どもというのはそういうものだろうと思うが、成長して小夜が離れていったことが茂は淋しかったのかもしれない。
「淋しいなら女に走らないで、仕事すればよかったのにね。仕事してたら淋しいなんて思ってる暇ないのに」
「長続きしない人だったから」
久理子から連絡をもらって、茂の借金を知った明美は後悔していた。甘やかしすぎた、と。
自分たちの離婚はさておき、子どもを養うためにきちんと働くよう言っておけば死ななかったかもしれない。借金と幼い子どもを残して、久理子を苦労させることはなかったかもしれない。
明美は口にはしなかったが、甘やかしすぎたという一言に明美の後悔が詰まっているような気がした。
「大きな子どもじゃん」
「……そうだね」
淋しいから淋しさを埋めてくれる人の方に走った。自分でその淋しさを解消しようとはせず、楽な方に走った。それが茂だ。
玉ねぎを切ってにじんだ涙をぬぐい、火にかけたフライパンに油をひく。
「奥さんが忙しくて自分に構ってくれないから浮気したってことを肯定する人もむかつく」
満子か。
ようやく織衣が言いたいことに気づく。織衣は茂より、茂の浮気を肯定した満子にいらだっている。
――浮気相手の子どもの面倒なんかみてやる必要ない。ざまあみろ、だっけ。
満子は茂の浮気は肯定しつつ、浮気して授かった子どもは否定した。何がしたいかわからない人だ。
「満子さん?」
「私、あの人嫌い」
「……外で言っちゃだめだよ」
「わかってる。……だから美由紀ちゃんも出て行ったのに、それも他人のせいにする」
言われてみれば、満子の娘・美由紀の話が一つも出なかった。
十分に熱されたフライパンに玉ねぎを投入すると、ジューといい音がする。
「美由紀ちゃん、家を出たの?」
「勉強嫌いなのに、滅茶苦茶勉強して東京の大学に行った。有名なところならプライドの高いおばさんも満足するだろうからって、大学名と引き換えにおばさんから逃げていった」
「逃げたって……」
「本人が言ってた。あの人の近くにいると、こっちがやられるって」
「やられる?」
穏やかでない言葉に聞き返す。まさか虐待かと思うものの、ときが同居しているはずだからそれはないと思い直す。
「メンタル。自分が正しいって善意を押し付けてくるって。悪意のない善意だからたちが悪いって。少しでも拒否れば声を荒げて怒るから、親の機嫌とって暮らすより他人と暮らしたほうがいいって」
そういう保護者の話を聞いたなと思い出す。担任教師といっても他人の前では物わかりのいい母親で、子どもの進学先本人の意思を尊重させたいと仲がいい子が多く進学するB高校への進学を了承していた。
だが三者面談を終え、帰ってからが子どもにとっては地獄だった。どうしてワンランク上のA高校じゃないんだと詰られ、志望校をA高校に変えるまで口を聞いてもらえなかったそうだ。
突然の志望校変更に驚いた教師が母親と話そうかと提案したものの、その子は力なく首を振って言ったそうだ。
『どうせ他人の前ではいい顔して、後でこっちがキャンキャン言われる。……言うだけ無駄』
その後、その子は親の希望通りA高校に進学した。その後、その子がどうなったかを小夜は知らない。
野菜を炒め、冷やご飯と混ぜてケチャップで味をつければケチャップライスは完成だ。ケチャップライスをお皿に移し、フライパンに油を追加する。ボウルに割り入れた卵を溶き、フライパンに流し入れて薄焼き卵を作る。
「こっちに来ると、あの人にやられるよ。……何言われるかわかんないし」
「そうだね。でも」
卵を返し、両面に火が通ったところでケチャップライスの上に乗せる。これで茂のオムライスは完成だ。
「なんとか続けるよ」
「……いいの?」
織衣の問いかけに、小夜は頷く。
逃げることは簡単だ。だが小夜は久理子と約束した織衣のことはもちろん、茂のこともある。
――私はお父さんの死からも逃げた。
織衣が言うように、小夜は茂が亡くなった連絡を受けても帰ってこなかった。手を合わせに来たのは、だいぶ落ち着いた夏休みに入ってからだ。
だからいまだに実感がないし、久理子の部屋に飾られた茂の遺影を見ても違和感しかない。
飄々とした茂を思えば、そのうちひょっこり出て来るのではないかと思ってしまう。子煩悩な茂を思えば、それはないとわかっているのに。
「いざとなったら尾崎さんがいるし」
たまに適当なことを言っていても、その道のプロだ。相談料は取られるかもしれないが、相談には乗ってくれるだろう。
「あのおじさん、結構適当」
織衣が鼻で笑うも、バカにするというふうではなく親しみを感じる笑い方だ。
「満子さんに真っ向から文句言える人、いないから結構痛快だけどね」
織衣からもたらされる満子情報になるほどと思ってしまう。
おそらく昔は、とき以外にも注意したりしてくれる友達がいたのだろう。それでも皆、徐々に距離を取り始めて満子から逃げて行った。それは娘の美由紀しかりだ。
「寮母さんだと思えばいいんだよね」
「そう」
改めて織衣の目をまっすぐに見る。ぱっちりとした大きな二重の目とぷっくりとした唇は小夜と正反対だ。きっと小夜と織衣を姉妹だと見抜く人はいない。
「織衣ちゃんの保護者から、あなたを託された寮母。だから私はあなたから逃げない」
織衣から逃げてはいけない。
茂の死に向き合わなかった小夜が、茂にできることは久理子に代わって織衣が自立するまで見守ることだ。茂にも久理子の最期にも立ち会えなかった小夜ができる唯一の償いだ。
「満子さんからは?」
答える代わりにため息をつくと、それを満子に対する意見だろうと受け取ったようで不敵そうに口角を上げる。
「あの人、私以上に面倒だから、適度にスルーした方がいいよ。東京から戻ってきたら、いない間の面倒みてあげたとか恩着せがましく言う」
「……肝に銘じておく」
相談できる人がいればと思ったが、案外近くに相談できる人はいたようだ。
カウンターの向かいからスプーン片手に手を伸ばした織衣は、オムライスを手に取ると立ったままオムライスを口に運ぶ。
口に合っただろうかとドキドキする思いを隠しながら、同時に作っていた野菜スープを器に盛りつけてカウンターに置く。次いでサラダも出せば、少し早い夕食の完成だ。
「やっぱ、できる人が作ると違う」
「……口に合わなかった?」
小夜が問えば、織衣は首を振る。
「こっちの方がふつーにおいしい。パパのはなんか、べちゃっとしてた気がする」
「水分飛ばさなかったんだろうね」
小夜も茂手作りのオムライスを食べたのは十年以上前のことだ。当時は料理に関する知識もないから、茂が作るオムライスはべちゃっとしているのが当然だと思っていた。
「あんまり覚えてないけど、小さい頃はこれがおいしいと思ってた。思い出補正?」
「好きな人が自分のために作ってくれて、一緒に食べたからおいしかったんじゃない?」
小夜も、おいしいと思って食べたはずだ。思い出すと涙が出そうになるのを、唇を軽く噛んでこらえる。
織衣の前で、茂を思い出して泣くわけにはいかない。茂は、織衣のパパとして逝ったのだから。
小さく頷いた織衣は、サラダとスープにも手を伸ばし、綺麗に完食した。
「お肉とかないから物足りなかったら、夜食も用意しておく?」
「また夜中に食べたら太るからいい。あと、オムライスはやっぱりおばあちゃんのやつが一番いい」
「包むやつ?」
「うん。オムレツみたいにしっかり包んであるやつ」
織衣が指すオムレツは久理子が作るミートオムレツのことだ。オムレツといえばひき肉がぎっしり入ったミートオムレツが佐久間家の定番だったから、世の中でいうオムレツが自分が食べているものと違うことを知った時は衝撃的だった。
「わかった。東京から戻ってきたら作るよ」
「それと」
織衣は覚悟を決めたような顔をして小夜を見る。小夜も織衣の真剣な表情に、包丁を持つ手を止める。
「私、お姉ちゃんだって思ってないから」
「……うん」
「書類上はそうかもしれないけど、お姉ちゃんって呼ばない」
「わかった」
「……いいの?」
織衣が眉を顰める。本当に自分の話を聞いていたのか訝しがられたのかもしれない。
「いいよ。逆の立場だったら、戸惑うと思うから」
戸惑ったあげく、それまで好きだった茂を軽蔑するかもしれない。借金を残していても茂をどうにか軽蔑せずにいられたのは、存命中は再び浮気することがなかったからだ。明美と小夜の元からは去っても、織衣の父親でい続けてくれた。
「……だから」
「ん?」
「オムレツ、約束だから」
後半を消え入りそうな声で言うと、わずかに顔を赤くして織衣はキッチンを出て行った。とんとんと階段を上っていく音に自分の部屋に戻ったのがわかる。その足取りは出会った当初に比べれば大分軽い。
「なんとかなるかな」
一人呟いて、冷蔵庫の食材を片付けようと料理を再開させる。
手慣れたいつもの料理なのに、咲くまでかいだ優しい温かな香りが鼻先をかすめたような気がした。