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思い出ケチャップライス⑦

「満子さん、帰ってくんね?」

「なんでですか? 私をご近所代表にって選んだのは――」

「いいから、帰れ」

 顔をこわばらせているときは、織衣の表情に気づいているようだ。

「だって――」

「パパ、浮気したの?」

 織衣の声に、はっとしたのは満子だ。

「違うのよ、織衣ちゃん。お父さん、織衣ちゃんのお母さんと結婚してからは浮気してないから」

「浮気して離婚されたんだよね」

「浮気っていっても、前の奥さん忙しい人だったから。お父さん、淋しかったんだよ」

 確かに明美は夜勤もあって多忙だった。

 だけど――

「淋しかったら浮気していいの?」

「それは、ほら、ね……」

「淋しいのは同じだよ」

「え?」

「奥さんが忙しくてパパが淋しかったなら、子どもだって淋しかったでしょ」

 織衣がまっすぐに小夜を見る。

 答えなければならないと思う。でも正直に答えていいのか、どう答えるのが織衣にとっていいのか。

「それはね、ほら……」

「満子さん、姉妹同士で話させたいから席外してくれね?」

 口を滑らせ、織衣への説明にしどろもどろになっていた満子は先ほどとは打って変わり、ほっとした顔を見せる。

「じゃあ、お母さん」

「ときさんは俺が送っていくから。先人の知恵をちょっとお借りしたいからな」

 ときが残ることには不服そうな顔を見せつつ、満子は逃げるように帰っていった。

「織衣ちゃん、小夜ちゃん、うちの満子がごめんなあ」

 満子に代わって頭を下げるときに織衣は首を振り、小夜は「こちらこそ」と頭を下げる。

「ばあちゃん、悪いな」

 尾崎の言葉に、ときはゆるゆると首を振る。

「小夜ちゃんがここで食堂やって、織衣ちゃんと生活するから。俺と一緒に二人を見守ってもらえる?」

「久理子さんが先に逝ったら、そいづはおらの仕事だからな」

「ありがとう。何か質問とか心配な事、言っておかなきゃいけないこととかある?」

「んだなあ……小夜ちゃん、一回東京さ戻んだべ?」

「そうですね。退職の手続きとマンション引き払わなきゃいけないので」

 まずは退職を申し出るところからだ。年度末の急な退職だから迷惑をかけるのは目に見えている。任期付き教員の採用も考えなければならないことを考えると胃が痛い。

「そうなんだよなあ。その間、織衣ちゃんをどうすっかなあ……」

「うちでみてもいいんだけど、満子がまた余計なこと言うから」

 尾崎とときがため息をつく。

 そうだ。小夜が東京に戻って再び佐久間家へ来る間、織衣は一人きりになってしまう。

 頼れる人として思い浮かぶのは明美だが、明美は茂の元妻だ。明美が気にしなくても、織衣は気にするだろう。

「私、来ましょうか」

 ふと聞こえた声に、全員が顔を向ける。

 誰かと思えば紀香だ。自称・伯父たちに続いて満子を見送って来たらしい。

「そうだな。あとは家政婦さんちょっと頼んで、小夜ちゃんが来るまでなんとかなるな。小夜ちゃん、織衣ちゃんそれでいいか?」

「えぇ」

「私、一人でもいい」

 ぼそっと呟いた織衣に、尾崎は激しく首を振る。

「ダメだ。あの伯父さんたち来るかもしれねえだろ」

「それなら、私と一緒にご飯を食べましょう。正直、むさくるしい親父と食べるより織衣ちゃんと食べるほうがおいしいと思います」

「むさくるしい親父で悪かったな」

 紀香の言葉に尾崎が反論し、小さく笑いが広がる。空気が幾分緩んだことを確認した尾崎が続ける。

「そういうことで決まりだな。何かあったら、俺でもそこのおばちゃんでもいいから連絡しろよ」

「……おばちゃん?」

「いえ、うちの美人の奥様です」

 紀香に睨まれた尾崎が姿勢を正し、そのやり取りを見ていた織衣がふっと笑う。小夜も織衣が笑う姿を見て、ほっと胸をなでおろす。

 どうやら第一関門はクリアしたようだ。


 大人はやることが多い。

 紀香がときを送りがてら必要なものを買い出しに出掛け、尾崎は防犯カメラを設置すべくホームセンターへと向かった。小夜は冷蔵庫の片付けを兼ねた織衣の食事の準備だ。

 自宅と食堂に食堂があり、食材も十分に入っていた。自宅の冷蔵庫の中で鮭の切り身が二人分、鶏肉が入っているのを見ると夕飯は鶏肉を使って、翌朝は鮭を焼いてご飯とみそ汁が並んだのだろうなと思ってしまう。

 きっと久理子は翌日も、その次も当たり前に続くと思っていたはずだ。織衣とご飯を食べて食堂を開ける。その日常が突然奪われることになるとは思わなかっただろう。まだまだ元気で、織衣が自立するまでは生きるつもりだった。

「おばあちゃん……」

 冷蔵庫を開けたまま、浮かんだ涙をぬぐう。

 久理子と対面しても火葬をして骨を拾っても流れなかった涙が、今になって流れてくる。久理子が亡くなって初めて流す涙は久理子を失った悲しみより、まだ生きるつもりだった久理子を思う悔し涙だ。

 他人は八十歳過ぎまで生きればいいと言うかもしれない。だが久理子は志半ばだった。織衣を社会に飛び立たせるまで見守ることはできなかった。誰よりもその死を悔いているのは久理子自身かもしれない。

「……何か変なもの入ってた?」

 不意に声を掛けられて振り向けば、キッチンカウンターから織衣がこちらを見ている。小夜の涙に気づいたのか、織衣は慌てふためく。

「たまになんか入ってるから」

「なんか?」

 涙を拭って問う。見たところ、自宅の冷蔵庫には変わったものは入っていなかった。

「……ほや」

 顔をしかめる織衣に、あぁと声を上げる。

 ほやは海のパイナップルとも呼ばれ、酒のつまみとして好まれる。呑む明美はもちろん、久理子もほやを好んで食べていた。

「おばあちゃん、好きだったもんね」

 確か茂もほやをつまみにしていたが、小夜はその独特なビジュアルと匂いが苦手だ。明美のつまみ用に捌くことはあるが、自分では食べない。

「日本酒と一緒だとおいしいって言ってた」

「いける口だからね」

 織衣の言葉に苦笑する。いける口の久理子は料理人らしくつまみと一緒に飲むお酒にもこだわりがある。その久理子が言うのだから日本酒とほやの組み合わせは説得力がある。

 一方、アルコールなら何でもいける口の明美は、ビールにも日本酒にも合わせる。梅酒に合わせていたこともあったと思い出す。

「梅酒……」

 ふと思い出し、冷蔵庫の前から移動してシンクの下をのぞく。だがフライパンや片手鍋があるだけで、目当てのものは見つからない。

「ないことはないんだけど」

「何探してるの?」

 織衣は眉を寄せ、不機嫌そうな声を上げる。

 名義は小夜と明美でも、住んでいるのは久理子と織衣だ。小夜に冷蔵庫を開けられたり、シンクの下をのぞかれたりするのはプライベートを無断でのぞかれているようで面白くなかったかと反省する。

「梅酒、毎年作ってたと思うんだけど……」

 庭の片隅に梅の木がある。その木になった実を使い、久理子は梅干しや梅酒を作っていた。その梅干しや梅酒は茂と離婚した後も、明美がおすそ分けとしてもらっていた。

「カウンターの下」

「あった」

 久理子お手製の梅酒の隣にある小さな壺も見覚えがある。梅干しの壺だ。開けてみれば案の定、赤い梅干しが詰め込まれている。

 これは久理子が漬けた最後の梅干しと梅酒だ。小夜がそう簡単に使っていいものではない。あることだけを確認し、壺を元の位置に戻す。

「何かアレルギーとかある?」

 小夜の問いに織衣は首を振る。それなら使ってはいけない食材はない。

 育ち盛り食べ盛りの織衣は肉を食べたいかもしれないが、賞味期限が過ぎていたので使うのは控える。使えるのは卵と野菜、缶詰や袋詰めなど保存がきくものだけだ。

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