思い出ケチャップライス④
「戸籍謄本だな。戸籍謄本知ってるか?」
「……知らない」
「人の生まれてから死ぬまでの公的な記録だよ。誰と誰の子として生まれて、出生届を出したのは誰かから始まって、誰と結婚して子供は誰か、いつ亡くなったかまで書かれてる。小夜ちゃんのは今までのものだけど、お父さん――茂さん――のは、最初から最後まで全部記載されてる。どれ、おっちゃんが説明してやるか」
尾崎は織衣から見えるように戸籍謄本を置いて指をさす。
「茂さんだな。茂さんは佐久間保さんと久理子さんの長男として生まれた。そして愛澤明美さんと結婚。この長女・小夜ってのが、小夜ちゃんだな」
尾崎のファイルからもう一枚、書類を取り出す。
「それでこれが小夜ちゃんの謄本だ。父・佐久間茂、母・明美の長女って書いてあるだろ。出生届、お父さんが出したんだな。それで茂さんの謄本に戻る。小夜ちゃんが生まれて、しばらくして明美さんと離婚。そして小夜ちゃんだ。両親の離婚、親権者は母、お母さんの旧姓の愛澤に改姓したから、今は愛澤さんだ」
佐久間で過ごした年月よりも、愛澤を名乗る年数の方が長くなった。佐久間小夜であったのは、ひどく昔のように感じてしまう。
「茂さんを見ると、明美さんと離婚してから佐藤星子さんと結婚してるな。それで生まれたのが織衣ちゃんだ。以上、姉妹関係の説明終了! 文句は受け付けんが、何か質問は? 文句は生ききって、あの世に行ってから親父にぶつけてくれ」
尾崎が言い放ったところで、インターホンの音が鳴る。弔問客かと振り返れば、小夜を制して満子が出ていく。
弔問客だったとしても、小夜には誰かわからない。満子なら近所の人たちや、久理子と付き合いのある人も知っているだろう。
――久理子の付き合いを何も知らない自分は足手まといかもしれない。
「尾崎弁護士事務所の方がお見えですけど」
満子の言葉と共に入ってきたのは紀香だ。
「諸々の届け出、終わりました。あとは故人の遺志で家族葬ということで――」
「織衣ちゃん⁉」
紀香の言葉を遮るように立ち上がった織衣は、和室を出るとドンドンと足音を立てて階段を駆け上がっていく。続いてバタンと部屋のドアを閉める音が聞こえる。
「私、見に行きましょうか」
二階を指さす満子に、尾崎は首を振る。
「しばらく一人にしておいてやれや。それに満子さんにはご近所代表として、今後のことも含めて少し話聞いてほしいんだわ」
「えぇ。でも先に、小夜ちゃん」
満子が手のひらで示すのは北枕で眠る久理子だ。満子に促され、小夜は先ほどまで織衣が座っていた場所に腰を下ろす。
満子が久理子に手を合わせ、顔にかけられていた白い布を上にあげる。現れたのは間違いなく久理子だ。小夜が知っている穏やかな久理子のまま、安らかに眠っている。
「おばあちゃん……」
呼びかけたところで、久理子が目を覚まさないのは知っている。それでも声をかけてしまう。きっとこうして堂々と名前を呼べるのは、これが最後だと知っているからだ。
その小さな顔にはしっかりと皺が刻まれている。その一つ一つが、久理子の人生の苦難を物語っているようだ。
夫を早くに失い、女手一つで育てた一人息子の茂は、十年ほど前の震災で失った。夫を看取り、震災の後に見つかった茂の本人確認をしたのは久理子だ。久理子はどちらも、たった一人で行った。
夫と息子を見送った久理子は誰にも看取られることなく、たった一人で旅立ってしまった。
「おばあちゃんと会うのは久しぶりよね。お父さんが離婚する前だから……最後に会ったのは十五年以上前かしら。……本当、久しぶりの再会がお通夜の席になるなんて」
満子が割烹着で涙をぬぐうのが、視界の片隅に入る。黙っているのは満子をだますようで申し訳なくなり、久理子に目を向けたまま口を開く。
「一年ぶりです」
「……へ?」
涙をぬぐう満子の手が止まる。
「一年ぶりです。父が亡くなってからはほぼ毎年、顔を出していたので」
ただ、久理子は表立って小夜が来たとは言わなかっただろう。
『小夜ってだあれ?』
『織衣ちゃんとお母さんが違うお姉ちゃんだよ』
『お父さんが浮気してねぇ』
万が一にも心無い他人から耳に入れられるより、久理子は身内として時が来ればきちんと織衣に説明するつもりだったようだ。
「……嘘」
「嘘でねえべ」
割って入った第三者の声に、思わず声をしたほうに顔を向ける。
部屋の片隅に、ちんまりと座っている高齢女性がいる。年齢は久理子と同世代、背中が丸まったおばあちゃんだ。
「茂ちゃん亡くなってから、毎年来てたもんなあ」
女性は小夜を見て、目を細める。
「そんなの私、聞いてないんだけど」
「おら、言ったっちゃあ」
「言ってません!」
女性と満子が口喧嘩を始めるも、その場にいるのは尾崎夫妻と小夜のみだ。ほかに来客もないせいか、誰も口を挟もうとしない。
「久理子さんどこに、東京の友達来たって」
「友達なら聞いたわよ。東京の友達がスイーツ買ってきてくれて、美由紀がそれをおすそ分けしてもらったんだから。私が言ってるのは、小夜ちゃんよ」
「んだがら」
「すいません、その東京の友達って私です」
小夜が小さく挙手すると、満子は口を半開きにする。その後ろで女性が深く頷く。
「もし小夜ちゃんの姿を見られても、茂ちゃんの前の奥さんの子だって織衣ちゃんの耳に入れられるより、久理子さんの東京にいる友達の孫だって言えば、そうかあって思うべ」
久理子からもそう言われていた。
『もしお客さんに小夜ちゃんのこと聞かれたら、おばあちゃんの東京にいる友達の孫って言わせてもらうからね。……ごめんね。おばあちゃん、織衣ちゃんに何も説明してなくて』
小夜に申し訳なさそうな顔をする久理子に、小夜は首を左右に振るしかなかった。
大好きな久理子に、そんな顔をさせたくなかった。両親が離婚した後も小夜を孫として変わらずにかわいがってくれた久理子に、明美と小夜は感謝することはあれ責めるべきことは何一つなかった。
「……嘘よね?」
「本当です」
小夜の答えを聞くと、満子は女性を振り返る。女性が頷くと、満子は小夜をゆっくりと振り返り、すがるような目を向けてくる。
「どうしよう。私、言っちゃった」
「何を?」
尾崎に問われ、満子の顔から血の気が引いていく。
「織衣ちゃんに、お父さんが離婚してから小夜ちゃんは一度もおばあちゃんに会いに来てないって」
ほーうと尾崎が太く息を吐く。
「人が死ぬと親戚を名乗って現れる他人じゃなくて、今まで音信不通だったのに遺産目当てで出てきた親戚になったな。他人から身内に出世したぜ」
なぁと尾崎が小夜を振り向くも、小夜は引きつった笑みを返すことしかできなかった。
しとしとと朝から雨が降り続いている。
それは織衣に何も言わずに旅立つことになった久理子の涙のようであり、久理子と急に別れることになった織衣や久理子の知人たちの涙のようでもあった。
久理子の遺志で家族葬となり、尾崎夫妻の手配のおかげであっという間に火葬・納骨を済ませた。あまりにもあっという間に時が過ぎ、久理子が亡くなったという知らせからずっと夢を見ているのではないかと思ってしまう。
「それで今後のことだけどよ」
納骨を終えて帰って来た佐久間家の居間で、テーブルの前にどっかりと腰を下ろした尾崎が口を開く。